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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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392/408

黒い耳標は血統を偽る ――三田、神戸牛ブランドを喰う黒鷹の偽装牧場

牛は、自分につけられた値段を知らない。


耳についた番号の意味も知らない。


どこで生まれたのか。

誰の手で育てられたのか。

どんな血を受け継ぎ、どんな餌を食べ、どれほど長い時間をかけて大きくなったのか。


それを記録するのは人間だ。


だから、人間が記録を偽れば――牛には反論する術がない。


兵庫県三田市。


神戸や大阪という巨大都市圏から遠くないにもかかわらず、市街地を離れれば風景は一変する。


なだらかな山々。


田畑。


雑木林。


朝靄の残る農道。


盆地ならではの寒暖差と澄んだ空気、豊かな水。


都市の便利さと、農畜産に適した静かな環境が近い距離で同居している。


古くから農業や畜産との結びつきも深い。


とりわけ兵庫が世界へ誇る高級牛肉へつながる牛たちを、大切に育てる牧場が点在する。


華やかな料理店の皿へ乗るまでには、長い時間がある。


朝早くから牛舎を見回る者がいる。


餌を用意する者がいる。


体調を見る者がいる。


一頭一頭の癖を覚え、昨日と今日の僅かな違いへ気づく者がいる。


牛肉のブランドとは、最後に貼られる名前だけではない。


その時間すべてを含めた信用だった。


黒鷹は、その信用へ値札をつけた。


兵庫県警へ入った情報は、奇妙なものだった。


正規の高級牛肉として市場へ流れた商品の一部で、個体識別情報と流通履歴に微妙な食い違いが見つかった。


最初は入力ミスと思われた。


だが、一件ではなかった。


出生記録。


血統。


肥育履歴。


移動記録。


出荷記録。


一つ一つを見れば不自然ではない。


しかし繋ぎ合わせると、存在するはずのない履歴が完成していた。


ヒロ室西日本分室。


岡本玲奈は資料を机へ置いた。


「単純な産地偽装ではありません」


西川彩香が腕を組む。


「正規の牛の履歴そのものを盗んどるんですね」


「ええ」


黒鷹は流通業者や外部委託業者を通じ、正規の個体情報を不正取得していた。


耳標番号。


血統資料。


肥育履歴。


出荷データ。


それらを、本来そのブランドを名乗る資格のない肉へ被せる。


いわば、牛肉そのものではなく――


牛の人生を偽造する。


高級品として販売された差額は、黒鷹へ流れる。


彩香の表情が険しくなった。


「牛一頭育てんのに、何年かかる思っとんねん」


玲奈は黙って聞く。


「毎日世話して、病気せんよう見て、餌考えて、やっと出荷まで持っていく。それで積み上げた信用を、こいつらは番号一個いじって横取りするんですか」


「そういうことです」


「最低やな」


低い声だった。


怒鳴るより、その方が彩香らしい怒りだった。


捜査線上へ浮かんだのは、三田市郊外の架空の肥育牧場――三田高原牧場。


牧場主も大半の従業員も、事件とは無関係。


真面目に牛を育てている被害者だった。


怪しいのは、数か月前から出入りするようになった外部委託スタッフ。


玲奈が牧場の図面を広げた。


「内部へ入る必要があります」


彩香はすぐに言った。


「迫田ツインズですね」


玲奈も頷く。


迫田澪香。


迫田澄香。


二人の実家は宮崎県都城市の乳牛牧場だった。


今回相手にするのは肉用牛。


育てる目的も、飼料も、管理方法も違う。


だが牛の扱いそのものは、身体へ染みついている。


牛は大きい。


人間が腕力でどうにかできる動物ではない。


不用意に後ろへ回らない。


興奮している牛へ無理に近づかない。


耳を見る。


目を見る。


尻尾を見る。


呼吸を見る。


人間の焦りは牛にも伝わる。


そういう知識は本ではなく、二人の生活そのものだった。


「麻衣とあかりも入れます」


彩香が続けた。


玲奈は異論を挟まない。


白浜麻衣は和歌山のみかん農家育ち。


畜産経験はないが、農作業には強い。


朝が早いことも、泥にまみれることも気にしない。


そして何より、潜入と戦闘ではすでに十分な経験を積んでいる。


山本あかりは――


「力仕事向きですね」


玲奈が言った。


「あと牛相手なら、知らん人と余計な世間話始める心配もありませんし」


彩香が真顔で返す。


玲奈は少し考えた。


「牛とは世間話できませんからね」


この判断だけは、少し甘かった。


あかりは人間だけではなく、牛とも妙に仲良くなる女だった。


三田高原牧場の朝は早い。


まだ空気に冷たさの残る時間から、四人は臨時作業員として働き始めた。


最初に牧場スタッフを驚かせたのは、迫田ツインズだった。


一頭の牛を別区画へ移す。


澪香は真正面へ立たない。


澄香も反対側へ静かに回る。


「ほら、こっち」


「大丈夫だよ」


声を張り上げない。


追い立てない。


逃げ道を塞ぎすぎない。


牛はゆっくりと歩き始めた。


ベテラン従業員が目を丸くする。


「姉ちゃんら、本当に肉牛は初めてなん?」


澪香が笑う。


「肉牛はほとんど初めてです」


澄香が続ける。


「実家が乳牛牧場なので」


「なるほどなあ。牛の種類違うても、触り方は分かるんやな」


別の牛が落ち着きをなくした。


澪香は近づこうとした従業員へ静かに声をかける。


「少し待った方がいいです」


「分かる?」


「耳がこっちを気にしています」


澄香も牛を見ている。


「今近づくと余計に緊張します」


しばらくすると、本当に牛が落ち着いた。


麻衣が感心する。


「二人ともすごいね」


澄香が笑った。


「麻衣もみかんの木なら分かるでしょう?」


「みかんは蹴らないから」


澪香が吹き出した。


その横では、あかりが飼料袋を抱えている。


「これ次どこやに?」


「姉ちゃん、それもう三袋目やぞ」


「まだいけるに」


「元気やなあ」


仕事の適性だけなら、四人とも申し分なかった。


そして午後。


あかりが牛舎の横を歩いていると、一頭が柵から鼻先を伸ばしてきた。


「ん?」


肩へ触れる。


あかりが止まる。


「どうしたん?」


そっと鼻先を撫でる。


牛は逃げない。


むしろもう少し顔を寄せてくる。


「かわいいやに〜」


翌日。


同じ牛。


その隣の一頭。


三日目。


あかりが牛舎へ入るだけで、数頭が一斉に顔を上げた。


柵沿いに、あかりの歩く方向へついてくる。


澪香が真顔になる。


「あかり」


「何?」


「餌、勝手にあげた?」


「あげてへんに!」


澄香。


「じゃあ何でこんなに懐いてるの?」


「私が聞きたいやに」


麻衣が牛とあかりを交互に見る。


「友達だと思われてるのかも」


「牛の友達?」


無線から彩香。


『あかり』


「はい」


『任務中やで』


「ちゃんとやっとるやに」


『今、牛撫でとるやろ』


あかりが驚く。


「何で分かったん?」


『声が完全に遊びに来た人やねん!』


麻衣が小さく笑った。


迫田ツインズも笑う。


ただ、その牛との奇妙な友情が後に四人を救うとは、まだ誰も知らなかった。


数日間の潜入で、帳簿上の不正は見つからない。


耳標も合っている。


肥育記録も整っている。


黒鷹は慎重だった。


だが。


数字に出ないものを見つけた者がいた。


澪香が、一頭の牛の前で足を止める。


「澄香」


双子は視線だけで通じた。


澄香も牛を見る。


麻衣が近づく。


「どうしたの?」


澪香はしばらく牛を観察した。


「この子、ここに半年もいないと思う」


麻衣が記録端末を見る。


「記録だと七か月」


「だから変なの」


澄香が説明する。


「餌場へ入る時に少し迷ってる。柵との距離も他の牛と違う」


「それだけで?」


「それだけじゃない」


人が近づいた時の反応。


周囲の牛との距離。


牛舎内の設備への慣れ。


長い間そこに暮らしている牛なら、もう少し自然であるはずの部分に小さなズレがある。


牛を知らない人間なら気づかない。


都城の牧場で育った二人には分かった。


「牛そのものが入れ替わってる可能性があります」


その後、牛舎裏の廃材置き場から、番号を削った古い耳標の断片が見つかった。


コピーされた個体資料。


一部を焼いた帳簿。


線が繋がった。


黒鷹は肉の段階だけではなく、生きた牛の履歴から攪乱していた。


証拠は旧飼料倉庫に集められている可能性が高い。


玲奈は作戦を決めた。


夕方。


黒鷹の工作員が証拠を運び出す瞬間を押さえる。


麻衣とあかりが搬出口。


迫田ツインズが牛舎側。


県警部隊が外周。


完全に包囲する。


悪くない作戦だった。


そのはずだった。


牧場入口へ、一台の白いロケ車が入ってくるまでは。


車体には大きく――神戸放送。


彩香は監視車内からそれを見て固まった。


「……嘘やろ」


玲奈が画面を見る。


ロケ車の扉が開く。


「おはようございまーす!」


三好さつき。


いつもの明るい声。


女子アナ志望のレポーター。


NSTの秘密活動など何も知らない。


牧場側もNSTの潜入など知らない。


神戸放送の地域産業特集は、数週間前から正規に許可された取材だった。


誰も悪くない。


ただ――来る日が悪すぎた。


彩香は額を押さえた。


「何でこういう日に限って来んねん……」


玲奈が淡々と言う。


「偶然です」


「それが一番困るんです!」


牛舎。


迫田ツインズが清掃している。


そこへカメラを伴ったさつき。


「こちらでは若いスタッフさんも――」


言葉が止まる。


澪香と目が合う。


「あれ?」


澪香も止まった。


さつきが首を傾げる。


「澄香?」


一秒。


澪香は笑顔を作った。


「そうだよ」


牛舎の物陰。


本物の澄香が硬直する。


麻衣も一瞬固まる。


あかりは下を向いて笑いを堪えた。


さつきはまったく疑わない。


「やっぱり! 何してるん?」


「ちょっと牧場のお手伝い」


「実家も牧場やもんな! 都城から?」


「うん、まあ……そんな感じ」


「へえ、偶然やなあ!」


さつきは上機嫌。


無線。


澄香が囁く。


『澪香』


『何?』


『今、私になった?』


『緊急避難』


『じゃあ今の私は誰?』


麻衣の肩が震える。


あかりが小声で言う。


「食肉偽装捕まえに来て、こっちは双子偽装しとるやに」


麻衣。


「今それ言ったら笑うからやめて」


彩香の声。


『澪香、何で澄香になっとんねん!』


『説明すると長いです』


『もうええ! 今日だけ澄香二人でいって!』


本物の澄香。


『それ一番ややこしいです』


そこまでは、まだ笑えた。


問題は次だった。


さつきが牧場スタッフへ言った。


「せっかくなので、飼料を保管しているところも撮影できますか?」


牧場主は善意で頷く。


「ええですよ。旧倉庫の辺りも牧場らしい画になりますし」


麻衣の表情から笑いが消えた。


旧飼料倉庫。


黒鷹の証拠保管場所。


さつきのロケ班が近づく。


黒鷹の工作員がカメラを発見する。


予定外のテレビ取材。


自分たちの顔が映る可能性。


即座に通信が飛んだ。


計画中止。


証拠を緊急搬出。


麻衣が無線へ告げる。


「動きました」


玲奈の声が鋭くなる。


『予定変更。証拠を最優先』


彩香。


『四人ともカメラには絶対映らんといて!』


あかり。


「戦いながら?」


『そうや!』


「注文多いやに!」


予定していた包囲は崩れた。


県警部隊もまだ完全な位置についていない。


黒鷹が先に走り始める。


さつきの取材が作戦を壊した。


だが、現場の四人までは壊れなかった。


その時。


一頭の牛が顔を上げた。


あかりへ異様に懐いていた牛だった。


耳が牛舎裏へ向く。


低く鳴く。


あかりが気づく。


「どうしたん?」


また鳴く。


澪香も牛を見る。


顔つきが変わった。


「人がいる」


澄香も同じ方向を見る。


「見慣れない人間が裏を通ったんだと思う」


あかり。


「裏道?」


麻衣はすでに走り始めていた。


「行こう」


黒鷹の工作員は、自分が牛に見つかったとは思わなかっただろう。


旧飼料倉庫。


乾いた牧草の匂い。


積み上げられた飼料袋。


大きな牧草ロール。


資材棚。


フォークリフト。


その間を、証拠ケースを抱えた男たちが走る。


最初に追いついたのは麻衣だった。


「止まって」


男が振り返る。


「何だ、お前」


答えの代わりに拳が飛んだ。


麻衣は半歩だけ外す。


拳が頬の横を抜ける。


二撃目。


身体を沈める。


懐へ入る。


手首。


肘。


肩。


男の力を受け止めない。


流す。


前へ出た力を横へ変える。


男の身体が飼料袋へ沈んだ。


二人目が金属棒を持つ。


横薙ぎ。


麻衣は牧草ロールの陰へ滑り込む。


棒が空を切る。


男が追う。


反対側へ回った時。


麻衣はもう背後にいた。


膝裏を払う。


腕を取る。


音を立てず、保護シートの上へ伏せる。


紀州の舞姫。


小柄な身体が、広い動きをする必要はない。


一歩。


半歩。


棚と棚の間。


牧草ロールの影。


フォークリフトの死角。


そこにいると思った時には、もう別の場所へいる。


舞うという言葉が似合う。


だがその舞いは、敵を楽しませるためのものではない。


一つ一つの動作が、確実に逃げ道を削っていく。


工作員が叫ぶ。


「囲め!」


三人が麻衣へ向かう。


麻衣が構える。


その向こうから――


ガラガラガラガラ!


巨大な車輪音。


「麻衣ぃ! どいてやに!」


麻衣が横へ飛ぶ。


飼料を積んだ運搬台車が突っ込んでくる。


押しているのはあかり。


「うおおおおっ!」


工作員が左右へ散る。


あかりは敵の直前で台車を横へ振った。


中央の動線を一気に塞ぐ。


一人が怒鳴る。


「何なんだこいつ!」


「牧場スタッフじゃないのか!」


あかりが拳を握る。


「今日はそっちが副業やに!」


男が殴りかかる。


あかりも前へ出た。


肩と肩。


押し合い。


男の足が一歩後ろへ動く。


あかりはさらに踏み込む。


二歩。


三歩。


相手を藁束まで押し込む。


二人目が横から腕を取る。


あかりは振りほどく。


腰を落とす。


投げる。


藁の上へ転がる。


「牛怖がらせる前に、大人しゅうしときやに!」


四日市の突貫娘。


麻衣が曲線なら、あかりは直線。


麻衣が敵の力を流すなら、あかりはその力ごと押し返す。


前に壁がある。


なら止まらない。


もっと前へ行く。


麻衣が叫ぶ。


「あかり、左!」


「はい!」


男の拳を麻衣が外す。


腕を取る。


身体の向きを変える。


その先へあかりがいる。


「もろたやに!」


肩から押す。


工作員が牧草へ沈む。


麻衣が言う。


「ちょっと強い」


「藁がクッションになるに」


「そういう問題じゃないと思う」


激しい戦闘の最中でも、二人の呼吸は乱れない。


だが、牛舎側では別の工作員が逃げ始めていた。


そこに立ったのが迫田ツインズだった。


男が怒鳴る。


「どけ!」


澪香。


「そっちは駄目です」


澄香。


「牛がいるので」


「知るか!」


工作員が金属棒を振り上げた。


牛たちがざわつく。


澪香の顔から柔らかな表情が消える。


「牛を怖がらせないで」


澄香の声も低い。


「ここは、あなたたちが暴れる場所じゃありません」


男が棒を振る。


澪香が外す。


腕を取る。


その反対側。


澄香。


足元へ入る。


重心が崩れる。


澪香が肩を押す。


男は牛舎と反対側へ倒れた。


二人目が右へ逃げる。


澪香。


左へ。


澄香。


どちらへ行っても双子がいる。


「どっちがどっちなんだよ!」


澪香。


「澪香です」


澄香。


「澄香です」


男が苛立つ。


「さっき澄香って名乗ってたじゃねえか!」


澪香が一瞬困る。


「それは……今日だけ事情がありまして」


戦闘中に説明する話ではない。


そこへ麻衣とあかりも合流する。


四人。


麻衣が舞う。


あかりが突っ込む。


澪香と澄香が左右を閉じる。


黒鷹の工作員が進む場所は、もう残っていない。


一人が麻衣へ向かう。


流される。


そこへ澪香。


腕を封じる。


別の男があかりを避けて横へ。


澄香がいる。


戻ればあかり。


「戻ってきたやに!」


牛舎の裏で、四人の動きが交差する。


激しい。


だが乱暴ではない。


柵は壊さない。


牛へ近づけない。


飼料設備にもぶつけない。


人間だけを止める。


黒鷹の責任者は証拠入りの保冷ケースを抱え、軽トラックへ飛び乗った。


エンジンが唸る。


農道へ飛び出す。


「逃げた!」


麻衣が走る。


軽トラックは牧場脇で急停車した。


前方には作業車。


責任者は車を捨てた。


斜面へ走る。


麻衣が追う。


直接後ろへつかない。


農道の形を見る。


柵。


小道。


傾斜。


男が右へ曲がる。


麻衣は左の細道へ。


先回り。


男の前に現れる。


「くそっ!」


方向転換。


その先には澪香と澄香。


「戻ってください」


「そっちは行き止まりです」


また反転。


男が走る。


そして最後に――


あかり。


腕を組んで立っている。


「おかえりやに」


男が怒鳴る。


「誰がおかえりだ!」


「一周して戻ってきたやん」


「どけ!」


「嫌やに」


男が突進する。


あかりも一歩前へ。


身体がぶつかる。


一瞬の押し合い。


男の重心が浮く。


あかりが腰を入れる。


姿勢を崩す。


そこへ麻衣。


腕を取る。


迫田ツインズが左右を封じる。


男が膝をつく。


証拠ケースが手を離れる。


澄香が落下する前に受け取った。


無線。


玲奈。


『全対象の確保を確認しました』


彩香。


『証拠は?』


麻衣が息を整える。


「あります」


玲奈。


『牛は?』


澪香が牛舎を見る。


「全頭無事です」


短い沈黙。


そして玲奈の声。


『任務完了です』


その頃。


牧場の表側は驚くほど平和だった。


三好さつきがカメラへ笑顔を向けている。


「三田の豊かな自然の中で、一頭一頭、本当に大切に育てられているんですね」


遠くで。


ガタン。


さつきが振り向く。


「今、何か音しませんでした?」


牧場主。


「飼料でも積み替えてるんでしょう」


「ああ、なるほど!」


さつきは素直に納得した。


その数十メートル先。


麻衣は乱れた髪を直し。


あかりは藁まみれ。


迫田ツインズは黒鷹の工作員を県警へ引き渡していた。


さつきは何も知らない。


「今日は、三田の畜産を支える現場からお伝えしました!」


爽やかな笑顔。


撮影終了。


表では、牛を大切に育てる牧場の一日。


裏では、黒鷹の偽装ルートが一つ消えた。


それでよかった。


押収された記録から、黒鷹の食肉偽装網は芋づる式に明らかになった。


偽造された耳標情報。


盗まれた個体識別データ。


架空の肥育履歴。


流通先。


送金記録。


三田高原牧場そのものは潔白だった。


牧場主も従業員も被害者。


牛はもちろん、何も悪くない。


夕方。


あかりが牛舎へ戻る。


例の牛がすぐに気づく。


顔を出す。


「あ、いた」


近づいた途端。


べろり。


あかりの頬を舐めた。


「うわっ! ちょ、待ってやに!」


もう一度。


「顔はやめてやに〜!」


麻衣が笑う。


「ものすごく好かれてる」


澪香。


「帰ってほしくないのかも」


澄香。


「性格が似てるんじゃない?」


あかりが顔を拭きながら振り返る。


「どこが?」


澪香。


「人懐っこい」


麻衣。


「よく食べる」


「そこまで牛寄りにせんといて!」


牧場の夕暮れに、四人の笑い声が響いた。


数日後。


ヒロ室西日本分室。


仕事を終えたNSTメンバーが、珍しく一台のテレビを囲んでいた。


テーブルにはお茶。


小さな菓子袋。


画面には神戸放送の地域情報番組。


穏やかな音楽とともに、三田の里山が映る。


朝露の残る牧草。


牛舎。


ゆっくり餌を食べる牛たち。


そして、さつきの明るいナレーション。


『神戸や大阪からもアクセスしやすい三田ですが、市街地を離れるとこんなに豊かな自然が広がっています』


彩香が腕を組む。


「……ええ番組やな」


あかりが振り返る。


「珍しく素直やに」


「何や、ウチかて褒める時は褒めるわ」


麻衣も画面を見る。


「牧場、きれいに映ってますね」


迫田澪香。


「牛も落ち着いてる」


澄香。


「取材スタッフが静かに撮ってくれたんだと思う」


彩香が小さく頷く。


「そこはさつきさん、ちゃんとしとるんよなあ」


画面が切り替わる。


さつきが牛舎へ入る。


『こちらでは、若いスタッフの方も頑張っています!』


そして。


澪香が大写し。


テロップ。


「牧場スタッフ 澄香さん」


分室が静かになった。


本物の澄香がゆっくり澪香を見る。


澪香はテレビから目を逸らす。


あかりが耐えきれず吹き出した。


「改めて見てもおもろいやに!」


麻衣も口元を押さえる。


「澪香、全然迷わなかったね」


テレビの中。


さつき。


『澄香は実家も牧場なんですよね?』


澪香。


『うん』


本物の澄香が呟く。


「私の人生を迷いなく奪ってる」


澪香。


「あの場では仕方なかったの」


「その時間、私どこにいたことになってたの?」


「都城?」


「何で実家まで戻されたの」


彩香が笑い出した。


「食肉偽装摘発しに行って、迫田姉妹まで産地偽装すな」


「人を牛肉みたいに言わないでください」


澪香と澄香がほぼ同時に返す。


玲奈の口元も緩んでいる。


画面には牧場の牛。


さつきの声。


『とても穏やかで、人懐っこい牛さんもいるんですよ』


「あ!」


あかりが身を乗り出した。


例の牛だった。


テレビの中で柵から顔を出している。


「この子やに!」


麻衣。


「あかりの友達」


「牛の友達って何やに」


澪香がスマートフォンを取り出した。


「そういえば牧場の人から昨日写真来てたよ」


画面を見せる。


柵から顔を出し、牧場入口を見ている同じ牛。


メッセージ。


『あかりちゃんが帰ってから、しばらく入口ばかり見ています』


あかりの顔が一気に柔らかくなった。


「……ほんまに?」


澄香が笑う。


「待ってるのかもね」


「また会いに行きたいに」


彩香が即座に答えた。


「行ったったらええやん」


あかりが驚く。


「任務なくても?」


「当たり前や。牧場の人にちゃんと連絡して、普通に遊びに行ったらええ」


麻衣も言う。


「私も行こうかな」


澪香。


「じゃあ私たちも」


澄香。


「今度は本名で」


一同が笑う。


あかりが嬉しそうに言う。


「ほな四人で行くやに。牛にお土産って何がええんやろ?」


迫田ツインズが同時に止める。


「勝手に餌持って行ったら駄目」


「やっぱり?」


「牧場の人に聞いてから」


「はい」


テレビでは、さつきが締めのレポートをしている。


『生産者の皆さんが毎日愛情を込めて育てる牛たち。その積み重ねが、兵庫が誇る食文化を支えているんですね』


室内が少し静かになる。


麻衣がぽつりと言った。


「さつきさん、ちゃんと伝えてる」


澪香も頷く。


「うん」


澄香。


「取材そのものは、本当に丁寧だった」


あかり。


「裏で大乱闘してたとは思えへん番組やに」


彩香が苦笑する。


「ほんまや。こんなん見とったら、あの日ずっと平和やったみたいや」


麻衣。


「表は平和でした」


「あんたらが裏で守ったからな」


彩香のその一言に、四人が少しだけ黙る。


大げさな称賛ではない。


だからこそ、温かかった。


あかりが笑った。


「牛も守れたしな」


澪香。


「牧場の人たちも」


澄香。


「ブランドの信用も」


麻衣。


「それなら、よかった」


玲奈は少し離れた席から、その様子を眺めていた。


現場では戦う。


任務が終われば笑う。


失敗を反省することもある。


偶然の邪魔に頭を抱えることもある。


それでも最後には、守った日常をこうして普通のテレビ番組として見る。


NSTにとって、それ以上の結果はなかった。


画面のさつきが満面の笑顔で手を振る。


『以上、三田の牧場から三好さつきがお伝えしました!』


番組が終わる。


彩香がリモコンを置いた。


「まあ……今回は許したるか」


麻衣が尋ねる。


「さつきさんを?」


「そう」


あかり。


「本人、何も悪いことしてへんに」


「分かっとるわ」


澪香。


「取材に来ただけです」


「分かっとる!」


澄香。


「むしろ牧場の宣伝にはなってます」


「せやから分かっとる言うてるやろ!」


あかりが笑う。


「彩香さん、さつきさんに振り回されすぎやに」


「誰のせいやと思っとんねん!」


麻衣が静かに答える。


「今回は偶然です」


彩香が玲奈を見る。


「玲奈さんまでそう言うんです」


玲奈は微笑んだ。


「事実ですから」


分室に柔らかな笑いが広がった。


三田の牧場では、今日も牛たちが静かに餌を食べているだろう。


黒鷹が偽造した番号は暴かれた。


盗まれた履歴は取り戻された。


牧場の信用も守られた。


牛は、自分の耳標番号を知らない。


ブランド名も知らない。


値段も知らない。


けれど――


誰が毎日優しく声をかけたか。


誰が乱暴に近づいたか。


誰が自分の鼻先を笑いながら撫でてくれたか。


そういうことなら、人間が思うよりずっとよく覚えているのかもしれない。


少なくとも一頭だけは。


偽物の履歴に惑わされることなく――


四日市から来た、やたら人懐っこい娘を。


最後まで間違えなかった。

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