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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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393/408

出来高は、嘘をつかない ――宝塚支店、地味株を喰う黒鷹のインサイダー網

株価は、嘘をつく。


期待で上がる。


噂で上がる。


恐怖で下がる。


まだ起きてもいない未来へ値段をつけるのが市場なら、そこに人間の欲望が入り込む余地はいくらでもある。


だが。


出来高は、少しだけ正直だった。


誰かが買った。


誰かが売った。


市場の向こう側に、人間がいた。


その痕跡だけは消せない。


兵庫県警の市場監視ルートが異常を掴んだのは、そんな数字だった。


銘柄名――


播磨精型工業。


旧大阪証券取引所二部時代から上場を続ける、老舗の金型加工メーカー。


自動車部品。


産業機械。


精密プレス。


技術力は高い。


得意先も堅い。


だが株式市場では、恐ろしいほど地味だった。


流行の新事業へ手を出すわけでもない。


派手な社長がテレビへ出るわけでもない。


株主向け資料も実直。


掲示板も閑散。


日によっては売買そのものがほとんど成立しない。


そんな株だった。


ところが、三か月ほど前から異変が起きている。


株価は上がっていた。


だが急騰しない。


一日二%。


翌日は横ばい。


少し下がる。


そこで買いが入る。


また一%。


そして特定の日だけ出来高が跳ねる。


翌日には何事もなかったように静まる。


上値を追わない。


買い板を露骨に積まない。


薄い板へ一気にぶつけない。


目立たない。


だが、確実に集めている。


ヒロ室西日本分室。


大型モニターへ映された株価チャートを、西川彩香が無言で見つめていた。


岡本玲奈が言う。


「上げすぎないよう調整しています」


彩香の目はチャートから離れない。


「出来高増えた次の日、わざと休んどる」


「ええ」


「二日続けて同じことせえへん。押したら拾う。上がったら追わん」


玲奈が彩香を見る。


「気づきましたか」


「素人の買い方ちゃいますね」


ヒロ室フロントの福永理沙が資料を机へ置く。


「板の薄い銘柄で一気に買ったら株価が跳ねる。監視にも引っかかる。だから自然な売りへ少しずつぶつけてる」


彩香が腕を組む。


「地味な会社選んで、地味に買って、地味に儲ける」


理沙。


「一番捕まえづらいやり方」


彩香が短く笑った。


「ほな、派手に捕まえますか」


玲奈の口元が僅かに緩む。


その水面下では、播磨精型工業に大きな案件が進んでいた。


大手産業部品メーカーによる、株式公開買付けを伴う完全子会社化。


まだ非公表。


市場へ出れば、株価が大きく動く可能性が高い。


そしてその案件へ関わっていた金融機関の一つが、国内最大手の証券会社だった。


名前を出さなくても、業界人なら分かる。


全国に張り巡らされた巨大な支店網。


圧倒的な法人営業。


強力な投資銀行部門。


そして個人営業。


一方で、徹底的に数字を追わせる体育会系の営業文化でも知られている。


業界内の揶揄。


「ノルマ証券」


福永理沙の古巣だった。


舞台は、その宝塚支店。


作戦会議で支店名を聞いた理沙は、遠い目になった。


「懐かしいな……」


彩香が訊く。


「そんな厳しいん?」


「朝、数字」


「うん」


「昼、数字」


「まあ証券会社やし」


「夕方も数字」


「……うん」


「目標達成すると翌月はもっと高い数字」


彩香が止まった。


「永遠に終わらんやん」


「終わらないよ」


「怖っ」


理沙は真顔だった。


「だから“ノルマ証券”って言われるの」


玲奈が言う。


「今回は、その経験が必要です」


「任せて」


理沙は即答した。


不自然な取引の中心にいたのは、宝塚支店営業課長――


水城雅彦。


五十代半ば。


勤続三十年近いベテラン。


営業成績は安定。


部下の面倒見もいい。


富裕層だけでなく、長年付き合う高齢顧客にも丁寧。


派手な生活はしていない。


借金もない。


重大な処分歴もない。


黒鷹へ自分から近づく理由が見えなかった。


玲奈は水城の写真を見る。


「最初から悪人とは決めません」


彩香が静かに答える。


「分かってます」


「でも疑わしい?」


「めちゃくちゃ」


玲奈が見る。


彩香は写真を机へ置いた。


「せやけど、怪しいんと悪人なんは別です」


「ええ」


「そこは分けます」


玲奈は小さく頷いた。


彩香は熱い。


だが、今の彩香は熱さだけでは動かない。


播州の烈火。


燃える前に、どこを焼くべきか考える。


それが以前との違いだった。


潜入役は春日美咲。


大学生インターンとして宝塚支店へ入る。


潜入前夜。


理沙による特別講習。


「返事は早く」


「はい」


「メモは絶対」


「はい」


「分からないことを知ったふりしない」


「はい」


「電話の相手の名前は必ず復唱」


「はい」


理沙が一拍置く。


「あと」


美咲は真剣。


「はい」


「忙しそうな上司に“何かお手伝いありますか?”って聞かない」


「……なぜです?」


「仕事三つ増えるから」


彩香が噴き出した。


美咲は真顔。


「本当ですか?」


理沙も真顔。


「本当」


「怖いですね」


「でしょ」


彩香。


「ノルマ証券やなあ」


理沙。


「まだ序の口」


さらに理沙は教える。


数字が悪い朝の空気。


支店長の前での営業員の姿勢。


コンプライアンス担当との距離。


顧客との雑談の中からニーズを拾う方法。


どの社員が誰を信頼しているか。


表情で読めること。


「証券会社って数字の世界に見えるけど、結局は人間関係の世界でもある」


美咲。


「つまり、潜入しているように見せない」


「そう」


「普通のインターンとして働く」


「そう。ちょっと優秀なくらいで」


美咲は頷いた。


ところが。


その「ちょっと」の程度が大きく狂った。


美咲は異様に仕事ができた。


資料整理。


Excel集計。


郵送物。


セミナー準備。


電話取次。


来店客への案内。


一度覚えた業務を、ほとんど二度聞かない。


誰かが忙しそうなら、その人が次に必要になる資料を先回りして準備する。


ただし、出しゃばらない。


高齢顧客へ話す時は声を少しゆっくりにする。


一度会った客の顔もよく覚える。


三日目。


指導役の女性社員、小暮奈緒が美咲の机を見る。


「春日さん」


「はい」


「本当に証券会社初めて?」


「はい」


「嘘ついてない?」


「ついてません」


「三日目のインターンが、何で私より机きれいなの?」


美咲は困る。


「片付けただけです」


「それができないのよ、忙しいと」


支店長まで目をつけた。


「春日さん、いいねえ」


奈緒。


「ですよね」


「長期インターンに変えられないかな」


美咲。


「ありがとうございます」


小型イヤホンから彩香。


『美咲』


「はい」


『就活しに行ったんちゃうで』


「分かっています」


玲奈。


『自然に信用されるのは有利です』


彩香。


『分かってますけど、優秀すぎるんです』


美咲。


「どうすれば?」


『そのままでええ』


「では問題ないですね」


『……せやな』


彩香は負けた。


だがその優秀さが、事件を動かす。


奈緒が美咲をランチへ誘った。


宝塚支店近くの洋食店。


任務ではない。


普通の先輩と後輩の昼食。


「美咲ちゃん、卒業したら本当にうち来れば?」


「まだ進路を決めてないんです」


「向いてるよ」


「そうでしょうか」


「少なくとも私より向いてる」


奈緒が笑う。


美咲も笑う。


雑談。


職場の愚痴。


営業員の性格。


支店長の癖。


そこで水城課長の名前が出た。


「でも水城課長、最近ちょっと変なんだよね」


美咲は表情を変えない。


スープを一口飲む。


「どういう意味ですか?」


「昔の顧客を急に何人も復活させてて」


「営業なら普通では?」


「それは普通。でも買ってる株が妙に偏ってる」


「どこですか?」


奈緒は声を落とす。


「播磨精型工業」


美咲の目の奥だけが変わった。


奈緒は気づかない。


「それにね。課長が自分で発注確認してるの。昔なら若手へ振るような仕事まで」


さらに。


「この前なんて、三口座だけ取引報告書の発送タイミング変えてほしいって」


「変えられるんですか?」


「理由が不自然だから断った」


奈緒はパンをちぎる。


「あと木曜」


「木曜?」


「夕方になると、たまに変な男の人が来る」


名刺なし。


受付を通らない。


水城自身が裏口へ迎えに行く。


奈緒が男の外見を話す。


年齢。


眼鏡。


右手の古傷。


NSTが追っていた黒鷹資金工作員と一致。


美咲は食事を終える。


「少しお手洗いへ」


個室。


スマートフォン。


短い暗号送信。


接触者一致。水城課長、黒鷹工作員と接触。木曜夕刻。


玲奈。


確認。継続してください。


そして木曜日。


営業終了。


水城が地下駐車場へ降りる。


一日の営業を終えた疲れが肩に残っていた。


車へ向かう。


その前に。


長身の女性が一人。


コンクリートの柱へ背を預けている。


西川彩香。


水城が足を止める。


「……誰ですか」


彩香はゆっくり身体を起こした。


そして一言。


「播磨精型工業」


空気が変わった。


水城の顔から営業用の表情が消える。


「……何の話でしょう」


彩香は歩く。


ヒールの音が地下駐車場へ響く。


「この三か月。あんたの管理口座だけ、妙に相場観ええですね」


「投資判断です」


「へえ」


一歩。


「出来高増える前に買う」


一歩。


「上がった日は追わん」


一歩。


「押したら拾う」


水城の前で止まった。


「随分お上手な投資判断ですね」


水城は視線を逸らさない。


「顧客の利益のためです」


「ほな質問変えます」


彩香の目が鋭くなる。


「木曜夕方」


水城の指が僅かに動く。


「受付も通らん」


もう逃げられない。


「名刺も出さん」


彩香の声は低い。


「右手に古傷のある男と、何話しとるんです?」


「……」


水城の目が揺れた。


彩香はその僅かな揺れを見逃さなかった。


「黒鷹に何握られとるんです?」


「何者だ」


「その質問は後」


彩香はさらに半歩詰める。


距離は近い。


だが威圧だけではなかった。


水城が逃げるなら逃げられる。


彩香はあえて道を残していた。


逃げれば、それが答えになる。


水城は逃げなかった。


彩香は言う。


「私が聞きたいんは一個だけです」


声は静かだった。


だからこそ怖い。


「金欲しさに、自分から売ったんか」


「……」


「それとも」


播州の烈火が、音もなく燃える。


「何か握られて、首輪つけられたんか」


水城の肩が落ちた。


長い沈黙。


そして。


十数年前の話が始まった。


市場が大きく崩れた時期。


長年の顧客が大損した。


自分を信じていた高齢者。


水城は耐えられなかった。


自分の金で穴を埋めた。


善意だった。


だが証券マンには許されない行為だった。


実質的な損失補填。


表沙汰にはならなかった。


黒鷹はその証拠を見つけた。


会社へ出す。


当局へ送る。


家族へ知らせる。


三十年の信用を全部潰す。


代わりに。


口座を使え。


株を買え。


情報を確認しろ。


水城は従った。


「最初は……一度だけだと言われた」


彩香は冷たい目で見た。


「黒鷹が“一回だけ”で人を放すと思ったんですか」


「分かっている!」


水城が叫んだ。


地下に反響する。


「分かっている……」


声が萎む。


「三十年だ」


彩香は黙って聞く。


「三十年、この会社で働いた。部下には規則を守れと言った。客には信用を裏切るなと言った」


拳が震える。


「なのに自分だけ、昔のことを隠している」


「……」


「全部失うのが怖かった」


彩香は視線を逸らさない。


慰めない。


「やったことは消えません」


水城が目を閉じた。


逃げ道のない言葉だった。


だが。


「でも」


水城が目を開ける。


彩香は真正面にいた。


「今から何するかは選べます」


「……」


「このまま黒鷹に首輪つけられて、次も、その次も人を裏切るか」


一拍。


「それとも今日、自分で首輪を切るか」


水城が彩香を見る。


彩香は続けた。


「三十年積んだもん、一回の過ちで全部きれいになるとは言いません」


「……」


「でも、一回間違えたから残り全部間違えなあかん理由もない」


水城の目が揺れた。


「選んでください」


長い沈黙。


やがて。


「……協力します」


彩香はほんの僅かに頷いた。


「それでええ」


その瞬間。


水城にとって黒鷹との戦いが始まった。


NSTは作戦を反転。


水城から黒鷹へ偽情報を流す。


インターン生が不審取引へ気づいた。


コピーを持っているかもしれない。


内部監査へ相談しようとしている。


黒鷹は食いついた。


美咲を囮にする。


作戦前。


彩香は美咲を呼び止める。


「美咲」


「はい」


「嫌なら降りてええで」


美咲が少し驚く。


「ここまで来てですか?」


「ここからは潜入ちゃう」


彩香の顔は真剣だった。


「相手もお前が敵やと分かって来る」


「分かっています」


「怖ない?」


美咲は少し考える。


「怖くないと言えば嘘になります」


彩香の目が柔らかくなる。


「それでええ」


「でも、行きます」


「何で?」


「水城課長も逃げないと決めましたから」


彩香が笑った。


「ほんま真面目やな、お前」


無線から玲奈。


『彩香が言いますか』


「玲奈さん」


『はい』


「今、ええ場面です」


『失礼しました』


美咲が小さく笑う。


夜。


宝塚支店。


シャッターが下りる。


日中は電話の音と営業員の声が飛び交う営業フロア。


今は静かだった。


大型モニターに終値だけが並ぶ。


播磨精型工業。


今日も小幅高。


数字は何も知らない顔をしている。


美咲が偽資料を入れたケースを持って歩く。


デスク。


椅子。


パーティション。


コピー機。


非常灯。


背後。


足音。


一人。


二人。


「それを置け」


美咲が振り返る。


「何でしょうか」


「学生が余計なもんを見るな」


男が腕を取る。


美咲は一歩引く。


椅子を軽くずらす。


進路を狭める。


腕を外す。


机の間へ入る。


二人目が回る。


挟まれた。


その時。


暗がり。


「インターン一人に大人二人がかりですか」


男たちが振り向く。


彩香が立っていた。


ジャケットを脱ぐ。


椅子の背へ掛ける。


袖口を整える。


「随分、営業効率悪そうな会社やな」


「誰だ」


彩香は一歩前へ出た。


「顧客満足度も最低や」


男が突っ込む。


彩香は避けない。


ぎりぎりまで待つ。


拳が来る。


半歩。


外す。


手首を取る。


肘を固める。


肩。


男の姿勢が一瞬で折れる。


机へ。


だがモニターへ頭が当たる直前に軌道を変える。


「おっと」


美咲。


「彩香さん?」


「このモニター高そうやから」


「会社の備品です」


「せやから守っとるんや!」


二人目が美咲へ。


美咲は机の間を使う。


足元へ椅子。


相手が避ける。


重心がずれる。


腕を取る。


彩香へ流す。


「彩香さん!」


「任せ!」


彩香が受ける。


腰を落とす。


床へ。


動きに迷いがない。


そこへ増援。


三人。


四人。


彩香の目が変わる。


播州の烈火。


今度は、完全に火が上がった。


「まだ来るんか」


一人が拳を振るう。


外す。


懐。


肘。


転倒。


「市場操縦する頭あるんやったら」


二人目。


腕を取る。


机を使って姿勢を崩す。


「人数だけ増やしたら勝てるかどうかぐらい」


三人目。


美咲が足止め。


彩香が滑り込む。


「計算しとけ!」


床へ叩き伏せる。


一人が背後から掴もうとする。


美咲。


「後ろ!」


彩香は振り返らない。


身体を沈める。


腕だけを取る。


前へ引く。


男が自分から宙へ浮く。


彩香は投げる。


「播州なめんな!」


美咲の目にも熱が入る。


一人がコピー機脇から迫る。


美咲は拳をかわす。


手首を制する。


相手は力で振りほどこうとする。


美咲は抵抗しない。


力の向きへ身体を流す。


彩香の前へ送り込む。


「また来ました」


「宅配便ちゃうぞ!」


言いながら彩香が止める。


美咲が珍しく笑った。


黒鷹側が苛立つ。


静かな営業フロア。


株価モニター。


電話機。


顧客ファイル。


昼間は金の話だけが行き交う場所。


その夜だけは、黒鷹の工作員が床へ転がっていく。


最後の責任者が非常階段へ逃げた。


そこに水城がいた。


「どけ!」


水城は動かない。


「裏切ったな!」


「……ああ」


声は震えている。


男が笑う。


「全部ばらすぞ。昔のことも、今回のことも!」


水城は目を閉じる。


そして開く。


「好きにしろ」


「何?」


「もう逃げない」


男の顔から笑みが消えた。


水城へ手を伸ばす。


美咲が横から動く。


男の視線が逸れる。


その一瞬。


彩香が来た。


速かった。


「そこや!」


男の腕を外す。


水城を引き離す。


男を壁際へ追い込む。


黒鷹の責任者が拳を振るう。


彩香は一撃目を外す。


「人の弱み握って」


二撃目。


腕を流す。


「何年も首輪つけて」


男の肩を取る。


「会社の信用売らせて」


相手が振りほどく。


彩香は追う。


「誰も見てへん地味株や思て」


男が後退。


「市場まで好き放題しやがって」


男が最後の拳を振り上げる。


彩香の目が燃えた。


「ええ加減にせえ!」


懐へ。


腕。


肩。


腰。


一気に崩す。


男が床へ落ちる。


彩香は腕を背へ回し、完全に動きを封じる。


播州の烈火。


燃えるべき相手だけを焼いた。


その瞬間。


非常口が開いた。


岡本玲奈。


背後に兵庫県警捜査員。


「そこまでです」


黒鷹の残党を一斉確保。


同時に。


関連口座。


資金移動先。


協力者。


黒鷹の買い集め網。


県警が一斉に押さえた。


静かに積み上げられていたインサイダー取引網は、その夜崩壊した。


水城にも責任は残った。


当然だった。


「私は会社を辞めます」


彩香は即答した。


「そうなるでしょうね」


美咲が彩香を見る。


厳しい。


だが彩香は続けた。


「でも」


水城が顔を上げる。


「最後に逃げんかったことまで、なかったことにはならん」


玲奈も言う。


「捜査への全面協力と黒鷹摘発への貢献は、県警側でも十分考慮します」


水城は深く頭を下げた。


会社側でも重大な規則違反である以上、職を保つことは難しい。


ただ。


黒鷹に脅迫されていた事情。


自責の念。


自発的な捜査協力。


それらを考慮すれば、最終的には諭旨退職に近い形へ落ち着く可能性が高かった。


水城は三十年働いた会社を去る。


決して華やかな退職ではない。


それでも。


黒鷹の言いなりのまま終わるより、自分で選んだ結末だった。


別れ際。


彩香が呼び止める。


「水城さん」


「はい」


「次の職場では」


少し間。


「もう隠し事せんことですね」


水城は僅かに笑った。


「そうします」


彩香も、ほんの僅かに笑った。


数日後。


美咲のインターン最終日。


事件の裏側を知らない支店長が、美咲を呼ぶ。


「春日さん」


「はい」


「本当に今日まで?」


「一応、その予定です」


「長期で続けない?」


美咲が目を丸くする。


指導役の奈緒も横から来る。


「私もそれ言おうと思ってた」


「奈緒さんまで」


支店長。


「卒業後でもいい。うち受けない?」


奈緒。


「絶対向いてるよ」


「ありがとうございます」


美咲は本当に嬉しそうだった。


「でも、まだやりたいことがありますので」


奈緒は残念そうに笑う。


「そっか」


支店長。


「気が変わったらいつでも」


「ありがとうございます」


夕方。


ヒロ室西日本分室。


美咲が戻る。


彩香がすぐ気づく。


「おかえり」


「戻りました」


「聞いたで」


「何をです?」


「勧誘されたんやろ」


美咲が少し照れる。


「支店長と奈緒さんから」


彩香の顔が真剣になる。


「美咲」


「はい」


「抜けられたら困るで」


美咲が少し驚いた。


彩香は資料へ視線を落としながら続ける。


「潜入できる」


一枚めくる。


「事務できる」


また一枚。


「人から信用される」


「はい」


「戦える」


「はい」


「車は……」


美咲が彩香を見る。


「車は?」


南あわじで若葉マークの軽自動車を必死に走らせた姿が、彩香の脳裏をよぎる。


「……成長中や」


「何でそこだけ間があるんですか」


麻衣が吹き出す。


あかりも笑う。


彩香もとうとう笑った。


そこへ福永理沙がコーヒーを持ってくる。


「でも美咲」


「はい」


「本当にあそこへ就職するなら、一つだけ覚悟してね」


「何ですか?」


「ノルマ」


彩香。


「やっぱそこなん?」


理沙。


「そこ」


美咲。


「そんなに大変なんですか」


理沙は当然の顔。


「ノルマ証券だから」


美咲が笑う。


「元社員がそんなこと言っていいんですか?」


「元社員だから言えるの」


「説得力ありすぎるやろ」


彩香が笑う。


理沙も。


美咲も。


少し離れた席で、玲奈がその様子を見ていた。


今回、美咲は戦った。


だが、それ以上に働いた。


人から信用された。


普通の会話の中から、決定的な情報を拾った。


そして彩香は。


一人の男を追い詰めた。


だが、追い詰めるだけでは終わらせなかった。


間違いを許したわけではない。


罪を消したわけでもない。


ただ。


戻る道がまだ残っていることを示した。


それもまた、播州の烈火の強さだった。


火は。


何もかも焼けばいいわけではない。


焼くべきものだけを焼き。


残すべきものを残す。


それができる女になった。


株価は、嘘をつくことがある。


人間も嘘をつく。


会社も。


市場も。


だが。


出来高だけは。


誰かがそこで動いたという痕跡を、最後まで消してはくれなかった。


翌朝。


宝塚支店では、いつも通り電話が鳴る。


営業員が数字を追う。


支店長が若手へ声をかける。


誰も知らない。


前夜、そのフロアで黒鷹の金融網が一つ消えたことを。


それでいい。


表の日常が何事もなく続くこと。


そのために影がある。


そしてその影の先頭には――


今夜も、播州の烈火が立っていた。

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