白鷺は、黒い荷を許さない ――姫路城・白壁密輸ルートを潰せ
白い城には、影がよく似合う。
白が白ければ白いほど、その裏側へ潜む黒は濃くなる。
兵庫県姫路市。
城下町の向こうに、白亜の大天守が浮かんでいた。
幾重にも重なる屋根。
青空を切り取る千鳥破風。
白漆喰総塗籠の城壁。
見る角度によっては、一羽の白鷺が巨大な翼を広げ、今にも空へ舞い上がろうとしているようにも見える。
日本の城郭建築を代表する名城。
戦火や時代の荒波をくぐり抜け、長い歳月を越えて姿を残した奇跡の城。
遠くから眺めれば優美だった。
だが、城内へ足を踏み入れれば、その印象は変わる。
道は曲がる。
坂は上る。
門は幾重にも重なる。
石垣は高く、通路は狭い。
敵を迷わせ、止め、削り、中心へ容易に近づけさせない。
美しさの内側へ、戦うための合理性が隠されている。
白鷺の姿をした巨大な防御装置。
それが、この城のもう一つの顔だった。
だからこそ黒鷹は考えた。
――これほど隠し場所に向いた建物はない、と。
観光客は白壁を見る。
歴史好きは梁を見る。
建築家は構造を見る。
だが、その壁の向こう側まで見る人間は、普通はいない。
そこに黒鷹は荷物を隠した。
ただ一つ。
計算違いがあった。
その日、城へ――
壁の向こうまで見える農家の娘が、慰安旅行に来ていた。
ヒロ室西日本分室。
岡本玲奈は、机へ数枚の搬入記録を並べた。
「三か月前から、姫路城の保全関連資材に不自然な動きがあります」
西川彩香が書類をめくる。
漆喰補修材。
木材。
保護板。
工具。
展示関連資材。
どれも、それ単体なら怪しいところはない。
だが、搬入重量と搬出重量が一致していなかった。
「差は?」
「一回あたり数キロから二十キロ程度です」
「少ないな」
「ええ。だから見過ごされていました」
玲奈が別の資料を置く。
盗難美術品。
違法取引された小型の文化財。
国外犯罪組織との通信記録。
そして暗号化された記憶媒体。
「黒鷹は修復資材へこれらを紛れ込ませています」
彩香の眉が寄った。
「城を倉庫代わりにしとるんですか」
「正確には、中継地点です」
正規業者へ潜入させた工作員が、資材と一緒に密輸品を搬入。
一般非公開の保守区画へ一時的に隠す。
数日後。
今度は廃材や交換部材へ紛れ込ませ、別の車両で運び出す。
強固な警備。
文化財としての厳重な管理。
黒鷹は、それさえ防壁として利用していた。
「警備が厳しい場所やからこそ、まさか中に犯罪品を置くとは思わへん」
彩香が低く言った。
「そういうことです」
「舐めた真似してくれますね」
姫路は彩香の地元だった。
怒りを表へ出してはいない。
だが玲奈には分かる。
播州の烈火。
火はもう点いている。
ただ、今回その火を直接現場へ持ち込むつもりはなかった。
玲奈は訊いた。
「潜入要員は?」
彩香は迷わない。
「麻衣とあかりでいきます」
玲奈の目元が僅かに緩んだ。
「私も同じです」
白浜麻衣。
山本あかり。
一年前なら、この任務を二人だけへ任せる判断はしなかったかもしれない。
今は違う。
麻衣は経験を重ねた。
小柄で、静かで、目立たない。
それでも現場へ入れば、誰よりも早く違和感を拾う。
人の目。
足音。
動線。
出口。
狭い空間で何が起こるかを直感的に把握する。
紀州の舞姫。
一方のあかりは――
彩香が一瞬黙る。
玲奈が訊いた。
「どうしました?」
「あかりも成長しました」
「ええ」
「かなり」
「はい」
「……多分」
玲奈が顔を上げる。
「多分?」
「戦闘と現場判断は頼りになります」
「では問題ありません」
「知らんおっちゃんと五分で友達にならんかったら」
「そこですか」
「そこです」
玲奈の口元に薄い笑みが浮かぶ。
あかりは人がいい。
人が良すぎる。
潜入先で警戒対象へ話しかけられても、気がつけば世間話を始めていることがある。
それでも。
ここ一番の突破力は誰よりも信頼できた。
四日市の突貫娘。
壁があれば、開く場所を探すのではない。
時として、壁そのものを前進させる。
玲奈は二人を呼んだ。
「今回は、あなたたちが中心です」
麻衣が頷く。
「はい」
あかりが胸を張る。
「任せてくださいやに!」
彩香がすぐ言う。
「観光客と仲良うなりすぎんといて」
あかりが顔をしかめる。
「まだ何もしてないやに」
「先に言うとかんと不安なんや」
「信用ないなあ」
麻衣が隣で小さく笑った。
玲奈は二人を見た。
若かった。
まだ未熟な部分もある。
だが、もう庇護されるだけの側ではない。
背中を任せられる。
玲奈には、それが少し嬉しかった。
翌朝。
麻衣とあかりは文化財保全会社の臨時作業員を装い、姫路城へ入った。
観光客が門をくぐっていく。
外国人旅行者。
修学旅行生。
高齢者の団体。
親子連れ。
多くの人が大天守を見上げ、スマートフォンを向けている。
その流れとは別に、二人は保守作業用の区画へ入る。
麻衣は資材管理。
あかりは搬送補助。
「これ、どこ持っていったらええやに?」
あかりが木箱を持ち上げる。
ベテラン作業員が驚いた。
「姉ちゃん、それ重いやろ」
「そうでもないやに」
「二人で持つやつやぞ」
「もう持ってしもたに」
そのまま歩く。
「元気やなあ……」
「農作業よりは軽いに」
「農家なん?」
「ちゃいます」
「ほな何やねん」
あかりは一瞬固まる。
潜入中だった。
「……趣味で重いもん持つんが好きなんやに」
ベテラン作業員が何とも言えない顔になる。
離れた場所から麻衣が見ていた。
あかりは視線に気づく。
「何?」
麻衣が小声で言う。
「その設定、後で説明できる?」
「無理やに」
「だと思った」
それでも仕事ぶりは良かった。
資材。
保護シート。
木材。
工具箱。
あかりは嫌な顔一つせず運ぶ。
麻衣も黙々と管理を続ける。
二人は働きながら観察していた。
保守区画の鍵。
作業員の顔。
資材番号。
搬入日。
通常なら人が近づかない場所。
そして――
一つの資材棚。
古い白壁の前。
そこだけ、妙に新しい。
棚そのものではない。
周囲の人間の動きが不自然だった。
一人の作業員が、何度も同じ場所を確認している。
麻衣は箱を整理するふりをして近づいた。
壁。
何の変哲もない。
白漆喰。
目立った継ぎ目もない。
図面を思い出す。
壁の向こうに空間はない。
それでも。
麻衣の直感が告げていた。
ここに何かある。
無線へ小さく話す。
「彩香さん」
『どうした?』
「怪しい場所があります」
『確認できる?』
麻衣は壁を見る。
「無理です」
文化財だ。
叩くことすら憚られる。
穴を開けるなど論外。
『他の手掛かり探そ』
玲奈の声も入る。
『無理に進めないでください。時間はあります』
「はい」
麻衣は離れた。
黒鷹は上手かった。
見つけても、確認させない。
文化財という絶対に傷つけられない盾を使っている。
その時だった。
観光客の通路から。
妙に聞き覚えのある、通りの良い声が響いた。
「部長ぉ! そっちゃ行ったら違ぇっぺよ! 天守こっちだっつってっぺ!」
麻衣が止まった。
振り返る。
十人ほどの団体客。
四十代。
五十代。
一部六十歳近くに見える男たち。
揃いの旅行バッグ。
地元農協の慰安旅行らしい。
その中に、一人だけ明らかに年代の違う女性がいた。
山口唯奈。
麻衣は二度見した。
茨城県常陸太田市の農家。
魔法少女。
戦隊ヒロイン。
そして――
農協青年部所属。
ただし、その青年部は平均年齢約四十三歳。
唯奈の次に若い人間が三十代後半。
名称だけ聞けば若者の集団だが、実態はかなり味わい深かった。
青年部長がパンフレットを逆さに持っている。
唯奈が言う。
「部長、それ逆さまだっぺよ!」
部長が目を細める。
「んなことねえっぺ。こっから見りゃちゃんと……ああ、逆さまだなや」
別の部員が笑う。
「おめぇ朝から飲んでっからだっぺよ!」
「バスん中で缶一本しかやってねえべ!」
「一本たって五百だっぺ!」
「旅行なんだからしゃあんめ!」
別の四十代の男が天守を見上げる。
「いやあ、でっけえなや。こら常陸太田に持って帰れめえな」
唯奈が即座に返す。
「持って帰ってどうすんだっぺ!」
「畑の見張り台にすっぺ」
「贅沢すぎっぺよ!」
一同が笑う。
麻衣は唯奈をじっと見た。
透視能力。
白壁。
密輸品。
そして唯奈。
麻衣の中で三つが一直線につながった。
迷いはなかった。
唯奈へ近づく。
「唯奈」
唯奈が振り返る。
「ん?」
目を丸くした。
「……麻衣? 何してんだおめぇ、こんなとこで」
「唯奈、ちょっと手伝って」
「へ?」
麻衣が腕をつかむ。
「こっち」
「待で待で待で待で!」
麻衣は歩き出す。
唯奈も引っ張られる。
「おめぇ何すんだっぺ! うち今から天守上がんだど!」
「すぐ終わる」
「出た! そういう奴の“すぐ”は絶対すぐじゃねえんだっぺ!」
青年部長が気づく。
「おーい唯奈ぁ! そっちのちっけぇ姉ちゃん誰だっぺ?」
唯奈は振り返る。
「知り合いだっぺ! けど今は知らねえ奴ってことにしてくんちょ!」
部長が首を傾げる。
「なんだぁ? 若ぇ衆同士で積もる話でもあんのけ?」
唯奈。
「ねえっつってんだっぺよ!」
別の部員。
「唯奈ぁ、集合時間までには戻ってこいよぉ! おめぇいねえと部長また迷子んなっちまうべ!」
部長。
「なんで俺なんだっぺ!」
「朝サービスエリアで置いてかれそうんなったのおめぇだっぺ!」
「便所長かっただけだっぺよ!」
麻衣は丁寧に頭を下げた。
「少しだけお借りします」
青年部長は笑顔で手を振った。
「おう、好きに使ってくんちょ!」
唯奈が絶叫する。
「農機具みてえに貸し出すんじゃねえっぺよ!」
麻衣はそのまま連れていった。
唯奈の姫路城観光は、そこで突然中断された。
人目の少ない保守区画。
唯奈はようやく腕を振りほどいた。
「何なんだっぺよ!」
「ごめん」
「謝るの早えな!」
麻衣は例の白壁を指す。
「この向こう見て」
唯奈が黙る。
「……何?」
「透視して」
「は?」
「お願い」
唯奈は麻衣を見る。
壁を見る。
もう一度麻衣を見る。
「うちを天守の列から引っぺがして、やらせることが壁ん中見ることけ?」
「うん」
「横暴にも程があっぺ!」
「急いでるの」
「うちは慰安旅行中だっぺよ!」
「分かってる」
「分かってて拉致ったんけ!」
「拉致じゃない」
「十分拉致だっぺ!」
麻衣は真顔だった。
唯奈はしばらく睨んでいた。
だが。
何度か麻衣と戦闘任務を共にしている。
小柄で大人しく見える麻衣が、意味もなく他人を振り回す人間ではないことを知っていた。
唯奈が息を吐く。
「……何かあんだな?」
麻衣は頷く。
「犯罪に使われてる可能性がある。でも壁を傷つけられない」
唯奈の表情から、不満が少し消えた。
「そういうこと先に言えっぺよ」
「言う時間なかった」
「腕つかむ時間はあったべ!」
それでも唯奈は壁へ向き直った。
「しゃあんめ」
目を閉じる。
意識を集中させる。
空気が変わる。
唯奈の視線が、目の前の白漆喰を越えていく。
表面。
下地。
木組み。
構造材。
その向こう。
本来なら何もないはずの場所。
唯奈の眉が動いた。
「……あっぺ」
麻衣の顔が変わる。
「何が?」
「変な隙間」
「どのくらい?」
「でっけえ人は入れねえ。箱なら入っぺ」
「箱はいくつ?」
「三つ」
唯奈がさらに集中する。
「一個は金属だなや。あと、布みてえなのでぐるぐる巻きにしてある何か……」
麻衣が無線を取る。
「彩香さん」
『うん』
「当たりです」
麻衣が位置を伝える。
玲奈の声。
『唯奈さんが見ているのですか?』
「はい」
唯奈が横から割り込む。
「本人の許可なしで使ってっけどな!」
玲奈が一瞬黙った。
『……ご協力ありがとうございます』
「室長っぽい人は話分かりそうだっぺ!」
麻衣は別の方向を指す。
「唯奈、もう一か所」
「増えた!」
「お願い」
「その“お願い”便利すぎっぺよ!」
透視。
唯奈が壁の向こうを探る。
突然表情が変わった。
「待で」
「何?」
「人いっぺ」
麻衣の目が細くなる。
「何人?」
「二人……いや、奥にもう一人。三人だっぺ」
「武器は?」
「そこまでは……あ、何か長ぇの持ってんなや」
麻衣が即座に報告する。
第三地点。
唯奈は完全に仕事へ巻き込まれていた。
「こっちは?」
「通路みてえになってっぺ。裏へ抜けられっかもしんねえ」
その一言が決定打になった。
黒鷹の密輸品。
待機要員。
逃走経路。
三つが繋がった。
玲奈が静かに命じた。
『麻衣、あかり。動いてください』
麻衣が唯奈を見る。
「ありがとう」
唯奈が腕を組む。
「ほんじゃ戻る!」
「危ないから、ここで待ってて」
「まだ拘束すんのけ!」
「お願い」
「お願い禁止だっぺ!」
だが、もう遅い。
麻衣は走り出していた。
「麻衣ぃぃ! 後で覚えてろよぉ!」
黒鷹も動いた。
自分たちの隠し場所が割れたと判断した工作員が、金属ケースの搬出を始める。
一般観光客が歩く表側とは隔絶された、保守用通路。
古い木材。
白壁。
低い天井。
急な階段。
蛍光灯の白い光。
そこに、重い足音が響いた。
麻衣が角を曲がる。
前方。
黒鷹の工作員。
男が振り向いた。
「止まれ」
麻衣は止まらない。
男が金属棒を抜く。
振り上げる。
一撃。
麻衣の身体が消えた。
――ように、男には見えた。
実際には半歩だけずれただけだった。
棒が空を切る。
麻衣は懐へ滑り込む。
手首を取る。
肘を支える。
肩を押す。
男が力を入れれば入れるほど、その力は別方向へ逃げていく。
次の瞬間。
膝が床へ落ちた。
麻衣は棒を奪う。
壁へ当てない。
床へ落とさない。
音を最小限にする。
背後。
二人目。
麻衣は振り返らず、前へ二歩。
古い柱を回り込む。
男も追う。
そこに麻衣はいない。
背後。
足払い。
男の身体が傾く。
麻衣が襟を支え、壁へ激突する直前で軌道を変える。
床へ伏せる。
白壁には触れさせない。
文化財を守りながら戦う。
それが今回の条件だった。
紀州の舞姫。
舞うとは、派手に跳ぶことではない。
空間を知ることだ。
半歩。
一歩。
柱一本。
階段一段。
相手と壁の間に生まれる僅かな隙間。
それを読む。
麻衣にとって狭い城内は、敵の数よりも頼もしい味方だった。
だが。
通路の先から三人。
一人が叫ぶ。
「そいつを止めろ!」
麻衣が身構える。
その時。
後方から、車輪の轟音が聞こえた。
「麻衣ぃ! どくやにぃ!」
麻衣が横へ跳ぶ。
大型の資材台車。
押しているのはあかり。
猛烈な勢い。
「うおおおおおおっ!」
三人の工作員が目を剥く。
「何だあいつ!」
「止まらねえ!」
「止まる気ないやに!」
あかりは台車を男たちの直前で横へ振った。
工作員が散る。
一人の足元へ車輪が入り、態勢が崩れる。
あかりは台車から手を放す。
そのまま正面へ。
肩。
一撃。
男が資材棚へ押し込まれる。
ただし棚を倒すほどの力は入れない。
ぎりぎりのところで止める。
二人目が殴りかかる。
あかりは腕で受ける。
「痛いやに!」
言いながら手首をつかむ。
腰を落とす。
投げる。
男が保護シートの上へ転がった。
「文化財ん中で好き勝手すんなやに!」
三人目が背後から迫る。
麻衣の声。
「あかり、右!」
あかりがしゃがむ。
頭上を拳が通過。
その腕を麻衣が取る。
身体を回転。
相手の進路を変える。
そこへあかり。
「もろたやに!」
掌底が胸元へ入る。
男が後ろへ下がる。
麻衣が足を払う。
床へ。
四日市の突貫娘。
麻衣とは真逆だった。
麻衣が敵の力を逃がすなら。
あかりは敵ごと押し返す。
麻衣が狭い隙間を縫うなら。
あかりは正面の道をこじ開ける。
曲線と直線。
静と動。
紀州の舞姫。
四日市の突貫娘。
二人が並ぶ。
麻衣が短く言う。
「まだ来る」
「何人?」
「三人」
あかりが拳を握る。
「ほな三人片づけるやに」
「私は?」
「麻衣は後ろの人お願い」
「三人全部取る気?」
「勢いついたから」
「分かった」
麻衣は止めなかった。
あかりらしい。
そして、今のあかりならできる。
工作員が駆け込んでくる。
一人。
二人。
三人。
あかりは逃げない。
一歩前へ。
一人目の腕を外す。
二人目の身体へ押しつける。
二人がぶつかる。
三人目が横へ回る。
麻衣がそこへ入る。
手首。
肩。
回転。
男の向きが百八十度変わる。
「あかり」
「はい!」
麻衣が押す。
男があかり側へよろめく。
あかりが受け止め――
そのまま他の二人へ押し返す。
三人が崩れる。
「あかり」
「何?」
「今の、かなり雑」
「勝ったからええやに」
麻衣がほんの少し笑った。
確かに。
頼もしくなった。
だが、黒鷹の指揮役が金属ケースを持って逃げた。
玲奈の無線。
『一名が東側通路へ移動しています』
麻衣が走る。
だが城内は複雑だった。
何度も折れる通路。
階段。
上下差。
図面だけでは追いつけない。
麻衣は止まった。
そして。
「唯奈」
安全区画の唯奈。
『何だっぺよ!』
「もう一回お願い」
『ふざけんな!』
「逃げた人を見て」
『うちまだ天守見てねえんだっぺよ!』
「これで最後」
『おめぇの“最後”一回も最後じゃねえべ!』
「お願い」
『ああもう!』
唯奈は文句を吐きながらも、目を閉じた。
壁の向こう。
階段。
逃げる男。
「……右!」
麻衣が走り出す。
『右の階段降りてっぺ! その先で二人と落ち合う気だど! あ、そのまま左行く! 左だっぺ!』
「ありがとう!」
『待で!』
返事なし。
『麻衣ぃぃぃ! 人使い荒すぎっぺよぉぉ!』
麻衣は右階段へ。
あかりは反対側から回る。
唯奈の透視が、黒鷹だけが知っている逃走路を完全に暴いた。
指揮役が角を曲がる。
前。
麻衣。
男が止まる。
振り返る。
後ろ。
あかり。
「何で先回りしてる!」
あかりが答える。
「すごい農家がおったんやに!」
麻衣が即座に言う。
「説明しなくていい」
男は金属ケースを抱え、麻衣へ突っ込む。
麻衣が半歩外す。
腕を取る。
男が強引に振りほどく。
だがケースが浮く。
あかりが飛び込む。
「もらったやに!」
ケース確保。
別の工作員が奪いに来る。
あかりはケースを胸へ抱く。
一歩。
二歩。
逆に前進する。
「どっちが逃げる方なんか分からんやに!」
肩からぶつかる。
男が後退。
麻衣は指揮役へ。
拳。
かわす。
蹴り。
避ける。
壁へ触れさせないよう、男と文化財の間へ自分が入る。
相手の重心が前へ出る。
麻衣が腰を落とす。
腕を流す。
男が床へ沈んだ。
膝で肩を固定。
終わり。
県警部隊が到着する。
残る工作員も確保。
金属ケースを開く。
暗号化記憶媒体。
黒鷹の国内協力者名簿。
盗難美術品。
密輸ルートの送金記録。
すべて揃っていた。
玲奈の声が無線へ静かに落ちた。
『任務完了です』
白壁には傷一つない。
観光客にも被害なし。
そして。
黒鷹が最後まで隠し通せると信じていた壁の向こう側を暴いた最大の功労者は――
本来なら農協青年部の慰安旅行で天守を見ているはずだった、常陸太田の農家の娘だった。
唯奈は腕を組んで待っていた。
麻衣が戻る。
「終わったよ」
唯奈は疑い深く見る。
「ほんとか?」
「本当」
「もう右見ろとか壁見ろとか言わねえ?」
「言わない」
「天井は?」
「見なくていい」
「床下は?」
「見なくていい」
唯奈が大きく息を吐いた。
「よし!」
顔が明るくなる。
「ほんじゃ天守行くべ! いやぁ長かったなや! こっからが旅行本番だっぺ!」
麻衣が黙る。
唯奈が止まる。
「……なんだ?」
麻衣は時計を見る。
唯奈の顔から笑顔が消え始める。
遠くから声。
「唯奈ぁぁ!」
農協青年部の一行が歩いてくる。
部長が手を振る。
「どこさ行ってたんだっぺ! もう集合だぞぉ!」
唯奈。
「……集合?」
部員A。
「いやぁ天守すんげえがったなぁ!」
部員B。
「上から姫路の街ぃ丸見えだっぺよ!」
部員C。
「階段急で腰やっちまうかと思ったけどなや!」
部長。
「おめぇら日頃から運動足んねえんだっぺ!」
部員C。
「おめぇ途中で息切れしてたっぺ!」
部長。
「ありゃ景色に感動して息止まったんだ!」
「嘘こげ!」
全員が笑う。
唯奈だけ笑わない。
「……みんな」
「ん?」
「天守、見たのけ?」
「見たど」
「最上階まで?」
「行った行った」
「写真も?」
部長がスマートフォンを見せる。
「ほれ! こったにええ写真撮れたっぺ!」
唯奈の顔が完全に無になった。
麻衣が小さく言う。
「唯奈」
「……何」
「ごめん」
「うちさ」
「うん」
「この大天守見るの楽しみにして、常陸太田から来たんだど」
「うん」
「今日見たもん、白壁の断面と黒鷹のおっちゃんばっかだっぺ」
「……ごめん」
青年部長が悪気なく言った。
「まあしゃあんめ! また来りゃいいっぺよ!」
唯奈が振り返った。
「茨城から姫路まで近所の農協みてえに言うんじゃねえっぺ!」
「新幹線乗りゃ着くべ」
「その前に常陸太田から東京出んのが長ぇんだっぺよ!」
部員。
「唯奈、バス行っちまうど!」
「誰のせいでギリギリなんだっぺ!」
唯奈が麻衣を睨む。
麻衣はもう一度頭を下げた。
本当に申し訳なかった。
その時の唯奈は、何も言わなかった。
だから麻衣は思った。
怒っている。
かなり。
数日後。
その予想が正しかったことが証明された。
麻衣のSNS。
通知、一件。
送信者――山口唯奈。
本文。
異様に長い。
麻衣は嫌な予感を抱きながら開いた。
「麻衣ぃぃぃぃ! おめぇこないだは何してくれたんだっぺよ! うちぁ常陸太田から青年部の慰安旅行で兵庫までえっちらおっちら行ったんだど! 朝もはよから集合して、部長が五分遅れてきて、途中のサービスエリアじゃ副部長が土産見すぎて置いてかれそうんなって、やっとこさ白鷺の城さ着いて『さあ天守上がっぺ!』っつった瞬間におめぇが現れて、腕ひっつかんで持ってっちまって、壁見ろだの人見ろだの右だ左だのって、うちぁ農協青年部の慰安旅行客だっぺ! NSTの臨時透視係じゃねえっぺよ! おめぇら任務終わって『成功です』でえがったかもしんねえけど、うちの観光は大失敗だっぺよ!」
麻衣が止まる。
続きを読む。
「部長は『天守から見た景色は一生もんだなや』とか言ってっし、副部長は『白壁きれいだったっぺ』とか言って写真二百枚ぐれえ撮ってっし、三班長なんか『姫路城の階段上ったら膝に効いだ』とか謎に満足してんだど! うちだけ壁ん向こう側ばっか見て、普通の観光客が一生見ねえもんだけ詳しくなっちまったべ! 青年部のみんなが『唯奈も写真見るけ?』っつって見せてくっけど、見りゃ見るほど腹立ってしゃあんめ!」
さらに続く。
「しかも麻衣、おめぇ途中で何回『これで最後』っつった? 最後が三回来たっぺよ! 最後ってのは普通一回だっぺ! 農薬撒くのに『これ最後の畑だ』っつってあと三反出てきたら暴動起きっぺよ! 今度また慰安旅行中にひっぺがしたら、うちも考えあっかんな! 蒼牙2000・改で和歌山まで乗りつけてみかん畑の真ん中で抗議集会開ぐど! 分がったけ! このごじゃっぺ!」
麻衣はスマートフォンを見つめた。
一分。
二分。
あかりがやってくる。
「どうしたん?」
麻衣が画面を見せる。
あかりが読む。
三十秒。
「……何て書いてあるん?」
「私も半分くらいしか分からない」
「怒っとる?」
「ものすごく」
「蒼牙2000・改って出てるに」
「そこは分かる」
「和歌山まで来るん?」
「多分、抗議しに」
「トラクターで?」
「多分」
二人で黙る。
あかりが言う。
「何日かかるんやろ」
「そこじゃないと思う」
麻衣はスマートフォンを伏せた。
唯奈には、本当に世話になった。
透視がなければ隠匿場所を特定できなかった。
逃走経路も読めなかった。
黒鷹の指揮役を取り逃がしていた可能性も高い。
任務成功の大きな力。
いや。
最大の決め手と言ってもいい。
その唯奈が楽しみにしていた天守を、自分が見られなくした。
麻衣は心優しい。
悪気がなかったから終わり、とは考えなかった。
その日の夜。
和歌山の実家へ電話する。
「お母さん」
『何?』
「みかん、十キロ送れる?」
『ええけど。どこへ?』
「茨城」
『誰?』
「農家の友達」
『何かあったん?』
麻衣は一瞬迷った。
「姫路城を見られなくした」
電話の向こうが静かになる。
『……あんた、何したん』
「ちょっと任務を手伝ってもらった」
『“ちょっと”で城見られへんようになる?』
「……ならないと思う」
『十キロで足りる?』
麻衣は考えた。
「多分」
数日後。
茨城県常陸太田市。
山口家へ、和歌山から大きな段ボール箱が届いた。
採れたてのみかん。
十キロ。
麻衣の家族が、形と味の良いものを選んで詰めた。
唯奈一家だけでは多い。
近所へ配る。
農協青年部へも配る。
そして数日後。
麻衣のSNSに再び通知。
送信者。
山口唯奈。
麻衣は一瞬身構えた。
今度は写真が大量に添付されている。
みかん。
唯奈。
家族。
近所のおばちゃん。
農協青年部。
そして最後。
農機具倉庫に鎮座するドリームトラクター――
蒼牙2000・改。
本文。
「麻衣ぃ! みかん届いだどぉ! 何だこれ、でれえ甘えじゃねえか! 一個むいで食ったら汁ぶわって出てきて手ぇべったべたんなったけど、そんなんどうでもよぐなるぐれえうめえっぺよ! 母ちゃんが『こりゃ糖度たけえなや』っつって二つ食って、父ちゃんが『和歌山やるなぁ』っつって三つ食って、ばあちゃんが黙って四つ持ってったっぺ! 家族ん中でばあちゃんが一番強欲だったべ!」
麻衣の表情が少し緩む。
さらに読む。
「十キロもあっから近所さ配ったんだわ。そしたら向こう三軒両隣どころか、どっから嗅ぎつけたんだか農協青年部まで来やがって、部長が『一個だけ味見すっぺ』っつって三個食って、副部長が『これは糖度測った方がいいべ』っつって糖度計持ってきて、本気で計り始めやがった! 何で慰安旅行より仕事熱心なんだっぺ! みんな『甘え!』『うめえ!』『皮薄くて食いやしい!』っつって大絶賛だど! おめぇんち、たいしたみかん作ってんな!」
麻衣。
「……これは分かる」
あかりが覗く。
「めっちゃ褒めとるやに」
「うん」
その先。
「城見らんなかった件はな、まあ、みかん十キロ分ぐれえは許してやっぺ。全部許したとは言ってねえがんな! 次は普通に天守見せろよ!」
麻衣が小さく笑う。
「半分くらい許してくれたみたい」
あかり。
「よかったな」
まだ続いていた。
「ただな、問題が一個あっぺ。蒼牙2000・改だけ食えねえんだわ!」
麻衣が止まる。
あかりも止まる。
続きを読む。
「うちらが倉庫ん前でみかん食ってたら、蒼牙の奴ぁずーっとこっち見てっぺよ! 何だその目はっつってもエンジンかかってねえから何も言わねえけど、『何で俺にはねえんだ』みてえなツラしてんだっぺ! しゃあんめから一個ボンネットの上へ置いて写真撮ってやったら、余計ふてくされたみてえに見えっぺよ! あいつ軽油しか飲めねえくせに、食い意地だけ一丁前だがんな!」
あかりが写真を見る。
青い大型トラクター。
ボンネットの上にみかんが一個。
無表情な機械。
なのに。
妙に不満そうに見える。
あかりが言った。
「ほんまにちょっと怒っとるように見えるに」
麻衣。
「機械だよ」
「でも唯奈の相棒やろ?」
「うん」
「ほな怒ることもあるんちゃう?」
「ないと思う」
さらに本文。
「今度送ってくれる時ぁ、蒼牙2000・改でも食えるみかん作ってくんちょ! 軽油味とかいらねえがんな! まあそんなもん作ったら麻衣んちの農園終わっちまうからやめとけ! ありがとな! うちの父ちゃんらが『和歌山の畑見てえな』っつってるし、青年部の連中まで『次の慰安旅行は紀州だっぺ』とか言い始めてっから、今度そっち行くかもしんねえど! ただし今度は仕事持ってくんなよ! 絶対だぞ! 絶対だからな! “ちょっと手伝って”禁止だっぺ!」
麻衣は読み終える。
「……後半は半分くらいしか分からなかった」
あかりが言う。
「でも、ありがとうは分かったに」
「うん」
「蒼牙2000・改がみかん食べたいのも」
「そこは本当に合ってるのかな」
二人はスマートフォンの写真を見る。
唯奈。
家族。
近所の人。
農協青年部。
みんな笑っている。
麻衣もようやく、安心して笑った。
後日。
ヒロ室西日本分室。
玲奈が事件報告書を閉じる。
「黒鷹の密輸ルートは完全に断たれました。盗難品は返還手続きへ。記憶媒体からは新しい国内協力者も複数判明しています」
彩香が頷く。
「麻衣、あかり。ようやった」
あかりが胸を張る。
「ありがとうございますやに!」
麻衣は静かに頭を下げる。
玲奈は続ける。
「そして今回、山口唯奈さんの透視がなければ、成功は難しかったでしょう」
「はい」
麻衣は素直に答える。
「すごく助けられました」
彩香が苦笑した。
「それで、その功労者から抗議文来たんやろ?」
「はい」
「何て?」
「半分分かりませんでした」
「ほな何が分かったん?」
麻衣は少し考える。
「姫路城を見られなかったことに、とても怒っていること」
「それは分かるわ」
「あとは、蒼牙2000・改で和歌山へ抗議に来るかもしれないこと」
彩香の表情が止まる。
「トラクターで?」
「多分」
あかりが言う。
「何日かかるんやろ」
彩香が即座に返す。
「そこ気にするとこちゃう!」
玲奈の口元が緩む。
彩香は麻衣を見る。
「麻衣」
「はい」
「次から、知り合いを観光旅行の列から勝手に拉致する時は」
玲奈が訂正する。
「拉致はしないでください」
「……ほな、協力を頼む時は、本人の予定もちょっと考えたって」
「はい」
麻衣は少し申し訳なさそうに頷いた。
あかりが言う。
「でも唯奈おらんかったら、任務終わらんかったやに」
「それは事実や」
彩香も認める。
玲奈が静かに言う。
「非常に大きな功績です」
麻衣は頷く。
「今度会ったら、ちゃんとお礼します」
「姫路城も案内したって」
「はい」
「仕事抜きでな」
「はい」
あかりが笑う。
「麻衣、また途中で『唯奈、ちょっと』って言いそうやに」
麻衣が珍しく強く否定する。
「言わない」
その時。
スマートフォンが鳴った。
唯奈。
新着メッセージ。
麻衣が開く。
「麻衣ぃ! 青年部の連中が今度ほんとに和歌山行く気になってっぺよ! 部長なんか『みかん狩りすっぺ』っつって新しい長靴買ってきやがった! 気ぃ早えんだよ! 今度こそ仕事なしだがんな! 観光! みかん! 飯! それだけだっぺ! もしまた『唯奈、ちょっと』っつったら、その瞬間蒼牙2000・改呼ぶがんな!」
麻衣は画面を見た。
あかり。
「何て?」
麻衣。
「……和歌山に来るって」
「それ以外は?」
「仕事は頼むなって」
「蒼牙は?」
「呼ぶらしい」
彩香が即答した。
「絶対、仕事頼まんといて」
玲奈がとうとう小さく笑った。
白鷺の城は、今日も姫路の空の下に立っている。
観光客は白壁を見上げる。
大天守へ上る。
写真を撮る。
その裏側で何が起きたかは誰も知らない。
紀州の舞姫が舞ったことも。
四日市の突貫娘が真正面から敵陣を割ったことも。
常陸太田から慰安旅行へ来ただけの農家の娘が、白壁を透かして黒鷹の秘密を見抜いたことも。
白い城は何も語らない。
だが、その日。
黒鷹が最も恐れるべきだったのは警察でも、警備設備でもなかった。
壁の向こうが見える農家と。
狭い通路を舞う農家と。
細かいことを考える前に突っ込んでくる四日市の娘。
その三人だった。
そして常陸太田では今日も――
蒼牙2000・改だけが、みかんを一個も食べられないまま畑を走っている。




