浜風はベンチの声を渡さない ――満員の聖地に潜む、黒鷹情報密売事件
浜風は、秘密を守らない。
ベンチで交わされた短い言葉も、乾いた打球音も、敗者が漏らしたため息も、風に乗ればどこかへ消える。
だが、風は金を取らない。
誰かの弱みを選んで運ぶこともない。
盗んだ声へ値段をつけるのは、いつも人間だった。
兵庫県西宮市。
住宅街のただ中に、黒土と天然芝を抱いた巨大な球場が鎮座している。
春と夏には、全国の高校球児がここを目指す。
勝った者は校歌を歌い、敗れた者は膝をつき、涙を拭うふりをしながら土を袋へ詰める。
数え切れないほどの歓喜と後悔が、内野の黒土へ染み込んでいた。
プロ野球の季節になれば、黄色と黒の縦縞を愛する者たちが押し寄せる。
一回に先制すれば優勝を確信し、その裏に逆転されれば監督の退任時期を相談する。
打者が初球を見逃せば、
「何で振らへんねん」
と怒り、初球を打って凡退すれば、
「何で待たへんねん」
と怒る。
所在地はどう見ても兵庫県なのに、勝利の騒ぎだけは大阪の繁華街まで自分たちのものにする。
勝っても負けても大騒ぎ。
不満を口にしながら、次の日には同じ席へ戻ってくる。
面倒で、騒がしく、そしてどうしようもなく愛されている球団だった。
試合前の球場だけは静かだった。
黒土は滑らかに均され、天然芝には斜めの光が走る。
巨大な照明塔が空へ立ち、外野から入り込む浜風が、無人のベンチを撫でていく。
その姿には荘厳さがあった。
単なる運動施設ではない。
百年分の歓声と涙を、コンクリートと黒土の中へ抱え込んだ聖堂だった。
黒鷹は、その聖堂の声を盗んだ。
地下賭博市場で、異様に正確な情報が取引されていた。
先発投手が抱えている小さな故障。
試合直前に変更された打順。
ブルペンで投球を始めた投手。
代打を送る順番。
守備位置の変更。
盗塁の可能性。
ベンチ内で監督やコーチが交わした、断片的な会話。
試合結果を直接操作するものではない。
だが、地下賭博では十分だった。
次の回に得点が入るか。
投手交代が行われるか。
特定の選手が打席へ立つか。
試合中に細かく変動する賭け率を、黒鷹は内部情報によって先読みしていた。
情報は、球場の見えない場所から送られていた。
ベンチ裏。
ブルペンへ続く通路。
グラウンド整備用機材の倉庫。
土壌の水分量を測るセンサーに偽装された集音装置。
散水設備の通信機器へ紛れ込ませた小型送信機。
黒鷹は保守業務を請け負う下請会社へ工作員を潜り込ませ、数か月かけて情報経路を作っていた。
グラウンド整備用の台車には、球場外へ音声データを送る中継装置が隠されている。
野球を愛する者にとって、選手の故障は心配の種になる。
監督の決断は、勝敗を左右する祈りになる。
黒鷹にとっては、すべて数字だった。
打者の不調も。
投手の痛みも。
満員の観客が送る声援も。
賭け金を動かすための材料に過ぎなかった。
内部告発を受けたNSTは、球場側のごく一部と極秘に連携した。
ヒロ室西日本分室。
西川彩香は、流出した情報の一覧を机へ叩きつけた。
「球団の貴重な情報を、違法賭博組織へ売っとるやと?」
岡本玲奈が端末を操作する。
「流出は、少なくとも三か月前から続いています」
「うちの監督の采配が読めへんのは、ファンだけで十分や!」
玲奈が顔を上げた。
「そこに怒っているのですか」
「違います!」
彩香は資料を指で叩く。
「投手交代も、選手の故障も、ベンチの会話も、全部球団の財産です。選手が命削って戦っとる裏で、それを黒い金に換えやがった」
声が低くなる。
怒鳴るよりも、その方が危険だった。
「絶対に許さん」
播州の烈火。
地元球団への愛情が絡めば、彩香の火は簡単には消えない。
玲奈は球場の見取り図を広げた。
「黒鷹は今日、これまでの盗聴記録と送金記録を持ち出す予定です」
「試合後の混雑に紛れる気ですか」
「ええ。グラウンド整備用機材へ隠す可能性があります」
「球場の土まで利用しよるんか」
「現場で証拠と実働員を押さえます。選手と観客には、何も悟らせません」
彩香は即座に答えた。
「当たり前です。試合は最後までやらせます」
玲奈は一拍置いた。
「あなたは試合を見られませんが」
彩香の顔が止まった。
「……分かってます」
火の勢いが、ほんの少しだけ弱くなった。
球場のグラウンド管理を担うのは、鳴尾フィールドサービス。
黒土の状態を指先で読み、雨雲の動きを見ただけで必要な整備を判断する職人集団だった。
突然の豪雨。
長時間の延長戦。
選手のスパイクで削られた走路。
荒れたグラウンドを、僅かな時間で試合ができる状態へ戻す。
彼らの仕事は清掃ではない。
土の水分。
気温。
風向き。
天然芝の長さ。
選手の走路。
すべてを計算し、一つの競技空間を作り上げる。
表舞台で拍手を受けることはない。
だが、彼らがいなければ試合は始まらない。
NSTから臨時グラウンドキーパーとして潜入するのは、白浜麻衣と山本あかり。
麻衣の実家は和歌山のみかん農家だった。
幼い頃から畑へ出ている。
土の硬さ。
水分。
雨の後のぬかるみ。
農具の扱い。
用途は違っても、土と付き合う感覚は身体へ染み込んでいた。
小柄な身体で大きなレーキを扱い、黒土の表面を均一に整える。
力で引かない。
腰を落とし、刃先の角度を細かく変えながら、余分な土だけを移動させる。
初めてとは思えない動きだった。
あかりは技術では麻衣に及ばない。
だが、体力がある。
土袋を運ぶ。
散水用ホースを引く。
大型シートを折り畳む。
重い整備用台車を押す。
「次、何運ぶやに?」
一つ終わるたび、すぐ次の仕事を求める。
ベテランのグラウンドキーパーが笑った。
「お姉ちゃんたち、よう頑張るわ」
あかりは額の汗を拭う。
「土運ぶんやったら、何往復でもするやに!」
「無理したらあかんで」
「まだまだいけるやに!」
麻衣は隣で黙々とレーキを動かしている。
「そっちの小さいお姉ちゃんも、ええ手つきしとるな」
「実家が農家なので」
「なるほど。土は違うても、分かるもんは分かるか」
麻衣は小さく頷いた。
二人は潜入任務を忘れていない。
作業の合間に、土壌センサーの型番を確認する。
整備台車の底へ不自然な配線がないかを見る。
ベンチ裏の通路を通るスタッフの顔を覚える。
美咲は保守会社の事務所で、発注記録と通信機器の登録情報を調べる。
彩香は球場運営本部。
玲奈は外部警備監査員として警備室へ入る。
大西結月は球場外。
スポーツ自転車へまたがり、業務用出口と武庫川方面の経路を監視する。
この日の対戦相手は、広島を本拠地とする赤い球団だった。
試合開始前。
三塁側の観客席を監視していた彩香が、双眼鏡を止めた。
明るい色のツインテール。
赤嶺美月。
その隣には、赤い帽子と応援タオルを持った江波のどか。
のどかは以前ほど熱心ではないものの、かつて赤い球団を熱烈に応援した元カープ女子である。
美月は千葉の海沿いを本拠地とする球団のファン。
なぜこの組み合わせが三塁側へ座っているのか。
野球観戦に来たから、としか説明できなかった。
彩香は額へ手を当てた。
「アホツインテールだけやなくて、赤ヘル娘まで居る。厄災や」
玲奈が双眼鏡を受け取る。
「二人とも普通に観戦へ来ただけのようです」
「普通の定義を見直した方がええと思います」
美月とのどかは、球場名物のイカ焼きを分け合っていた。
のどかが紙皿を覗く。
「美月、そっちの方が大きいじゃろ」
「半分ずついうても、重さまで量ってへんやろ」
「明らかに具が多いんじゃ」
「細かいなあ」
「人の分まで食べた人間に言われとうないわ」
仲良く観戦しているのか、すでに喧嘩が始まっているのか分からない。
それでも、任務区域へ近づく様子はない。
彩香はようやく双眼鏡を下ろした。
「今日は大人しそうやな」
その安心は、五回裏終了までしか続かなかった。
五回裏が終わる。
イニング間の場内イベントが始まった。
両チームのファン代表による、ベースランニング対決。
抽選で選ばれた観客がグラウンドへ降り、ダイヤモンドを一周して速さを競う。
赤い球団側の代表。
江波のどか。
黄色い縦縞側の代表。
赤嶺美月。
監視室の彩香が立ち上がった。
「何であの二人が選ばれんねん!」
玲奈は冷静だった。
「抽選です」
「抽選箱に黒鷹おるんちゃいますか!」
「いません」
「千葉の球団のファンが何で黄色側へ手ぇ挙げとるんや!」
「本人へ聞いてください」
「今聞けるわけないでしょう!」
美月とのどかが、グラウンド近くへ案内される。
試合中の整備を終えた麻衣とあかりは、ファウルゾーン付近で用具を回収していた。
美月が先に気づいた。
「あれ?」
帽子。
作業服。
整備用レーキ。
それでも、あの明るい動きは見間違えない。
「あかりやん!」
あかりの肩が一瞬止まる。
美月は構わず大声を上げる。
「今度は土いじりのバイト始めたんか!」
あかりは振り返らない。
無言でレーキを引く。
のどかも麻衣を見つけた。
「あれ、麻衣ちゃんじゃないん?」
麻衣も答えない。
整備用具を拾い、淡々と作業を続ける。
「あかり! 聞こえとるやろ!」
美月がさらに手を振る。
のどかは首を傾げる。
「麻衣ちゃんによう似た人なんかね」
「絶対あかりや。あの土袋の持ち方、あかりやもん」
監視室から彩香の声が飛ぶ。
『絶対に反応すな』
あかりが小声で返す。
「分かっとるやに」
『返事もするな! 口の動きでバレる!』
麻衣が表情を変えず、あかりの足を軽く踏んだ。
あかりは口を閉じる。
だが、その様子を見ていた男がいた。
保守会社の作業服を着た黒鷹の工作員。
一般客が、臨時スタッフの名前を知っている。
呼ばれた二人は、不自然なほど徹底して無視した。
男は胸元の通信機へ手を伸ばした。
「潜入がいる。回収を前倒しする」
試合後に動くはずだった黒鷹が、予定より早く動き始める。
ベンチ裏の集音装置。
ブルペン通路の送信機。
数か月分の盗聴記録。
違法賭博組織との送金記録。
それらを整備用台車へ隠し、業務用出口から搬出しようとする。
美咲が異常な通信を捉えた。
『対象が移動を開始しました』
玲奈の指示が飛ぶ。
『麻衣、あかり。追ってください』
麻衣はレーキを置いた。
あかりは土袋から手を離す。
二人は観客から見えない業務用通路へ走った。
グラウンドでは、美月とのどかのベースランニングが始まる。
満員の観客から拍手と笑い声が上がった。
暗い通路へ入った瞬間、球場の音は遠くなった。
コンクリートの壁。
低い天井。
古い配管。
非常灯だけが白く光っている。
黒鷹の工作員は、整備用台車を押して走っていた。
麻衣が先に追いつく。
「止まってください」
男は振り返る。
手には、短く切った鉄製のパイプ。
「グラウンドへ戻れ」
「その台車を置いて」
男がパイプを振り上げた。
麻衣は退かなかった。
振り下ろされる瞬間、半歩だけ横へずれる。
パイプが床を叩く。
乾いた金属音。
麻衣は男の内側へ入った。
手首へ触れる。
肘を押し上げる。
身体を滑らせるように背後へ回る。
男の腕が背中側へねじられた。
麻衣は力で倒さない。
相手の重心が崩れる場所へ、ほんの少しだけ押す。
男の膝が床へ落ちた。
後方から二人目が突っ込んでくる。
麻衣は手すりへ片足を乗せた。
小柄な身体が浮く。
相手の肩を越えるように回転し、背後へ着地する。
男が振り返る前に膝裏を払う。
姿勢が崩れる。
麻衣は腕を取り、機材ケースの上へ伏せた。
一歩。
半歩。
回転。
狭い通路を舞台へ変える。
紀州の舞姫。
みかん畑の斜面で培った足場感覚。
土の状態を読む繊細さ。
相手の動きを受け流す軽やかさ。
華奢な身体からは想像できないほど、動きには迷いがなかった。
だが、通路の先から増援が現れる。
三人。
麻衣の前を塞ぐ。
その背後から、重い車輪の音が響いた。
「麻衣、伏せるやに!」
麻衣が低く沈む。
あかりが土袋を積んだ運搬台車を押し、全速力で突っ込んできた。
工作員たちが目を見開く。
「どけやに!」
台車が三人の足元へ滑り込む。
一人が壁側へ逃げる。
二人が左右へ散る。
あかりは台車から手を離さない。
身体ごと横へ振る。
重い土袋が載った台車の側面が、男の脚へぶつかる。
姿勢が崩れた。
あかりは迷わず踏み込む。
肩から胸元へぶつかる。
工作員の身体が資材棚へ押し込まれた。
棚が大きく揺れる。
別の男が拳を振るう。
あかりは腕で受け止めた。
一瞬だけ痛みに顔をしかめる。
だが、足は止まらない。
相手の手首をつかむ。
腰を落とす。
勢いごと前へ投げる。
男の身体が台車を越え、床へ転がった。
四日市の突貫娘。
正面に壁があれば破る。
敵が並べば中央へ入る。
退路を探すより、前へ進む。
その真っ直ぐさが、狭い通路では凶器になる。
「球場の土まで賭け事に使うなやに!」
あかりが叫ぶ。
工作員の一人が金属棒を拾う。
麻衣が横から入り、レーキの柄で軌道を逸らした。
あかりが懐へ踏み込む。
掌底。
男が後退する。
麻衣が背後へ回る。
足払い。
男が膝をつく。
あかりが肩を押し、床へ伏せる。
麻衣が曲線で敵を崩す。
あかりが直線で包囲を割る。
舞姫と突貫娘。
正反対の二人が並べば、互いの弱点は消えた。
「右から二人!」
麻衣が言う。
「任せるやに!」
あかりが前へ出る。
二人の工作員が同時に襲いかかる。
一人目の拳を腕で外す。
二人目へ身体をぶつける。
二人の間へ楔を打ち込むように進む。
麻衣はあかりの陰から滑り出し、最初の男の手首を取る。
身体を回転。
男の腕を二人目の胸元へ押しつける。
互いに動きを塞がれた。
あかりが二人まとめて壁へ押し込む。
「まとめて片づけるやに!」
その時、通路の照明が一部消えた。
黒鷹が電源を落とした。
非常灯だけが残る。
暗がりの奥から、足音が増える。
「まだ来るよ」
麻衣が息を整える。
あかりは拳を握る。
「何人でも来るやに」
そこへ、別の通路から鋭い声が響いた。
「そら頼もしいけど、全部二人で片づけんといて」
彩香が現れた。
球場運営スタッフの上着を脱ぎ捨てる。
目には、燃えるような怒り。
播州の烈火。
「ようもうちの球団の情報を売ってくれたな」
工作員の一人が彩香へ向かう。
拳が飛ぶ。
彩香は顔の横で受け流した。
腕をつかむ。
肘へ体重をかける。
身体を壁へ押しつける。
「ベンチの会話も」
膝裏を蹴る。
男が崩れる。
「選手の故障も」
背中へ腕を回す。
「お前らの賭け札ちゃうわ!」
別の工作員が背後から金属棒を振り上げる。
麻衣が声を飛ばす。
「彩香さん、後ろ!」
彩香は振り返らない。
半歩だけ身体を外す。
金属棒が空を切る。
あかりが正面から男へ突っ込んだ。
肩が腹部へ入る。
男の身体が浮く。
そのまま資材箱へ倒れ込む。
「背中は任せるやに!」
「頼んだで!」
三人が動く。
麻衣が敵の視線を奪う。
あかりが中央へ穴を開ける。
彩香が逃げ道を潰す。
工作員が麻衣へ拳を出す。
麻衣は回転してかわす。
空いた脇腹へ彩香の肘が入る。
彩香へ向けて別の男が走る。
あかりが横から肩をぶつけ、進路を変える。
男が壁へよろめく。
麻衣が手首を取り、床へ流す。
一人。
二人。
三人。
暗い通路へ、短い息遣いと靴音が響く。
観客席では、ベースランニング対決へ大歓声が上がっている。
美月とのどかが、ダイヤモンドを必死に走る。
その拍手と笑い声が、地下で行われる戦闘の音をすべて飲み込んでいた。
黒鷹の指揮役は、仲間が倒されるのを見ると、記憶媒体の入ったバッグをつかんだ。
業務用出口へ走る。
玲奈の声が無線へ入る。
『一名、東側出口へ向かっています』
彩香が息を吐く。
「結月に任せます」
麻衣が最後の工作員の腕を固定する。
あかりは倒れた台車を起こす。
「まだ追えるやに」
「外は結月の領分や」
彩香は暗い通路の先を見る。
「待ってました言うて、今ごろ笑っとるわ」
東側の業務用出口。
黒鷹の指揮役が、小型の電動自転車へ飛び乗った。
バッグには、盗聴記録。
選手の故障情報。
監督の采配傾向。
違法賭博組織の顧客名簿と送金記録。
試合終了前の球場周辺は、すでに人と車が増え始めている。
自動車では逃げられない。
男は住宅街の狭い路地へ入った。
その姿を、大西結月は見ていた。
スポーツ自転車へまたがる。
ペダルへ足を固定する。
「待っていました」
静かな声だった。
次の瞬間、車輪が路面を蹴った。
男の電動自転車が住宅街を抜ける。
結月が追う。
元競輪選手。
高速で回る車輪の中で、一瞬の隙を読む世界にいた。
脚力だけではない。
前の車体の揺れ。
視線。
呼吸。
曲がり角へ入る角度。
すべてから、相手の次の動きを読む。
男は振り返る。
女性が一人。
ただの自転車。
そう見えた。
電動補助を最大にし、狭い道へ逃げ込む。
距離は広がらない。
結月は一定の間隔を保つ。
相手を焦らせる。
無理に追い越さない。
前方には、買い物帰りの住民。
子どもを乗せた自転車。
犬の散歩をする老人。
結月は一般人の位置を読み、危険のない線だけを選ぶ。
男が空き缶の入った袋を後ろへ投げた。
缶が路面へ散らばる。
結月は上体を低くする。
前輪を僅かに左右へ振る。
一つ。
二つ。
三つ。
缶の間を抜ける。
速度は落ちない。
高架下。
男が急に左折する。
結月は同じ角へ入らなかった。
一つ手前の細い路地へ飛び込む。
駐車車両。
低い塀。
自転車一台が通れるだけの抜け道。
結月は立ち上がるようにペダルを踏む。
車体が軽く跳ねる。
路地を抜けた時、逃走役の横へ並んでいた。
男が目を見開く。
結月は何も言わない。
並走したまま視線を向ける。
それだけで、男は自分が追い詰められていることを知った。
電動自転車がさらに加速する。
武庫川沿いの堤防道路へ入る。
夕方の風が強くなる。
男は電動補助に頼り、前傾姿勢を取る。
結月は風向きを読む。
正面から追わない。
僅かに斜め後ろへ入り、相手の車体が作る空気の陰を使う。
距離が縮まる。
男が再び振り返る。
その顔へ恐怖が浮かぶ。
河川敷へ降りる坂道。
未舗装の細い道。
男は一気に下る。
砂利が跳ねる。
結月も続く。
腰を浮かせる。
腕を柔らかく使い、車体の振動を逃がす。
前輪が石を踏む。
車体が僅かに浮く。
着地。
さらに加速。
「止まれ!」
結月の声が浜風を切る。
男は応じない。
工事用の柵を倒した。
道を塞ぐように金属枠が転がる。
結月はブレーキをかけない。
ハンドルを引く。
前輪が浮く。
柵を越える。
後輪が金属枠の上を軽く叩く。
車体が跳ねる。
それでも倒れない。
着地と同時にペダルを踏む。
男との距離は、もう数メートルしかない。
前方には、鉄製の車止め。
道幅が狭くなる。
男が中央を走る。
結月は左へ入る。
並ぶ。
男が車体をぶつけようとする。
結月は一瞬だけ前へ出た。
相手の前輪が後輪へ届く直前、身体を右へ移す。
男だけが外側へ膨らむ。
前輪が砂利へ取られた。
車体が大きく蛇行する。
男は転倒を避けるため、自転車を捨てた。
バッグを背負い、河川敷を走る。
結月も自転車から飛び降りる。
男が川へ向かう。
バッグを投げ捨てるつもりだった。
腕が振り上げられる。
結月が地面を蹴る。
手首をつかむ。
男が振り払おうとする。
結月は腕力で争わない。
身体を反転。
相手の勢いを前へ流す。
男の肩が下がる。
足がもつれる。
芝生へ伏せるように倒れた。
バッグが手を離れ、宙へ上がる。
結月は片手で受け止めた。
男が起き上がろうとする。
結月は肩を押さえ、腕を背中へ回す。
「逃げ切れると思いましたか」
男は答えない。
遠くから、県警の自転車警ら隊が近づいてくる。
結月はバッグを開ける。
記憶媒体。
送金記録。
顧客名簿。
すべてそろっていた。
「対象を確保。情報も無事です」
玲奈の声が返る。
『任務完了です』
結月は顔を上げる。
武庫川の向こうから、球場の歓声が聞こえた。
満員の観客は、数百メートル先で追跡が行われていたことを知らない。
選手も知らない。
それでよかった。
影の仕事に、拍手はいらない。
試合は最後まで続いた。
集音装置と送信機は、すべて撤去された。
違法賭博組織へ流れるはずだったデータも押収。
黒鷹が潜入させていた保守会社の社員も、次々に確保された。
選手に被害はない。
観客にも迷惑はかからない。
ベンチの情報が、再び外へ漏れることもなかった。
美月とのどかは、何も知らない。
ベースランニングを終え、三塁側の席へ戻っていた。
「さっきの整備員、絶対あかりやったで」
美月が言う。
「うちも麻衣ちゃんに見えたんじゃけど」
「何で無視したんやろ」
「仕事中じゃったんじゃろ」
「いつの間に球場で働き始めたんや」
二人は首を傾げる。
それ以上は考えなかった。
赤い球団が得点すれば、のどかが立ち上がる。
黄色い縦縞軍団が反撃すれば、美月が面白半分で応援する。
「美月、どっちの味方なん?」
「盛り上がっとる方や!」
「一番信用できん野球ファンじゃ」
試合は、のどかの望んだ結果になった。
赤い球団の勝利。
のどかは赤いタオルを掲げ、上機嫌で笑う。
美月は負けた側の応援用品を持ちながら、
「ええ試合やったら、どっちが勝ってもええ!」
と胸を張る。
「負けた側のファンの前で言うたら怒られるで」
「ウチ、そもそも千葉のファンやし」
「ほいじゃあ何しに来たん」
「野球見に来たんや!」
二人は最後まで仲良く――少なくとも本人たちの中では仲良く――言い争いながら球場を後にした。
数日後。
ヒロ室西日本分室。
玲奈が任務報告書を閉じる。
「違法賭博組織への情報流出は止まりました。盗聴記録、送信装置、送金記録もすべて確保しています」
美咲が補足する。
「保守会社へ潜入していた黒鷹関係者も特定できました」
結月が回収した記憶媒体を机へ置く。
「国外へ渡る前に押収しました」
「完全成功です」
玲奈が言う。
彩香も満足そうに頷いた。
「当然です」
一秒後。
その顔が険しくなる。
「それにしても、あのアホツインテール……」
麻衣が尋ねる。
「美月さんですか?」
「ほかに誰がおるねん!」
彩香は机を叩いた。
「任務中のあかりをグラウンドのど真ん中で大声で呼びよって! しかも赤ヘル娘まで麻衣を見つけるし、二人そろって厄災や!」
あかりは困った顔をする。
「でも、返事せんかったやに」
「口が動いとった!」
「彩香さんに無線で返事しただけやに」
「その返事もするな言うたやろ!」
「返事せんかったら、聞こえたか分からんやに」
「任務中の無線で、正論みたいに返すな!」
麻衣が静かに言う。
「名前を呼ばれて無視するのは、少し心苦しかったです」
「任務中は心を鬼にせえ!」
「美月さん、かなり大きな声でした」
「知っとるわ! 監視室まで聞こえそうやった!」
結月が尋ねる。
「美月さんたちは、なぜグラウンドへ降りていたのですか」
美咲が答える。
「ファン対抗のベースランニングです」
「何でよりによって、あの二人が選ばれんねん」
彩香は両手で頭を抱える。
「確率的には、かなり低かったと思います」
美咲が言う。
「確率いう言葉で、あの二人を説明したらあかん。あいつらは、選ばれたら困る時に限って選ばれんねん!」
あかりが笑う。
「美月さん、走るん速かったやに」
彩香が顔を上げる。
「見とったんか!」
「一瞬だけやに」
「任務中にベースランニング観戦すな!」
「視界に入っただけやに」
麻衣も言う。
「のどかさんは、途中で少し失速していました」
彩香が麻衣を見る。
「麻衣まで見とったんか!」
「グラウンド上なので、どうしても」
「二人とも余裕あるな!」
玲奈の口元が僅かに緩む。
彩香はまだ止まらない。
「あのアホツインテール、ええ加減にせえよ……」
麻衣が尋ねる。
「どうするんですか?」
彩香は怒りの勢いで立ち上がった。
「次に会うたら、内野の黒土を一粒ずつ全部数えさせたる! 一塁側から始めて、三塁側まで一粒も飛ばさずきっちりや!」
分室が静まる。
麻衣が首を傾げた。
「それって意味ありますか?」
彩香は数秒黙る。
「知らんわ、ボケェ~!」
玲奈の口元が、はっきりと緩んだ。
麻衣は見逃さない。
「玲奈さん、笑いました?」
玲奈はすぐに表情を戻す。
「笑っていません」
美咲も玲奈を見る。
「今は笑っていました」
「報告書を整理してください」
あかりが真剣な顔で考え始める。
「でも、黒土を一粒ずつ数えるんは無理やに」
「分かっとるわ!」
「途中でどこまで数えたか分からんようになるに」
「現実的な問題点を挙げるな!」
結月が淡々と言う。
「浜風で動きますね」
「風まで計算に入れんでええ!」
麻衣も続ける。
「グラウンド整備の邪魔になります」
「せやから実際にはやらへん!」
あかりが首を傾げる。
「ほな、何で言ったん?」
彩香の顔が引きつる。
「怒りの表現や!」
「美月さんなら、途中で飽きて黒土に絵を描き始めると思うやに」
全員が、その光景を想像した。
明るい色のツインテールを揺らしながら、内野の黒土へ巨大な海鳥のマークを描く美月。
彩香は椅子へ崩れ落ちるように座った。
「余計に腹立つ……」
麻衣が小さく頷く。
「かなり大きな絵になりそうですね」
「具体化せんといて!」
美咲が真面目に付け加える。
「線を消すには、全面的な再整備が必要です」
「被害想定まで始めるな!」
結月が言う。
「自転車ではグラウンドへ入れませんね」
「誰も結月の出動方法を相談してへん!」
あかりが手を挙げる。
「ほな、美月さんには土袋を運んでもらったらええやに」
彩香は一瞬考えた。
「……それはちょっとええ罰かもしれんな」
「美月さん、筋トレや言うて喜ぶと思います」
麻衣が答える。
彩香は再び机へ突っ伏した。
「何しても罰にならへん……」
玲奈は資料へ視線を落とし、笑いを隠した。
黒鷹は、球場の声を盗んだ。
選手の状態。
監督の決断。
ベンチで交わされた言葉。
それらを黒い金へ変えようとした。
だが、浜風は最後まで、黒鷹の思いどおりには吹かなかった。
麻衣が舞い。
あかりが突っ込み。
彩香が燃え。
結月が武庫川沿いを駆け抜けた。
満員の観客は何も知らない。
選手も知らない。
美月ものどかも知らない。
球場に残ったのは、静かな黒土と天然芝。
赤い球団の勝利を喜ぶ声。
黄色い縦縞軍団のファンが漏らす、いつもの愚痴。
そして、次の試合を待つグラウンドだけだった。
影で守られた日常は、何事もなかったように続いていく。
それこそが、NSTの勝利だった。




