銀橋に黒い羽根が落ちる夜 ――百年歌劇を狙う、奈落の破壊工作
舞台には、光がある。
客席には、夢がある。
その下には奈落があり、その上には暗い鉄骨がある。
華やかな衣装も、息の合った群舞も、銀色に輝く舞台橋も、巨大な大階段も、観客には見えない無数の機械によって支えられている。
夢は、鋼鉄の上に立っていた。
だから黒鷹は、光の当たらない場所から壊そうとした。
阪神間の山あいに、劇場を中心として発展した華やかな町がある。
駅を降りると、川沿いの並木道の先に、赤い屋根を持つ巨大な劇場が見える。
公演ポスターを眺めながら歩く女性たち。
スターの写真を大切そうに抱えるファン。
親子三代で同じ演目を楽しみに訪れる家族。
ここを本拠地とするのは、出演者のすべてを女性が務める、世界にも類を見ない少女歌劇団だった。
男役も娘役も、演じるのは女性だけ。
華麗な芝居。
絢爛たるレビュー。
豪華な羽根飾り。
客席近くまで延びる銀色の舞台橋。
出演者が一斉に並ぶ大階段のフィナーレ。
結成から一世紀を超えても、その輝きは衰えない。
新しいスターが生まれ、卒業していく。
演目が変わり、衣装が変わり、時代が変わっても、劇場へ足を運ぶファンの胸には同じ期待が宿る。
この物語の書き手も、年に一度はこの町の大劇場を訪れる。
現地でしか味わえない空気。
幕が上がる直前の静けさ。
生身の出演者が放つ熱。
最後の音が消えた後も鳴り続ける拍手。
それらは映像では完全に伝わらない。
観客が目にするのは、磨き抜かれた夢の世界だった。
しかし舞台の裏には、別の世界がある。
奈落。
照明ブリッジ。
舞台袖。
大道具倉庫。
制御室。
搬入口。
大階段の裏側には巨大な鉄骨と昇降装置があり、銀色の舞台橋の下には油圧機器と複雑な配線が張り巡らされている。
一つの公演を成立させるため、舞台監督、大道具係、衣装係、照明係、音響係、機械担当、警備員が秒単位で動く。
出演者が笑顔で歌う数メートル先で、黒い服を着たスタッフが巨大な舞台装置を押している。
夢は、見えない場所で働く者たちの正確な仕事によって守られていた。
黒鷹は、その正確さへ毒を混ぜた。
新作公演の初日を二週間後に控えた頃、大劇場で不可解な事故が続いた。
大道具倉庫の一角で小規模な火災が発生。
照明ブリッジでは、重量照明を固定する金具が緩められていた。
出演者用エレベーターが、稽古中に突然停止。
銀色の舞台橋を支える昇降装置からは、正規品ではない粗悪な固定部品が発見された。
どれも重大事故には至らなかった。
火はすぐに消し止められた。
照明は落下する前に異常が見つかった。
エレベーターに閉じ込められた劇団員も無事だった。
劇場側は設備の老朽化や、整備上の不手際を疑った。
一世紀を超える歴史を持つ劇場である。
建物も舞台装置も、改修を重ねながら使われてきた。
故障が起きても不自然ではない。
だが、事故の発生時期があまりにも出来すぎていた。
劇場では、数十億円規模の大改修計画が進められていた。
舞台機構。
照明設備。
防火設備。
搬入口の警備。
情報管理システム。
複数の大手設備会社が入札へ参加している。
その中に、黒鷹のフロント企業があった。
技術力も実績も足りない。
正面から競えば、契約を得られる可能性は低い。
黒鷹は、劇場の安全性そのものを失墜させようとしていた。
事故を起こす。
管理体制への不信を広げる。
内部告発を装った文書を報道機関へ送る。
そして満員の観客を入れた公演中に、取り返しのつかない事故を起こす。
混乱へ乗じて緊急改修の必要性を訴え、黒鷹系列の設備会社を劇場内部へ入り込ませる。
狙いは工事契約だけではない。
舞台制御盤の設計図。
警備設備の認証情報。
地下通路と搬入口の詳細図。
歴代公演で使用された衣装や宝飾品を保管する収蔵庫の位置。
富裕層の来賓や著名人が利用する特別動線。
それらを国外の犯罪組織へ売却しようとしていた。
黒鷹の最終計画は、新作公演初日のフィナーレに設定されていた。
大階段が現れる。
出演者が総出で並ぶ。
男役トップスターが銀色の舞台橋へ進む。
客席の興奮が最高潮へ達した瞬間。
大階段の固定機構を解除。
銀橋の昇降装置を異常作動。
重量照明の一部を落下させる。
複数の事故を同時に起こし、劇場全体を恐怖と混乱へ沈める。
舞台上には大勢の出演者。
客席は満員。
一度でも手順を誤れば、多数の死傷者が出る。
黒鷹は、百年以上かけて築かれた夢を、一夜で悪夢へ変えようとしていた。
NSTは劇場上層部と協議し、最低限の関係者だけへ事情を伝えた。
公演中止という選択肢もあった。
だが、中止すれば黒鷹は計画を延期する。
実働員を切り捨て、内部協力者を消し、別の日に仕掛け直す。
劇場内部へ張り巡らされた経路を断つには、現場で一網打尽にするしかない。
潜入するのは、白浜麻衣、春日美咲、西川彩香。
三人は、新作公演の舞台美術を支援する臨時スタッフとして大劇場へ入る。
麻衣は小柄な体格を生かし、奈落や狭い点検通路、舞台装置内部を調べる。
大人しく物静かな美咲は、整備台帳、舞台図面、部品記録を確認し、数字と現物の食い違いを探す。
彩香は舞台進行補助を装い、古参の大道具係、舞台監督、外部保守業者から情報を集める。
河合美音は劇場外で待機。
黒い大型バイクで周辺道路と搬入口を監視し、逃走車両が出た場合の追跡を担当する。
岡本玲奈は、劇場設備の安全監査へ入った外部調査員を装い、警備室から作戦全体を指揮する。
「劇団員にも観客にも、任務の存在を悟らせません」
玲奈は劇場図面を広げて言った。
「舞台を止めず、工作員と証拠を確保します」
彩香が図面を見る。
「難しい注文ですね」
「難しいから、私たちがいます」
玲奈の声に迷いはなかった。
麻衣は奈落への入口を確認する。
美咲は制御室から大階段までの経路を追う。
彩香は舞台袖と搬入口の位置を頭へ入れた。
「公演が終わるまで、何も起きてへん顔をする」
彩香が言う。
麻衣が頷く。
「いつものことですね」
「今回は客席のすぐ向こうが満員や。音も騒ぎも出されへん」
美咲が静かに答える。
「出さなければいいんですね」
小さな声だった。
だが、その目は揺れていなかった。
潜入初日。
麻衣は舞台の真下へ下りた。
奈落。
照明は少ない。
頭上から、稽古中の音楽と足音が鈍く響く。
舞台上では劇団員たちが華麗に踊っている。
その数メートル下には、鉄骨、油圧配管、電気ケーブル、昇降機構が密集していた。
一つの誤作動で、何トンもの舞台装置が動く。
麻衣は銀橋の昇降装置へ取り付けられた、小さな制御箱を見つけた。
正規の整備台帳にはない。
表面は古い設備へ似せて塗装されている。
だが、ねじだけが新しい。
麻衣が蓋を開ける。
内部には遠隔操作用の受信機が隠されていた。
「銀橋側に不正装置を確認しました」
玲奈の声が返る。
『外さずに残してください』
「動かす時刻を確認するんですね」
『ええ。黒鷹へ、発覚したと悟らせません』
美咲は大階段の固定機構を調べていた。
金具の表面に、細かな工具痕が残っている。
本来なら半年前に正規部品へ交換されたはずだった。
だが、取り付けられているのは強度の低い模造品。
交換記録の担当者欄には、五年前に退職した技術者の名前が使われていた。
「記録が偽造されています」
『内部から台帳へアクセスできる人間がいます』
「外部業者だけではありません」
美咲は静かに答えた。
彩香は、古参の舞台技術者から証言を得る。
事故の直前には、必ず同じ外部保守会社の人間が劇場へ来ていた。
作業内容を尋ねると、
「本社からの特別指示だ」
と答え、現場のスタッフを遠ざけたという。
さらに劇場側の技術担当者の一人が、最近になって多額の借金を抱えていることも判明する。
玲奈は男へ接触した。
男は三十年以上、劇場の舞台装置を守ってきた。
家族写真の中では、妻と娘に囲まれて笑っている。
だが、今の顔には疲労しかない。
「あなたは舞台を壊したくない」
玲奈が言う。
男は何も答えない。
「金だけなら、まだ別の方法を選べたはずです。家族を脅されていますね」
男の指が僅かに動いた。
黒鷹は、借金の肩代わりを条件に協力を迫った。
男が拒否すると、入院中の妻と、大学進学を控えた娘の行動を調べ上げた資料を見せた。
事故に見せかける。
そう脅された。
男は、初日のフィナーレで警報装置を三分間だけ解除するよう命じられていた。
「その三分で、何が起きるのですか」
玲奈が尋ねる。
「銀橋と大階段へ、外から信号が送られる」
男は俯いた。
「照明も落ちる。止めようとしたら、家族を殺すと言われた」
「工作員の名前は」
「知らない。舞台裏へ入るのは、外部保守会社の作業服を着た人間だとしか」
玲奈は男を責めなかった。
ただ言った。
「家族は保護します」
男が顔を上げる。
「あなたには、いつもどおり勤務してもらいます」
「警報を切れと?」
「切ったふりをしてください」
男の目に、僅かに光が戻った。
公演初日。
劇場前には、朝から大勢のファンが集まっていた。
公演ポスター。
記念写真。
限定商品。
開場を待つ客たちの声。
その中に、赤嶺美月がいた。
任務とは無関係。
完全な私用。
友人二人と、新作公演を観劇するために来ていた。
明るい色のツインテール。
よく通る声。
遠くからでも分かる動き。
本人は普通の観客として振る舞っているつもりだった。
しかし、美月は戦隊ヒロインとして微妙に顔が知られている。
誰もが気づくほどの大スターではない。
だが、十人に一人くらいは、
「あの子、テレビで見たことある」
と振り返る。
劇場前で、年配の女性が声をかけた。
「美月ちゃんですよね?」
美月はすぐに笑顔を向ける。
「せやで」
「一緒に写真を撮ってもらってもいい?」
「もちろんや!」
一人と撮れば、近くにいた別の客も集まる。
美月は断らない。
子どもとも撮る。
親子連れとも撮る。
少女歌劇のポスターを背景に、何度もポーズを取る。
小さな人だかりができる。
劇場内へ入ると、今度はロビーのグランドピアノへ目をつける。
「ここ、めっちゃ雰囲気あるやん」
友人へスマートフォンを渡し、ピアノの横へ立つ。
片手を天板へ置く。
顎を上げる。
男役スターを意識した鋭い視線を作る。
「もうちょい横向きの方がええ?」
近くのファンからも声がかかる。
「美月ちゃん、こっちも向いて!」
美月は笑顔で応える。
さらに、劇場内に設けられた大階段風の記念撮影場所へ移動する。
階段の上へ立つ。
背筋を伸ばす。
片手を胸へ当てる。
そして低い声を作った。
「皆様、本日はようこそお越しくださいました」
友人たちが笑う。
周囲の客も写真を撮る。
美月は気分を良くし、ゆっくり階段を降り始めた。
舞台裏の監視画面へ、その姿が映っていた。
彩香は額へ手を当てる。
「あのアホツインテール、ええ加減にせえ」
麻衣が画面を見る。
「何も妨害はしていませんよ」
「人の流れが完全に止まっとるやろ!」
美月は階段の途中で立ち止まり、片手を広げる。
彩香の眉間のしわが深くなる。
「ツインテールの男役がどこに居るんや」
麻衣が尋ねる。
「そこですか?」
彩香は麻衣を見る。
「ほかにも言いたいことは山ほどある。せやけど、まずそこや」
美咲が画面を見つめる。
「楽しそうです」
「こっちは爆発物に近い遠隔装置探しとるんやぞ」
「美月は知りませんから」
「分かっとる。分かっとるから、余計に腹立つねん」
美月は黒鷹の計画を知らない。
NSTが劇場へ潜入していることも知らない。
ただ公演を楽しみに来ただけだった。
任務区域へは入らない。
工作員へ声をかけない。
不審な行動も取らない。
ただし、目立つ。
微妙に知られている。
写真を頼まれると全部応じる。
そのためロビーの人の流れが滞り、搬入口へ向かう監視対象の姿が一時的に見えなくなる。
玲奈が通信へ入る。
『美月には接触しないでください』
「もちろんです」
彩香が答える。
「声かけたら、なんでここにおるんって質問攻めになりますから」
『作戦終了まで、存在を知られないでください』
「それが一番安全です」
開演を告げるベルが鳴る。
美月は友人と並び、客席へ座る。
照明が落ちる。
私語が止まる。
幕が上がった。
豪華な舞台装置。
華やかな衣装。
息の合った群舞。
客席は、一瞬で物語の世界へ引き込まれる。
美月も舞台だけを見つめていた。
舞台裏では、NSTが所定の位置へ入る。
彩香は舞台袖。
麻衣は奈落。
美咲は大階段制御盤近く。
玲奈は警備室。
美音は劇場裏の搬入口付近。
第一幕。
異常なし。
幕間。
観客はロビーへ出る。
美月は公演パンフレットを開き、友人へ熱心に語る。
「あの男役さん、銀橋へ出た瞬間に空気変わったやろ。目線の使い方が全然ちゃうねん」
その頃、奈落の麻衣は、遠隔装置から伸びる配線を追っていた。
配線は銀橋だけではない。
大階段。
照明ブリッジ。
三系統へ分岐している。
一つを止められても、別の事故を起こせるようにしてあった。
第二幕。
レビューが始まる。
客席の熱気が高まる。
美月は目を輝かせて舞台を見ている。
舞台袖へ、外部保守会社の作業服を着た男が現れた。
正規の入館証。
工具箱。
だが、彩香は男の足元を見た。
舞台技術者が履く安全靴ではない。
走るための軽量靴。
「どちらへ?」
彩香が進路を塞ぐ。
「緊急点検だ」
「聞いてへんな」
「今、連絡が入った」
「誰から?」
男は答えない。
目が変わる。
工具箱が開く。
中から出てきたのは、工具ではなく小型の電磁妨害装置だった。
男が彩香へ体当たりする。
彩香は肩を引き、勢いを横へ流す。
腕を取る。
だが、大道具の陰から別の工作員が現れた。
二対一。
数メートル先では、劇団員が笑顔で歌っている。
薄い幕の向こうは満員の客席。
音を立てることはできない。
彩香は男を壁へ叩きつけず、身体を回して床へ伏せる。
もう一人の攻撃を大道具の陰へ誘導する。
短い打撃。
関節。
足払い。
舞台上からは絶対に見えない場所で、静かな格闘が始まる。
奈落。
麻衣の背後で足音がした。
振り向く。
保守員姿の男が、金属棒を振り下ろす。
麻衣は低く沈む。
棒が鉄骨へ当たり、鈍い音を立てる。
頭上では劇団員たちが銀橋を渡っていた。
歌声。
拍手。
華やかな照明。
その真下で、麻衣は狭い点検路を走る。
配管。
回転軸。
ケーブル。
大きく動けない。
麻衣は小柄な身体を生かし、鉄骨の間を抜ける。
男が追う。
麻衣はケーブルをまたぎ、身体を反転させる。
相手の腕を取る。
勢いを支柱へ流す。
男の肩が鉄骨へぶつかる。
足を払う。
床へ伏せる。
手首を固定する。
その時、遠隔装置の表示灯が赤く変わった。
作動まで三分。
「玲奈さん。銀橋側、起動しました」
『大階段側も動き始めました』
美咲の報告。
美咲は制御盤を開け、不正回路を確認する。
背後から工作員が迫る。
足音。
美咲は身体を横へ動かした。
工具が制御盤の扉へ当たる。
男が二撃目を振る。
美咲は非常停止ボタンへ手を伸ばす。
腕をつかまれる。
美咲は相手の親指を外側へひねった。
拘束が緩む。
肘を押し上げる。
身体を入れ替える。
普段の美咲は大人しい。
前へ出ない。
必要以上に口を開かない。
だが、守るべき制御盤の前からは、一歩も退かなかった。
男が突進する。
美咲は勢いを利用し、資材用の厚い布幕へ押し込む。
視界を奪う。
その間に非常停止回路を切り替える。
しかし、大階段の異常表示は消えない。
「独立した予備電源があります」
玲奈が即座に判断する。
『奈落側の分岐器です。麻衣、切れますか』
麻衣は配管の先を見る。
分岐器の前に、別の工作員が立っている。
「切ります」
フィナーレが始まる。
大階段が舞台へ姿を現す。
客席から歓声。
美月は身を乗り出す。
出演者たちが階段へ並ぶ。
銀橋へ男役トップスターが進む。
観客が待ち望んだ瞬間。
その裏側で、大階段の固定具が少しずつ外れ始める。
麻衣は奈落を走る。
工作員が進路を塞ぐ。
拳をかわす。
支柱へ片足をかける。
身体を浮かせ、相手の肩を越えるように背後へ回る。
着地。
分岐器へ向かう。
男が追いつき、麻衣の上着をつかむ。
麻衣は上着を脱ぎ捨てる。
拘束を抜ける。
分岐器の安全カバーを開く。
内部には赤と黒、二本の補助線。
誤れば、舞台全体の電源が落ちる。
公演は止まる。
客席へ異常が伝わる。
美咲が回路図を確認する。
「赤ではありません。黒い補助線です」
麻衣は黒いケーブルを切った。
大階段の異常振動が止まる。
しかし、銀橋側はまだ動いている。
舞台袖。
彩香は二人の工作員を制圧し、銀橋の手動固定レバーへ走る。
舞台上ではトップスターが歌っていた。
彩香のすぐ横を、次の出番を待つ劇団員が通る。
誰も異変へ気づかない。
彩香は幕の陰へ入り、固定レバーを引いた。
動かない。
遠隔装置がロックしている。
「麻衣!」
『今行きます!』
麻衣が奈落から上がる。
二人でレバーへ力をかける。
美咲は制御盤から補助圧力を抜く。
玲奈が三人のタイミングを合わせる。
『今です』
彩香と麻衣が同時にレバーを引いた。
重い手応え。
銀橋の固定具が入る。
舞台上では歌が最高潮を迎える。
照明が輝く。
出演者が一斉にポーズを決める。
客席から大きな拍手が湧き上がった。
黒鷹の破壊工作は止められた。
誰にも悟られないまま。
計画の失敗を知った黒鷹の指揮役は、舞台裏の搬入口へ逃げる。
手には、舞台制御図と警備情報を保存した記憶媒体。
工作員二人とともに、設備搬送用トラックへ乗り込む。
トラックは搬入口の遮断棒を破り、劇場裏の道路へ飛び出した。
玲奈が無線で告げる。
『対象車両、劇場裏から逃走』
劇場外。
黒い大型バイクへまたがっていた美音が、ヘルメットのシールドを下ろす。
「待っていました」
エンジンが低く唸る。
トラックは住宅地を抜け、武庫川方面へ向かう。
美音が追う。
黒鷹の運転手は後方のバイクへ気づき、速度を上げた。
配送車を強引に追い越す。
信号が変わる直前の交差点へ飛び込む。
一般車を巻き込み、美音の進路を塞ごうとする。
美音は速度だけで追わない。
トラックの重量。
制動距離。
車線の幅。
信号の変化。
対向車の位置。
すべてを読みながら、最短の線を選ぶ。
武庫川沿い。
片側には河川敷。
反対側には住宅と工場。
トラックが急に車線を寄せ、美音をガードレールとの間へ押し込もうとする。
美音はブレーキをかけない。
車体を倒し、トラックの後輪が生む僅かな空間へ入る。
ミラーが荷台をかすめる。
火花が散る。
美音は一度後退し、反対側から前へ出る。
助手席の工作員が窓を開け、金属工具を投げつける。
美音は上体を伏せる。
工具が後方へ消える。
中国自動車道の高架下。
前方から黒鷹の支援車両が現れる。
前に支援車。
後ろにトラック。
横にはコンクリート壁。
二台で美音を挟み込む。
美音はアクセルを開く。
支援車が幅を寄せる。
トラックも距離を詰める。
接触寸前。
美音は高架下の排水設備へ続く点検通路へバイクを滑り込ませた。
車一台は通れない。
バイクだけが抜けられる幅。
支援車は追随できない。
トラックの前へ飛び出し、二台が接触する。
支援車が回転。
防護柵へ突っ込む。
トラックは大きく揺れながらも逃走を続ける。
美音は点検通路から本線へ復帰した。
トラックの前方へ回る。
玲奈から通信。
『次の交差点を県警車両が封鎖します』
「そこまで逃がしません」
美音はトラックの側面へ接近する。
荷台の下へ小型追跡器を取り付ける。
トラックが再び幅を寄せる。
美音は急減速。
トラックだけが前へ出る。
前方には工事資材を積んだ大型車。
黒鷹の運転手が車線を変える。
その先には県警の特殊車両。
逃走経路が閉じた。
トラックが急停止する。
工作員たちが車外へ飛び出す。
美音はバイクを横へ滑らせ、道路側の退路を塞ぐ。
指揮役は記憶媒体を持ち、河川敷へ走った。
美音が追う。
堤防の階段。
草地。
高架下の暗い空間。
男が振り向き、金属棒を振るう。
一撃目。
美音は身体を引く。
二撃目。
腕で軌道を外す。
相手の懐へ入る。
肘を取る。
身体を反転させ、男をコンクリート壁へ押しつける。
記憶媒体が落ちた。
美音が足で押さえる。
県警特殊部隊が到着する。
黒鷹の指揮役と工作員は、全員確保された。
大劇場では、感動のフィナーレが続いていた。
大階段。
銀橋。
巨大な羽根飾り。
輝く照明。
観客は立ち上がり、舞台へ拍手を送る。
美月も友人たちと並び、目を輝かせていた。
「最高や……」
舞台裏。
彩香は壁へ背中を預け、息を整える。
麻衣の上着は破れ、手には機械油がついている。
美咲は制御盤の前で、最後の安全確認を続けていた。
玲奈から無線が入る。
『逃走組を確保。記憶媒体も回収しました』
彩香は、幕の向こうから聞こえる拍手へ耳を傾けた。
「こっちも終わりました」
幕が下りる。
劇団員は無事。
観客も無事。
誰も、舞台の下で何が起きていたかを知らない。
美月も知らない。
ただ、大階段の美しさと、銀橋を渡るスターの姿に感動していた。
夢は、最後まで夢のまま守られた。
数日後。
ヒロ室西日本分室。
扉が勢いよく開いた。
美月が観劇記念のサブレを抱えて立っている。
「邪魔するで~!」
彩香は書類から顔を上げずに答えた。
「邪魔するなら帰って~」
「おぉ、そうやな……」
美月は素直に一歩下がる。
扉を閉めかける。
そこで止まった。
勢いよく開き直す。
「って、なんでやねん!」
麻衣が笑う。
美咲も口元へ手を当てた。
美月は机へサブレの箱を置く。
「観劇のお土産や。限定品やで」
玲奈が軽く頭を下げる。
「ありがとうございます」
美月は近くの椅子へ座った。
「少女歌劇、最高やわ」
その言葉に嘘はない。
美月は公演の内容を熱く語り始める。
芝居の見せ場。
男役スターの立ち姿。
娘役の衣装。
銀橋へ出た瞬間に変わった空気。
大階段のフィナーレ。
舞台裏で起きたことを知らないまま、観客として見た夢だけを話す。
彩香は任務のことを言わない。
自分が同じ劇場にいたことも言わない。
「そら、よかったな」
素っ気なく返す。
美月はスマートフォンを取り出した。
「写真も、めっちゃええの撮れてん」
画面には、ロビーのグランドピアノへ手を置き、顎を上げた美月が映っている。
「これ、男役トップっぽいやろ?」
彩香は一秒だけ見る。
「葬儀屋の広告みたいやな」
美月の笑顔が止まる。
「どこがやねん!」
「黒い服着て、ピアノに手ぇ置いて、妙に遠く見とるやろ」
「スターの憂いを表現しとるんや!」
「香典返しのカタログに載っとる人の憂いや」
「失礼すぎるやろ!」
美月は次の写真を見せる。
大階段風の撮影場所を、胸を張って降りている。
「ほな、こっちは?」
彩香は画面を見る。
「商店街の福引で一等当てた人」
「男役トップスターや!」
「当選した温泉旅行の目録持たせたら、完璧やな」
「見る目なさすぎやろ!」
彩香は書類へ戻る。
「そもそも、ツインテールの男役は無理あるねん」
美月は自分の髪を触る。
「新しい時代の男役や!」
「一世紀超えの伝統へ、勝手に新時代持ち込むな」
「伝統は進化していくもんやろ!」
「進化とアホツインテールは別問題や!」
美月は麻衣へ顔を向ける。
「麻衣はどう思う?」
突然巻き込まれた麻衣は、慎重に画面を見る。
「楽しそうで、いい写真だと思います」
美月が満足そうに頷く。
「ほら!」
彩香がすぐに尋ねる。
「男役に見えるか聞いてんねん」
麻衣は黙る。
美月が詰め寄る。
「どうなん?」
「……観劇を楽しんでいる人に見えます」
「逃げたな!」
彩香は勝ち誇る。
「麻衣の判定、男役不成立」
「彩香さんの味方したわけちゃうやろ!」
美月は美咲へスマートフォンを差し出す。
「美咲は? 正直に言って」
美咲はしばらく写真を見る。
「階段を降りる時の姿勢は、きれいです」
美月の表情が明るくなる。
「せやろ!」
「ただ、男役スターというより……」
美咲が言葉を選ぶ。
「会社の創立記念式典で、来賓として紹介された方に見えます」
一瞬の沈黙。
麻衣が俯いて笑いをこらえる。
彩香は机を叩いて笑った。
「美咲、的確すぎるやろ!」
美月が頬を膨らませる。
「美咲まで、そっち側なん?」
「そっち側というものはありません」
美咲は真面目に答える。
美月は別の写真を表示した。
劇場前で、大勢のファンと一緒に写っている。
「でもな、こんなに写真頼まれてんで。ウチも結構人気あるやろ?」
彩香は人数を数えるように画面を見る。
「歌劇のファンが優しかっただけや」
「嫉妬か?」
「何でウチがお前の微妙な知名度に嫉妬すんねん!」
「微妙言うな!」
「全員が気づくほど有名やないけど、三十分に一人くらい気づく絶妙な知名度やろ」
「もっと気づかれたわ!」
「ほな二十分に一人」
「そういう問題ちゃう!」
麻衣がサブレの箱を開ける。
「食べませんか」
美月と彩香が同時に振り向く。
「麻衣、どっちの味方なん?」
「麻衣、どっちが大人げない?」
二人から同時に聞かれ、麻衣の手が止まる。
美咲は静かに席を離れようとする。
美月が気づく。
「美咲も逃げんといて!」
彩香も呼び止める。
「美咲、客観的な判定頼む!」
美咲は二人を交互に見る。
「二人とも、同じくらいだと思います」
美月と彩香が、同時に声を上げた。
「一緒にせんといて!」
声まできれいに重なる。
玲奈の口元が、僅かに緩んだ。
麻衣は見逃さない。
「玲奈さん、笑いました?」
玲奈はすぐに表情を戻す。
「笑っていません」
美咲も玲奈を見る。
「少し笑っていました」
美月はスマートフォンを持って玲奈の机へ近づく。
「玲奈さんも、この写真見て判定して」
「何の判定ですか」
「男役トップスターに見えるかどうか」
玲奈は画面を見ない。
「私に判断できる分野ではありません」
彩香が言う。
「玲奈さん、危険回避が早いですね」
美月は引かない。
「一秒でええから見て」
「結構です」
「サブレ二枚あげるで」
玲奈が初めて画面を見る。
数秒の沈黙。
美月が期待に満ちた顔で待つ。
玲奈は静かに答えた。
「観劇を楽しんでいることは、よく伝わります」
麻衣と美咲が同時に俯く。
彩香は腹を抱えて笑う。
「玲奈さんまで同じ逃げ方しとる!」
美月が叫ぶ。
「誰も男役として評価してくれへん!」
「写真が悪いんやなくて、素材の問題や」
彩香が言う。
「何やと!」
「アホツインテールが大階段降りても、アホツインテールや」
「彩香さんなんか、大階段の途中で説教始める管理職役や!」
「誰が管理職や!」
「絶対、出演者全員に『五分前行動せえ!』言う役や!」
「舞台を時間どおり回す大事な役やないか!」
「認めたやん!」
「違うわ!」
分室に笑い声が広がった。
美月は、あの日の舞台裏で何が起きていたのかを知らない。
彩香が劇場にいたことも知らない。
麻衣と美咲が奈落と制御盤の前で戦ったことも知らない。
美音が劇場裏から逃げたトラックを追ったことも知らない。
玲奈たちは、それでいいと思っていた。
美月が覚えているのは、美しい舞台。
銀橋へ進んだスター。
大階段のフィナーレ。
友人と笑った時間。
劇場で声をかけてくれたファンたち。
そして、男役スターのつもりで撮った写真だけだった。
黒鷹の設備会社は摘発された。
舞台技術者を脅していた実働員も逮捕。
盗まれかけた劇場図面と警備情報は回収された。
破壊工作に使われた不正装置も、すべて撤去された。
劇団員にも観客にも、事件は知らされない。
舞台は夢を見せる場所である。
夢を守った者は、銀橋へ立たない。
羽根を背負わない。
拍手も受けない。
幕が下りれば、暗い奈落から静かに姿を消す。
その夜、黒い羽根は銀橋へ落ちなかった。
百年を超えて受け継がれた夢は、最後の一音まで守られた。
ただし西日本分室では、その後もしばらく、
「赤嶺美月は男役スターに見えるのか」
という、事件とは何の関係もない論争だけが続いた。
結論は出なかった。
少なくとも、美月以外の全員の中では、とっくに出ていた。




