海鳴りの岸壁で、暫定は牙を剥く
垂水の夜は、潮の匂いが濃い。
住宅地の灯りは穏やかで、海沿いの道には散歩帰りの影がまばらに流れる。
だが海は、穏やかな顔をしていない。
遠くでうねる音が、低く腹に響く。海鳴りだ。
彩香は海沿いの防潮堤の陰に立ち、港湾倉庫の並びを見ていた。
風が強い。髪が頬に貼りつく。
ポケットの中で、指が拳を作る。
「玲奈は居ないものと思え。」
県警幹部の声が、波の音に混じって蘇る。
言葉は冷たい。理屈は分かる。
だが、胸のどこかが拒否している。
居ないものに、できるわけがない。
白いグローブは嘘をつかなかった。
玲奈は確かに、どこかの闇を通った。
――だから、今夜もここにいる。
NSTは四人+一人。
暫定リーダーの彩香。迫田ツインズ。あかり。美咲。
玲奈の不在は、数の不足ではない。
“背中”の不足だ。
彩香は息を整え、囁く。
「澄香、裏口。納入搬入口の監視。
澪香、表の人流に溶けて、警戒網の癖を見て。
あかり、倉庫の外周、巡回パターンの確認。絶対に突っ込むな。
美咲、通信。ここの監視カメラ網、映像の抜け道探して。」
命令が短い。迷いがない。
自分の中の恐怖を、言葉に混ぜない。
四人は同時に頷き、散った。
それぞれが静かに動く。
それがNSTだ。玲奈が作った姿勢。
彩香はその姿勢を崩さない。
海沿い倉庫群。
表向きは冷凍食品と日用品の物流。
だが今夜のこの一角だけ、動きが妙に少ない。
静かすぎる場所は、だいたい危険だ。
美咲から耳元のインカム。
「監視カメラ、三台が不自然に“同じ時間”のループ映像です。
偽装です。内部に協力者がいます。」
彩香の目が細くなる。
「やっぱりな。入るで。」
あかりが言う。
「彩香、裏側のフェンス、錆びた部分がある。工具いらん。」
「よし。澄香、裏口に二人。
澪香、表で動きがあったら合図。」
潮風が強くなる。
倉庫の金属扉が小さく鳴った。
彩香は、胸の奥の“孤独”を押し込める。
暫定リーダー――言い換えただけの肩書き。
だが、隊を動かす責任だけは本物だ。
(玲奈なら、どうする。)
答えはいつも同じ。
迷う前に動く。
動きながら考える。
背中で示す。
フェンスを越え、倉庫の側面へ。
薄い灯り。足音は吸い込まれる。
周囲の海鳴りが、逆に遮音になる。
彩香は扉の鍵穴を覗く。
中から微かな機械音。
通信機器だ。
「美咲、今。」
「はい。妨害波形、入れます。三十秒。」
彩香が手を合図にする。
澄香と澪香が同時に動き、扉が静かに開く。
中は、倉庫というより“作業室”だった。
机、ノートPC、現金の束。
梱包用の箱の中には小型の送信機。
そして、壁には紙。
“県民決起放送・当日指示”
“混乱誘導・映像差し込み”
“港湾封鎖・市民自治部隊への合流”
クーデターは、言葉ではなく、手順に変わっていた。
具体的だ。恐ろしく具体的だ。
彩香が紙を掴む。
指先が冷たくなる。
「……もう、ここまで来とるんか。」
あかりが息を呑む。
「これ、冗談じゃない。」
澄香が淡々とUSBを抜き取る。
「証拠、確保。」
澪香が奥の棚を開ける。
「輸送記録。三日前、ここから“特別貨物”が出てる。」
彩香の心臓が跳ねる。
「特別貨物――?」
澪香が首を振る。
「品目は伏せてある。
でも経路は海上。第三国経由の可能性。」
彩香は歯を食いしばる。
(玲奈……?)
だが証拠はない。
白いブーツも、金モールも、ここにはない。
足取りは掴めない。
その瞬間、外から――
やけに明るい声。
「うわぁぁぁ!垂水の海鮮、最高や~!!」
彩香の視線が凍る。
港の方。
見慣れた明るい色のハーフツインテール。小柄な背中。
美月。
彩香の喉の奥から、ため息が漏れる。
「……またアイツや。なんでいつも居るねん。」
CS放送の「垂水の海鮮グルメ特集」。
ロケ。カメラ。スタッフ。
しかも美月は、こっちに気づいたらしい。
遠くから、両手で大きく手を振っている。
「あやかぁぁぁー!!」
彩香は倉庫の影で額を押さえた。
「やめんかドアホ……。」
声には出せない。
出したら隊の士気が笑いに持っていかれる。
いや、笑いどころじゃない。最悪の“露見”になる。
彩香は一歩、影から出て、
“偶然居合わせた通行人”の顔を作った。
そして小さく手を上げ、適当に会釈した。
(これでええ。これで流れる。)
美月は満足そうに頷き、また海鮮丼を持ってはしゃぎ始めた。
遠目にカメラが動く。
彩香の適当な会釈も、撮れているはずだ。
あかりが小声で言う。
「彩香、いま電話――」
「黙っとけ。映る。」
澄香と澪香が同時に息を殺す。
美咲が、ほとんど無音で笑いを堪えた。
美月が去った瞬間、彩香は即座に戻る。
「撤収。証拠だけ持って帰る。
玲奈の線は……今日は無しや。」
口に出すと苦い。
だが現実だ。
外に出ると、海鳴りがまた腹に響いた。
垂水の海は何も知らない。
光は揺れて、夜景は綺麗で、
ロケの笑い声が波に混じって消えていく。
彩香は防潮堤の上で、一瞬だけ立ち止まった。
暫定リーダー。
その言葉がまた重くのしかかる。
玲奈が居ない世界を前提にしろ――そんな命令。
無理だ。
「居ないもの」にはできない。
今夜掴んだ手順書も、送信機も、現金も、全部が証拠だ。
敵は兵庫を揺らしにきている。
クーデターは具体化している。
そして玲奈は、そのカードにされかけている。
彩香は拳を握った。
「必ず止める。
兵庫も、玲奈も。」
今回は足取りは掴めなかった。
だが、敵の喉元に確かに指をかけた。
海鳴りが、沈黙を許さない。
彩香も同じだった。




