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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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390/404

渦潮の向こうへ黒鷹は消えた ――大鳴門橋、県境一メートルの敗北

海には、県境が見えない。


鳴門海峡を満たす濃い青の海にも。


潮がぶつかり合い、白い飛沫を上げながら回転する巨大な渦にも。


兵庫と徳島を結び、海峡の上へ優雅な弧を描く大橋にも。


「ここから先は別の県だ」と知らせる線など、どこにも引かれていなかった。


魚は知らない。


海鳥も知らない。


潮の流れにいたっては、人間が地図へ描いた境界線など嘲笑うように、兵庫から徳島へ、徳島から兵庫へと好き勝手に流れていく。


だが――


西日本特別諜報班、通称NSTにとって。


その見えない一本の線は、コンクリートの壁より厚かった。


兵庫県警察の特命によって動く、影の実働部隊。


活動範囲は兵庫県内に限定されている。


一歩でも県境を越えれば、任務権限は失われる。


目の前に犯罪者がいても。


手を伸ばせば届く距離にいても。


向こう側が徳島県ならば、NSTはそこで止まらなければならない。


黒鷹は、それを知っていた。


だから奴らは――


逃げ道を海の上に選んだ。


淡路島最南端。


南あわじ市。


西には播磨灘。


東には紀伊水道。


そして南には、鳴門海峡。


海と大地が極端なほど近い土地だった。


少し内陸へ入れば、整然と広がる畑。


そこで育つ玉ねぎは甘く、加熱すればさらに旨味を増す。


港へ出れば、鯛、ハモ、三年とらふぐ。


豊かな潮流が育てた海産物が水揚げされる。


酪農も畜産も盛んだった。


島の中だけで、一つの食卓が完成する。


福良港へ行けば観潮船が出る。


観光客は歓声を上げながら鳴門海峡へ向かい、大きく巻く渦を写真へ収める。


さらにその頭上には、大鳴門橋。


巨大な主塔。


海面へ伸びるケーブル。


橋の先は四国。


観光の道。


物流の道。


生活の道。


そして――


犯罪者にとっては、逃走路にもなる。


事件の始まりは、一枚の不自然な納品書だった。


南あわじ市内に本社を置く中堅食品流通会社。


島内の農家、漁業者、加工会社から商品を集め、阪神地区や四国、さらに海外へも送り出している。


地元では信用のある会社だった。


だが、その帳簿には妙な数字が並んでいた。


存在しない農家から、大量の玉ねぎを仕入れたことになっている。


その日に水揚げされていない魚へ、輸送費が計上されている。


海外へ輸出したとされる冷凍食品が、実際には倉庫から出ていない。


一箱数千円の商品が、帳簿上では数十万円。


逆に、一度に動かせば目立つ高額取引は、細かく分割されていた。


資金洗浄。


黒鷹は、淡路島ブランドの信用を洗濯機代わりに使っていた。


犯罪で稼いだ黒い金を、玉ねぎや魚介の取引へ紛れ込ませる。


食品会社。


運送会社。


輸出業者。


複数の口座を経由させる。


最後には、立派な売上金へ姿を変える。


利用された農家や漁業者は、自分たちの名前が使われていることすら知らない。


その不正へ気づいた経理担当者がいた。


男は数年分の裏帳簿を複製し、外部へ告発しようとした。


黒鷹は先に動いた。


男は拉致され、福良港近くの大型冷蔵倉庫へ監禁された。


だが、捕まる直前。


彼が外部へ送った断片的なデータが、兵庫県警へ届いた。


そして案件は、NSTへ回された。


ヒロ室西日本分室。


机の上へ、南あわじ市の道路地図が広げられている。


岡本玲奈は、福良港近くに赤い印をつけた。


「最優先は人質の救出です」


西川彩香が腕を組む。


「裏帳簿は?」


「可能なら同時に確保します。ですが、人命を優先します」


河合美音が地図を見ながら、指を南へ滑らせる。


大鳴門橋。


「逃げるなら、ここでしょうね」


室内の空気が僅かに重くなった。


彩香が舌打ちする。


「最悪やな」


玲奈が静かに頷いた。


「黒鷹も、私たちの活動範囲を把握している可能性があります」


橋を渡れば徳島。


そこから先はNSTの権限外。


彩香は橋の入口を指先で叩いた。


「つまり、ここまでに止める」


「ええ」


「一歩でも向こうへ行かせたら負け」


玲奈は否定しなかった。


「そういうことになります」


その言葉を聞いていた春日美咲は、机の隅へ置かれた車の鍵を見た。


小さな軽自動車の鍵だった。


追跡担当の第一候補は、最初から美音だった。


大型自動二輪。


高い運動性能。


狭い道路での機動力。


美音自身の技量も抜群だった。


以前、イベントで行われた現役オートレーサーとのエキシビションレースでは、周囲の予想を裏切って勝利までしている。


速い。


だが、美音の本当の強みは速度ではなかった。


車の動きから運転者の意図を読む。


車線変更の前に出る僅かな挙動。


運転手がミラーを見るタイミング。


車体が寄る角度。


そうした小さな情報を拾う。


追跡者としての能力なら、NSTでも最上級だった。


ところが彩香は、もう一台を用意していた。


奈良ナンバーの軽自動車。


前後には大きな若葉マーク。


あかりが車を見て、次に運転席の美咲を見た。


「……美咲、大丈夫なん?」


美咲が少し傷ついた顔をする。


「免許は取得しています」


「それは知っとるやに」


彩香が口を挟んだ。


「美咲やからええねん」


あかりが首を傾げる。


「何が?」


彩香は若葉マークを指さした。


「これや」


奈良ナンバー。


小さな軽。


若葉マーク。


そして、いかにも慎重そうな美咲。


「黒鷹から見たら、淡路島へ遊びに来た免許取り立ての観光客にしか見えへん」


美咲が少し複雑な表情になる。


「……褒められているんでしょうか」


「めちゃくちゃ褒めとる」


「そうは聞こえません」


玲奈の口元が僅かに緩んだ。


彩香は続ける。


「美咲の仕事は追いつくことちゃう。気づかれずに後ろへ付く。位置を美音へ流す。それだけや」


「なるほどやに」


「高性能車で追ったら、黒鷹も警戒する。でも若葉マークの奈良ナンバーが後ろにおっても、誰もNSTや思わん」


美咲はハンドルへ手を置いた。


少し緊張している。


だが目は真剣だった。


「分かりました」


彩香は美咲を見る。


「無理な追い越しは禁止。車間を詰めすぎん。対象を見失っても、自分で取り戻そうとせず美音へ報告」


「はい」


「事故だけは絶対に起こさんといて」


「はい」


玲奈も頷く。


「それで十分です」


美咲は小さく息を吐いた。


「やります」


福良港近く。


冷蔵倉庫には、潮と魚と冷気が入り混じった独特の匂いが漂っていた。


大型トラックが出入りする搬入口。


冷凍庫。


事務棟。


荷役通路。


表向きは、島の食品を扱う普通の物流施設。


だが、その一角に監禁された経理担当者がいる。


麻衣は作業員姿で荷役通路へ潜入した。


小柄な身体は、棚とパレットの狭い隙間を抜けるのに向いている。


あかりは搬入口。


迫田ツインズは事務棟。


彩香と玲奈は離れた位置から全体を指揮する。


外では美音が大型自動二輪にまたがり、美咲は軽自動車で待機。


作戦は静かに始まった。


麻衣が冷蔵区画の奥で、人影を見つける。


椅子へ縛られた男性。


意識はある。


「大丈夫ですか」


男が顔を上げる。


「……警察?」


「静かに」


麻衣は拘束を外す。


同じ頃。


あかりは搬入口で見張り役と鉢合わせした。


男が無線機へ手を伸ばす。


あかりの方が速い。


腕を取る。


身体ごと押し込む。


背中がトラックの側面へ当たる。


「今日は大人しくしといてやに」


男が殴り返そうとする。


あかりは正面から踏み込んだ。


肩。


腰。


一気に重心を崩す。


男が床へ伏せる。


事務棟では迫田ツインズが端末を確保。


偽伝票。


架空輸出記録。


黒鷹の関連口座。


必要な証拠が次々に見つかる。


その瞬間。


倉庫の裏口から黒いSUVが飛び出した。


玲奈の声が無線へ飛ぶ。


『一台逃走!』


彩香がモニターを見る。


「現場責任者や!」


助手席の足元には、小型の耐衝撃ケース。


裏帳簿の完全版を保存した記憶媒体。


黒鷹本体へつながる可能性のある、最大の証拠。


SUVは南へ。


大鳴門橋方向。


彩香が叫ぶ。


「美咲、追尾!」


軽自動車が発進した。


少しだけ遅かった。


美咲はブレーキから足を離し、慎重にアクセルを踏む。


「発進します」


彩香の声が返る。


『実況せんでええから行って!』


「はい」


美咲は道路へ出る。


右を見る。


左を見る。


もう一度右。


念のため、また左。


『美咲!』


「安全確認です!」


『丁寧すぎる!』


ようやく本線へ。


黒いSUVは前方に見えている。


美咲は一定の距離を保つ。


車間、六台ほど。


「対象確認。直進しています」


『そのまま』


美咲の運転は、教習所の教本をそのまま道路へ持ってきたようだった。


ウインカーはかなり早め。


カーブへ入る前には必ず減速。


制限速度標識を見れば、メーターを確認。


バックミラー。


サイドミラー。


目視。


後続車が少し近づいただけで不安になる。


「後ろの車、近くありませんか」


『普通や』


「煽られているような……」


『気のせいや!』


「でも」


『後ろより前見て!』


「はい!」


坂へ入る。


軽自動車の速度が落ちる。


美咲はアクセルを少し踏み足す。


エンジン音が大きくなる。


驚いて、ほんの少し戻す。


また速度が落ちる。


彩香は頭を抱えた。


『美咲、アクセル踏んでええんやで』


「踏んでいます」


『車が踏まれてへん言うてる』


「機械は喋りません」


『今そこ真面目に返さんでええ!』


それでも――


黒鷹は美咲を警戒しなかった。


バックミラーへ映るのは、若葉マークの軽自動車。


運転席では、いかにも不慣れそうな若い女性が、妙に広い車間を取って走っている。


追跡車には見えない。


むしろ。


「観光客か」


SUVの助手席にいる工作員が、鼻で笑った。


彩香の狙いどおりだった。


美咲は速くない。


華麗でもない。


だが対象を見失わない。


焦って距離を詰めない。


ひたすら真面目に。


教えられた役目だけを守る。


「対象、次の分岐も橋方向です」


玲奈が答える。


『了解』


彩香。


『美咲、そのままでええ』


「はい」


「……上手くできていますか」


一瞬、無線が静かになる。


彩香は少し柔らかい声で答えた。


『できとる』


美咲は小さく頷いた。


そして、次の交差点。


低い排気音が近づいた。


美音だった。


黒い大型自動二輪。


車列の後方から現れ、滑らかに距離を縮める。


まるで獲物を見つけた猛禽だった。


美咲とは違う。


迷いがない。


余計な動きがない。


必要な時だけ加速し、必要な時だけ減速する。


SUVの運転手がミラーを見る。


表情が変わる。


「追跡だ!」


車が加速した。


美音も追う。


大型トラックが一台、間へ入る。


美音は強引に抜かない。


一度後ろへ下がる。


トラックの右後方へ位置を変える。


SUVの動きが隠れる。


次の直線。


トラックが僅かに左へ寄った瞬間。


美音が前へ出た。


再びSUVの後方。


距離、三台。


美咲が無線へ言う。


「対象、次も直進です。橋へ向かっています」


『確認した』


美音の声は短い。


大鳴門橋の主塔が見えてくる。


白い巨大な構造物。


その向こうには徳島。


彩香が作戦図を見る。


「次の区間で止める」


玲奈が県警部隊へ連絡する。


前方から封鎖車両。


後方から美咲。


そして美音がSUVへ迫る。


一台半。


一台。


SUVの逃走路が狭まる。


彩香が拳を握る。


「いける……」


その時。


側道から、一台の大型バスが合流してきた。


白いロケバス。


側面には神戸放送の文字。


車内。


三好さつきは窓の外へ顔を向けていた。


「うわあ、海めっちゃきれいやな!」


隣のディレクターが資料を見る。


「今日は渦、かなり期待できますよ」


「ほんま? ほな、オープニングは橋バックにしよか!」


「いいですね」


「観潮船からも撮りたいなあ」


さつきは機嫌が良かった。


当然だった。


NSTの任務など知らない。


黒鷹のSUVが前にいることも知らない。


自分たちのロケバスが、兵庫県警の極秘作戦へ絶妙なタイミングで入り込もうとしていることなど、知る由もない。


バスは交通法規どおり。


安全確認をし。


合図を出し。


正しく本線へ入った。


その場所が――


最悪だった。


美音とSUVの間。


「……!」


美音の手がブレーキへ入る。


大型二輪のフロントが沈む。


タイヤが路面へ食いつく。


無理に横へ抜ければ、ロケバスを危険へ巻き込む。


民間人が乗っている。


できない。


後方。


美咲も驚いた。


「バス!」


ブレーキ。


強すぎた。


軽自動車の前部がガクンと沈む。


シートベルトが身体を引く。


「きゃっ!」


ハンドルを握り直す。


車線は外れない。


後続車ともぶつからない。


彩香が叫んだ。


「何でこのタイミングで神戸放送やねん!」


玲奈はモニターを見る。


「美音、無理をしないで」


『でも、このままでは橋へ入ります!』


「一般車を巻き込むな」


その一言で、美音は追い越しを諦めた。


前方。


ロケバスのさらに前で、SUVが加速する。


橋の入口が近づく。


彩香の呼吸が荒くなる。


「美音、抜けられる場所まで待って!」


ロケバスは普通に走っている。


悪くない。


何一つ悪くない。


それが余計に腹立たしかった。


美咲が焦る。


「私が前へ出た方が――」


『あかん!』


彩香が即座に切る。


「でも、私の方が小さいので」


『若葉マークで大型バスの横抜けてSUV追う気か!』


「……」


『それは勇気ちゃう。無茶や』


美咲はハンドルを握る。


「はい……」


目の前に標的がいる。


遠くない。


それでも近づけない。


橋へ入る。


左右に海。


遥か下で渦潮が回る。


大鳴門橋の巨大なケーブルが、視界を規則的に横切っていく。


橋の中央へ近づく。


そして――


県境も近づく。


見えない時計が減っていた。


ロケバスがようやく車線を移った。


美音の視界が開く。


「行ける!」


アクセル。


大型自動二輪が咆哮する。


車体が前へ飛ぶ。


一般車を一台。


二台。


安全な間隔を取りながら抜く。


SUVが見える。


彩香は位置情報を睨む。


「県境まで八百!」


美音が詰める。


「六百!」


黒鷹も気づく。


SUVが車線中央へ寄る。


美音を前へ出さない。


「四百!」


大型二輪が右へ。


SUVも右へ。


美音が戻る。


接触すれば一般車両まで事故へ巻き込む。


「三百!」


後ろでは、美咲も必死だった。


速度が上がる。


いつもより速い。


ハンドルが少し軽く感じる。


怖い。


自分の車なのに、車体が勝手に走っていくような感覚。


それでもアクセルを完全には戻さない。


「対象……見えています!」


「二百!」


海峡の中央。


眼下で渦が回る。


白い波頭がぶつかり合う。


美音とSUV。


その距離は、もう僅か。


彩香の声が震える。


「あと百!」


美音が外側へ出る。


SUVの横へ並ぼうとする。


「五十!」


工作員がアクセルを踏み込む。


「三十!」


美音の前輪がSUVの後部へ並ぶ。


「二十!」


美音の目に、運転席の男の横顔が見える。


相手も見る。


ほんの数メートル。


「十!」


彩香が叫ぶ。


「美音!」


美音がさらに前へ出る。


その瞬間。


位置表示が変わった。


兵庫県。


徳島県。


黒いSUVだけが――


先に線を越えた。


玲奈の声が静かに落ちる。


『美音』


返事はない。


『追跡終了』


美音の手が止まる。


SUVは十メートルも先にいない。


追いつける。


今からでも前へ出られる。


あと数秒。


それでも。


『県境を越えました』


美音はアクセルを緩めた。


エンジン音が低くなる。


SUVが離れていく。


二十メートル。


三十。


五十。


美咲も速度を落とす。


彩香は無線機を握ったまま、何も言えなかった。


敵が見えている。


後ろ姿まで見える。


逃走車両のナンバーも読める。


だが、もう追えない。


一メートル。


たった一メートル。


向こうへ出ただけで、NSTには何もできなくなる。


黒鷹のSUVは徳島側へ消えた。


眼下では、巨大な渦潮が回り続けていた。


県境など存在しないと言わんばかりに。


その日。


NSTは初めて、目の前の敵を見送りながら任務に敗れた。


南あわじへ戻った美咲は、駐車場でしばらく車から降りなかった。


エンジンは止まっている。


両手はまだハンドルの上。


指先に、力が入っている。


やがて外へ出る。


前方の若葉マークを見る。


「……私が、もっと上手ければ」


彩香がすぐに振り返った。


「ちゃう」


美咲は俯く。


「発進も遅かったです。追い越す判断もできませんでした。最後も、美音さんについていけなくて」


「美咲」


彩香が歩み寄る。


「お前は悪くない」


声に迷いはなかった。


「指示どおり距離取った。黒鷹に気づかれへんかった。事故も起こしてへん。一般車も巻き込まんかった」


「でも――」


「若葉マークの役目、全部果たしとる」


美咲は唇を噛む。


「でも、逃がしました」


玲奈が静かに近づく。


「結果と判断を混同しないでください」


美咲が顔を上げる。


「あのロケバスを無理に追い越せば、乗員を危険にさらした可能性があります」


「……」


「それは成功ではありません」


美音もヘルメットを脱ぐ。


「私でも抜きません」


美咲が美音を見る。


現役オートレーサー相手に勝つほどの女。


その美音が言う。


「運転技術の問題ではないです。抜いてはいけない状況でした」


ようやく。


美咲の肩が、少しだけ下がった。


だが――


今度は彩香が地図を広げ始める。


「そもそも美咲を後ろに置いたんが正しかったんやろか」


玲奈が答える。


「正しかったです」


「美音を最初から前へ置いてたら」


「黒鷹が別経路へ逃げた可能性があります」


「もっと橋から離れたところで挟めたんちゃうか」


「当時の交通状況では困難です」


「ロケバスの可能性まで考えとくべきやったんちゃうか」


玲奈が彩香を見る。


「それは予測ではありません。予言です」


彩香は黙る。


数秒後。


「でも――」


「彩香」


玲奈の声が少し強くなる。


「正しい指示を出しても、失敗することはあります」


「……」


「不可抗力です」


「せやけど」


「こういうこともあります」


彩香は橋の図を見る。


あと一分。


あと三十秒。


ロケバスが一台後ろなら。


美咲を別の位置へ。


美音をもう少し早く。


答えなど出ない。


それでも、考える。


何度も。


同じ場所を。


何度も。


玲奈は知っていた。


彩香の悪い癖だった。


真面目すぎる。


部下に責任を押しつけない代わりに、全部自分で背負おうとする。


玲奈は最後に一言だけ言った。


「美咲を責めなかった」


彩香が顔を上げる。


「それだけでも、指揮官として間違っていません」


彩香は何も答えなかった。


夜。


ヒロ室西日本分室。


異様に静かだった。


麻衣は報告書を整理。


迫田澪香と澄香も必要最低限しか話さない。


あかりですら大人しい。


美音は窓の外を見ている。


美咲は机に置いた若葉マークを眺めている。


彩香は、同じ作戦報告書を何度も読み返していた。


玲奈は書類へ目を通しながら、時折全員を見ていた。


敗北。


それ自体は受け止めなければならない。


だが、このまま一晩中沈ませるのも良くない。


だからといって、無理に明るくする言葉も見つからなかった。


その時。


扉が勢いよく開いた。


「邪魔するで〜!」


美月だった。


その横に真央。


彩香は顔も上げずに反射的に答える。


「邪魔するなら帰って〜」


「おお、そうやな……」


美月が素直に一歩下がる。


扉を閉める。


半分閉まったところで止まる。


再び勢いよく開ける。


「って、なんでやねん!」


いつものやつだった。


誰も笑わない。


美月が部屋を見回す。


「……何や今日。客席死んどるやん」


真央も覗き込む。


両手には大きな箱。


「なんだゃあ、こりゃあ。みんな揃うてどえりゃあ辛気くっさいツラしとるがね。お通夜帰りかしゃん? 香典返しでも待っとるんかね!」


彩香がゆっくり顔を上げる。


「うるさいの二人来た……」


美月が眉を上げる。


「誰がうるさいねん」


「アホツインテール」


「誰がアホツインテールや!」


「お前以外に誰がおる」


美月が彩香を指さす。


「怖いオバハン!」


室内の空気が止まった。


彩香の眉が跳ねる。


「……誰がオバハンや」


「今の顔や! 完全に怖いオバハンや!」


「十九のガキに言われとうないわ!」


「年齢関係ない! 怖いもんは怖い!」


「アホツインテール!」


「怖いオバハン!」


「アホ!」


「オバハン!」


「アホツインテール!」


「播州の怖いオバハン!」


「地域ブランド付けんな!」


麻衣が俯いた。


肩が僅かに揺れる。


あかりも口を押さえる。


迫田ツインズが目を合わせる。


美音まで窓の外を向いたまま、少し笑った。


玲奈は気づいた。


彩香の声が戻っている。


さっきまで自分を責める言葉しか口にしなかった彩香が、美月相手に本気でくだらない喧嘩をしている。


良い意味で。


いつもの彩香だった。


玲奈は、胸の奥で静かに安堵した。


真央が二人の間へ箱を掲げる。


「まあまあ、いつまでやっとるだゃあ! ほれ見やぁ! 名古屋からぴよりん持ってきたったがね!」


美月がすぐ箱を見る。


「ぴよりん?」


「そうだがね! 名古屋コーチンの卵どえりゃあようけ使っとって、でらでらうみゃあプリンだでよ! これ食わんなんて、人生だいぶ損しとるでかんわ!」


彩香がまだ美月を睨んでいる。


「甘いもんで誤魔化されへんで」


真央が言う。


「ほんなら彩香さんだけ食わんでええがね」


「食べへんとは言うてへん」


美月が笑う。


「食うんかい!」


「うるさいアホツインテール!」


「怖いオバハン!」


「まだ言うか!」


今度は、麻衣が小さく吹き出した。


重い空気に、最初のひびが入った。


真央が箱を開ける。


黄色いひよこの姿をした、小さなプリン。


あかりが一番に寄ってくる。


「一個もらってええ?」


「食べやぁ食べやぁ! 遠慮しとったら日ぃ暮れてまうがね!」


あかりがスプーンを入れる。


一口。


目が丸くなる。


「うわ……これ、えらい濃厚やに! 卵の味めっちゃするし、ほんまうまいわ。なんや、食べとるだけで幸せになるに!」


真央が胸を張る。


「そらそうだがね! 名古屋の卵なめたらかんて! でらうみゃあもんは、でらうみゃあんだわ!」


「もう一個食べたいに」


彩香が即座に言う。


「一人一個」


「まだあるやに」


「一人一個」


「急に配給制になったに」


「お前は放っといたら三個食うやろ!」


麻衣も手を伸ばす。


迫田ツインズも。


美音も。


「おいしいですね」


「本当に濃い」


「疲れた時にはいいですね」


少しずつ声が増えていく。


だが、美咲だけはまだ手を伸ばさない。


美月が気づく。


「美咲」


「はい」


「食べ」


「私は……」


「今日はもう運転せえへんのやろ?」


「そうですけど」


「ほなええやん。若葉マークでも、ぴよりん食べるのに免許いらんで」


美咲が一瞬きょとんとする。


そして、小さく笑った。


「何ですか、それ」


「知らん。今思いついた」


「適当ですね」


「ウチは大体適当や」


彩香が横から言う。


「そこは自覚あるんやな」


美月が振り返る。


「怖いオバハンは黙っといて」


「誰がオバハンや!」


美咲が今度は、はっきり笑った。


美月からぴよりんを受け取る。


スプーンを入れる。


一口。


少し黙る。


「……おいしいです」


いつもの上品な笑顔。


玲奈はその表情を見て、ようやく心から息を吐いた。


任務は失敗した。


それでも。


この顔まで失う必要はない。


甘いものが入れば、人間は少しだけ余裕を取り戻す。


西日本分室も例外ではなかった。


美月がぴよりんを持ち上げる。


「これ、顔からガバッといくんが正解やろ」


彩香がすぐ反応した。


「はぁ? 顔は最後まで残すやろ普通!」


「途中で首だけ残る方が怖いやん!」


「かわいい顔を最後まで楽しむんや!」


「残酷や!」


「お前みたいに最初に顔面えぐる方が残酷や!」


「プリンやで!」


「プリンにも美学があんねん!」


「怖いオバハン、プリンにまで説教始めた!」


「アホツインテール、外出ろ!」


「何でプリンの食べ方で決闘せなあかんねん!」


麻衣は黙って食べる。


迫田ツインズも、もう二人を相手にしない。


美音はコーヒーを飲みながら微笑んでいる。


美咲まで楽しそうに眺めていた。


玲奈は資料へ視線を戻す。


いつものことだった。


真央が言う。


「どっから食ったって腹ぁ入ったら一緒だがね!」


美月と彩香が同時に振り向く。


「それ言うたら終わりや!」


真央が大笑いする。


「二人とも気ぃ合っとるがね!」


「合ってへん!」


また同時だった。


今度は迫田ツインズまで笑った。


その隙。


彩香の机に、ぴよりんが一個。


彩香は顔を最後まで残すため、後でゆっくり食べるつもりだった。


あかりが見る。


「これ、誰も食べへんの?」


返事なし。


彩香と美月はまだ言い争っている。


「ほな、もらうに」


一口。


「うまいわぁ」


二口。


完食。


しばらくして。


彩香が席へ戻る。


皿を見る。


「……あれ?」


全員が静かになる。


「ウチのぴよりんは?」


あかりがスプーンを持ったまま振り向く。


「あ……あれ、彩香さんのやったん?」


播州の烈火。


再点火。


「あかり」


「はい」


「ウチな」


「はい」


「楽しみに取っとったんやけど」


「名前書いてなかったに」


「……あとで話がある」


「ぴよりん一個で?」


「一個やない! 心の問題や!」


美月が笑う。


「怖いオバハン、プリン取られて本気で怒っとる!」


彩香が美月を睨む。


「アホツインテールは黙っとれ!」


「器ちっちゃ!」


「お前よりは大きいわ!」


「何の器やねん!」


真央が笑いながら、自分のぴよりんを差し出した。


「彩香さん、うちのやるがね」


彩香が止まる。


「え?」


「うちら愛知県人は、食いたなったらまた買えるでええて。せっかくだで、食べやぁ」


「真央……」


「プリン一個で鬼瓦みてゃあなツラしとったら、かわいい顔が台無しだがね」


彩香が受け取る。


「最後の一言は余計やけど……ありがとう」


美月が横から言う。


「真央、ええ子やなあ。怖いオバハンと大違いや」


「お前、今日それ何回言うねん!」


「アホツインテール言われた回数と同じだけ言うたる!」


「上等や!」


「怖いオバハン!」


「アホツインテール!」


「オバハン!」


「アホ!」


「あほあほ!」


「幼稚園児か!」


あかりが小声で言う。


「助かったに……」


彩香は聞き逃さなかった。


「お前の説教は別や」


「まだあるん?」


「ある!」


「ぴよりん返せへんに」


「分かっとるわ!」


美音がとうとう吹き出した。


麻衣も。


迫田ツインズも。


美咲も声を上げて笑う。


真央は腹を抱えている。


「これだがね! さっきまでのお通夜みてゃあな空気より、こっちの方がええがね!」


美月が箱を覗く。


「あ、まだ一個ある!」


彩香とあかりが同時に手を伸ばす。


「ウチの!」


「私が先に見つけたに!」


玲奈の声が飛んだ。


「二人とも、やめてください」


二人が止まる。


美月が笑う。


彩香も、とうとう笑った。


その瞬間。


玲奈はようやく安心した。


彩香が戻った。


美咲も戻った。


分室全体が戻った。


敗北そのものは消えない。


だが、敗北した日に笑ってはいけないという決まりもない。


黒鷹は、渦潮の向こうへ逃げた。


暗号化された記憶媒体も取り戻せなかった。


作戦記録には、はっきりと書かれる。


任務失敗。


その三文字は変わらない。


だが、人質は救った。


地元業者を利用した資金洗浄は暴いた。


複数の証拠も確保した。


そして誰一人、無謀な判断によって民間人を危険へ巻き込まなかった。


美咲は未熟だった。


発進は遅い。


確認は多い。


アクセルを踏むにも迷う。


だが彼女は、怖さを知っていたからこそ、最後まで安全を捨てなかった。


美音には追いつける技術があった。


それでも、ロケバスを危険へさらす追跡を選ばなかった。


彩香の作戦も間違ってはいなかった。


正しいことを積み重ねても、負ける日はある。


それを受け入れることもまた、現場に立つ者の仕事だった。


玲奈は賑やかな分室を見る。


美月がまだ彩香を、


「怖いオバハン」


と呼んでいる。


彩香は即座に、


「アホツインテール」


と返す。


真央が、


「どっちもどっちだがね!」


と大声で笑う。


あかりは箱の底にぴよりんが残っていないか確認して、麻衣に止められている。


美咲はいつもの上品な笑顔。


美音は呆れながらコーヒーを飲んでいる。


迫田ツインズも笑っていた。


彩香はふと窓の外を見る。


ほんの一瞬だけ、顔から笑みが消える。


「次は……」


小さく呟く。


「次は逃がさん」


玲奈だけが聞いていた。


「ええ」


静かに答える。


その直後。


美月が叫んだ。


「彩香! 真央にもろたぴよりん、顔から食べた方が絶対うまいで!」


彩香が振り返る。


「アホツインテール、まだ言うとんのか!」


「怖いオバハン!」


「誰がオバハンやぁ!」


笑い声が西日本分室いっぱいに広がった。


海の上には、見えない県境がある。


だが。


今日の敗北と、明日の任務の間には――


境界線などなかった。

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