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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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388/399

黄色い風船は黒い金を運ぶ夜 ――聖地球場、偽チャリティー募金事件

球場には、二つの顔がある。


試合が始まる前。


黒土は静かに均され、天然芝には夕方の光が斜めに落ちる。


巨大な照明塔が空を支え、外野から吹き込む浜風が、百年分の歓声を抱いたスタンドを抜けていく。


そこには荘厳さがあった。


春と夏には、全国から集まった高校球児が白球を追う。


勝者は歓喜の中で校歌を歌い、敗者は涙をこらえながら黒い土を袋へ詰める。


幾千もの青春、悔恨、執念が積み重なった土だった。


単なる野球場ではない。


野球という競技が生んだ記憶を、黒土と天然芝と古いコンクリートの中へ封じ込めた聖堂だった。


だが、黄色と黒の縦縞軍団が試合を始めれば、その荘厳さは長く続かない。


所在地は、どう確認しても兵庫県である。


それでも勝てば大阪の繁華街が騒ぎ、負ければ大阪の居酒屋で監督の人格まで批判される。


一勝すれば優勝したように浮かれ、一敗すれば今季が終わったように沈む。


好機で凡退すれば、


「何で振らへんねん」


と怒り、初球を振れば、


「何で待たへんねん」


と怒る。


投手が抑えても打線が打てない。


打線が点を取れば投手が吐き出す。


監督が動けば動いたことを責め、動かなければ地蔵と呼ぶ。


それでも翌日には、


「今日は勝つで」


と言いながら、同じ席へ戻ってくる。


勝っても負けても大騒ぎ。


文句を言いながら離れられない。


野球を愛しているのか、苦しみに金を払っているのか、自分たちでも分からなくなっている。


そんな騒がしく、面倒で、どうしようもなく人気のある球団だった。


黒鷹は、その熱狂を利用した。


怒りではない。


忠誠でもない。


狙われたのは、善意だった。


難病を抱える子どもたちを球場へ招待する。


元選手が病院を訪問する。


子ども向けの野球教室を開く。


遠方から観戦へ来る家族の交通費と宿泊費を支援する。


そんな活動を掲げる非公式の慈善団体が、球場周辺で募金を始めた。


団体名は、猛進こども応援基金。


募金へ協力すれば、限定の黄色い応援タオルがもらえる。


一定額以上を寄付すれば、球団OBの直筆と称する色紙。


さらに高額の寄付者には、試合前の練習見学、元選手との交流会、特別観戦席まで用意されるという。


球場外だけではない。


観客席へ続く通路。


売店付近。


スタンド裏。


縦縞の法被を着た募金係が立ち、写真入りの活動報告書を配っていた。


そこには病院で笑う子どもたちと、元選手らしき人物の姿があった。


公式団体ではない。


それでもファンは疑わなかった。


子どもたちのため。


野球のため。


同じ球団を応援する仲間のため。


その言葉を前に、財布から千円札を出す者は多かった。


実際には、集められた金の大半が黒鷹へ流れていた。


病院へ渡されたのは、全体のごく一部。


球場へ招待された子どもも、宣伝写真を撮るために集められた数人だけ。


元選手の署名は偽造。


限定タオルは無許可。


練習見学も特別観戦会も、その多くは存在しない。


黒鷹は僅かな実績だけを作り、百倍に膨らませて宣伝していた。


寄付者から集めた情報も利用された。


住所。


電話番号。


勤務先。


家族構成。


寄付額。


資産規模。


年間の観戦回数。


企業経営者には、高額寄付を断れば社会貢献に冷淡な人物だと公表すると迫る。


著名人には、寄付者一覧から名前を外す代わりに追加金を要求する。


熱心なファンには、子どもたちが待っていると繰り返し訴え、送金を続けさせる。


集められた現金は、試合当日の混雑へ紛れて球場外へ運び出されていた。


使われたのは、黄色い応援風船の段ボール箱だった。


数万の観客が出入りする球場では、飲料、食品、応援用品、清掃資材が絶えず搬入される。


黄色い風船の箱が数個増えても、誰も気にしない。


箱の底には現金。


緩衝材の間には寄付者名簿を保存した記憶媒体。


ファンの期待を空へ運ぶはずの風船が、黒鷹の金を運んでいた。


その夜、黒鷹はこれまでで最大額の現金と、数千人分の顧客情報を持ち出そうとしていた。


NSTへ、内部告発が届いた。


ヒロ室西日本分室。


西川彩香は、偽の慈善団体が販売していた黄色いタオルを机へ叩きつけた。


布には、縦縞と猛獣を組み合わせた、どこかで見たような図柄が印刷されている。


「負け試合を見せられるんは慣れとる」


岡本玲奈が書類から顔を上げた。


彩香は怒りに任せて続ける。


「監督の謎采配にも、残塁の山にも耐えてきた。期待の若手が一軍へ上がった途端に打てんようなるんも、先発が七回無失点で抑えたのに一点も取れんまま負けるんも見てきた」


「球団への不満は、今回の事件と関係ありません」


「まだあります」


「結構です」


玲奈の制止は通じなかった。


「毎回毎回、バースの再来いうて、使いモンにならへんポンコツ外国人助っ人選手つかまされても辛抱してきた!」


春日美咲が資料から顔を上げる。


白浜麻衣は、口を挟むべきか迷っている。


彩香は止まらない。


「春先に二本くらい本塁打打っただけで、今度こそ本物や言われて、気ぃついたら二軍で消息不明。翌年には何事もなかったみたいに新しい“バースの再来”が来る。その繰り返しにも耐えた!」


玲奈が静かに言う。


「かなり根に持っていますね」


「アホツインテールに日本シリーズで三十三対四言われた時も耐えた!」


麻衣が小声で尋ねる。


「耐えたんですか?」


彩香の目が鋭くなる。


「一週間、口きかんかっただけや」


「それは耐えていないと思います」


「黙ってください!」


彩香は偽タオルを指さした。


「負けるんはええ。よくはないけど、百歩譲ってええ。監督に腹立てるんも、助っ人に裏切られるんも、三十三対四を何年たっても蒸し返されるんも、ファンの宿命や!」


玲奈が淡々と訂正する。


「最後のものは、宿命ではありません」


「せやけど――」


彩香の声が低くなる。


「ファンの善意を食い物にするんだけは許されへん!」


播州の烈火。


その異名どおり、怒りへ完全に火がついていた。


「勝てん時でも応援する。負けても球場へ行く。子どものためや言われたら、財布から千円でも二千円でも出す。そんな人らの気持ちを、黒い金に変えやがった」


玲奈は送金資料を机へ並べた。


「押さえるべきものは三つです。現金、寄付者名簿、黒鷹への送金記録」


「全部取ります」


「選手と観客には、事件の存在を悟らせません」


「当たり前です。試合は最後までやらせます」


玲奈は彩香を見る。


「あなたは試合を見られませんが」


彩香の表情が止まった。


「……分かってます」


先ほどまでの勢いが、僅かに弱くなる。


玲奈は作戦図を広げた。


「美咲は偽チャリティー事務局へ。麻衣とあかりはスタンド。彩香はバックヤード。私は警備室から指揮します」


「球場外は?」


「大西結月に任せます」


元競輪選手。


自動車が渋滞へ捕まる球場周辺で、最も速く動けるのは彼女だった。


試合当日。


美咲は、偽チャリティー事務局の臨時職員として潜入する。


寄付者情報の入力。


領収書の整理。


募金額の集計。


大人しく几帳面な美咲は、事務局の人間からすぐに信用された。


目立たない。


余計な質問をしない。


指示された仕事を正確に片づける。


だが、その目は帳簿の数字を一つも見逃していなかった。


麻衣とあかりは、ビールの売り子としてスタンドへ入る。


明るい販売制服。


紙コップ。


背中には重い飲料タンク。


急な階段を上り下りし、何万人もの観客の間を歩く。


売り子なら、内野から外野近くまで自然に動ける。


観客席の通路。


売店裏。


飲料倉庫。


資材搬入口。


不審がられずに広い範囲を監視できる。


彩香は球場運営スタッフとして、スタンド裏と搬入口を担当する。


玲奈は外部警備監査員として警備室へ。


結月はスポーツ自転車で球場外へ待機した。


自動車、タクシー、送迎バス、観客の自転車。


試合後の道路は動かなくなる。


現金を持った工作員が逃げるなら、細い路地と高架下を使うはずだった。


麻衣は小柄だった。


飲料タンクを背負うと、身体がさらに細く見えた。


「お姉ちゃん、そんな小さい身体で重たないんか?」


すでに酔いの回った中年客が声をかける。


「少し重いです。でも大丈夫です」


麻衣は笑顔で答えた。


「一杯ちょうだい。泡少なめな」


「量は決まっています」


「そこを何とか」


「決まっています」


柔らかな声。


だが、譲らない。


客は笑って代金を払う。


「真面目やな。どこから来たん?」


「和歌山です」


「彼氏おるん?」


麻衣の笑顔は変わらない。


「ビールをお渡しします」


「答えてくれへんの?」


「次のお客様がお待ちですので」


麻衣は自然に会話を切った。


酔客に絡まれても、怒らない。


個人情報を漏らさない。


笑顔のまま、客の手元と通路の奥を同時に見る。


偽チャリティーの腕章をつけた男。


募金箱を回収する時刻。


黄色い風船の箱が運ばれる方向。


販売を続けながら、情報を一つずつ拾っていく。


売上も悪くない。


だが、麻衣にとってビールは偽装の道具でしかなかった。


一方のあかりも、販売だけなら完璧だった。


「ビールいかがですかー! よう冷えとるやに!」


大きく明るい声が、騒がしいスタンドによく通る。


「お姉ちゃん、元気ええな!」


「元気だけが取り柄やに!」


「一杯ちょうだい!」


「ありがとうございます!」


あかりの周囲には、すぐに客が集まった。


問題は、その後だった。


「お姉ちゃん、どっちのファンや?」


「今日は仕事やから、どっちも応援しとるやに」


「そんな答えあるかいな!」


「ほな、今打った方を応援するやに!」


「節操ないな!」


客たちは笑う。


あかりも笑う。


別の酔客が応援歌を歌い始める。


あかりまで手拍子を始めた。


「お姉ちゃんも歌え!」


「歌詞知らんやに!」


「ほな、今から教えたる!」


無線で聞いていた彩香が額へ手を当てる。


「あかり、周囲を警戒し」


『はい、彩香さん!』


返事だけは良かった。


数秒後には、酔客三人と応援歌を練習している。


「あかり」


『はい!』


「偽チャリティーの腕章を見ろ」


『今、三番まで教えてもらっとるやに』


「何の三番や!」


『応援歌です』


彩香は深く息を吐いた。


「あかりには、無理やったかもしれん……」


玲奈の声が返る。


『販売員としては、非常によく溶け込んでいます』


「溶け込みすぎです。もう半分、宴会の幹事です」


あかりは任務を忘れたつもりはなかった。


本人なりに周囲を見ている。


ただ、客との会話を楽しみすぎていた。


試合開始前。


大型映像装置へ、スタンドの観客が映し出される。


その中に、彩香が最も見たくない顔があった。


明るい色のツインテール。


黄色と黒の縦縞の応援服。


人気の左打ち長距離砲の名前が入ったタオル。


赤嶺美月。


友人ら数人と、完全な私用で観戦へ来ていた。


彩香の顔が引きつる。


「あのアホツインテール、千葉の海沿いの球団のファンやったやろ。何で居るん」


玲奈が確認する。


『友人に誘われたようです』


「何で今日なんですか」


『日程が合ったのでしょう』


「そこを聞いとるんやないです!」


美月はその日に限って、縦縞軍団の応援装備を完璧にそろえていた。


黄色い帽子。


縦縞の上着。


首には黄色いタオル。


手には、左打ちの大砲を応援する選手タオル。


大型映像装置が美月を抜く。


美月は自分が映ったことへ気づき、満面の笑顔で立ち上がる。


タオルを頭上へ掲げ、友人たちと左右に振る。


飛び跳ねる。


完全にノリノリだった。


彩香のこめかみが動く。


「こっちは任務やのに、何であのアホツインテールは楽しんどるんや」


麻衣が無線で答える。


『美月さんは、任務を知りませんから』


「分かっとるわ!」


彩香は映像装置を睨む。


「ウチかてプライベートで来たいわ!」


美月は選手タオルをさらに高く掲げる。


「何でサトテルやねん!」


『好きなんじゃないですか』


「普段、千葉の海鳥軍団応援しとるやろ!」


周囲の観客が美月へ気づき始めた。


「あれ、戦隊ヒロインの子ちゃう?」


「テレビで見たことあるで」


「ツインテールの子や」


誰もが知る大スターではない。


だが、十人に一人程度は気づく。


それが一番面倒な知名度だった。


数人が写真撮影を頼む。


美月は気前よく応じる。


「ええで! 一緒に撮ろ!」


子ども。


家族連れ。


縦縞の法被を着た酔客。


色紙を差し出されれば、サインまで書く。


スタンドの一角に、小さな人だかりができた。


彩香は頭を抱える。


「何で球場で即席サイン会始めとるんや……」


玲奈が答える。


『観客の通行は、完全には妨げていません』


「微妙に妨げとります!」


美月は事件を知らない。


NSTの任務も知らない。


ただ、野球を楽しんでいるだけだった。


その無邪気さが、彩香の怒りへ油を注いでいた。


試合中盤。


あかりがビールを売りながら、美月のいる区画へ入る。


「あかり!」


美月の声が飛んだ。


あかりは足を止める。


彩香が即座に叫ぶ。


「あかん。止まるな!」


だが、あかりは美月を無視できない。


「美月さん、来とったん?」


「来とったんちゃう。観戦しに来たんや!」


美月は、あかりの制服姿を上から下まで見る。


「よう見たら、ほんまにあかりやん。ビールの売り子のバイト始めたんか?」


「今日は、ちょっとお仕事やに」


「制服、めっちゃ似合っとるやん。どや、売れる?」


「そこそこ売れとるやに」


「ほな一杯ちょうだい!」


あかりがビールを注ぐ。


美月は財布を出しながら、質問を続ける。


「重たないん?」


「結構重いやに」


「時給ええん?」


「知らんやに」


「歩合あるん?」


「多分あると思うやに」


「何杯売った?」


「数えてないやに」


会話が終わらない。


彩香が無線へ割り込む。


「あかり、持ち場へ戻れ」


「今、美月さんにビール売っとるやに」


「売ったら戻れ!」


「美月さんが質問しとるやに」


「答えんでええ!」


美月は周囲の観客へ向かって声を張った。


「この子な、戦隊ヒロインやってるウチの仲間やで! みんな応援したって!」


あかりの顔が固まる。


「美月さん、それ言ったらあかんやに!」


「何で? 宣伝になるやん!」


周囲の縦縞ファンが一斉に反応する。


「戦隊ヒロインなん?」


「ほな一杯もらおか!」


「こっちも!」


「お姉ちゃん、頑張りや!」


注文が殺到した。


あかりは混乱しながら、次々にビールを注ぐ。


「順番にお願いしますやに!」


美月まで呼び込みを始める。


「はい、こっち並んで! この子、愛想ええで!」


「勝手に販売主任みたいにならんといてやに!」


噂は周辺の区画まで広がる。


戦隊ヒロインの売り子がいる。


愛想がいい。


声が大きい。


次々に注文が入る。


あかりの売上は急激に伸びた。


監視室の彩香は、無線機を机へ置いた。


「もう、あかりは知らん」


玲奈が隣で映像を見る。


「販売は非常に順調です」


「任務は一ミリも進んでません!」


「注文客が列を作り、あの区画の人の流れが整理されています」


「美月が勝手に即席販売促進イベント始めただけです!」


あかりは注文の波へ飲み込まれた。


黒鷹の腕章をつけた男が近くを通っても、気づく余裕はない。


本人だけは、一生懸命任務をしているつもりだった。


美咲は偽チャリティー事務局で、核心へ近づいていた。


表向きの寄付金台帳。


実際に集めた金額。


病院へ送られた金額。


三つの数字が合わない。


数千万円の寄付に対し、支援へ使われたのは数百万円。


残りは応援用品制作費、輸送費、事務手数料として、複数のフロント企業へ流されている。


美咲は寄付者名簿と送金記録を複製する。


だが、事務局長が端末操作へ気づいた。


「何をしている」


美咲は画面を閉じる。


「重複登録の確認です」


「そのファイルへ触る権限はない」


大人しく目立たない臨時職員。


事務局長は、美咲を完全に油断していた。


だが、その静かな目に迷いがないことへ、ようやく気づく。


事務局長は黒鷹の工作員へ連絡を入れた。


「捜査が入っている。現金と名簿を出せ」


計画が予定より早く動き始める。


黄色い風船の段ボール箱が、スタンド裏のバックヤードへ集められる。


底には募金箱から抜かれた現金。


内部には寄付者名簿を保存した記憶媒体。


麻衣が動きを捉えた。


「対象の資材箱が移動します」


玲奈が答える。


『追跡してください。彩香も合流します』


麻衣は飲料タンクを返却場所へ置き、売店裏へ入る。


表では試合が続いている。


歓声。


太鼓。


応援歌。


ビールを求める声。


その裏側では、黒鷹の男たちが黄色い箱を運んでいた。


麻衣は出口へ先回りする。


「その箱を置いてください」


男たちが足を止める。


「売り子が何の用だ」


麻衣は答えない。


一人が麻衣の腕をつかもうとする。


半歩下がる。


指先が空を切る。


横から拳が飛ぶ。


麻衣は身体を回転させるようにかわした。


一歩。


半歩。


再び回転。


狭い通路を、舞台の上のように動く。


紀州の舞姫。


ビールケース。


配膳台。


資材棚。


周囲のすべてが、麻衣の足場になる。


男の拳をかわし、その腕を別の工作員の進路へ重ねる。


二人が衝突する。


麻衣は隙間へ滑り込み、手首を取る。


身体を反転。


相手を床へ流す。


「その箱は渡しません」


三人目が伸縮式の警棒を抜く。


振り下ろす。


麻衣は金属トレーで軌道を逸らした。


高い音。


だが、観客席の歓声に飲み込まれる。


二撃目。


麻衣は低く沈む。


男の脇を抜け、膝裏を払う。


床へ伏せる。


背後から別の男が迫った。


その腕を、横から彩香がつかむ。


「うちの球場で、何好き勝手しとるんや」


腕をひねる。


壁へ押しつける。


足を払う。


男が床へ落ちた。


「ファンの善意で集めた金やぞ」


彩香の声は低かった。


「お前らみたいなんが触ってええ金ちゃうわ!」


反対側の通路から玲奈が現れる。


逃走しようとした工作員の前へ立つ。


男が金属棒を振り上げる。


玲奈は最小限の動きでかわした。


腕を取る。


肘を制し、壁へ押さえ込む。


彩香が正面を崩す。


麻衣が軽快に側面へ回る。


玲奈が退路を閉じる。


黒鷹の工作員は、観客席から見えない通路で次々に倒されていく。


スタンドでは、大きな歓声が上がった。


場内の空気が揺れる。


左打ちの大砲が打席へ入っている。


次の一球。


打球が高く上がる。


浜風を切る。


そのままスタンドへ飛び込んだ。


本塁打。


球場全体が爆発したような歓声に包まれる。


黄色いタオルが舞う。


大型映像装置へ、美月が映る。


ツインテールを跳ねさせ、選手タオルを掲げて大喜びしている。


バックヤード。


彩香は工作員の腕を押さえながら、歓声を聞いた。


「……今、打ったん誰や」


麻衣が無線の場内速報を確認する。


「美月さんが持っていたタオルの選手です」


彩香の顔が引きつる。


「何でやねん!」


麻衣は戸惑う。


「本塁打を打ったからだと思います」


「そういう意味ちゃう!」


彩香は観客席へ出られない。


目の前には黒鷹。


大型映像装置には、千葉の海鳥軍団を応援しているはずの美月。


「こっちは任務で見られへんのに、何であのアホツインテールが一番ええ場面見とるんや!」


玲奈が冷静に言う。


「任務へ集中してください」


「集中しとります!」


彩香は工作員の腕をさらに締め上げる。


男が苦痛の声を漏らした。


「彩香、必要以上に力を入れないでください」


「入れてません!」


明らかに入っていた。


バックヤードの制圧には成功した。


だが、現金と顧客名簿の一部は、すでに別の工作員へ渡されていた。


男は配達員を装い、球場外の業務用通路から逃げる。


黄色い風船の箱を荷台へ固定。


記憶媒体は小型バッグの中。


移動手段は電動自転車。


試合終盤の球場周辺は、車では動けない。


狭い住宅街と高架下を使って逃げるつもりだった。


玲奈が指示する。


『結月。対象が東側通路から出ました』


大西結月は、スポーツ自転車へまたがった。


「確認しました」


工作員の電動自転車が路地へ入る。


結月が追う。


観戦帰りの客。


買い物帰りの住民。


路上駐車。


子どもを乗せた自転車。


結月は速度だけで追わない。


歩行者の動き。


車の陰。


信号。


道幅。


傾斜。


元競輪選手として高速集団を走り抜けた判断力が、すべてを読む。


工作員は後方を見る。


女が一人、自転車で追ってくる。


振り切れると思った。


電動補助を最大にし、細い住宅街へ入る。


結月は距離を縮める。


男が空き缶の入った袋を投げた。


缶が路上へ散る。


結月はハンドルを僅かに切る。


一つ。


二つ。


三つ。


前輪が隙間を正確に抜ける。


速度は落ちない。


高架下。


工作員が急に左へ曲がる。


結月はその角へ入らない。


一つ手前の路地へ飛び込む。


駐車車両すれすれの細道。


住宅の裏。


自転車一台が通れるだけの抜け道。


結月は工作員の前へ出る。


男が驚き、急制動する。


結月は再び進路を開けた。


あえて逃がす。


追い込みたい場所があった。


鉄製の車止めが並ぶ、幅の狭い遊歩道。


電動自転車では速度を出せない。


工作員は別の路地へ曲がる。


結月は後輪へ張りつく。


「その荷物を置いてください」


「どけ!」


男が自転車をぶつけようとする。


結月は半歩分だけ前へ出る。


相手の前輪が届く前に、進路を変える。


男だけが壁側へ膨らむ。


ハンドルが塀へ触れ、態勢が崩れる。


それでも逃げる。


前方には狭い自転車用通路。


両側に車止め。


結月が先へ入る。


出口で急減速。


工作員は追いつき、行き場を失った。


反対側から県警の自転車警ら隊が現れる。


前に結月。


後ろに警察。


男は自転車を捨て、バッグを持って走る。


別の仲間へ投げ渡そうと、バッグを放った。


結月は自転車から降り、一歩踏み込む。


空中でバッグを受け止める。


男が奪い返そうと腕を伸ばす。


結月は身体を反転させ、その勢いを外へ流した。


工作員が路面へ倒れる。


県警隊員が押さえ込む。


結月はバッグを開けた。


現金。


寄付者名簿。


送金記録。


すべて無事だった。


「対象物を確保しました」


玲奈の声が返る。


『ご苦労さまです』


遠くで球場の歓声が響いている。


選手もファンも、自転車による追跡が数百メートル先で行われていたことを知らない。


それでよかった。


後の捜査によって、偽チャリティー団体の全容が暴かれた。


黒鷹へ流れた寄付金。


架空の支援事業。


偽造された署名。


無許可の応援用品。


寄付者情報を使った詐欺と恐喝。


関連するフロント企業の口座は凍結。


団体代表、事務局長、工作員は逮捕された。


押収された現金は、可能な限り寄付者へ返還される。


本当に支援を必要とする子どもたちへは、球場側と正規の福祉団体が改めて支援策を整えることになった。


選手とファンには、何の被害も出なかった。


試合は最後まで続いた。


スタンドでは応援歌が流れ、ビールが売られ、勝敗へ一喜一憂する声が響いた。


事件の存在に気づいた者はいない。


ただし、任務とは別の分野で、記録的な成果を挙げた者が一人いた。


山本あかり。


その日のビール販売数、上位。


販売店の責任者から、


「新人とは思えない売上です。次の試合もぜひお願いします」


と正式に感謝された。


ヒロ室西日本分室。


任務報告が終わる。


美咲は送金記録を提出。


麻衣は偽腕章と回収した現金箱を整理する。


結月は寄付者名簿の記憶媒体を机へ置いた。


玲奈が報告書を閉じる。


「偽チャリティー団体の資金経路を断ちました。寄付者情報の流出もありません」


彩香も頷いた。


「任務としては成功です」


あかりの顔が明るくなる。


その瞬間、彩香が指を向けた。


「ただし、あかり」


「はい」


「ウチは、ビールの売り子を装ってスタンドを警戒せえ言うた」


「はい」


「ビールを売れとは、一言も指示してへん」


あかりは真顔で答える。


「でも、ビールの売り子がビール売らんかったら、怪しいやに」


「限度いうもんがある!」


「たくさん売ってくれてありがとうございましたって、販売店から感謝されたに」


「そこやないわ!」


「次の試合も来てくださいって言われたやに」


「次の勤務予定まで決めてくるな!」


あかりは鞄から一枚の紙を出した。


「これ、販売成績の表やに」


彩香の顔が止まる。


「何で持って帰ってきとるんや」


「上位やったから記念にくれたに」


「証拠品より大事そうに出すな!」


麻衣が表を見る。


「あかり、かなり上ですね」


「そうやろ?」


「麻衣、感心せんでええ!」


美咲も数字を確認する。


「あかりの販売区画は、平均よりかなり多いです」


「美咲まで分析すな!」


あかりは胸を張った。


「美月さんが宣伝してくれたおかげやに」


「その名前を出すな!」


彩香の怒りが別方向へ点火する。


「あのアホツインテール、ほんまにええ加減にせえよ!」


玲奈が尋ねる。


「今度は何ですか」


「今度も何も、全部です!」


彩香は大型映像装置の録画写真を机へ置いた。


本塁打の瞬間。


選手タオルを掲げ、飛び跳ねる美月。


「こっちはバックヤードで黒鷹押さえとったから、サトテルの本塁打見られへんかったんやぞ!」


玲奈は冷静に答える。


「任務中ですから」


「分かってます!」


「あの場面は、後で映像で確認できます」


「現地の一発と録画は違うんです!」


結月が静かに言う。


「打球音は、確かによく聞こえました」


彩香が結月を見る。


「何で追跡中の結月まで聞いとるんや!」


「球場の近くにいましたから」


「ウチが一番近くにおったのに、見られへんかったんや!」


あかりが笑顔で言う。


「美月さん、めっちゃ喜んどったやに」


「知っとる! 映像装置に抜かれとったからな!」


「千葉のチームのファンでも、ええ選手は応援したいんやない?」


「何であいつだけ球団間の自由恋愛しとるんや!」


麻衣が尋ねる。


「応援する球団は、一つでないといけないんですか?」


彩香が止まる。


「……別に規則はないけど」


「では、問題ないですね」


「気持ちの問題や!」


あかりが売上表を見ながら言う。


「美月さんが来たおかげで、ビールも売れたしな」


「その話へ戻すな!」


「あの本塁打の後、さらに注文増えたやに」


「試合展開と販売分析を始めるな!」


美咲が淡々と補足する。


「得点直後は客の購買意欲が上がる傾向があります」


「美咲までマーケティング会議にすな!」


玲奈は口元を僅かに緩めながら、書類を整理する。


彩香はまだ止まらない。


「しかも、あのアホツインテールは前に、ウチへ三十三対四、三十三対四って何回も言うてきたんやぞ!」


あかりが首を傾げる。


「何の数字やに?」


分室が静かになる。


彩香がゆっくり振り返った。


「知らんでええ」


「野球の点数?」


「知らんでええ!」


「三十三点取られたん?」


「全部を一試合で取られたわけちゃう!」


「ほな、何試合?」


「聞くな!」


麻衣が小声で言う。


「説明すると傷が深くなりそうですね」


「麻衣、よう分かっとるやないか」


結月が尋ねる。


「美月さんは、今も言うのですか」


「ことあるごとに言う!」


あかりが無邪気に尋ねる。


「今日、美月さんに会ったら言われるかもしれんやに」


彩香の顔が引きつる。


「会わせるな」


「でも、ビール買ってくれたお礼を言わな」


「絶対会わせるな!」


麻衣が尋ねる。


「美月へ、どうするつもりですか?」


彩香は怒りの勢いで立ち上がった。


「次会うたら、浜風の中で黄色い風船千本ふくらませて、アルプス席の最上段から一人で全部飛ばさせたる!」


分室が静まり返る。


麻衣が首を傾げる。


「それって、意味ありますか?」


彩香は数秒黙る。


「知らんわ。ボケェ」


玲奈の口元が緩んだ。


麻衣はすぐに気づく。


「玲奈さん、笑いました?」


玲奈は表情を戻す。


「笑っていません」


結月も玲奈を見る。


「今は、はっきり笑っていました」


「報告を続けてください」


あかりが手を挙げる。


「風船千本ふくらませるなら、私も手伝うやに」


「何で罰を共同作業にするんや!」


「販売店に空気入れ借りられるかもしれんに」


「業者へ相談すな!」


麻衣が真面目に考える。


「千本を一人で膨らませるのは、時間がかかります」


「計算せんでええ!」


美咲が続ける。


「衛生面を考えると、口ではなく器具を使う方が適切です」


「実施前提で安全管理すな!」


結月が言う。


「アルプス席の最上段まで運ぶなら、自転車は使えませんね」


「誰も運搬計画聞いてへん!」


あかりが販売成績表をしまいながら言う。


「でも、美月さんは喜んでやりそうやに」


彩香の動きが止まる。


全員が、その可能性を考えた。


美月なら、


「千本飛ばしたら大型映像装置に映るんちゃう?」


と言って、本気で楽しむかもしれない。


彩香は椅子へ崩れるように座った。


「罰にならへん……」


麻衣が頷く。


「そうですね」


「そこは即答せんといて」


玲奈はとうとう視線を資料へ落とし、笑いを隠した。


あかりは何事もなかったように尋ねる。


「次の試合、売り子の予定入れてもええ?」


彩香が勢いよく顔を上げる。


「入れるな!」


「販売店の人、待っとるやに」


「NSTを副業の人材派遣会社にすな!」


「でも、潜入の練習になるに」


「もうお前は、客と応援歌歌ってビール売るだけやろ!」


「三番まで覚えたやに」


「誇らしげに言うな!」


分室へ笑い声が広がった。


黄色い風船は、本来、ファンの期待を乗せるものだった。


勝利を願う気持ち。


選手へ送る声。


今日こそ打ってほしいという、身勝手で純粋な祈り。


黒鷹は、その箱へ黒い金を隠した。


だが、現金も名簿も外へは渡らなかった。


麻衣が舞うように敵を崩し。


彩香が怒りを力へ変え。


玲奈が逃げ道を閉じ。


美咲が帳簿の嘘を暴き。


結月が狭い路地を走り抜けた。


そして、あかりは――


任務とは別のところで、ビールを大量に売った。


荘厳な球場は、何事もなかったように次の試合を迎える。


黒土は黙っている。


天然芝も、浜風も、スタンド裏で起きた攻防を語らない。


残るのは、勝った喜びか、負けた愚痴だけ。


また新しい助っ人へ、


「今度こそバースの再来や」


と期待し。


何年たっても三十三対四を蒸し返され。


監督の采配へ文句を言いながら、それでも次の日には球場へ向かう。


その騒がしく、面倒で、どうしようもなく愛されている日常を守ることこそ、NSTの任務だった。

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