紫の封筒は喝采を盗む ――富裕層ファンを喰う、黒鷹の偽お茶会
拍手には、値段がない。
舞台へ立つ者への敬意。
長い稽古を重ねた者への感謝。
夢を見せてもらった観客が、自分の両手だけで返せる、最も素朴な礼だ。
それを数える機械はない。
銀行へ預けることもできない。
だが黒鷹は、その拍手に値札をつけた。
良い席で見たい。
応援するスターに、少しでも近づきたい。
退団の日を、忘れられない思い出にしたい。
誰かを純粋に応援する心は、時として理屈より強い。
黒鷹は、その強さを弱点へ変えた。
紫色の封筒へ夢を詰めるふりをして、その内側へ獲物の値段を書き込んだ。
宝塚市内。
少女歌劇の大劇場からほど近い場所に、歴史ある高級ホテルが建っていた。
格式を感じさせる石造りの外壁。
磨き上げられた大理石の床。
天井から下がるシャンデリア。
ロビーの中央には季節の花が生けられ、グランドピアノの黒い表面へ柔らかな照明が映っている。
観劇を終えた客が余韻を語り合う。
遠方から来たファンが、翌日の公演を楽しみに部屋へ戻る。
劇場とともに歩んできたホテルには、舞台の夢を持ち帰る場所としての品格があった。
その宴会場で、月に数回、非公式の会員制イベントが開かれていた。
主催者は、紫苑会プレミアムサロン。
表向きは、少女歌劇を愛する富裕層のための観劇支援組織だった。
入会金、百万円。
年会費、五十万円。
特別観劇ツアーへ参加するたび、数十万円から数百万円。
高額だった。
だが、提示される特典は魅力的に見えた。
一般販売では入手困難な良席。
退団公演や記念公演の優先手配。
人気劇団員と少人数で過ごせるお茶会。
舞台衣装をモチーフにした会員限定品。
非公開稽古場の見学。
関係者だけが集まるという食事会。
劇団員本人から届く直筆の礼状。
会員の中心は、会社経営者、医師の妻、資産家、著名人、政治家一族。
金だけでは買えないとされるものを、金によって手に入れたい人間たちだった。
しかし、特典の大半は架空だった。
良席は一般販売や転売市場からかき集めたもの。
限定品は、市販品の包装を替えただけ。
稽古場見学と称して案内されるのは、無関係な貸しスタジオ。
直筆礼状は、筆跡を似せた偽造品。
存在しない特別公演への前金まで集めていた。
劇団員が出席するお茶会も、本人が現れるのは冒頭の短い挨拶だけだった。
劇団側は、ホテルの正式なファン交流行事だと聞かされている。
紫苑会が舞台裏で何を売り文句にしているのかまでは知らない。
劇団員が退席した後、主催者は参加者へ囁く。
次は、もっと私的な時間を用意できる。
さらに高い会員資格へ進めば、一般のファンには許されない特別な交流が待っている。
嘘は、夢に似た衣装を着ていた。
被害者たちは、簡単には警察へ訴えなかった。
家族へ内緒で大金を支払った。
応援する劇団員へ迷惑をかけたくない。
自分だけは特別な存在だと思っていた。
詐欺に遭ったと認めるのが恥ずかしい。
黒鷹は、支払わせた後に、その恥を新しい商品へ変えた。
入会時に提出させる個人情報は詳細だった。
家族構成。
資産状況。
利用銀行。
勤務先。
観劇予定。
宿泊先。
応援している劇団員。
家族へ隠している支出。
人に知られたくない交友関係。
夫に秘密で高額な会費を払った女性には、請求明細を自宅へ送ると脅す。
会社経費を流用した経営者には、帳簿の写しを持っていると告げる。
政治家一族には、私的な観劇旅行の写真を週刊誌へ渡すと迫る。
詐欺は、やがて恐喝へ変わった。
集められた金は、劇場周辺の花店、観光会社、衣装関連会社、飲食店を装ったフロント企業へ分散される。
花代。
旅行代金。
衣装制作費。
宴会費。
広告費。
一つ一つは、ごく普通の商取引に見えた。
複数の口座を経由した後、金は黒鷹の活動資金へ姿を変える。
会員の資産規模と利用価値を示していたのが、イベントで配られる紫色の封筒だった。
封筒の内側には、肉眼では見落とすほど細かな記号が印刷されている。
星の数は資産規模。
細い線は、家族へ秘密を持つ者。
黒い点は、追加の恐喝が可能な対象。
縁の模様は送金先となるフロント企業。
華やかな封筒は、招待状を包むためのものではない。
黒鷹が獲物を分類する札だった。
ヒロ室西日本分室。
西川彩香は、押収された紫色の封筒を机へ叩きつけた。
乾いた音が室内へ響く。
「熱心なファン心理を巧みに利用した卑劣な詐欺や。許せん」
普段の彩香なら、怒りの中にも毒のある冗談を混ぜる。
その日は違った。
封筒の内側に印刷された黒い点を睨み、声を低くする。
「誰かを応援したいいう気持ちに、上も下もない。金持っとるから、だましてええ理由にもならへん」
岡本玲奈は、送金記録へ目を通していた。
「紫苑会は、詐欺で得た金だけを黒鷹へ渡しているのではありません」
「個人情報か」
「ええ。資産家や政治家一族の行動記録は、犯罪組織にとって価値があります。脅迫、誘拐、企業工作。使い道はいくらでもある」
彩香の顔がさらに険しくなる。
「夢を売るふりして、客の生活ごと売っとるんか」
玲奈は一枚の案内状を机へ置いた。
次回のプレミアムお茶会。
開催場所は、大劇場近くの高級ホテル。
少女歌劇の人気劇団員が短い挨拶へ訪れ、その後、最上級会員だけを対象とする契約説明会が行われる。
同じ夜。
紫苑会の代表は、顧客データを海外の協力組織へ引き渡す予定だった。
「詐欺の証拠、送金記録、顧客名簿。すべてを同時に確保します」
「会員の名前は絶対に外へ出さん」
彩香が言った。
「だまされた人を笑う奴がおったら、ウチが先に黙らせます」
玲奈は静かに頷いた。
「被害者を裁く任務ではありません」
狙うのは、紫苑会。
その背後にいる黒鷹だけだった。
お茶会当日。
ホテルの大宴会場は、淡い紫と白を基調に飾られていた。
丸いテーブル。
銀のティーセット。
花の香り。
舞台上には少女歌劇の公演写真が並び、弦楽四重奏の穏やかな音色が流れている。
会員たちは上品な装いで集まっていた。
誰もが期待を抱いている。
自分だけに特別な扉が開く。
その幻想を胸に、紫色の封筒を受け取る。
会場スタッフとして潜入したのは、迫田澪香と迫田澄香。
華やかなドレス姿だった。
澪香は、深い青を基調にしたロングドレス。
光を受けた時だけ、細かな刺繍が静かに浮かび上がる。
澄香は、同じ意匠を持つ淡い銀紫のドレス。
双子であることを印象づけながら、完全に同じには見せない。
装飾は控えめ。
会員や招かれた劇団員より目立ちすぎず、それでいて高級ホテルの宴会場へ自然に溶け込む。
澪香は会場内の接遇担当。
飲み物。
座席案内。
参加者の要望。
澄香は受付。
招待状を確認し、会員名と席を照合し、紫色の封筒を渡す。
二人の仕事には、隙がなかった。
澪香は、一度聞いた飲み物の好みを忘れない。
砂糖を入れない客。
紅茶へレモンだけを添える客。
カフェインを避けている客。
二杯目から白湯へ替える客。
澄香は、参加者の顔、名前、座席、封筒の記号を正確に記憶する。
「佐伯様、お連れ様は先にお席でお待ちです」
「久我様、紫の封筒はこちらでございます」
笑顔。
声の高さ。
歩幅。
客との距離。
すべてが自然だった。
会員たちは、二人を長年ホテルで勤務する熟練スタッフだと思い込んだ。
今回、会員側から潜入するのは西園寺綾乃。
京都の旧家に連なる資産家令嬢。
その身分は偽装ではない。
綾乃が本来持つ立場を、そのまま利用する。
淡い色の着物。
控えめだが質の分かる宝飾品。
柔らかな京ことば。
背筋を伸ばして座るだけで、周囲の空気が整う。
紫苑会の幹部にとって、綾乃は最も欲しい新規会員だった。
資産がある。
上流社会への人脈がある。
綾乃を取り込めば、その向こうにさらに多くの顧客がいる。
幹部は、綾乃の前へ特別契約書を置いた。
「西園寺様でしたら、通常会員とは異なる最上級枠をご用意できます」
綾乃は穏やかに微笑む。
「どのような特典がございますのやろ」
「劇団員の方との、より私的な交流でございます」
「それは、劇団の方も承認してはるのですか」
幹部の笑顔が僅かに止まる。
「もちろん、表立って申し上げられない関係もございますので」
綾乃は契約書へ目を落とす。
「表立って言えへんことに、先に三百万円お支払いするんどすなあ」
柔らかい。
だが、逃げ道を塞ぐ問いだった。
「信頼いただいた方だけへ、ご案内しております」
「信頼いうのは、どちらがどちらを信じることなんやろ」
幹部の指が動く。
綾乃は追い詰めすぎない。
疑っていない令嬢の顔へ戻り、送金先、紹介報酬、追加会費について尋ねる。
その会話は、澄香の記録装置を通じて玲奈たちへ送られていた。
ホテルの別室。
玲奈と彩香が監視画面を見ている。
「綾乃、えげつないほど上品に追い込んどるな」
彩香が呟く。
「相手は、自分から余計な説明を始めています」
玲奈が答える。
画面の中で綾乃が微笑む。
「そら、京都の資産家令嬢へ“裏の特別枠”売ろういうんや。相手が悪かったな」
ホテル内の外周支援には、白浜麻衣と山本あかりが入っていた。
麻衣はホテルスタッフ用通路と厨房搬入口を監視。
あかりはロビー、エレベーターホール、地下駐車場への動線を担当する。
河合美音はホテル周辺で待機。
黒い大型自動二輪。
逃走車両が出れば、即座に追跡する。
調査は順調だった。
澄香は、封筒の記号と会員情報の対応関係を把握。
澪香は、幹部たちが会員の支払額と家族情報を照合する会話を記録。
綾乃は裏契約書へ署名する直前まで踏み込み、複数の送金先を特定。
麻衣は会場裏のサービスルームで、ホテル備品に偽装された携帯型データ端末を発見する。
あかりは、地下駐車場へ入った黒いワゴン車を確認した。
車両の登録名義は、紫苑会と取引のある観光会社。
黒鷹のフロント企業だった。
宴会終了後。
顧客データ。
脅迫対象者一覧。
送金記録。
それらが地下駐車場で海外の協力者へ渡される。
あと一歩だった。
そのホテルでは同じ時間、別の会場で地域文化と観光振興をテーマにしたシンポジウムが開かれていた。
神戸放送が取材へ入っている。
レポーターは三好さつき。
取材を終えたさつきは、カメラマンとともにロビーへ出てきた。
制服姿のあかりが、エレベーターホールへ向かって歩いている。
二人の目が合った。
さつきの顔が明るくなる。
「あかりちゃん!」
あかりの足が止まった。
監視室で、彩香が額へ手を当てる。
「止まるな……頼むから、そのまま行け……」
あかりにはできなかった。
さつきは年上の仲間である。
声をかけられて無視するなど、あかりの性格にはない。
「さつきさん、こんにちはやに」
「こんなところで何してるん?」
「ちょっと、お仕事です」
「ホテルのお仕事? あかりちゃん、接客もするんやね。制服、似合ってるよ!」
「ありがとうございます」
「取材終わったから、この後一緒にお茶せえへん? ここのケーキ、すごく評判ええんよ」
あかりは断ろうとする。
だが、さつきの話は止まらない。
シンポジウムの内容。
取材で会った文化人。
ホテルのケーキ。
隣の会場で少女歌劇のお茶会が行われていること。
あかりは、一つ一つ丁寧に返事をする。
彩香の声が無線へ飛ぶ。
『あかり、持ち場へ戻れ』
「でも、さつきさんが話してるやに」
『年上でも何でもええ。今は無視せえ』
「無視したら失礼やに」
『任務中に礼儀正しさを発揮すな!』
「今、話の途中やに」
『その話は国家安全保障より大事なんか!』
「ケーキの話です」
『もっとあかんわ!』
麻衣が危機を察知した。
ロビーへ現れ、ホテルスタッフらしい落ち着いた声で呼ぶ。
「山本さん。地下の備品確認をお願いします」
あかりはようやく動く。
「ごめんなさい。仕事へ戻るやに」
「頑張ってね! 後で連絡する!」
さつきは笑顔で手を振った。
任務の存在には気づいていない。
だが、その数分間。
地下駐車場へ向かうエレベーターの監視に空白が生まれた。
紫苑会の幹部が、黒いケースを持って会場を抜け出す。
澄香が通信を入れる。
「対象が移動しました。地下へ向かっています」
彩香が立ち上がる。
「追うで。今度こそ逃がさん」
宴会場。
招かれた劇団員の短い挨拶が終わった。
会員たちは拍手を送り、写真撮影と歓談を楽しんでいる。
劇団員本人は、紫苑会の裏の顔を知らない。
自分を応援してくれる人たちへ、笑顔で礼を述べて退席する。
その拍手の裏側で、黒い取引が動き始めた。
紫苑会の代表は、綾乃の質問が鋭すぎることへ気づいていた。
さらに、迫田ツインズの動きがスタッフとして正確すぎる。
代表が実働員へ目配せする。
会場裏のサービス通路。
澪香と澄香の前後を、黒いスーツ姿の男たちが塞ぐ。
「少し、お話を伺えますか」
男は丁寧に言った。
目だけが冷たい。
澪香は接客用の笑顔を崩さない。
「何か不手際がございましたでしょうか」
「あなた方は、どこの派遣会社から来た」
澄香が静かに答える。
「運営本部へお問い合わせください」
男が澄香の腕をつかもうとする。
指先が届く直前、澄香が動いた。
手首を外側へ流す。
男の親指を押さえ、肘を折る。
華やかな銀紫のドレスが、静かに翻る。
男の身体が壁際へ回された。
澪香は背後の装飾鏡に映った影を見る。
別の男が拳を振るう。
身体を沈めてかわす。
懐へ入る。
肘を脇腹へ当て、相手の腕を抱え込む。
腰を切る。
男の身体が、音を抑えながら厚い絨毯へ落ちた。
三人目がサービスワゴンを蹴り飛ばす。
銀のトレーとグラスが宙へ舞う。
澄香はワゴンをかわし、壁を蹴るように身体を反転させる。
ドレスの裾が円を描く。
踵が男の手首を打ち、伸縮式の警棒が床へ落ちる。
澪香がその警棒を足で弾き、通路の端へ滑らせた。
「澄香」
「分かってる」
二人は走り出す。
高い靴音がホテルの裏通路へ響く。
ドレスの裾を片手で持ち上げながらも、速度は落ちない。
会場の客が見る優雅な双子は消えていた。
残ったのは、互いの動きを誰より正確に読む二人のエージェントだった。
地下駐車場。
紫苑会幹部が、顧客データの入った黒いケースを持ってワゴン車へ向かっている。
麻衣がコンクリート柱の陰から現れた。
「その荷物を置いてください」
幹部は足を止めない。
反対側から、あかりが進路を塞ぐ。
「逃がさんやに」
ワゴン車の周囲で、複数の扉が開く。
黒鷹の工作員が降りる。
五人。
運転席に一人。
さらに駐車車両の陰から二人。
麻衣とあかりは左右を囲まれる。
そこへ、迫田ツインズが到着する。
深い青と銀紫。
二人のドレスが、地下駐車場の冷たい蛍光灯を反射する。
華やかな宴会場から、そのまま戦場へ降りてきたようだった。
工作員の一人が笑う。
「会場係とホテルの女で、何ができる」
あかりが一歩前へ出る。
「やってみたら分かるやに」
男が突進した。
あかりは退かない。
相手より速く踏み込む。
肩を胸へぶつける。
腰を落とし、身体ごと持ち上げるように前へ押す。
男の背中がワゴン車の側面へ激突する。
車体が揺れ、警報装置が鳴り始めた。
赤いライトが点滅する。
四日市の突貫娘。
あかりは一人目が崩れる前に、二人目へ向かう。
男が警棒を振り下ろす。
あかりは腕で受けない。
懐へ飛び込み、肘の内側を突き上げる。
警棒が高く浮く。
手首へ掌底。
武器が落ちる。
そのまま胸元をつかみ、男を駐車場の柱へ押し込む。
「人数そろえたら勝てる思うたら、大間違いやに!」
その声が地下へ響く。
麻衣は、あかりと正反対の線を描く。
敵の正面に立たない。
駐車車両の間へ入る。
一歩。
半歩。
回転。
拳をかわす。
男の腕を取り、勢いを車体側へ流す。
身体がボンネットへ伏せられる。
紀州の舞姫。
別の男が背後から麻衣へ飛びかかる。
麻衣は車のサイドミラーへ映った動きを見る。
身体を低く沈める。
男は勢いを止められず、前の相手へぶつかる。
麻衣は二人の間を抜け、片方の膝裏を払う。
倒れた相手の手首を取り、床へ固定する。
「遅いよ」
澪香は青いドレスの裾を翻し、正面から相手の懐へ入る。
男の拳を肩で外す。
腕を抱え込み、足をかける。
力強い投げ。
男の身体がコンクリートへ落ちる直前、澪香は襟を引き、頭だけは打たせない。
そのまま腕を背中へ回し、動きを封じる。
澄香は銀紫のドレスのまま、二人の工作員を相手にする。
視線。
肩の動き。
重心。
攻撃が始まる前に、次の一歩を読む。
一人目の蹴りを半歩でかわす。
二人目が横から腕を伸ばす。
澄香はその腕を取り、最初の男の進路へ重ねる。
二人が衝突する。
片方の足を払う。
もう片方の肘を極める。
無駄な力を使わない。
だが、動きには容赦がなかった。
澪香と澄香が背中合わせになる。
双子の視線は交わらない。
声もかけない。
それでも、互いの位置を完全に理解している。
澪香が前へ押し出した男を、澄香が足払いで倒す。
澄香へ向けられた警棒を、澪香が腕ごと横から止める。
澪香が低く身を沈める。
その肩を踏み台にするように、澄香が身体を浮かせる。
ドレスの裾が大きく広がる。
蹴りが男の手首を捉え、警棒が回転しながら床へ落ちる。
着地した澄香が手首を取る。
澪香が肩を押す。
男が膝から崩れる。
四人の動きが一つにつながっていく。
あかりが敵の中央を破る。
麻衣が空いた側面へ入る。
迫田ツインズが左右から逃げ道を閉じる。
黒鷹の包囲は、逆に四人を中心として崩壊していく。
工作員が車両のドアを開け、四人へ向けて突進させようとする。
麻衣が動きを察知する。
「車が来る!」
あかりは倒れた警棒を拾い、転がってきた車止めのレバーを引く。
鉄製の障害物が車輪の前へ起き上がる。
車が急停止。
運転手の身体が前へ揺れる。
澪香が助手席側のドアを開く。
澄香が運転席側へ回る。
双子が同時に腕を取り、運転手を車外へ引き出す。
そのままボンネットへ伏せる。
車の警報。
点滅する非常灯。
ドレスの布が風を受けて揺れる。
地下駐車場は、わずか数分で黒鷹の墓場へ変わった。
だが、混乱の隙を突き、別の工作員が黒いケースを奪った。
非常階段へ走る。
一階の搬出口には、小型車が待っている。
玲奈が監視映像で捉える。
「別動車両が出ます」
彩香が即座に叫ぶ。
「美音、顧客データを持って逃げた! 追って!」
ホテル裏口。
小型車がタイヤを鳴らして飛び出す。
河合美音は、黒い大型自動二輪の上で待っていた。
シールドを下ろす。
「了解」
低い排気音。
次の瞬間、黒いバイクが路面を蹴った。
逃走車両は一般車両の間を縫い、幹線道路へ入る。
赤信号を無視。
交差点へ強引に突っ込む。
クラクションが鳴り響く。
美音は同じ動きをしない。
信号の切り替わりと、対向車の速度を読み、横道から先へ回る。
逃走車両が交差点を抜けた時、美音のバイクはすでに後方へ迫っていた。
運転手がミラーを見る。
車線を急に寄せる。
美音を歩道側へ押し込もうとする。
ガードレール。
車体。
残された隙間は僅かだった。
美音はアクセルを戻さない。
上体を伏せる。
バイクを深く倒し、車の後輪が作る死角へ入る。
ミラーが車体へ触れ、火花が散る。
だが、接触は一瞬。
美音は反対側へ抜ける。
逃走車両が急加速する。
助手席の男が窓を開け、金属棒を投げつける。
美音は首を傾けるだけでかわす。
棒が路面を跳ね、後方へ消えた。
高架下。
黒鷹の支援バイクが側道から現れる。
美音の右へ並び、車体をぶつけようとする。
美音は速度を落とす。
支援役は逃げ腰になったと思い、さらに接近する。
その瞬間、美音はギアを落とした。
エンジンが吠える。
内側へ切り込み、支援バイクの前へ出る。
相手は進路を失い、ガードレール手前で急制動。
後輪が流れ、路肩へ滑っていく。
美音は一度も振り返らない。
見るのは、顧客データを積んだ車だけだった。
玲奈から通信が入る。
『前方一キロで県警車両が待機しています』
「ケースを別車両へ渡す気です」
前方。
同じ速度で走る黒いセダン。
逃走車両が横へ並ぶ。
助手席の男が、顧客データのケースを窓から持ち出す。
セダン側の窓も開く。
走行中の受け渡し。
美音は二台の間へバイクを入れた。
「何を――」
男が叫ぶ。
美音は片手でハンドルを支える。
もう一方の腕を伸ばす。
ケースが車両間を渡る瞬間、取っ手をつかんだ。
男も離さない。
美音の腕が後方へ引かれる。
車体が揺れる。
路面の継ぎ目。
風圧。
並走する二台。
それでもハンドルはぶれない。
美音は一度、ケースを相手側へ押した。
男の身体が前へ出る。
次の瞬間、強く引く。
男の指が取っ手から外れた。
ケースは美音の手へ渡る。
逃走車両が急ブレーキを踏む。
美音は車体を横へ流す。
タイヤが白い煙を上げる。
バイクは車の前を弧を描いて抜け、反対車線へ入る直前で立ち直る。
前方には県警車両。
後方には追跡してきた覆面車。
逃走車両は進路を失った。
運転手が最後の抵抗で歩道側へ切ろうとする。
美音は前へ出る。
車体を斜めに止め、逃走車の鼻先を封じた。
急停止。
工作員が車外へ飛び出す。
美音はケースをバイクの固定具へ収め、男へ向かう。
男が拳を振るう。
一撃目をかわす。
二撃目の腕を取る。
足をかけ、車体へ押しつける。
手錠をかけた県警隊員が到着した時、工作員はすでに路面へ伏せられていた。
美音は回収したケースを持ち上げる。
「顧客データを確保しました」
彩香の声が返る。
『ようやった。今度、ホテルのケーキおごる』
一瞬の沈黙。
『……あかり抜きで』
「聞こえてるやに!」
無線へ、あかりの抗議が入った。
地下駐車場。
最後の工作員が、迫田ツインズによって制圧された。
紫苑会の幹部は、麻衣に腕を取られ、車体へ押さえ込まれている。
あかりが黒いワゴン車の荷室を開ける。
中から、複数の紫色の封筒、送金台帳、偽造礼状、恐喝対象者の一覧が見つかった。
綾乃が宴会場で入手した裏契約書。
迫田ツインズが記録した会話。
麻衣が発見したデータ端末。
美音が奪還した顧客情報。
証拠はそろった。
会員向けのお茶会は、予定どおり終了する。
劇団員も会員も、地下で何が起きていたのかを知らない。
一般客にも被害はなかった。
紫苑会の代表、幹部、黒鷹の工作員は逮捕。
関係する花店、観光会社、衣装会社、飲食店の口座は凍結された。
黒鷹へ流れていた資金経路の一つが断たれる。
被害者の氏名は伏せられた。
警察もNSTも、支払った金額を責めなかった。
騙されたことを笑わなかった。
誰かを応援したいという気持ちは、犯罪ではない。
その気持ちへ値札をつけた者だけが裁かれる。
彩香は証拠品の紫色の封筒を見つめた。
「拍手は、誰かに買わされるもんちゃう」
玲奈が隣に立つ。
「ええ」
「好きな人を応援する気持ちまで、黒い金に変えた。二度と同じ商売できんようにする」
彩香は封筒を証拠袋へ入れた。
紫色は、夢を彩る色にもなれる。
だが、その日だけは、黒鷹の汚れた血の色に見えた。
任務後。
ヒロ室西日本分室。
迫田ツインズ、綾乃、麻衣、あかり、美音が報告を終える。
玲奈は提出された証拠を確認した。
「任務は完全成功です」
彩香も腕を組んで頷く。
「迫田ツインズの潜入。綾乃の聞き出し。麻衣とあかりの地下制圧。美音の追跡。全部文句なしや」
あかりが安心して息を吐く。
その瞬間。
彩香の視線が向いた。
「ただし、あかり」
あかりの肩が止まる。
「はい」
「今後、任務中にさつきから声をかけられても、無視し」
あかりは即座に困った顔をした。
「でも、さつきさんは年上やに」
「年上でも無視し」
「挨拶くらいはした方がええやに」
「挨拶もいらん」
「それは失礼やに」
彩香が机を叩く。
「任務中に礼儀正しさ発揮すな!」
麻衣が小さく手を挙げる。
「挨拶だけなら、問題なかったと思います」
彩香が麻衣を見る。
「三分以上、立ち話しとったんや!」
あかりが弁解する。
「さつきさんが、シンポジウムの話をしてくれたから」
「聞かんでええ!」
「取材で文化振興の専門家に会ったらしいやに」
「任務中に文化振興すな!」
「ホテルのケーキがおいしいとも言ってたやに」
「任務中にスイーツ情報集めるな!」
「でも、今度みんなで行けるかと思って」
「任務と女子会を同時進行するな!」
西園寺綾乃が、湯飲みを静かに置いた。
「彩香さん」
「何や、綾乃」
「お相手がさつきさんやったら、まるきり知らん顔をするいうのも、かえって不自然やおへんやろか」
あかりが勢いよく頷く。
「そうやに!」
彩香は綾乃を見る。
「はんなり味方に付かんでええ!」
綾乃は柔らかく微笑む。
「味方いうわけやおへん。ただ、年上の方からご挨拶いただいて、顔も見んと逃げるいうのは、あかりさんには難しおすやろ」
「せやから訓練するんや!」
「ほな、うちがさつきさんの役をしまひょか」
綾乃が立ち上がる。
あかりへ上品に近づく。
「まあ、あかりさん。こんなところで何してはるの?」
あかりは反射的に頭を下げる。
「綾乃さん、こんにちはやに」
彩香が叫ぶ。
「もう返事しとるやないか!」
綾乃は続ける。
「制服、よう似合うてますえ。お仕事終わったら、お茶でもいかがどす?」
「行きたいやに」
「即答すな!」
綾乃は彩香へ向く。
「このように、あかりさんへ完全無視を求めるんは、ちょっと酷いうもんやと思います」
「寸劇で証明せんでええ!」
澪香が静かに提案する。
「目を合わせず、急いでいるふりをすればいいと思う」
澄香も続ける。
「電話中のふりも使える」
あかりは真剣な顔になる。
「でも、さつきさんなら追いかけてくるやに」
彩香は即答した。
「走れ」
「ホテルの廊下を?」
「走れ」
「お客さんにぶつかったら危ないやに」
「ほな早歩きや!」
麻衣が考える。
「さつきさんなら、早歩きでも追いつくと思います」
美音が淡々と加える。
「大型自動二輪を入口へ用意しておきますか」
彩香が頭を抱えた。
「何でさつき一人から離脱するために、バイク部隊出さなあかんねん!」
「バイクなら追いつかれません」
「当たり前や!」
あかりは、まだ納得していない。
「でも、さつきさんが転びそうになったら助けなあかんやに」
「何で追われながら相手の安全まで心配しとるねん!」
綾乃が穏やかに言う。
「それが、あかりさんのええところどす」
あかりが笑顔になる。
「綾乃さん、ありがとうやに」
「褒めて伸ばさんでええ!」
玲奈の口元が僅かに緩んだ。
澄香がすぐに気づく。
「玲奈さん、笑いましたね」
「笑っていません」
麻衣も玲奈を見る。
「少し笑っていました」
玲奈は報告書を閉じる。
「彩香。注意事項は、簡潔にまとめてください」
彩香はあかりへ指を向ける。
「復唱して」
「はい」
「任務中、さつきに声をかけられても」
「できるだけ短く挨拶して」
「無視する!」
「急いでることを伝えて」
「無視や!」
「後で連絡するって言って」
「それ普通に会話しとるやないか!」
「ほな、何も言わずに麻衣を呼ぶやに」
「最初からそうせえ!」
麻衣が頷く。
「次から私が回収します」
あかりが麻衣を見る。
「私、自力で離れられへん前提なん?」
彩香が即答した。
「今回離れられへんかったやろ!」
あかりは口を開く。
閉じる。
反論できなかった。
美音が呟く。
「黒鷹の逃走車両より、さつきさんからの離脱の方が難しいようですね」
綾乃が上品に笑う。
「さつきさんは、お車みたいに進路を予測できしまへんからなあ」
彩香は天井を見上げた。
「ほんま、黒鷹より味方の方が予測不能や……」
分室へ笑いが広がる。
紫色の封筒は押収された。
偽のお茶会も消えた。
黒鷹へ流れていた金は断たれ、脅迫に使われた顧客情報も守られた。
だが、西日本分室では後日、
「任務中に三好さつきから声をかけられた場合の対応要領」
という、異様に限定された内部規定の作成が、本気で検討された。
綾乃が作成した最初の案は、はんなりと長かった。
彩香はすべて削除した。
最終的に残ったのは、わずか一行だった。
目を合わせるな。返事をするな。麻衣を呼べ。
あかりだけは、最後まで納得しなかった。
「せめて会釈くらいは、した方がええと思うやに」
彩香の叫び声が、分室の廊下まで響いた。
「まだ言うとるんかぁ!」




