粉塵の聖域で、涙は固まる
北播磨の山は、夜になると音を消す。
畑も集落も眠り、谷を渡る風だけが乾いた匂いを運ぶ。
だが、山の奥に一つだけ眠らないものがある。セメント工場だ。
照明は白く、眩しい。
煙突からは薄い蒸気。
巨大なサイロが夜空に突き刺さり、ベルトコンベアが唸る。
この工場は、町の雇用を支える“真面目な顔”をしている。
その顔の下で、違法建材とマネー・ローンダリングが回っている――NSTが掴んだ線は、そこだった。
彩香の声は低い。
「工場の裏の資材置き場。
偽装の書類が動く場所は、だいたい粉塵の奥や。
美咲、今日はお前が主役や。外周から中枢まで、動線を作れ。」
美咲は小さく頷いた。
奈良の鹿みたいに大人しく、上品で、どこか掴みどころがない。
だが“凡庸”という言葉は、戦場では別の意味になる。
突出しない。浮かない。溶け込める。
極秘任務に、これ以上の適性はない。
「あかり、突っ込むな。今日は“追わない日”や。
澄香と澪香、左右。現場の目を散らせ。
美咲が通す道だけを信じろ。」
命令が冴える。
彩香は暫定リーダーとして、怖いほど冷静だった。
だが、その冷静さは痛みの裏返しだと、美咲には分かる。
玲奈はまだ戻らない。
県警幹部は「居ないものと思え」と言った。
彩香はその言葉を、噛み砕けずに飲み込んでいる。
だから、今夜の任務にも“玲奈の線”が絡む。
工場は単なる資金洗浄の拠点じゃない。
移送中継点の可能性がある。
玲奈の制服の白い繊維が、過去に別の現場で見つかっている。
“粉塵の場所”は、証拠が残りやすい。
美咲は工場の外周から入った。
身分証の偽装。警備員の視線。
自分の呼吸だけがうるさく感じる。
だが、彼女は目立たない。
平凡な作業員のように歩ける。
背筋は伸びているが、威圧感はない。
鹿のような静けさで、夜の工場に溶けた。
(ここは怖い場所やな……)
巨大な粉砕機。
石を砕き、灰色の粉を吐く怪物。
回転音は低く、腹の底を揺らす。
粉塵が空気に浮き、ライトに照らされて雪みたいに舞う。
雪よりずっと重い。呼吸にまとわりつく。
美咲は、資材置き場に積まれた袋を確認した。
規格外の印。ラベルのズレ。
数字が合っていない。
輸送記録の改ざん。
違法建材の“流し”だ。
通信を入れる。
「彩香さん、当たり。ラベルが偽装。規格も違う。
この工場、建材の抜け道になってます。」
彩香の声が返る。
「了解。証拠回収、急げ。」
美咲は倉庫脇の小部屋へ入った。
そこに帳簿。現金の動き。
複数の法人名。架空の取引。
金が“灰色”の粉のように混ざり合っている。
澪香が小声で言った。
「マネロン、確定。」
澄香が続ける。
「違法建材、出荷先が第三国経由。例のルートに繋がる。」
彩香が短く吐き捨てた。
「……玲奈さんの線、あるな。」
その瞬間、美咲の視線が粉砕機の足元に止まった。
灰色の粉の中に、白がある。
最初はただの紙片かと思った。
だが近づくと、形が違う。
布。縫製。白い手袋の内側に使われる、薄い裏地のような繊維。
美咲の喉が鳴った。
拾い上げる。
粉が舞う。指先が震える。
そこには、金糸のほつれも混ざっていた。
金モールの糸。
玲奈の制服の一部。
間違いない。
美咲の呼吸が浅くなる。
「……玲奈さん。」
彩香たちが駆け寄る。
あかりが目を見開いた。
迫田ツインズが無言になる。
彩香の顔から血の気が引いた。
粉砕機の唸りが、急に“処刑台”の音に聞こえた。
セメントは、石を砕き、混ぜ、固める。
人間の痕跡も、混ざってしまえば――。
あり得ない。
だが、否定できない。
彩香の唇が震える。
「まさか……材料に……?」
澄香が歯を食いしばる。
「……そんなの、許せない。」
あかりは涙目になっていた。
いつも突貫で前へ出る彼女が、足を止めている。
美咲は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(私が見つけたせいで、みんなの想像が――)
だが現実は現実だ。
玲奈の布が、ここにある。
理由は分からない。
でも、ここは“危ない場所”だ。
彩香が低く言う。
「証拠を持って帰る。工場は押さえる。
玲奈の線は……県警に即連絡……」
言い切れない。
彩香の目に光が滲む。
暫定リーダーの孤独が、そのまま涙に変わりかけていた。
そのとき。
遠くから、軽い足音。
粉塵の中を、場違いに明るい声が割り込んだ。
「おーい!あんたら何してん?」
明るい色のハーフツインテール。
小柄で、走り慣れたフォーム。
美月だった。
チアリーディングサークルの合宿で北播磨に来ていて、
自然豊かなこのあたりをランニング中らしい。
息は上がっているのに、顔は上機嫌。
「ここ、めっちゃええとこやわ。空気うまいし、走ってて気持ちええわ!」
そして、涙目のNSTを見て首を傾げる。
「……泣いてんの?なんで?」
彩香が言葉に詰まる。
説明できない。極秘だ。
玲奈の名を出せない。
美月は勝手に解釈した。
「え、なに?粉塵で目がやられたん?」
違う。
違いすぎる。
美月は妙に真剣な顔になり、謎の励ましを放った。
「泣いたらあかん。涙くんさよならや。」
誰も意味が分からない。
あかりが涙目のまま、ぽかんとする。
澪香と澄香が同時に目を逸らす。
美咲は笑いそうになって、必死で堪えた。
彩香は、乾いた声で呟いた。
「……何やそれ……。」
美月は満足そうに頷き、
「ほな、もう一周走ってくるわ!
北播磨、最高やで!」
と言い残して、粉塵の中へ消えた。
軽い足音が遠ざかる。
工場の唸りだけが戻ってくる。
彩香は深く息を吐いた。
泣きそうな顔のまま、少しだけ怒りが混じった。
「……あいつ、ほんま……。」
だが、その“くだらなさ”が、逆にNSTを現実へ引き戻した。
泣いている暇はない。
固まる前に動かなければならない。
美咲が静かに言った。
「玲奈さんの布がある。
ここが危険なのは確実。
でも“材料”と決めつけるには早いです。」
彩香は頷いた。
目に残る涙を指で拭い、声を締め直す。
「せやな。
疑って、確かめて、奪い返す。
NSTはそういうチームや。」
澪香が布片を封印袋に入れる。
「次に繋がる。」
あかりが鼻をすすり、拳を握る。
「絶対、助ける。」
粉塵は舞う。
違法建材の金は流れる。
クーデターは固まり始めている。
だがNSTは、固まらない。
涙も、恐怖も、粉塵も――全部飲み込んで、前へ出る。
北播磨の夜は静かだ。
だからこそ、心臓の音がやけに大きく聞こえた。




