七千台の車の中に黒鷹がいる ――神戸港、最後の一台を海へ出すな
神戸港には、岡本玲奈の人生が沈んでいる。
海の底に沈んでいるわけではない。
岸壁を歩けば見えるものの中に、昔の記憶が混じっているだけだ。
巨大なガントリークレーン。
倉庫。
コンテナ。
大型船の汽笛。
トレーラーのディーゼル音。
潮と機械油が混じった風。
港そのものは昔と変わらず動いている。
変わったのは、人間の方だった。
父がいた。
母がいた。
父の会社があった。
幼い玲奈には、父の会社がどれほど大きいかなど分からなかった。
ただ、港へ来れば父の名前を知っている大人がいて、父が笑っていて、母も隣にいた。
それだけで世界は完成していた。
家族というものは壊れない。
会社というものはなくならない。
明日というものは当然来る。
子供とは、そういう傲慢な生き物だった。
だが父も母もいない。
父の会社も、もうない。
かつて看板が掲げられていた場所には別の会社の名前がある。
昔の社員も散った。
残ったものは港だけだった。
海は何も覚えていない顔で、今日も波を岸壁へ返している。
玲奈はそんな神戸港を嫌いにはなれなかった。
悲しみだけがある場所ではなかったからだ。
失った。
だが、ここで守ったものもある。
泣いた。
だが、笑ったこともある。
一人になった。
その後で、新しい人間たちと出会った。
過去は消せない。
消さなくてもいい。
背負ったまま歩けばいい。
玲奈にとって神戸港とは、そういう場所だった。
その港へ。
黒鷹がまた入り込んだ。
「対象船、これです」
ヒロ室西日本分室。
大型モニターに一隻の自動車運搬船が映し出されていた。
白い巨大な船体。
側面にはいくつもの通風口。
甲板上に自動車は見えない。
外から見れば、窓の少ない巨大な箱だった。
西川彩香が腕を組む。
「……デカいな」
隣の河合美音が船内図を覗く。
「十二層あります」
山本あかりが目を丸くする。
「この中に車入っとるん?」
「入ります」
玲奈が答えた。
「最大で七千台規模」
「七千!?」
「全部数えんでええからな」
彩香が先回りした。
あかりが眉をひそめる。
「数えへんに」
白浜麻衣は図面を眺めていた。
「これ、逃げられたら面倒ですね」
「ええ」
玲奈が画面を切り替える。
三台の中古SUV。
見た目は何の変哲もない。
「兵庫県警が追っていた輸出業者から、この三台へ行き着きました」
黒鷹が使っているのは、中古車輸出の流れだった。
国外への持ち出しが制限される高性能電子部品。
暗号通信モジュール。
そして黒鷹の資金移動情報を記録した小型媒体。
それらを車体の一部へ偽装して隠す。
車そのものは合法的な中古車。
輸出書類も揃っている。
車台番号も存在する。
一台だけなら目立つ。
だが数千台の車へ混ざれば、砂浜へ落とした砂粒と同じだった。
「この三台を積んで終わり、ではありません」
玲奈が言う。
「黒鷹は船内で対象車両を別のデッキへ移動させ、積付け記録そのものを差し替える計画です」
迫田澪香が尋ねた。
「港側に協力者が?」
「少なくとも一人」
澄香。
「船側にもいる可能性がある?」
「あります」
彩香が船内図を指でなぞった。
「ほな外から見張っててもアカン」
「だから中へ入ります」
玲奈は淡々と告げた。
「今回、皆さんには自動車運搬船の車両積付けスタッフとして潜入してもらいます」
一瞬、部屋が静かになった。
あかり。
「そんな仕事あるん?」
彩香。
「あるから今説明されとるんや」
車をヤードから船へ運ぶドライバー。
船内誘導員。
車を固定するラッシングスタッフ。
車台番号や輸出書類を確認する検数員。
積付け進行を管理する現場責任者。
巨大船一隻を満たす数千台の車は、人間の手で一台ずつ移動されていく。
玲奈が役割を割り振る。
「美音は車両移動」
美音は頷く。
「はい」
「麻衣は船内誘導」
「はい」
「あかりはラッシング」
「任せてやに」
「迫田姉妹は検数」
双子が同時に頷いた。
「彩香は進行管理」
「了解」
そこで玲奈はもう一枚資料を出した。
「美咲も入ります」
彩香が顔を上げた。
「美咲?」
春日美咲が静かにこちらを見る。
「はい」
彩香の目が細くなった。
「免許……」
美咲。
「あります」
「いや、そこは知っとる」
つい最近取ったばかりだった。
普通自動車運転免許。
初心者。
若葉マーク。
美音が笑う。
「後方支援車両くらいなら大丈夫ですよ」
「構内の軽だけです」
玲奈も補足した。
「無理な車両移動はさせません」
美咲は真面目に言った。
「安全運転します」
彩香はため息をついた。
「美咲の安全運転は、たぶん安全すぎるねんな……」
数日後。
神戸港。
朝の港は早い。
太陽が海面を照らし始める前から、岸壁には機械音が満ちている。
自動車専用埠頭。
輸出を待つ車両が整然と並ぶ。
白。
黒。
銀。
赤。
セダン。
SUV。
小型車。
商用車。
右ハンドル。
左ハンドル。
何百台という車が同じ方向を向き、出港の順番を待っていた。
その向こう。
巨大な自動車運搬船。
船尾側のランプウェイが岸壁へ降ろされ、車が次々と吸い込まれていく。
NSTの潜入は始まった。
そして開始一時間で。
河合美音は目立った。
悪い意味ではない。
良すぎる意味で。
「次、これお願いします!」
現場スタッフから鍵を受け取る。
美音。
「了解です」
乗り込む。
シート。
ミラー。
車幅。
ブレーキ。
数秒で把握。
発進。
船内ランプへ。
自動車船内部は、外から想像する以上に狭かった。
低い天井。
鋼鉄の柱。
両側に車。
斜面。
曲がり角。
誘導員。
指定位置。
一般の駐車場とは違う。
一台でも多く載せるため、車間は詰められる。
切り返しが増えれば、そのぶん積付け全体が遅れる。
美音は一台目を指定位置へ入れた。
一発。
停車。
降りる。
次。
大型セダン。
また一発。
三台目。
左ハンドルのSUV。
同じ。
現場主任が黙って見ていた。
四台目が終わったところで呼び止める。
「河合さん」
「はい?」
「前どこおった?」
「浜松です」
「出身ちゃう。港」
美音が笑う。
「港では働いたことないです」
主任が笑い返した。
「またまた」
「本当ですよ」
「自動車船は?」
「今日が初めてです」
主任の笑いが止まる。
「……ほんまに?」
「はい」
数秒。
主任が言った。
「うち来えへん?」
美音。
「はい?」
「正社員」
無線越し。
彩香の声。
『また始まった……』
美音は笑いを堪えた。
前回の明石海峡大橋。
麻衣を筆頭に潜入した人間が次々スカウトされた。
彩香には嫌な記憶だった。
主任は本気だ。
「給料、相談するで」
『具体的な条件交渉に入らんでええ!』
「ありがとうございます。でも今の仕事がありますので」
「気変わったら言うてな」
『絶対変わらんから!』
美音は聞こえないふりをした。
遠州の勇者。
浜松育ち。
大型二輪。
船舶。
機械。
車。
動くものへの適応力が高い。
一台ごとにサイズも癖も違う車両を、美音は次々と船へ送り込んだ。
美咲は港湾ヤード。
小さな業務用軽自動車。
フロント。
リア。
黄色と緑の若葉マーク。
一枚ずつ。
近くの作業員が笑った。
「春日さん」
「はい」
「構内だけやから、それ外してもええんちゃう?」
美咲は真顔だった。
「でも初心者であることは伝わった方が安全です」
「真面目やなあ」
「安全第一です」
無線。
『美咲らしいわ……』
彩香が半ば諦めた。
軽が発進。
ゆっくり。
停止線。
止まる。
右。
確認。
左。
確認。
さらに後ろ。
彩香。
『美咲』
「はい」
『そこ誰もおらん』
「確認は必要です」
『……そうやな』
しばらくして。
『美咲』
「はい」
『今度はフォークリフト待たせとる』
「すみません」
『でも急がんでええ!』
「分かりました」
見ていた現場作業員が笑う。
「若いのにええやん。事故起こすより百倍ええわ」
美咲は少し嬉しそうだった。
船内では麻衣が誘導棒を持っている。
「もう少し左」
車が寄る。
「そのまま」
停止。
狭い車間。
同じような柱。
階層を示す番号。
似たような風景が延々続く。
だが麻衣は迷わない。
一度通った通路を覚える。
車列の順番も覚える。
階段の位置。
非常扉。
ランプウェイ。
最短経路。
主任が聞いた。
「白浜さん、方向感覚ええな」
「そうですか?」
「普通、初日は迷うで」
「同じところ通ったので」
それだけだった。
あかりは車を固定する。
ラッシング。
金具。
ベルト。
張力。
最初の数台は先輩に教わる。
それからは速い。
「ここ?」
「そう」
締める。
「次は?」
「あっち」
移動。
力がある。
腰が強い。
体力もある。
やがて。
「このSUVええなぁ」
無線。
『あかり』
「何?」
『商品や。買い物ちゃう』
「見るぐらいええやん」
『任務中や!』
「任務中でも車は車やに」
『何の理屈や!』
迫田ツインズは検数担当。
「末尾七」
澪香。
「一致」
澄香。
「次、末尾四二」
「一致」
左右。
番号。
書類。
デッキ。
輸出先。
双子のテンポが異常に速い。
途中から担当を交換しても速度は変わらない。
作業員が感心した。
「迫田さんら、便利やなあ」
澄香が顔を上げる。
「便利?」
澪香。
「家電みたいに言われてるね」
二人で小さく笑う。
そして彩香。
積付け進行管理。
無線。
進捗表。
車両数。
各デッキの状況。
「あっち詰まっとるから、七デッキ一旦止めて」
「第九、三台空けて」
「誘導員一人足りん。麻衣回して」
指示が速い。
現場主任が横から感心する。
「西川さん、前こういう仕事してた?」
「まあ……人動かすんは慣れてます」
「うち来る?」
彩香が固まる。
「ウチまで?」
主任。
「現場管理向いとるで」
無線の玲奈。
『適性があるのでしょう』
「誰も転職せえへんから!」
潜入捜査なのか採用試験なのか。
彩香には分からなくなってきた。
だが。
仕事ができること。
信用されること。
それは潜入では武器になる。
人は信用した相手へ、余計なことを話す。
美音が最初に異常へ気づいた。
車両リスト。
積載順。
三台だけ位置が変わっている。
無線。
『彩香さん』
「何?」
『対象候補三台、デッキ変更されてます』
「いつ?」
『今朝』
迫田ツインズが即座に書類を見る。
澄香。
『変更申請、積付け開始の直前』
澪香。
『三台とも同じ輸出業者』
麻衣は少し離れたところから現車を見る。
中古SUV。
三台。
一見すると普通。
だが一台だけ。
関係者でもない男が何度も近づく。
あかりからも報告。
『この三台だけ、業者の人がよう見に来るに』
玲奈。
『まだ動かないでください』
臨時指揮所。
港を見下ろす玲奈。
『回収担当まで特定します』
彩香。
「了解」
予定では夜。
積付け作業が落ち着く。
人が減る。
黒鷹が対象SUVを別デッキへ動かす。
そこで現物と人間をまとめて押さえる。
完璧だった。
あまりにも。
彩香が眉をひそめた。
「……嫌やな」
麻衣。
『何が?』
「順調すぎる」
あかり。
『順調でええやん』
「NSTで順調言うたらロクなこと起きへん」
美音。
『前も同じこと言ってましたね』
「経験則や」
その頃。
港の別区画へ。
一台のロケバスが入った。
CS放送。
旅番組。
『港町神戸、海と働く乗り物を巡る旅』
出演者。
明るい色のツインテール。
赤嶺美月。
そして。
華やかな巻き髪。
真央。
一人でも賑やか。
二人いれば。
単純に二倍では済まない。
「うわぁぁ! 車めっちゃあるやん!」
美月の声。
「でらすごいがね! こんだけ並んどると、どえりゃあ景色だが!」
真央。
声が広い港へ抜けていく。
臨時監視画面。
彩香が固まった。
「……」
玲奈。
『どうしました?』
彩香は画面を指差した。
「アホツインテールだけでも厄災なのに」
画面の美月。
「なあ真央、あの船全部車入っとるん?」
「そうらしいがね!」
彩香。
「巻き髪まで居る」
一拍。
「最悪や」
玲奈は何も言わなかった。
否定できなかった。
ロケは正式。
許可もある。
本人たちに悪気など一ミリもない。
むしろ神戸港を紹介する健全な旅番組。
ただし。
二人ともNSTのメンバーを知っていた。
それが問題だった。
真央が遠くを見る。
美音が輸出車から降りる。
次の車へ向かう。
真央の目が輝いた。
「美音さん!」
美音の足が止まる。
「……」
真央は大きく手を振った。
「美音さん! こんなとこで何しとりゃあすの!?」
港じゅうへ響きそうな声。
彩香。
「声デカい!」
当然、聞こえない。
真央はさらに続ける。
「車運んどりゃあすがね! 美音さん、港でも働いとりゃあすの!? どえりゃあ器用だがね!」
美音は笑顔を作った。
「ちょっと手伝い」
「へぇー!」
その声に反応した美月。
視線を巡らせる。
ラッシング作業中。
あかり。
「あれ?」
あかりの手が止まった。
嫌な予感。
「なんであかりまでおんの?」
「……仕事やに」
「何の?」
「車固定しとる」
美月の顔が明るくなる。
「楽しそうやな!」
彩香。
『楽しくない!』
あかり。
「私に言われても」
美月は巨大船を見上げる。
「港で自動車運ぶ仕事楽しそうやな。ウチも車運びたいわ」
真央が間髪入れず返す。
「美月さんは免許取るのが先だがね」
美月。
「そやな」
二人。
「……」
美月。
「ほな今日は無理やな」
真央。
「当たり前だが!」
二人で爆笑。
監視室。
彩香のこめかみが動いた。
「何で港で漫才始めんねん……」
麻衣。
『普通の会話では?』
「声量が普通ちゃうねん!」
だが。
黒鷹には笑い事ではなかった。
テレビカメラ。
予定外のロケ。
突然現れたタレント。
そのタレントが、最近入ったばかりなのに異様に仕事のできる港湾スタッフへ大声で話しかけている。
監視されている。
潜入が入っている。
そう判断するには十分だった。
黒鷹の現場責任者は短い電話を入れた。
「予定変更だ」
夜ではない。
今。
対象車両を動かす。
媒体を回収。
撤収。
美音が真っ先に異常を掴んだ。
本来動かないはずのSUV。
エンジン。
「彩香さん」
『何?』
「対象が動きました」
迫田澪香。
『積付け指示なし』
澄香。
『第九デッキ方向』
美咲。
『ヤード側でも一台、予定外に移動しています』
玲奈。
『前倒しです』
彩香の表情が消える。
ほんの数秒前まで美月と真央へ腹を立てていた女はいなくなる。
現場指揮官。
「全員動くで」
麻衣。
『了解』
あかり。
『待ってましたやに』
美音。
『追います』
迫田ツインズ。
『車台番号を追う』
美咲。
『ヤード側へ回ります』
「美咲」
『はい』
「無理せんでええ」
『分かっています』
一拍。
『若葉マークも付けました』
彩香。
「今そこ報告せんでええ!」
巨大自動車運搬船。
第九デッキ。
低い天井。
白い蛍光灯。
鋼鉄の床。
何百台もの車。
その間を黒鷹のSUVが走る。
速くはない。
船の中で高速など出せない。
だが狭い迷路では、数十メートルの差が大きい。
麻衣が走る。
ただし車の後ろは追わない。
横。
作業員用階段。
上。
一階層。
さらに上。
そして別のランプへ。
車より短い。
紀州の舞姫。
彼女は追跡でも舞う。
黒鷹の工作員がSUVを停めた。
別の車へ乗り換える。
扉を開ける。
「そこまで」
声。
男が振り返る。
麻衣。
「どけ!」
男が突っ込む。
狭い車間。
大柄な身体。
拳を振る。
麻衣は一歩下がらない。
身体を半分ずらす。
拳が空を切る。
腕。
肘。
肩。
流す。
男の身体が車体方向へ行く前に軌道を変える。
床。
倒す。
二人目。
横から。
麻衣は低くなる。
腕の下を抜ける。
背後。
脚。
重心。
崩す。
一人。
二人。
狭いほど強い。
車と車の間。
人一人が通れる幅。
その空間すら舞台になる。
だが。
三人目がSUVを出す。
第十デッキ。
進路。
大型の作業台車。
その横。
山本あかり。
「そこ通るん?」
クラクション。
「どけ!」
あかりが少し笑う。
「嫌やに」
ただし車の真正面には立たない。
側方。
安全位置。
作業台車へ両手。
押す。
車両通路を塞ぐ。
SUVが急停止。
ドア。
黒鷹が降りる。
「邪魔だ!」
「車で逃げるからやに」
一人があかりへ。
真正面。
あかりも真正面。
肩。
衝撃。
相手が二歩下がる。
さらに前。
「何だこいつ!」
二人目。
掴む。
あかりは腕を払う。
重心を落とす。
押し返す。
四日市の突貫娘。
突破口がなければ作る。
退路があるなら潰す。
「船の中で暴れたら危ないやに!」
「お前が言うな!」
「私は止めとる方やに!」
「どこがだ!」
そこへ。
麻衣。
「右」
「はい!」
あかりが正面から圧をかける。
男が左へ逃げる。
そこへ麻衣。
腕。
方向を変える。
またあかりの前。
「おかえりやに」
「ふざけるな!」
あかりが止める。
正反対の二人。
紀州の舞姫。
四日市の突貫娘。
静かな曲線と、真っ直ぐな突破。
それが噛み合えば強い。
しかし。
黒鷹責任者は媒体を持って別のSUVへ乗り込んだ。
下層へ。
迫田ツインズ。
監視情報。
車台番号。
澪香。
『白のSUV』
澄香。
『下のランプを抜ける』
澪香。
『船外へ出る』
美音。
『先回りします』
「行って!」
彩香。
美音が岸壁へ。
停めてあった港湾作業用の大型二輪。
ヘルメット。
跨る。
エンジン。
低い音。
黒鷹のSUVが船尾ランプから港湾ヤードへ飛び出す。
美音も動く。
海風。
大型クレーン。
コンテナ。
トレーラー。
広い。
だが自由ではない。
港には流れがある。
車両通路。
立入禁止区画。
大型車の導線。
出口。
美音は追いかけない。
読んだ。
SUVが右へ行く。
美音は直進。
コンテナ列の反対側。
先へ出る。
黒鷹が美音を見て進路変更。
そこに。
軽自動車。
若葉マーク。
前。
後ろ。
真面目に二枚。
美咲。
彩香。
『美咲、来た!』
「見えています」
美咲が深呼吸。
右。
左。
後ろ。
『今そこまで確認せんでええ!』
「安全確認は必要です」
発進。
速くない。
ただし。
迷いもない。
美音が大型二輪でSUVを正面から追わず、外側へ寄せる。
美咲が軽で別方向から出口へ。
一つ。
塞ぐ。
SUVが曲がる。
美咲。
また回る。
次。
塞ぐ。
追跡というより、追い込みだった。
黒鷹の運転手が叫ぶ。
「なんで初心者がここにいる!」
美咲。
車内で小さく呟く。
「失礼ですね」
右には大型トレーラー。
左は美音。
前。
黄色と緑の若葉マーク。
黒鷹は最後の開いた通路へ。
飛び込む。
その先。
一人。
西川彩香。
SUVが急停止。
責任者がドアを蹴るように開ける。
ケースを抱える。
走る。
彩香は動かない。
「遅かったな」
「どけ!」
彩香は一歩。
「車七千台あっても」
男が拳を握る。
「逃げ道まで七千個ないんや」
拳。
彩香。
半歩。
外す。
腕。
取る。
相手が振り払う。
二人目が後ろから来る。
あかりに押し返され、船内から逃げてきた工作員。
彩香は真正面。
「人の港使うて」
腕を流す。
「人の船使うて」
膝。
重心。
崩す。
もう一人。
麻衣が横から追いつく。
男の勢いを彩香側へ流す。
彩香が受ける。
「何勝手に密輸しとんねん!」
床。
播州の烈火。
燃える。
ただし、闇雲には燃えない。
麻衣が流れを作る。
あかりが圧をかける。
迫田ツインズが横を潰す。
美音が車両の逃走を封じる。
美咲が最後の車路を消す。
その全ての先。
彩香がいる。
責任者がケースを抱えて走る。
前。
美音の大型二輪。
後ろ。
若葉マーク付き軽。
横。
迫田ツインズ。
別側。
麻衣。
あかり。
逃げ道なし。
男は彩香を見る。
「お前ら何者だ!」
彩香は短く答えた。
「知る必要ない」
男が突っ込む。
彩香は拳を外す。
「一個だけ」
腕を取る。
「覚えとき」
肩。
身体を崩す。
「神戸港はな」
男が倒れる。
「黒鷹の駐車場ちゃうぞ!」
床へ。
完全制圧。
エンジン音が近づく。
大型ゲート。
開く。
兵庫県警。
捜査員たち。
そして。
その中央。
黒いジャケット。
岡本玲奈。
風に髪が揺れる。
冷酷なる美貌。
港の夕暮れが、その横顔へ薄い橙色を落とす。
「そこまでです」
黒鷹一味。
一斉確保。
対象SUV。
暗号媒体。
高性能電子部品。
資金記録。
国外協力者情報。
全て押さえた。
玲奈はしばらく岸壁を見ていた。
大きな自動車船。
クレーン。
赤くなり始めた空。
船の向こうに海。
昔と同じだった。
父がいた頃と。
景色だけなら。
ほとんど同じ。
だが。
父の会社はない。
父もいない。
母もいない。
二度と戻らない。
彩香が近づいた。
「玲奈さん」
玲奈は振り向かない。
「はい」
「終わりました」
海風。
一拍。
玲奈が頷く。
「ええ」
ほんの少しだけ。
冷たい横顔が柔らかくなる。
「帰りましょう」
過去は戻らない。
戻らないものを追い続けても、船は出ていく。
なら。
今あるものを守る。
自分の隣にいる者を守る。
それでいい。
数日後。
ヒロ室西日本分室。
港のハードボイルドな余韻は。
一切残っていなかった。
「あのアホツインテール、もう堪忍ならん!」
彩香の声が響く。
あかりが振り返る。
「また美月ちゃん?」
「巻き髪もや!」
麻衣。
「真央さんも?」
「そうや!」
彩香は完全にスイッチが入っていた。
「アホツインテール一人でも港中響く声しとんねん!」
迫田澪香。
「確かに声は大きかったですね」
「そこへ巻き髪や!」
澄香。
「真央さんも大きかったね」
「何で二人揃うねん!」
美音が笑う。
「偶然でしょう」
彩香の顔が引きつる。
「その言葉、最近ほんま嫌いや!」
美咲。
「でもロケは正式な許可を取っていました」
「分かっとる!」
澪香。
「美音を見つけたのも偶然」
「分かっとる!」
澄香。
「あかりを見つけたのも偶然」
「分かっとる言うてるやろ!」
あかり。
「でも私、向こうから呼ばれただけやに」
「お前には怒ってへん!」
「ほなええやん」
「ええことない!」
彩香は机の前を行ったり来たりする。
「アホツインテールが『港で車運ぶ仕事楽しそうやな』」
美月の物真似。
続けて真央。
「『美月さんは免許取るのが先だがね』」
あかりが笑う。
「正論やに」
「正論なのが腹立つねん!」
麻衣が肩を震わせる。
「真央さん、悪いこと言ってませんよ」
「分かっとる!」
「美月さんも別に」
「それも分かっとる!」
「じゃあ何に怒ってるんです?」
彩香。
「タイミングや!」
一同が笑う。
彩香の怒りは止まらない。
「次またあの二人が港で任務邪魔したらな」
麻衣。
「したら?」
彩香は腕を組む。
考える。
そして。
「メリケンパークで朝から晩までカモメ数えさせたる」
沈黙。
あかり。
「……カモメ?」
「そうや」
美音。
「何羽まで?」
「知らん!」
迫田澄香。
「途中で同じカモメ数えたら?」
「最初からや!」
澪香。
「カモメが移動したら?」
「知らん!」
麻衣は真顔で訊いた。
「それって意味ありますか?」
彩香。
「ないわ~ボケェ!」
西日本分室が爆笑に包まれた。
あかりは机へ突っ伏して笑う。
「意味ないんや!」
「ないわ!」
「罰になっとらんやん!」
「本人らが面倒臭かったらそれでええねん!」
美音。
「美月ちゃんなら三十分で飽きそう」
麻衣。
「真央さんも一緒に喋り始めそうですね」
澄香。
「最後はカモメに名前付けてそう」
澪香。
「美月ちゃんが『あれ美月二号!』とか」
あかり。
「巻き髪が『こっちのカモメでら可愛いがね!』って」
彩香。
「想像させんな!」
玲奈は少し離れた机で報告書を読んでいる。
文字を追っている。
顔はいつもの冷静な玲奈。
ただ。
口元が少しだけ緩んでいた。
そこへ美音が思い出したように言った。
「そういえば」
彩香。
「何?」
「港湾会社の主任さんから、また連絡来ました」
「何の?」
「転職」
彩香が静止する。
「……まだ言うてんの?」
「かなり本気みたいです」
「美音さんまで抜けられたら困る!」
美音が笑う。
「行きませんよ」
「先に言うて!」
「でも条件は結構――」
「聞かんでええ!」
麻衣。
「美音、ほんとに上手かったから」
彩香。
「褒めるんはええけど転職勧めんなよ!」
あかり。
「給料上がるん?」
「お前は何でそこ食いつくねん!」
その横。
美咲が自分の若葉マークを机へ置いていた。
あかりが気づく。
「そういや美咲」
「何ですか?」
「あの追跡の時も若葉マーク付けとったん?」
「もちろんです」
「港の構内なのに?」
「必要ないとしても、初心者だと周囲に分かった方が安全でしょう?」
彩香が即座に言う。
「黒鷹にもめっちゃ伝わっとったわ!」
美咲。
「?」
「『なんで初心者がここにいる!』って叫ばれとったやろ!」
「あれは失礼でした」
麻衣が笑う。
「でも逃げ道塞いだよね」
「はい」
美音も頷く。
「上手くなったよ、美咲」
美咲の顔がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。最初よりずっと」
「よかった……」
彩香。
「美音!」
「何?」
「そこ褒めたら、また乗りたがるやろ!」
美咲。
「練習しないと上達しません」
「それはそうやけど!」
美音。
「次は普通車にする?」
美咲。
「できれば」
彩香。
「話進めんな!」
迫田ツインズが笑う。
あかり。
「大型二輪も?」
美咲。
「それはまだ……」
彩香。
「“まだ”言うな!」
麻衣。
「将来的には?」
「麻衣まで煽るな!」
笑い声が広がる。
つい数日前。
同じ女たちは巨大船の中で黒鷹を追っていた。
紀州の舞姫が車列の間を舞い。
四日市の突貫娘が船内の進路を叩き潰し。
遠州の勇者が大型二輪で港を駆け。
若葉マークの美咲が生真面目に安全確認しながら逃げ道を塞ぎ。
迫田ツインズが番号と動線を読み切った。
最後。
播州の烈火が、黒鷹を港の地面へ叩き伏せた。
そして今は。
若葉マークをいつ外すかで揉めている。
あかりが言う。
「でも自動車船、また行きたいに」
彩香。
「行かんでええ!」
美音。
「私はまた運転したい」
「美音さん!」
麻衣。
「船内、面白かったです」
「麻衣まで!」
迫田澪香。
「検数も結構楽しかった」
澄香。
「テンポよく進むと気持ちよかったよね」
「迫田姉妹まで!」
美咲が若葉マークを持ち上げる。
「私は次、もう少し大きい車を――」
彩香。
「美咲はまず初心者期間終わってから!」
「でも練習は」
「近所でして!」
あかり。
「彩香さん、みんなに人気やに」
「何でウチがツッコミ一人で六人相手せなあかんねん!」
麻衣。
「向いてるから」
「橋梁会社の主任みたいなこと言うな!」
また笑いが起こる。
玲奈は報告書から視線を上げた。
窓の向こう。
神戸の夜。
そのさらに向こう側に港がある。
父の会社はもうない。
父も母もいない。
昔の玲奈が帰る家もない。
でも。
今の玲奈には帰る場所がある。
誰かが騒いでいる。
誰かが笑っている。
誰かが菓子を食べている。
誰かが勝手に転職へ誘われる。
誰かが初心者マークを几帳面に貼っている。
失った家族の代わりではない。
過去の穴を埋める道具でもない。
まったく別の時間の中で出会った。
新しい仲間たちだった。
彩香。
「とにかくやな!」
全員が見る。
「次、アホツインテールと巻き髪が港に現れたら!」
麻衣。
「カモメ?」
「カモメや!」
あかり。
「私も数えてええ?」
「何で参加すんねん!」
美音。
「私は車運んでていい?」
「仕事変わっとる!」
美咲。
「私は安全運転で」
「もう港から離れろ!」
迫田ツインズが笑い出す。
そして。
玲奈も。
ほんの少しだけ。
笑った。
神戸港。
船は出ていく。
船は入ってくる。
誰かが別れ。
誰かが帰ってくる。
海は何も言わない。
喜びも。
悲しみも。
失ったものも。
これから手に入れるものも。
全部まとめて、岸壁へ波を返すだけだ。
七千台もの車を飲み込んだ巨大船が、夜の海へゆっくり動き始めていた。
その中の数台に。
黒鷹はもういない。
誰も知らない。
あの船の内部で、影の女たちが戦ったことを。
知らなくていい。
港がただの港として明日も動くなら。
船が普通に出ていくなら。
それでいい。
黒鷹が最後の一台を海へ出す前に。
NSTは仕事を終えた。
そして仕事を終えた女たちは。
「アホツインテール!」
「巻き髪!」
「若葉マーク!」
「カモメ!」
と。
何の話をしているのか分からないほど賑やかなヒロ室西日本分室で。
今日も。
楽しそうに笑っていた。




