白衣のポケットに黒い鍵 ――神戸、最先端医療を売る黒鷹の密約
病院では、人は嘘をつきにくい。
痛ければ痛いと言う。
苦しければ苦しいと言う。
検査の数字は容赦なく身体の状態を映し出し、画像は皮膚の下に隠れた異常まで暴き出す。
だが――。
そこで働く人間まで、すべて正直とは限らない。
白衣のポケットにも、黒い鍵は入る。
神戸市内。
港からそう遠くない一角に、巨大なガラス張りの建物が立っていた。
神戸湾岸高度医療センター。
救命救急。
心臓血管外科。
脳神経外科。
消化器外科。
高度ながん治療。
ロボット支援手術。
先進画像診断。
研究施設まで一体化した、二十四時間眠らない巨大医療拠点だった。
正面玄関から入れば、白く明るい吹き抜け。
案内表示。
整然と並ぶ受付機。
行き交う患者と家族。
だが建物の奥には、一般の人間が生涯一度も足を踏み入れない場所がある。
中央手術部。
研究棟。
医療機器管理区画。
搬入ヤード。
膨大なデータが蓄積されたサーバールーム。
そこでは、人間の命を救うための情報が、毎日生み出されていた。
同時に。
売れば巨額の金になる情報も。
次世代手術支援システムの非公開評価。
新型医療機器の導入計画。
治験前段階の研究資料。
共同研究先とのデータ。
それらが黒鷹へ流れている。
兵庫県警からヒロ室西日本分室へ渡った資料には、一人の男の顔写真があった。
榊原征司。五十二歳。消化器外科医局長。
腕はいい。
患者からの評判も悪くない。
若手医師の指導にも熱心。
学会にも顔が利く。
外見だけなら、黒鷹とは最も縁遠そうな人間だった。
玲奈は写真を机へ置いた。
「三年前から、榊原の周辺で不自然な医療機器業者の出入りが確認されています」
西川彩香が資料をめくる。
「会社名は?」
「実体の薄いコンサルティング会社です。裏では黒鷹が資金を出しています」
「榊原は金ですか」
「おそらく」
榊原は優秀だった。
だが、優秀であることと満たされることは別だった。
教授選。
学会内の序列。
研究予算。
院内人事。
自分より実績が少ないと榊原が感じている人間が、自分より上へ行く。
そこへ黒鷹が入り込んだ。
最初は研究資金。
次に企業との仲介。
その次は現金。
気づいた時には、自分から関係を切れば過去の不正まで暴露されるところまで来ていた。
彩香が低く言った。
「医療の進歩を売って自分の地位買うたんか」
玲奈は答えない。
断定にはまだ証拠が足りない。
だからNSTが入る。
「患者がいる施設です」
玲奈の声が一段低くなる。
「今回は、いつも以上に慎重に」
彩香が頷いた。
「患者区画へは絶対に持ち込ませません」
潜入は四方向から行われた。
看護学生――春日美咲。
研修医――迫田澄香。
院内売店スタッフ――山本あかり。
そしてバックヤードに迫田澪香。
彩香は澪香とともに監視室を確保し、全体を管制する。
玲奈は施設外から県警部隊と連携した。
任務初日。
最初に驚いたのは、潜入した本人たちではなく、病院側だった。
「春日さん、本当に実習初日?」
ベテラン看護師が訊いた。
「はい」
美咲は患者用タオルを整えながら答える。
「前に病院で働いてなかった?」
「ありません」
「落ち着きすぎなんよ」
美咲は微笑んだ。
どこへ入っても妙に馴染む。
患者への話し方も自然だった。
高齢患者にはゆっくり。
不安そうな人には目線を合わせる。
忙しい看護師の動きを邪魔しない。
言われたことを一度で覚える。
数日もすると、ナースステーションでは完全に、
「よくできる実習生」
として認識されていた。
その信用が情報を運んでくる。
「榊原先生、今日も遅いね」
「木曜やからちゃう?」
「また例の業者?」
「会社名、誰も知らんよな」
何気ない雑談。
美咲は聞き流しているように見せながら、一言も逃さなかった。
医局側では、迫田澄香が白衣姿でカルテ端末を眺めていた。
「迫田先生」
呼ばれるたび、まだ少し違和感がある。
『先生やて』
バックヤードの澪香が面白がる。
澄香は小声。
「笑わないで」
『似合ってるよ』
「それはありがとう」
医師側の人間として潜ったことで、美咲では近づけない範囲まで見える。
カンファレンスの予定。
医局員の動き。
研究棟へ入る人間。
そして榊原のアクセス記録。
診療には不要なはずの、次世代手術支援装置の研究データへ何度もアクセスしている。
その直後。
毎回のように、同じ外部業者が来院。
澄香が短く送る。
『一致しました』
彩香。
『ええ感じや。そのまま無理せんと』
一方。
売店。
「いらっしゃいませやに〜」
彩香の眉が動く。
『あかり』
「はい?」
『売店で“やに”はええんか』
「普通に喋っとるだけやに」
『……もうええわ』
だが、あかりの配置は大当たりだった。
売店は巨大病院の交差点だった。
医師が来る。
看護師が来る。
警備員も来る。
清掃員も来る。
業者まで来る。
しかも休憩時間。
人間は仕事場を離れた瞬間、口が軽くなる。
「先生、今日もブラック?」
「お、覚えてるん?」
「毎日同じやに」
「サービスいいなあ」
「あの医療機器の人も毎回同じ缶コーヒー買うに」
「誰?」
「夜来る人」
警備員が何気なく答える。
「ああ。榊原先生が地下まで迎えに行く人な」
あかりの手が止まりそうになる。
止めない。
「偉い人なん?」
「知らん。入館証も毎回臨時やし」
貴重な情報だった。
監視室。
彩香は情報を並べていく。
美咲。
澄香。
あかり。
三方向の情報が、同じ一点へ収束していく。
木曜。
診療終了後。
榊原。
研究棟。
地下医療機器搬入口。
彩香は椅子の背へ身体を預けた。
「もう少しやな」
澪香が頷く。
「今回は順調ですね」
彩香は嫌な顔をした。
「そういうこと言わんといて」
「どうして?」
「NSTで“順調”言うたら、だいたい何か起きる」
澪香が笑う。
「迷信ですよ」
その三十分後。
救命救急センター入口。
サイレン。
一台の救急車。
ストレッチャー。
そして。
「痛い痛い痛いって! これ絶対折れてる!」
彩香は監視モニターを見た。
無言になった。
澪香。
「……」
彩香。
「……」
澪香が先に言う。
「順調って言わなければよかったですね」
「せやろ」
赤嶺美月。
大学のアメリカンフットボール部を応援するチアリーディングサークルで活動中。
人間ピラミッド。
美月は最上段。
そこから落下。
担架の上でも口だけは非常に元気だった。
「腰痛い! 肩も痛い! 足も痛い! これ絶対重傷やって!」
救急医が確認する。
「足の指、動かせますか?」
「動く!」
「手は?」
「余裕!」
「吐き気?」
「ない!」
「意識は?」
「めっちゃハッキリ!」
「頭痛?」
「ない!」
「食欲は?」
「お腹すいた!」
救急医が看護師と目を合わせた。
彩香はモニターへ顔を近づける。
「……どこが重傷やねん」
澪香。
「大事じゃなさそうでよかったですね」
「それはよかったけど、何で今日や!」
さらに厄介なのは、美月の中途半端な知名度だった。
「あれ美月ちゃん?」
「戦隊ヒロインの?」
「チアやってんの?」
救急外来が微妙にざわつく。
彩香は頭を抱えた。
「厄災や……」
そして厄災は、きっちり仕事をする。
検査待ちの美月が廊下を見回している。
その前を。
看護学生姿の美咲。
「あれ?」
美咲が止まった。
美月の目が輝く。
「美咲!」
「……美月さん」
「何してんの?」
「実習……みたいなものです」
美月は美咲を上から下まで眺めた。
「コスプレパーティーでもあるん?」
監視室。
彩香。
「怪我人は大人しく寝とけ……」
美咲は苦笑。
「検査がありますから寝ていてください」
「美咲ナース似合うやん!」
「ありがとうございます」
そこへ。
白衣の澄香。
美月。
「あ!」
澄香は一瞬だけ目を閉じた。
「澪香!」
間違っている。
「澪香、女医さんなん?」
澄香。
「……まあ、今日は」
バックヤードの本物の澪香。
「訂正しないんだ」
彩香。
「今はええ!」
美月は楽しそうに続ける。
「美咲がナース、澪香が女医さん。ほなウチ何しようかな?」
彩香がとうとうモニターへ怒鳴った。
「患者や!」
当然、美月には聞こえない。
「白衣借りたらウチも似合うと思わへん?」
美咲。
「まず患者さんをしてください」
「患者って何したらええん?」
「寝るんです」
「暇やん!」
彩香のこめかみが震えた。
「なんであいつ怪我しに来てまで人の邪魔できるんや……」
だが。
美月の検査結果は、拍子抜けするほど良かった。
骨折なし。
頭部異常なし。
軽度の足首捻挫。
腰と肩の打撲。
特殊訓練を受けてきた戦隊ヒロインだけあって、身体は頑丈だった。
本人だけが、
「絶対ヒビ入ってると思ってた!」
と残念そうなのが意味不明だった。
そして、美月に多少の知名度があったことから。
最終確認に榊原自身が顔を出す。
榊原は画像を確認した。
「骨折はありません」
美月。
「ほんま?」
「ありません」
「ヒビも?」
「ありません」
「明日普通に動ける?」
「今日は安静に」
「明後日は?」
「まず今日の話を聞いてください」
「よかったぁ!」
人の話を聞いていない。
榊原は診察を終える。
その瞬間。
澄香が気づいた。
榊原が時計を見る。
スマートフォン。
画面を一度確認。
白衣のポケットへ戻す。
そして医局ではない方向へ。
美咲も察する。
短い通信。
『対象、動きました』
監視室。
それまで美月に頭を抱えていた彩香の顔から、すべての感情が消えた。
現場指揮官の目に戻る。
「美咲。病棟側を押さえて」
『了解』
「澄香、そのまま追尾。距離取って」
『了解』
「あかり、売店上がって地下搬入区画」
『待ってましたやに』
「澪香、ウチと行くで」
「了解」
玲奈の声。
『県警も動かします。ただし患者区画への突入は最後まで避けます』
「分かってます」
榊原が向かったのは研究棟。
一人の男が待っていた。
医療機器会社の営業を装っている。
黒鷹。
榊原はカードキーでセキュリティ扉を開ける。
研究室。
薄いケース。
暗号化記憶媒体。
未公表の臨床評価データ。
次世代手術支援機器の技術資料。
導入候補企業の内部評価。
金になる。
人の命を救うための研究が。
黒鷹の手に渡れば、ただの商品になる。
「全部か?」
「要求されたものは」
榊原がケースを差し出す。
だが。
黒鷹工作員が突然動きを止めた。
「待て」
「何だ」
「院内が変だ」
看護学生。
研修医。
売店スタッフ。
ここ数日。
妙に自分たちの周辺へ同じ顔がある。
黒鷹は撤収を決めた。
証拠ケースを持ち。
地下へ。
それと同時に、複数の工作員が医療機器搬入業者の制服を脱ぎ捨てた。
最初に接触したのは。
売店スタッフのエプロンを外したあかりだった。
地下搬入通路。
前方に三人。
「戻れ」
あかりは止まった。
「そっち行きたいんやに」
「戻れと言ってる」
「嫌やに」
一人があかりの肩へ手を伸ばす。
あかりが先に踏み込んだ。
肩。
体重。
勢い。
男が二歩下がる。
そのまま搬送台車を蹴るように押し、二人目との間へ滑り込ませる。
「何だこいつ!」
あかりは前へ出る。
四日市の突貫娘。
考えるより前に突っ込む。
だが今は。
何も考えていないわけではない。
後ろには患者区画へ続く扉がある。
そこへ一人も行かせない。
拳。
腕で外す。
掴む。
身体を入れる。
男が搬送用マットへ転がる。
別の一人が横から来る。
あかりは退かない。
さらに前へ。
「病院で暴れたらあかんやに!」
男が怒鳴った。
「お前が一番暴れてるだろ!」
「私は止めとる方やに!」
押す。
崩す。
通路が開く。
「彩香さん!」
『ようやった! そのまま押して!』
あかりが開いた突破口へ。
美咲が入る。
看護学生の柔らかな表情が消えていた。
黒鷹の一人が病棟方向へ逃げようとする。
「こちらは通せません」
男が美咲へ掴みかかる。
身体を半歩ずらす。
手首。
肘。
相手の勢いだけを流す。
壁にぶつけない。
医療機器にも触れさせない。
男を安全な空間へ崩す。
その横から白衣。
澄香。
そして。
反対側の扉から澪香。
双子が揃った。
男が驚く。
「同じ顔……?」
澪香。
「今度は澪香」
澄香。
「こっちは澄香」
あかり。
「美月ちゃんは間違えてたやに」
澄香。
「今それ言う?」
緊迫した場面なのに、一瞬だけ澪香が笑いそうになる。
次の瞬間。
二人は動いた。
澄香が右。
澪香が左。
工作員がどちらかを追えば、もう一人が死角へ入る。
美咲が出口を塞ぐ。
あかりが後ろから圧力をかける。
敵の隊列が、少しずつ一方向へ押し込まれていく。
彩香の声。
『そのまま。正面へ送って』
美咲。
「了解」
澪香。
「一人送ります」
あかり。
「もう一人行くに!」
追い込まれた黒鷹が、地下搬入ヤードへ飛び出す。
榊原もいる。
証拠ケースを持った責任者。
そして。
その真正面。
西川彩香。
長い通路の中央に立っていた。
「もう終わりや」
黒鷹の責任者がケースを抱え直す。
「どけ」
「嫌や」
一人が前へ。
彩香は動かない。
ぎりぎりまで。
拳が来る。
半歩だけ横。
手首を取る。
肘。
肩。
一気に姿勢を崩す。
床へ。
別の男。
美咲が横から腕を外す。
「彩香さん!」
「任せ!」
彩香が引き継ぐ。
男を回して倒す。
迫田ツインズが左右の出口へ。
あかりが後方を閉じる。
榊原が見回す。
逃げ道がない。
彩香の目が榊原を捉えた。
「患者助ける場所使うて」
黒鷹の一人が来る。
拳を流す。
「何売っとんねん」
腕を取る。
「人の命預かる白衣着て」
崩す。
「その裏で病院の未来まで売るんが医者の仕事か!」
榊原が叫ぶ。
「君たちには分からない!」
彩香が男を床へ押さえる。
「分かりたないわ!」
榊原。
「研究には金がいる! 地位がなければ何も変えられない!」
彩香が立ち上がる。
「せやから黒鷹に売った?」
「……」
「あんたが欲しかったん、医学の未来ちゃうやろ」
榊原の顔が固まる。
「自分の椅子や」
沈黙。
黒鷹責任者が彩香へ突進する。
彩香は真正面から迎えた。
播州の烈火。
一撃目。
外す。
二撃目。
受け流す。
懐へ。
「ここはな」
腕を取る。
「人が助かりに来る場所や」
肩を返す。
「金と秘密持って逃げる場所ちゃう!」
責任者の身体が崩れる。
それでも抵抗。
彩香の袖を掴む。
彩香の目がさらに鋭くなる。
「ええ加減にせえ!」
一気に制圧。
床へ。
腕を背へ。
完全に止める。
榊原が踵を返す。
そこにはあかり。
「どこ行くん?」
「どけ!」
「嫌やに」
左。
澄香。
右。
澪香。
後ろ。
美咲。
もう何も残っていない。
その時。
大型扉が開いた。
岡本玲奈。
その背後から兵庫県警の捜査員が次々に入る。
「そこまでです」
一斉確保。
榊原。
黒鷹工作員。
暗号化媒体。
金銭授受記録。
研究資料。
裏契約。
すべて押さえた。
玲奈はケースを確認する。
そして。
「任務完了です」
その数フロア上。
赤嶺美月は何も知らず、退院説明を受けていた。
「今日は安静」
「はい!」
「激しい運動は禁止」
「はい!」
「チアリーディングも」
「分かってるって!」
「本当に?」
「大丈夫や!」
その日のうちに帰宅。
翌朝には。
ほぼ普通に動き回っていた。
特殊訓練恐るべしだった。
翌日。
ヒロ室西日本分室。
彩香は報告書を机へ置いた。
まだ納得していない。
「あのアホツインテール、ええ加減にせえよ」
あかりが菓子棚を見ながら答える。
「まだ言っとるん?」
「言うわ」
麻衣。
「怪我が軽くてよかったじゃないですか」
「それはよかった」
一拍。
「でも何で一番上から落ちんねん」
あかり。
「チアならそういう事故もあるやに」
「そもそも、あいつが一番上なんがアカン」
麻衣。
「小柄だから適任なのでは?」
彩香。
「どうせ本人が『ウチが一番目立つから一番上にして〜』言うたんや!」
あかり。
「ありそうやに」
「やろ!」
彩香は勢いに乗る。
「しかも最近スイーツ食べ過ぎや」
あかり。
「そこ?」
「そこや」
「関係ある?」
彩香は真顔だった。
「スイーツ食べ過ぎて体にキレがなくなったから一番上から落下するんや」
あかりが目を丸くする。
「そこなんですか?」
「絶対そこや」
麻衣。
「科学的根拠は?」
「ウチの勘」
「根拠になってませんね」
彩香は構わない。
「当面、アホツインテールはスイーツ禁止」
ちょうどその時。
扉。
「邪魔するで〜!」
赤嶺美月。
普通に元気。
彩香は反射的。
「邪魔するなら帰って〜」
「そうやな……」
美月が引き返す。
扉が半分閉まる。
止まる。
再び開く。
「って、なんでやねん!」
あかりが笑う。
迫田ツインズも笑う。
美月は大きな紙袋を掲げる。
「昨日はえらい目に遭ったわ〜。近所のオバちゃんが『お見舞いや』言うてどら焼きくれてん。みんなで食べよ!」
彩香の視線が紙袋へ。
「……スイーツ」
「何や怖い顔して」
美月は気にせず、美咲を見つける。
「あ、そうや美咲!」
「何ですか?」
「昨日ナース姿やったやろ」
美咲が一瞬固まる。
「ほんで澪香が女医さん」
澄香の眉が僅かに動く。
本物の澪香が横で笑っている。
美月。
「病院でコスプレパーティーしてたん?」
美咲と澄香が目を合わせる。
秘密任務とは言えない。
美咲。
「まあ……」
澄香。
「そうやね」
二人とも曖昧に笑う。
美月。
「楽しそうやな! 今度ウチも混ぜて!」
彩香。
「二度と病院来んな!」
「何でやねん!」
「次来る時もどうせろくな理由ちゃう!」
「昨日は事故や!」
「自分から一番上乗っとる時点で半分自業自得や!」
「何やて!」
紙袋のことを思い出した彩香が指をさす。
「しかもあんたのどら焼き、なし」
美月が止まった。
「は?」
「スイーツ禁止」
「何で!」
「スイーツ食べ過ぎて体にキレなくなって落ちたから」
「まだ言うてんのか!」
「当面禁止!」
美月は袋を胸へ抱える。
「待て! これウチがお見舞いにもろうたんや!」
「知るか」
「ウチが一番食べる権利あるやろ!」
「ない」
「ある!」
「ない!」
「あるわ!」
話はなぜか餡へ飛ぶ。
美月。
「そもそもどら焼きはつぶあんや!」
彩香。
「はあ? こしあんやろ!」
「つぶあんの粒がええねん!」
「皮との一体感ならこしあんや!」
「何やその一体感って!」
「美学や!」
「どら焼きに美学持ち込むな!」
「持ち込んで何が悪い!」
「つぶあんの方が絶対うまい!」
「こしあんや!」
「つぶ!」
「こし!」
西日本分室の中央で。
昨日、地下医療施設で黒鷹を叩き伏せた播州の烈火と。
昨日、ストレッチャーの上で「絶対骨折してる」と大騒ぎしていたアホツインテールが。
どら焼きの餡で本気の口論を始めていた。
その横。
あかりが紙袋を開く。
「美咲、食べる?」
「いただきます」
一個。
「あ、美味しいやに」
「本当ですね」
二個。
あかり。
「皮ふわふわやに」
美咲。
「餡も上品です」
三個目。
「ネコ型ロボットが好きなん分かるやに」
「確かに」
その間も。
「つぶあん!」
「こしあん!」
「粒!」
「滑らかさ!」
「食感!」
「一体感!」
やがて美月が叫んだ。
「もうええ! 実際食べ比べたら――」
紙袋へ手を入れる。
空。
「……」
彩香も見る。
「……」
美月。
「ない」
彩香。
「ないな」
二人の視線がゆっくり動く。
あかり。
口いっぱい。
美咲。
最後の一口。
彩香の声が低くなる。
「あかりぃ……」
「はい」
「美咲ぃ……」
「はい」
「あとで話がある」
二人。
「……はい」
美月は空袋を覗いたまま、呆然。
「ウチの分もないやん……」
そして。
彩香を見る。
「この怖いオバンがウチの分なしとか言うからや!」
彩香。
「誰が怖いオバンや!」
「あんたや!」
「あんたはなくてええ!」
「なんでやねん! ウチがもろうてきたんやぞ!」
「スイーツ禁止!」
「横暴や!」
「落下防止や!」
「どら焼きで落下防止できるか!」
「体のキレや!」
「まだそこ言うか!」
子どもじみた喧嘩、第二ラウンド。
澪香と澄香は声を出して笑っている。
麻衣も呆れながら笑う。
あかりは美咲へ囁く。
「私ら怒られるよな?」
「多分」
「逃げる?」
「彩香さん、こっち見てます」
「無理やな」
「はい」
少し離れた席。
玲奈は報告書を読んでいた。
昨日。
同じ仲間が、白い廊下の先で黒鷹と戦った。
患者を巻き込まず。
医療設備を傷つけず。
研究成果を守った。
今日は。
どら焼きの最後の一個を誰が食べたかで大騒ぎしている。
彩香。
「アホツインテール!」
美月。
「怖いオバン!」
「スイーツ禁止!」
「独裁反対!」
玲奈の口元が。
ほんの少し。
緩んだ。
これでいい。
任務から戻った場所まで、張りつめている必要はない。
戦う時は戦う。
終われば笑う。
くだらないことで喧嘩をする。
誰かが菓子を全部食べる。
そして翌日になれば、また必要な時に並んで立つ。
それが。
今の西日本分室だった。
神戸湾岸高度医療センターでは、今日も手術灯が点いている。
救急車が到着する。
医師が走る。
看護師が患者へ声をかける。
誰も知らない。
その地下で。
売店スタッフが黒鷹の隊列を突き破り。
看護学生と二人の偽医療スタッフが逃げ道を作り。
最後に播州の烈火がすべてを焼き払ったことを。
知らなくていい。
病院が今日もただの病院であること。
患者が安心して白衣を見上げられること。
その当たり前を残すために。
NSTは影にいる。
そして、その影から戻れば――。
「こしあんや!」
「つぶあんや!」
「アホツインテール!」
「怖いオバン!」
今日もヒロ室西日本分室は。
どうしようもなく。
明るく。
騒がしかった。




