揖保川の白い影を、誰も信じなかった
たつの市の空気は、静かで澄んでいる。
揖保川が町の背骨みたいに流れ、古い町並みと醤油蔵の影を撫でていく。観光客は「落ち着くね」と言う。だが落ち着く土地ほど、闇が入り込む余白もある。
夜。川沿いの倉庫街。
灯りは少なく、街灯の下だけが不自然に明るい。
あかりは息を潜めていた。
突貫娘のあかりが、今日は突っ込まない。
彩香の言葉がまだ耳に残っている。
「焦って動いたら、救えるもんも救えん。まず冷静に見ろ。」
その“冷静”を、あかりは覚えようとしていた。
今回の任務は二重だ。
表向きは、県知事一派が作り始めた“市民自治部隊”への資金と装備の流れを掴むこと。
裏の本命は、玲奈の移送ルートの痕跡を拾うこと。
揖保川沿いの古い倉庫が、何かの中継点になっている。
押収データに出てきた座標。
たつの。揖保川。深夜のトラック。
あかりは倉庫の陰から、車列を見ていた。
薄い霧が川面から立ち、音を吸う。
遠くでフォークリフトが鳴った。
トラックが一台、倉庫の裏口へ入る。
その後ろから、もう一台。
さらに黒いバンが続く。
荷の動きに対して、人が多すぎる。武装している。警備が過剰だ。
(当たりや。)
あかりの喉が乾く。
心臓が速くなる。
だが呼吸だけは、落とさない。
バンのスライドドアが開いた。
最初に見えたのは、白いパレードブーツ。
次に、濃紺の制服。
金モールが街灯の光を拾って、一瞬だけ鈍く光った。
あかりの世界が、止まった。
(……玲奈さん。)
手錠で繋がれている。歩幅が小さい。
顔は俯き、髪が頬に落ちている。
だが、あの立ち姿の癖。肩の線。背中の緊張。
県警カラーガード隊員としての端正さが、こんな状況でも消えていない。
生きている。
初めて、目撃で確認された生存。
あかりの目が熱くなる。
頭の中で警報が鳴る。
追え。今追え。今しかない。
足が勝手に前へ出ようとした、その瞬間――
「……あかりちゃん?」
背中に、やわらかい声。
凍る。
あかりが振り向くと、そこにいたのは、さつきだった。
清楚で上品な阿波の快速娘。
今日は神戸放送のスペシャル番組「播磨の発酵文化特集」で取材中らしい。小型カメラのスタッフも近くにいる。
最悪だ。
最悪の“偶然”だ。
さつきは無邪気に首を傾げる。
「こんなところで何してるの?夜の川って、ちょっと怖いよ?」
あかりは笑顔を作ろうとして、顔が引きつった。
「えっと……」
玲奈の移送車両が、今まさに動く。
倉庫の裏口から出る気配。
追わなきゃいけないのに、追えない。
カメラがある。さつきがいる。騒げない。
さつきは発酵文化の話を始めた。
止まらない。
「たつのって、醤油が有名でね。麹の香りが町に染みてるの。
発酵って生き物なんだよ?温度と時間で味が変わって――」
あかりの視線は、完全に上の空だ。
頭は倉庫裏のバンしか見ていない。
玲奈の白いブーツの残像が、瞼の裏に焼き付いている。
「ね、あかりちゃん聞いてる?」
「う、うん……聞いてる……」
さつきは満足そうに頷き、さらに続ける。
「揖保乃糸に合うのはねぇ……実は、発酵の力が――」
(今それどころちゃうねん!!)
叫びたい。
だが叫べない。
あかりは歯を食いしばり、さつきの話に相槌を打ちながら、視線だけで車の動きを追った。
バンが動く。
トラックが続く。
尾灯が川霧の向こうへ、すっと消える。
あかりの胸が、ぎゅっと潰れる。
追えなかった。
目の前にいたのに。
さつきは知らない。
ただ優しく、真面目に、発酵文化を語っている。
「醤油の香りってね、安心するでしょう?
あ、そうだ、今度ね、揖保乃糸の食べ比べも――」
あかりは作り笑いのまま、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
(彩香に言わな。今、玲奈さんが――)
そのとき、インカムが震える。
彩香からの短い通信。
「状況、報告。」
あかりは答えられない。
さつきが隣にいる。カメラもある。
あかりは苦し紛れに、笑顔のまま言った。
「……素麺、発酵……最高……」
さつきが嬉しそうに笑う。
「でしょ!発酵は裏切らない!」
あかりは心の中で呟いた。
(発酵は裏切らんかもしれんけど、今日のタイミングは裏切りすぎやろ……)
ロケが終わり、スタッフが去ったころ。
揖保川の水音だけが戻ってきた。
あかりはようやくインカムに息を吹き込み、声を絞り出す。
「彩香……見た。玲奈さん、生きてた。
カラーガードの制服のまま、移送されてた。
でも……追えんかった。さつきさんが……」
沈黙。
次に返ってきた彩香の声は、低く、硬かった。
怒りじゃない。震えだ。
「……よう見た。よう報告した。
追えんかったのは、お前のせいやない。
次は、絶対に逃がさん。」
あかりは川の暗さを見つめた。
悔しさが喉に詰まる。
それでも、今日で世界が変わった。
玲奈は生きている。
噂じゃない。推測じゃない。
目撃という“証拠”が手に入った。
揖保川は静かに流れる。
白い影は沈んでいない。
まだどこかで、息をしている。
あかりは拳を開いた。
次は追う。
次は、必ず。




