百トンの嘘は、港を出られない ――姫路港、鋼鉄の迷路を駆ける遠州の勇者
百トンの鉄は、黙っている。
人間のように言い訳はしない。
急に予定が変わった理由も。
積荷の中へ何を隠したのかも。
誰から金を受け取ったのかも。
何一つ喋らない。
ただ。
重量。
重心。
軌跡。
積み方。
動かし方。
そこには必ず、人間がついた嘘の痕跡が残る。
だから。
現場を知る人間は言う。
――荷物は嘘をつかない。
兵庫県姫路市。
この街の名を聞けば、多くの人間がまず白い城を思い浮かべる。
白鷺城。
姫路城。
空へ羽ばたく白鷺のような姿。
世界に知られた美しい城。
だが。
街を南へ。
さらに海へ向かえば。
姫路には、もう一つの顔がある。
姫路港。
播磨灘へ開いた巨大な工業港。
その風景に、白は少ない。
あるのは。
鉄。
コンクリート。
鋼材。
巨大クレーン。
貨物船。
倉庫。
タンク。
煙突。
パイプライン。
無数の工場設備。
夜になっても消えない灯。
岸壁へ並ぶ照明は、観光地のイルミネーションではない。
人間が働くための光だ。
遠くでは巨大なクレーンの腕が空へ伸び。
岸壁へ接岸した貨物船の腹から、街中では見ることすらない機械が運び出される。
発電設備。
大型変圧器。
タービン。
化学プラントの反応設備。
巨大な産業機械。
十トン。
五十トン。
百トン。
時にはそれ以上。
普通のトラックでは運べない。
普通の道路では曲がれない。
普通の人間なら。
どう動かしているのか考えたことすらない。
だが。
その怪物じみた荷物を。
数センチ単位で動かす男たちと女たちがいる。
重量物特殊搬送クルー。
力仕事。
そう思うのは素人だ。
必要なのは。
重量。
重心。
荷重。
路面。
勾配。
車軸。
旋回。
吊点。
退避位置。
設備との距離。
そして。
現場にいる全員の意思を、一つの合図へ揃えること。
百トンの鉄は。
「ちょっと待ってくれ」
とは言ってくれない。
一度間違えれば。
人間の都合など関係なく動く。
だからこそ。
この世界では。
指示を守る人間が強かった。
黒鷹は。
その姫路港へ入り込んだ。
海外へ輸出予定の大型製造設備。
高さ数メートル。
重量百トン近い。
書類は正規。
メーカーも実在。
輸出先も実在。
だが。
その巨大な機械の内部。
整備目的でも簡単には開けない保護区画へ。
国外流出が問題となる高性能精密制御部品。
暗号通信モジュール。
そして海外協力者との取引情報を記録した暗号媒体。
黒鷹はそれらを隠した。
巨大な機械そのものを。
密輸容器にした。
小さな物を隠すために。
小さな箱を使う必要はない。
誰も簡単には動かせない。
誰も簡単には開けられない。
百トンの鉄の塊へ入れてしまえばいい。
兵庫県警は、そこまでは掴んだ。
だが。
現物だけ押さえても足りない。
国内の協力者。
搬送を指示する黒鷹工作員。
海外側との連絡媒体。
全て揃って初めて、輸送網そのものを潰せる。
ヒロ室西日本分室。
大型モニターへ姫路港の航空写真が映っていた。
岸壁。
倉庫。
工場。
輸送道路。
作業ヤード。
西川彩香は資料を一枚持ち上げた。
そこには巨大な機械。
その横。
作業員が豆粒のように写っている。
「……これ」
岡本玲奈。
「はい」
「ほんまに運ぶんです?」
「そういう仕事です」
彩香は次の写真。
巨大な特殊トレーラー。
車輪。
また車輪。
さらに車輪。
「タイヤ何個あんねん……」
「正確にはタイヤだけで数えるものではありません」
「そこ今どうでもええです」
彩香が顔を上げる。
「誰入れるんです?」
玲奈。
「山本あかり」
彩香。
「またあかり?」
隣。
本人。
「またって何やに」
彩香は巨大機械の写真。
あかり。
もう一度写真。
「……まあ」
「何?」
「向いとる」
山本あかり。
四日市の突貫娘。
難しい理屈。
長い説明。
細かな計算。
その辺りとは。
あまり仲がよくない。
だが。
体力。
身体能力。
度胸。
人当たり。
素直さ。
現場適応力。
その辺りになると、話は変わる。
玲奈。
「重量物据付・特殊搬送スタッフとして入ってもらいます」
あかり。
「私が百トン運ぶん?」
彩香。
「一人で持つ気か!」
「持てるわけないやん」
「そこは理解早いんやな!」
研修初日。
会議室。
ホワイトボード。
図。
数字。
講師。
「重量物搬送では、重量そのものだけでなく重心位置を把握することが重要です」
あかり。
「はい」
「各軸へどの程度の荷重が掛かるかを考え――」
「はい」
「路面耐力と旋回半径――」
「はい」
「荷重分散――」
「はい」
二十分。
講師。
「山本さん」
「はい」
「大丈夫?」
あかりは迷わなかった。
「全然分からん」
後ろ。
彩香が額を押さえる。
「せめてちょっとは分かれ!」
あかり。
「途中までは分かったに」
「どこまで?」
「重いってところ」
「一行目や!」
講師が笑う。
「じゃあ現場形式に変えよう」
安全講習。
赤線。
黄色線。
退避区画。
「荷が動いている間、この線より前へ出ない」
「はい」
「合図が出るまで触らない」
「はい」
「分からない時は自己判断で動かない」
「はい」
「何か異常があったら?」
「止める」
「誰かに聞かず勝手に続ける?」
「続けへん」
「よし」
彩香。
「何でこっちは完璧やねん」
あかり。
「やったらあかんことハッキリしとるから」
玲奈が静かに言う。
「だからあかりなんです」
技術判断は専門家がする。
あかりは。
指示を聞く。
守る。
分からなければ聞く。
そして。
必要な時。
動く。
その一点なら。
誰より信用できる。
姫路港。
潜入初日。
作業服。
ヘルメット。
安全靴。
手袋。
目の前。
巨大設備。
あかり。
「……でか」
現場主任。
「山本!」
「はい!」
「そっちの資材、三番へ!」
「はい!」
運ぶ。
「山本!」
「はい!」
「終わったら誘導補助!」
「分かった!」
「あ、先に工具!」
「どっち?」
「工具!」
「はい!」
一度に三つ言えば混乱する。
だが。
一つなら速い。
頼まれれば。
走る。
運ぶ。
戻る。
また走る。
「山本、そっち持って!」
「はい!」
「そのまま!」
「はい!」
「止まれ!」
ぴたり。
止まる。
現場主任が頷く。
また別の日。
大型設備の作業床へ工具箱。
階段。
上る。
下りる。
また上る。
一往復。
二往復。
三往復。
「山本ちゃん」
「何?」
「まだ行ける?」
「何回?」
「あと二回」
「余裕やに」
ベテラン作業員が目を丸くする。
「陸上やっとった?」
「やってへん」
「自衛隊?」
「違うに」
「消防?」
「違う」
「何者やねん」
通信。
彩香。
『ウチもたまに聞きたい』
あかり。
『普通の女子大生やに』
彩香。
『普通の女子大生は百トン設備の階段五往復して余裕言わん』
あかりは。
器用ではなかった。
資材を置く場所を間違える。
「そこちゃう!」
「ごめん!」
一度聞く。
次から間違えない。
工具名を間違える。
「これ?」
「それ隣!」
「こっち?」
「それ!」
覚える。
次は持ってくる。
分からないことを。
分かったふりしない。
それが。
この現場では強かった。
昼休み。
先輩スタッフが缶コーヒーを飲みながら言った。
「山本はええな」
「何が?」
「言うたこと守る」
「普通やん」
「普通を毎日できる奴が案外少ない」
別の作業員。
「愛想ええし」
「体力あるし」
「文句言わんし」
「分からんかったら聞くし」
あかり。
「褒められとる?」
全員。
「褒めてる」
あかりの顔が明るくなる。
現場主任。
「うち来るか?」
通信。
彩香。
『来たぁ……』
あかり。
「何が?」
主任。
「正社員」
あかり。
「ほんま?」
彩香。
『食いつくな!』
主任。
「現場向いてるで」
あかり。
「嬉しいに」
彩香。
『潜入捜査で就職先増やすなぁ!』
だが。
その人懐っこさが。
仕事をした。
休憩中。
「今回の百トン級、変やな」
作業員が何気なく言う。
あかり。
「何が?」
「予定二回変わっとる」
「そうなん?」
「それに毎日来る眼鏡の男おるやろ」
「おるな」
「メーカーの人ちゃうらしいで」
「へえ」
「あいつ、やたら機械の中身気にするんよ」
あかりは。
深く追及しない。
「何でやろな」
それだけ。
だから相手も。
普通に話す。
さらに別の男が言う。
「今日も来とった」
「何時?」
「昼前」
「そうなん」
会話の欠片。
それで十分。
玲奈へ送る。
照合。
黒鷹の連絡役。
対象確定。
搬出予定。
三日後。
特殊トレーラーへ積載。
指定区画まで移動。
そこで工作員が暗号媒体を回収。
その瞬間。
県警。
NST。
一斉確保。
綺麗な作戦だった。
彩香。
『あかり』
「はい」
『今度こそ余計なことせんでええからな』
「今度こそって何やに」
『この前、神戸映像特区で誰と十分以上喋った?』
あかり。
「……美月さん」
『せやろ』
「今回は港やで」
『そうやな』
「美月さん来んやろ」
彩香。
『さすがにな』
その判断が。
甘かった。
翌日。
姫路港。
別区画。
一台のCS放送ロケバス。
番組名。
『巨大港を支える知られざる仕事――姫路港で働く人たち』
レポーターではなくゲスト。
明るい色のツインテール。
赤嶺美月。
監視モニターを見た彩香。
数秒。
無言。
ゆっくり。
額へ手。
「……なんでアホツインテールが」
玲奈。
『正式な取材許可があります』
「分かってます」
『偶然です』
「最近その単語嫌いなんです」
美月は。
楽しそうだった。
「うわぁ! 何あれ!」
スタッフ。
「海外へ輸出される大型産業設備です」
「デカっ!」
「重量も相当あります」
「何トン?」
「非常に重いそうです」
美月。
「説明雑やな!」
そのまま。
歩く。
カメラ。
スタッフ。
美月。
視線が止まる。
作業服。
ヘルメット。
安全靴。
資材を抱えて歩く女。
「あれ?」
彩香。
『やめろ』
美月。
「あかりぃ~!」
彩香。
『無視!』
あかり。
振り向く。
「あ、美月さん!」
彩香。
「返事したぁ!」
美月が近づく。
「あかり、何してん?」
あかり。
「仕事」
「何の仕事?」
あかりは。
実に丁寧に。
そして実に雑に。
説明を始めた。
「これな、めっちゃ重い機械を船から降ろして」
「うん」
「でっかい車みたいなんに乗せて」
「うん」
「そっから運ぶんやに」
「うん」
「でも重いから普通の車ではあかんねん」
「うん」
「タイヤいっぱいあるやつ使って」
「うん」
「重いところが片っぽに寄ったらあかんから」
「うん」
「ええ感じにする」
美月。
「……何を?」
あかり。
「重さ」
「どうやって?」
「ええ感じに」
美月。
「全然分からへん!」
監視側。
彩香が両手で頭を抱える。
「アホとアホが会話したら話終わらへん!」
玲奈。
『概念としては大きく間違っていません』
「正しいかどうかちゃうんです! 伝わってへんのです!」
美月。
「百トンってどれぐらい?」
あかり。
「めっちゃ重い」
「それはもう分かった!」
「牛何頭分やろ」
「なんで牛換算?」
「迫田ツインズに聞いたら分かるかも」
彩香。
『迫田姉妹巻き込むな!』
美月。
「これ走るん?」
「走るで」
「速い?」
「遅い」
「どっちやねん!」
「走るけど遅い」
「見たら分かるわ!」
二人。
笑う。
美月。
「タイヤ何個あるん?」
あかり。
「いっぱい」
「数えてへんの?」
「仕事中に数える必要ないやん」
「それはそうやな」
彩香。
「何でそこで意気投合すんねん……」
さらに。
「写真撮れる?」
「見学場所からならええんちゃう?」
「動くとこ撮りたい!」
「迫力あるに」
「楽しみ!」
彩香。
『観光案内すんな!』
その場の誰も。
悪いことをしていない。
それが。
最悪だった。
遠く。
黒鷹の現場責任者。
新人作業員。
テレビカメラ。
有名な戦隊ヒロイン。
名前で呼ぶ。
親しい。
それだけで十分。
男は疑った。
県警。
潜入。
張り込み。
計画漏洩。
予定変更。
今すぐ出す。
本来。
数時間後だった。
百トン級設備。
特殊トレーラー。
エンジン始動。
誘導車。
動き始める。
玲奈の声。
『彩香』
「はい」
『対象が移動しました』
「予定は?」
『前倒しです』
彩香。
「……またか」
通信。
『あかり!』
「はい?」
『対象出た!』
あかり。
顔が変わる。
さっきまでの。
のんびりした女はいない。
美月。
「何?」
あかり。
「ごめん、美月さん。仕事!」
走る。
彩香。
『今回は“またあとで”言わんかったな! そこだけ成長!』
あかり。
『褒められとる?』
『走れ!』
特殊トレーラー。
巨大だった。
荷を積んだ姿は。
移動する建物に近い。
ゆっくり。
だが。
止めるのは難しい。
無理に車両を入れる。
急停止させる。
そんなことをすれば。
百トンが牙を剥く。
一般作業員。
港湾設備。
周囲の車両。
全て巻き込む可能性がある。
玲奈。
『県警は前方で封鎖準備。ただし対象を強制停止させないでください』
彩香。
「当然です」
あかりが港湾道路へ飛び出す。
トレーラーは遠い。
走って追いつける距離ではない。
その時。
低い。
太いエンジン音。
あかりの横。
大型自動二輪。
止まる。
ヘルメット。
ライディングジャケット。
河合美音。
遠州の勇者。
「乗って」
あかり。
「美音!」
「早く」
後席。
あかりが跨る。
美音。
前を向いたまま。
「しっかり捕まってて」
あかりは美音の腰へ腕を回す。
「はい!」
「もっとしっかり」
「これ以上やったら潰れるに」
「潰れない」
美音がスロットルを開く。
「行くよ」
大型二輪。
前へ。
一瞬。
あかりの身体が後ろへ持っていかれる。
「あっ――」
「しっかり!」
「捕まっとる!」
エンジン音が。
鋼鉄の港を裂いた。
姫路港。
右。
巨大倉庫。
左。
パイプライン。
前。
大型トレーラー。
奥には貨物船。
クレーン。
煙突。
鉄塔。
工場。
それら全ての間を。
一台の大型二輪が走る。
速い。
だが。
乱暴ではない。
遠州の勇者。
河合美音。
浜松。
ものづくりの街で育った女。
エンジン。
車体。
タイヤ。
道路。
その全部を。
身体で読む。
あかり。
「見えた!」
美音。
「見えてる」
正面。
百トン級設備を積んだトレーラー。
そのまま後ろを追う。
――しない。
美音が視線を左へ。
大型トレーラーは。
大きい。
長い。
曲がれない。
狭い場所へ入れない。
つまり。
通れる道が決まっている。
美音。
「玲奈さん、次の進路」
玲奈。
『対象は南側サービス道路へ』
「了解」
美音がそのまま直進。
あかり。
「美音、そっちちゃう!」
「分かってる」
「トレーラーあっち!」
「先回りする」
左。
交差点。
大型二輪が身体ごと傾く。
あかり。
「うわっ!」
美音。
「暴れない!」
「暴れてへん!」
「力抜いて!」
「怖ないけど急やに!」
「喋れるなら大丈夫」
排気音。
海風。
工場の熱。
景色が流れる。
美音は。
速さで追っているのではない。
巨大車両の不自由さを読んでいる。
トレーラーが一つの角を曲がる間に。
美音は二つ先の交差点へ。
搬送車両の待機スペース。
コンテナ区画。
空いたサービス道路。
最短。
その先。
トレーラー。
あかり。
「ほんまに出た!」
美音。
「出ると思ったから来た」
「カッコええな、美音」
「今言う?」
「今思った」
「しっかり掴まって」
さらに加速。
トレーラー側。
黒鷹工作員がサイドミラーを見る。
大型二輪。
後席。
作業服姿の女。
「追ってきたぞ!」
進路変更。
予定外の西側通路。
だが。
そこは出口が限られる。
美音が僅かに笑う。
「そっち行くんだ」
あかり。
「何?」
「自分から狭い方入った」
玲奈。
『美音、先の大型車両待機場は一般作業員退避済みです』
「了解」
彩香。
『無茶はせんといてな』
美音。
「しません」
あかり。
「私も」
彩香。
『あかりは美音の後ろで大人しくしとれ!』
「はい!」
大型二輪。
前へ。
トレーラー。
迫る。
ただし。
追い越さない。
横へ無理に並ばない。
重量物輸送の死角へ入らない。
美音は。
危険を知っている。
だからこそ。
速い。
黒鷹が出口へ向かう。
前方。
兵庫県警の車両。
まだ完全封鎖ではない。
トレーラーを安全な位置へ誘導する。
逃げ切れないと判断した黒鷹責任者。
「止めろ!」
特殊トレーラー。
ゆっくり減速。
安全な待機区画。
停止。
ドア。
黒鷹工作員。
三人。
一人。
暗号媒体入りケース。
走る。
美音。
「降りて!」
ブレーキ。
大型二輪停止。
あかり。
すぐ降りる。
「ありがと!」
「まだ終わってない」
美音もスタンド。
ヘルメットを外す。
あかりは。
もう走っていた。
黒鷹一人。
振り返る。
「戻れ!」
あかり。
「そっちが戻るんやに!」
走る。
速度。
落とさない。
相手の拳。
横へ。
腕。
肩。
体幹。
四日市の突貫娘。
正面から。
押す。
一歩。
二歩。
男が後退。
だが。
背後。
荷役設備。
あかりの目が一瞬動く。
そちらへは押さない。
角度を変える。
空いている側。
男を流す。
別の工作員。
横。
あかり。
受ける。
踏み込む。
現場で叩き込まれた安全区域。
入ってはいけない線。
置かれている機材。
全て。
頭ではなく身体が覚えていた。
男が荷役通路へ逃げようとする。
あかり。
「そっち危ないに!」
「知るか!」
「私は知っとる!」
腕を掴む。
引き戻す。
男。
「何なんだお前!」
あかり。
「現場の人やに!」
「意味分からん!」
「私も細かい意味は分からん!」
そこへ。
背後。
足音。
美音。
ヘルメットを片手に。
静かに近づく。
工作員が美音へ向かう。
拳。
美音。
僅かに身体をずらす。
空振り。
腕を取る。
踏み替え。
相手の重心を外す。
肩を使って向きを変える。
男がたたらを踏む。
美音は追う。
一歩。
膝。
腕。
崩す。
遠州の勇者。
バイクだけではない。
機械を扱う女は。
人間の動きも読む。
あかり。
「美音、右!」
「見えてる!」
右。
工作員。
美音へ。
あかりが前へ出る。
受ける。
押す。
その男があかりへ集中する。
その瞬間。
美音が側面。
脚。
腕。
重心。
逃げ道を消す。
一人。
真正面から圧を掛ける。
一人。
横へ回り。
穴を塞ぐ。
四日市の突貫娘。
遠州の勇者。
性格も。
戦い方も。
まるで違う。
だから。
噛み合った。
あかりは。
突破する。
美音は。
読む。
あかりが陣形を壊す。
美音が逃げ道を切る。
工作員一人が美音へ掴みかかる。
美音。
半歩。
避ける。
あかり。
「そっち行った!」
美音。
「分かってる!」
身体を返す。
男の腕が空を切る。
その背後。
あかり。
「おかえりやに!」
男。
「誰が帰った!」
あかりの肩。
正面。
男が崩れる。
美音が腕を押さえる。
制圧。
黒鷹責任者。
暗号媒体。
大型機械の陰へ。
そして。
設備の作業階段へ。
上る。
あかりが見る。
「上行った!」
走る。
美音。
「私、下を回る!」
「分かった!」
階段。
一段。
二段。
三段。
あかり。
速い。
ここは。
毎日。
工具を持って何度も上った。
仕事中。
何往復もした。
息を切らしながら上る黒鷹。
後ろ。
あかり。
「待て!」
「来るな!」
「私ここ毎日上っとるに!」
「知るか!」
「今日も五往復した!」
「だから何だ!」
あかり。
一瞬。
「……確かに何でもないな!」
さらに加速。
下。
美音が走る。
責任者が上から反対側の階段へ。
美音。
進路を読む。
先。
降り口。
待つ。
責任者。
階段を下りる。
目の前。
美音。
「そっちは出口じゃないよ」
男が止まる。
振り返る。
上。
あかり。
「そっちもあかんに」
男が舌打ち。
横の作業床へ。
あかりが追う。
拳。
受ける。
男は焦っている。
あかりは。
焦っていない。
百トンの機械の上。
危険な場所。
だから。
一歩ずつ。
確実。
男。
「どけ!」
あかり。
「ここで暴れたら危ないに」
「なら追うな!」
「それは無理」
「何故だ!」
「仕事やから」
一撃。
外す。
肩。
身体をずらす。
男を中央側へ。
縁へは行かせない。
美音が反対側から上がってくる。
責任者。
左右を見る。
二人。
美音。
「終わり」
あかり。
「まだ彩香さん来てへんけどな」
その時。
下。
声。
「呼んだ?」
二人。
見る。
西川彩香。
その後ろ。
兵庫県警。
そして。
黒いジャケット。
岡本玲奈。
彩香は作業階段を上がってくる。
「いやぁ」
黒鷹責任者を見る。
「百トンの機械一個動かすだけで」
一段。
「何人の人間が安全確認して」
一段。
「何人が道路見て」
一段。
「何人が荷物見てる思てんねん」
責任者。
「近づくな!」
彩香。
「そんな場所を」
作業床へ。
「密輸ルートに選ぶセンスだけは」
ジャケットの袖を直す。
「最悪やな」
男。
突進。
彩香。
播州の烈火。
拳。
外す。
腕。
取る。
相手が振り払う。
彩香が離れる。
右。
あかり。
左。
美音。
後ろ。
行き止まり。
下。
県警。
完全包囲。
彩香。
「百トンの機械に隠したら」
一歩。
「百トン分、犯罪まで見えへんようになる思ったか?」
責任者。
「黙れ!」
拳。
彩香。
かわす。
腕。
肩。
男の姿勢が崩れる。
「残念やったな」
男が美音側へ。
美音。
半歩。
進路を消す。
反対。
あかり。
真正面。
「そっちも無理やに」
責任者。
「邪魔だ!」
あかり。
踏ん張る。
男が押す。
動かない。
四日市の突貫娘。
脚。
腰。
体幹。
一歩。
逆に押し返す。
彩香。
「あかりはな」
あかり。
「何?」
「細かい理屈、よう分からんでも」
「そこ今言う?」
「黙っとき!」
彩香が男の腕を取る。
「現場で怪しいもん見つける鼻だけは」
身体を崩す。
「妙に利くんや!」
あかり。
「褒められとる?」
美音。
「半分ぐらい」
彩香。
「戦闘中に採点すんな!」
責任者。
最後の抵抗。
美音へ。
美音がかわす。
あかりが入る。
肩。
男の進路を止める。
美音が腕。
彩香が重心。
三人。
一瞬だけ。
完璧に噛み合う。
責任者。
床。
制圧。
その瞬間。
玲奈。
作業床の入口。
「そこまでです」
静かな声だった。
だが。
終わった。
県警。
一斉確保。
黒鷹工作員。
協力会社関係者。
暗号媒体。
大型産業機械。
全て押さえる。
内部区画。
精密制御部品。
暗号通信モジュール。
海外取引記録。
資金移動記録。
黒鷹の輸送網。
証拠。
揃った。
一般作業員。
無傷。
港湾設備。
損傷なし。
百トン級設備。
安全な位置で停止。
任務完了。
夜。
姫路港。
工場灯。
海。
巨大な機械は。
何も知らない顔で停まっている。
百トン。
人間一人なら。
到底動かせない。
だが。
何十人もの人間が。
技術。
経験。
合図。
責任。
それを重ねれば。
百トンは動く。
黒鷹は。
その巨大さを利用した。
誰も中まで見ない。
誰も簡単には止められない。
そう考えた。
だが。
巨大な物ほど。
動かすには人間が要る。
人間が増えれば。
痕跡も増える。
予定。
書類。
合図。
顔。
会話。
不自然さ。
どこかに必ず。
嘘は残る。
百トンの嘘は、港を出られない。
そして。
その嘘を。
最初に拾った女は。
座学では講師を絶望させ。
現場では誰より信用された。
山本あかりだった。
――数日後。
ヒロ室西日本分室。
椅子。
山本あかり。
真正面。
西川彩香。
周囲。
麻衣。
美咲。
美音。
迫田ツインズ。
少し離れた机。
玲奈。
麻衣が小声。
「またですね」
美咲。
「完全に恒例行事ですね」
あかり。
「何が?」
彩香。
「山本あかり!」
「はい!」
「あんたな!」
「はい!」
「任務中!」
「はい!」
「アホツインテールに発見されても!」
「はい!」
彩香。
指。
机。
「徹底無視!!」
あかり。
「でも――」
「でも禁止!」
「また?」
「またや!」
「美月さん、あんな大声で『あかりぃ~!』って呼んどったに」
「知っとる!」
「無視したら可哀想やん」
「黒鷹逃がした方がもっと困るやろ!」
あかり。
「でも捕まえたに」
彩香。
「結果論!」
あかり。
「美音さんのバイクのおかげやな」
美音。
「どういたしまして」
彩香。
「美音さんもそこで返事せんといて!」
美音。
「褒められたから」
「知っとる!」
澪香が笑う。
彩香はあかりへ向き直る。
「もう一回や」
「はい」
「美月さんに見つかりました」
「はい」
「『あかりぃ~!』言われました」
「はい」
「どうする?」
あかり。
考える。
彩香。
「何で考えるねん!」
あかり。
「聞こえへんふり」
彩香。
「正解!」
「でも近づいてきたら?」
「離れろ!」
「走って追ってきたら?」
「もっと走れ!」
「転んだら?」
彩香。
「……」
あかり。
「助けるやろ?」
彩香。
「それは助ける!」
麻衣。
「そこは即答なんですね」
彩香。
「怪我させたいわけちゃう!」
あかり。
「ほら」
彩香。
「勝ち誇んな!」
全員が笑う。
彩香。
「とにかく!」
「はい」
「会釈禁止!」
「はい」
「手振るの禁止!」
「はい」
「笑顔禁止!」
「それは難しいに」
「何で!」
「美月さん顔見たら笑ってまう」
彩香。
「恋人か!」
あかり。
「友達やに」
「知っとる!」
美音。
「人がいいからね」
美咲。
「そこはあかりの長所です」
彩香。
「分かっとる!」
一瞬。
彩香の声が少しだけ柔らかくなる。
「そこがあんたのええとこやいうんも、分かっとるけど」
あかり。
にっこり。
「ありがとう」
彩香。
「今褒める時間ちゃう!」
「でも褒めたに」
「そこだけ拾うな!」
麻衣が吹き出す。
一応。
説教。
終了。
――のはずだった。
彩香は椅子へ深く座る。
額を押さえる。
「あのアホツインテール、エエ加減にせえよ……」
美咲。
「第二部ですね」
彩香。
「第二部言うな!」
麻衣。
「ボヤキ編」
「作品タイトル付けんな!」
澪香。
「でも美月ちゃん、普通に番組ロケしてただけですよ」
「知っとる!」
澄香。
「正式許可もあったし」
「知っとる!」
美音。
「あかりを見つけたのも偶然」
「知っとる言うてるやろ!」
あかり。
「重量物の説明してって言われたから説明しただけやに」
彩香。
「あれを説明いうたら全国の重量物輸送会社に怒られるわ!」
あかり。
「ちゃんと説明したで」
彩香。
「『めっちゃ重い』」
「うん」
「『タイヤいっぱい』」
「うん」
「『ええ感じにする』」
「うん」
「どこが説明や!」
あかり。
「美月さんには伝わらんかった」
「誰にも伝わらん!」
美音。
「美月ちゃん、『全然分からへん』って言ってたね」
彩香。
「そらそうや!」
あかり。
「でも最後まで聞いてくれたに」
彩香。
「アホとアホが会話したら話終わらへん言うたやろ!」
あかり。
「美月さんアホちゃうで」
彩香。
「何?」
あかり。
「経済学部やで」
一瞬。
沈黙。
麻衣。
吹き出す。
美咲。
顔を伏せる。
迫田ツインズ。
笑う。
美音。
肩を震わせる。
彩香。
「そこだけ急に学歴で擁護すんな!」
あかり。
「事実やに」
「今日一番賢そうな返しすんな!」
爆笑。
彩香は。
止まらない。
「決めた」
麻衣。
「またろくでもない罰ですね」
「まだ言うてへん!」
彩香。
立ち上がる。
「あのアホツインテール、次姫路港来たらな」
美音。
「うん」
「特殊トレーラーのタイヤ」
澄香。
「はい」
「一本ずつ数えさせたる!」
一同。
「……」
彩香。
「港の端から端まで!」
澪香。
「全部?」
「全部!」
美咲。
「数え終わったら?」
彩香。
「もう一回!」
麻衣。
「なぜ?」
彩香。
「ウチの気が済むまで!」
美音。
「何の意味が?」
彩香。
「あるかいな!」
あかり。
吹き出す。
「ないんや!」
「あるわけないやろ!」
美咲。
「罰として成立しますか?」
彩香。
「歩き回ったら疲れる!」
美音。
「美月ちゃん、多分途中から楽しみますよ」
彩香。
「何を!?」
美音。
「『これ何輪車なん?』って」
澪香。
「一輪目で写真」
澄香。
「十輪目でも写真」
麻衣。
「五十輪目で記念撮影」
美咲。
「百輪目で達成記念」
彩香。
「イベント化すんな!」
あかり。
「SNSに載せるに」
両手でタイヤを指して。
『今日の一輪目!』
澪香。
「ありそう」
澄香。
「絶対やる」
彩香。
「楽しませんな!」
麻衣。
「終わったらご褒美スイーツ」
彩香。
「何でご褒美あんねん!」
あかり。
「頑張ったんやから」
「罰や!」
美音。
「じゃあ、お弁当だけ?」
あかり。
「私も一緒に行くに」
彩香が固まる。
「何で?」
「美月さん一人やったら可哀想やん」
「何で罰に付き添い制度あんねん!」
あかり。
「お弁当二ついるな」
彩香。
「遠足ちゃうわ!」
分室。
崩壊。
麻衣が机へ伏せる。
美咲も笑う。
迫田ツインズは二人で肩を寄せる。
美音も。
あかり本人も。
笑っている。
彩香だけが。
「何でウチが一番疲れとんねん!」
と嘆いている。
少し離れた机。
玲奈。
報告書。
いつもの静かな顔。
だが。
口元。
ほんの僅かに。
緩む。
彩香。
すぐ気づく。
「玲奈さん!」
「はい」
「今笑いました?」
「いいえ」
「絶対笑った!」
あかり。
「笑っとったに」
美音。
「私も見た」
玲奈。
「気のせいです」
彩香。
「三人見とる!」
玲奈は話題を変えるように。
一枚の書類を持ち上げる。
「あかり」
「はい」
「潜入先の特殊搬送会社から連絡が来ています」
彩香。
「……嫌な予感しかせえへん」
玲奈。
「正式に採用したいとのことです」
彩香。
「ほらぁ!」
あかり。
「ほんま?」
「何で目輝かせんねん!」
玲奈。
書類。
「評価は高いです」
読み上げる。
「『専門知識は今後の習得が必要だが、指示に忠実で、体力に優れ、周囲との協調性も高い。現場人材として非常に使いやすい』」
あかり。
「また“使いやすい”って褒められた!」
彩香。
「現場では最高クラスに褒められとる!」
美咲。
「座学との落差がすごいですね」
あかり。
「そこ言わんでええやん」
美音。
「でも、本当に現場向きだったよ」
あかり。
「美音さんもバイクめっちゃカッコ良かったに」
美音。
「ありがとう」
彩香。
「急に褒め合い始めんな!」
あかり。
「転職しよかな」
彩香。
「あかり!」
一瞬。
あかり。
にっこり。
「冗談やに」
彩香。
胸を押さえる。
「この突貫娘、ほんま心臓に悪いわ……」
また。
笑い声。
姫路港では。
今夜も。
巨大な荷物が動いている。
百トン。
二百トン。
人間一人では絶対に動かせない鉄。
だが。
技術を持った人間たちが。
合図を合わせ。
役割を守り。
一歩ずつ動かせば。
鉄は進む。
そこでは。
難しい言葉を知っているだけの人間より。
言われた場所へ立ち。
言われた時に動き。
分からない時には。
「分からん」
と言える人間が。
案外。
一番信用される。
山本あかり。
頭脳派ではない。
説明は雑。
美月と出会えば、任務中でも立ち話が始まる。
だが。
現場へ出れば。
強い。
転ばないからではない。
迷わないからだ。
進むべき時。
止まるべき時。
誰かを守る時。
その判断だけは。
身体の中へ入っている。
そして。
河合美音。
遠州の勇者。
巨大な車両の不自由さを読み。
港の鋼鉄の迷路を二輪で駆け。
四日市の突貫娘を。
戦場の一歩手前まで運んだ。
一人が。
道を読む。
一人が。
道をこじ開ける。
遠州の勇者。
四日市の突貫娘。
その二人が追った時。
百トンの鉄を盾にした黒鷹に。
もう逃げ道はなかった。
そして今。
「次から美月さん徹底無視!」
「任務中だけ?」
「任務中だけ!」
「プライベートなら?」
「好きなだけ喋れ!」
「重量物の説明しても?」
彩香。
一拍。
「もっと勉強してからにせえ!」
あかり。
「あ、それはそうやな」
彩香。
「そこだけ素直に納得すんな!」
また。
笑い声。
玲奈の口元も。
ほんの少しだけ。
緩んだ。
百トンの嘘は。
港を出られなかった。
だが。
播州の烈火のボヤキと。
西日本分室の笑い声だけは。
その夜も。
誰にも止められなかった。




