青いリボンに眠る黒い外商簿 ――迫田澄香、三宮高級百貨店潜入
西日本特別諜報班 NST 影の特命
神戸の百貨店は、品物だけを売っているわけではない。
信用を売る。
格式を売る。
この店の包装紙で包まれているなら間違いない――そう思わせる、目には見えない価値を売っている。
三宮駅前。
関西を代表する私鉄グループが運営する、老舗高級百貨店。
大阪にそびえる巨大な本店ほどの規模はない。それでも、阪神間に暮らす人々から寄せられる信頼は、建物の大きさでは測れなかった。
電車を降りれば、ほとんど雨にぬれず入口へ入れる。
上層階には婦人服、宝飾品、時計、家具、美術工芸品。
地下へ下りれば、洋菓子、総菜、鮮魚、精肉、酒。
季節の贈答品を選ぶ企業経営者。
外商担当に案内される芦屋や西宮の富裕層。
長年同じ販売員を頼る関西マダム。
神戸観光の途中で立ち寄る外国人客。
売場には、派手さよりも品格があった。
落ち着いた照明。
磨かれたガラスケース。
静かに流れる店内音楽。
柔らかな声で客を迎える販売員。
包装紙の角は揃えられ、リボンは決められた形へ結ばれる。
百貨店の信用は、そうした小さな正確さの積み重ねでできていた。
黒鷹は、その信用を利用した。
信用は、警戒心を眠らせる。
高級百貨店の包装紙で包まれた箱を、危険物だと疑う人間は少ない。
贈答品と書かれた荷物を開ける者もいない。
黒鷹のフロント企業は、複数の法人名義で百貨店の外商口座を開設していた。
購入するのは、高級腕時計、宝飾品、海外ブランドのバッグ、美術工芸品。
帳簿上は、役員表彰、創業記念品、取引先への贈答品。
だが、商品が届けられる相手は、企業の功労者ではない。
政治家の配偶者。
後援会幹部。
秘書の親族。
行政との仲介を担うブローカー。
数百万円の宝飾品が、政治献金として記録されることなく渡される。
受取人は一定期間を置いて商品を返品する。
返金は現金ではない。
商品券。
法人外商口座の預かり金。
別名義の商品への交換。
高級品は姿を変え、黒い金を白く見せる。
購入。
贈答。
返品。
商品券化。
再購入。
紙の上だけで何度も商品を動かし、金の出どころを薄めていく。
包装にも意味があった。
赤いリボンは、企業間の通常取引。
白いリボンは、政界側への利益供与。
青いリボンは、黒鷹幹部だけが扱う最重要便。
熨斗の種類が受取人を示し、配送伝票の下三桁が受け渡し場所と金額を示す。
今回、NSTが追うのは、管理番号「417」の青いリボンだった。
箱の中身は、海外ブランドの高級ジュエリーと登録されている。
だが、本当の中身は宝石ではない。
二重底へ隠された超小型記憶媒体。
そこには、黒鷹のフロント企業、外商口座を通じて利益供与を受けた政財界関係者、架空返品、商品券化、内部協力者の名前が記録されている。
黒い外商簿。
それが青いリボンの下へ眠っている。
黒鷹は、事情を知らない外国人旅行者を運び役に使う計画だった。
免税カウンター付近で旅行者へ近づき、
「ホテルへ配送される予定の商品です」
「手続きが遅れたので、代わりに持ち帰ってください」
と英語で説明する。
ホテルへ到着した後、ロビーで待つ男へ渡させる。
旅行者は親切のつもりで荷物を運ぶ。
黒鷹の名前は、百貨店の配送記録にもホテルの台帳にも残らない。
玲奈は作戦室で、青いリボンが映った監視写真を見つめていた。
「箱を確保するだけでは不十分です」
向かいには、迫田澄香と迫田澪香。
西川彩香が腕を組んで立っている。
「内部協力者と回収役、可能であれば配送責任者まで引き出します」
売場へ入るのは澄香。
澪香は商品管理部門の応援スタッフを装い、バックヤードで待機する。
迫田ツインズの外見はよく似ている。
だが、今回の役割は明確に異なる。
澄香は、客の前へ立つ。
澪香は、人目に触れない場所で商品の流れを見る。
「逮捕は県警へ任せます」
玲奈が続けた。
「二人の目的は、証拠の確認と経路の特定です。身分を守ることを優先してください」
澄香が頷く。
「販売員として最後まで対応します」
澪香も静かに答えた。
「箱が動けば、裏から追う」
彩香は二人を見比べた。
「前回は姉がラウンジ嬢。今回は妹が百貨店販売員。迫田ツインズ、えらい高級志向やな」
「任務です」
澄香が答える。
「分かっとる。せやけど、二人とも似合いすぎやねん」
作戦当日。
澄香は婦人服と高級服飾雑貨を扱う売場へ立った。
百貨店の制服。
整えられた髪。
控えめな化粧。
姿勢は美しく、笑顔は柔らかい。
華やかな容姿を持ちながら、自分を商品より前へ出さない。
それが、販売員としての澄香の強みだった。
年配の女性がスカーフ選びに迷っている。
澄香は高額な品から勧めない。
普段の服装。
よく使う色。
顔周りへ明るさが欲しいのか、落ち着きを求めているのか。
必要なことだけを聞く。
「こちらは控えめなお色ですが、光が当たると表情が明るく見えると思います」
女性は鏡の前でスカーフを合わせ、納得して頷いた。
妻への財布を探す男性には、相手の年代と使い方を尋ねた。
「小さなバッグをよくお使いでしたら、こちらの方が収まりやすいと思います」
無理に買わせない。
だが、客が本当に必要とする品を正確に選ぶ。
澄香の売上は、潜入初日とは思えない速度で伸びていった。
監視地点で映像を見ていた彩香が、感心した声を漏らす。
「澄香、もう完全に本職やないか」
玲奈も映像を見ている。
「商品を売ろうとする前に、相手の迷いを整理しています」
バックヤードの澪香が答えた。
「澄香は、曖昧なまま話を進めるのが嫌いだから」
「性格が百貨店に向きすぎやろ」
彩香は呟いた。
「任務が終わる頃には、正社員の話が来るで」
その予想は、あながち外れていなかった。
売場主任は、澄香の接客を何度も確認していた。
応援販売員としては異例の安定感。
商品知識。
客への距離感。
外商顧客を特別扱いしすぎず、一般客も待たせない判断。
澄香は、完全に売場へ溶け込んでいた。
その間も、任務は進んでいた。
黒鷹の内部協力者と見られる外商担当者。
柔らかな物腰のベテラン。
顧客からの信頼も厚い。
男は正規の配送伝票とは別に、小さな手書きの番号札を商品へ添えていた。
澪香はバックヤードから返品記録を確認する。
午後三時四十分。
管理番号417。
青いリボンの箱が、外商サロンから搬出された記録。
同じ時刻。
同じ番号の箱が返品商品として地下搬出口へ送られている。
「二つある」
澪香が報告した。
「417番が二つ。片方は外商サロンから消えた。もう片方は返品台車にある」
玲奈が答える。
「返品台車の箱は囮の可能性があります」
「本物は売場か、免税カウンター付近」
澄香は接客を続けながら、外国人客の動きを確認する。
青いリボンは、まだ見つからない。
午後四時を回った。
その時、上りエスカレーターから一人の女性が姿を現した。
落ち着いた色の上着。
品のよいバッグ。
ゆったりとしていながら無駄のない歩き方。
女優のように整った顔立ち。
実年齢より二十歳近く若く見え、初対面の者なら三十代前半と思っても不思議ではない。
赤嶺春菜。
赤嶺美月の母。
春菜と面識のある彩香は、監視映像へ姿が映った瞬間、額へ手を当てた。
「まさかの厄災や……」
玲奈が映像を見る。
「春菜さんですね」
「よりによって、今度は美月のオカンが来た」
「通常の買い物客です」
「美月も真人さんも、最初は通常の客でした!」
「春菜さんが任務を妨害するとは限りません」
「赤嶺家が現場に来た時点で、ウチは最悪を想定します!」
澪香が通信へ入る。
「売場から遠ざける?」
「無理や。春菜さんに不自然な対応したら、真人さんと美月が抗議に来るかもしれへん。厄災が三人になる」
澄香は春菜と面識がない。
通常の客として迎えた。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
春菜は穏やかな笑顔を返す。
「年配の女性へ贈るスカーフを探してるんです。落ち着いてるけど、顔が明るう見える色がええんですけど」
義母・花への贈り物だった。
澄香は普段の服装や、好みを聞く。
派手な柄は好まない。
濃紺や灰色の服が多い。
ただし家族旅行では、少し明るいものを身につけることもある。
澄香は淡い藤色、水色、珊瑚色の三点を並べた。
「こちらでしたら落ち着きがありますし、お顔の周りも明るく見えると思います」
春菜は藤色のスカーフを手に取り、素材を確かめる。
「ええ色やね。お義母さんにも似合いそうやわ」
続いて、真人のネクタイを選ぶ。
「主人は自分で選ばせたら、すぐ派手なん持ってくるんです」
監視地点の彩香が小さく頷く。
「よう分かっとる」
澄香は紺色へ細い銀の柄が入ったネクタイを提案した。
「華やかさはありますが、派手すぎないと思います」
「これくらいがええね。真っ赤なんやと、本人が余計に調子乗るから」
「ご主人は、明るい方なんですね」
「明るいいうか、ようしゃべるいうか……」
彩香は思わず通信へ入った。
「その説明で全部伝わるわ」
玲奈が横を見る。
「通信を控えてください」
「すみません」
買い物は、何事もなく終わるかに見えた。
春菜が会計を待っている時、近くの贈答カウンターで困っている外国人夫婦に気づいた。
夫婦は大きな紙袋と、青いリボンの箱を持っている。
若い販売員が英語で対応していたが、話がかみ合っていない。
「Delivery?」
「Tax-free?」
店員が確認する。
夫婦は何度も首を横に振る。
春菜は少し様子を見ていた。
そして、自然に近づいた。
「May I help you?」
流暢な英語だった。
発音だけではない。
話す速度を相手へ合わせ、聞き取れなかった部分を短い言葉で確認している。
夫婦の表情が、すぐに和らいだ。
春菜は箱を指し、質問する。
それは二人が購入したものか。
どこで受け取ったのか。
誰から渡されたのか。
ホテルのどこへ持っていくのか。
レシートへ記載されているのか。
一つずつ、時系列を整理していく。
澄香は接客を続けるふりをしながら、その英語へ耳を傾けた。
彩香が映像を見ながら呟く。
「春菜さん、相変わらず英語うまいな」
玲奈が尋ねる。
「内容は分かりますか」
「旅行者は、箱を買ってへんみたいです」
夫婦の話を聞き終えた春菜は、販売員へ日本語で説明した。
「この方たち、この箱を買うてへんそうです」
若い販売員が驚く。
「購入されていないんですか?」
「地下の免税カウンターの近くで、灰色のスーツの男の人から渡されたそうです」
春菜は、さらに詳しく伝える。
「『店からホテルへ届ける予定の商品やけど、配送が遅れたから代わりに持っていってほしい』って英語で頼まれたみたいです」
「ホテルのコンシェルジュへ、でしょうか」
「いいえ。ロビーで待ってる、黒い鞄を持った男の人へ渡すよう言われたそうです」
販売員の表情が変わる。
春菜は夫婦のレシートも確認した。
「この箱の商品は、レシートに載ってません」
澄香の視線が、青いリボンへ止まった。
箱の側面に小さな管理札。
417。
探していた本物だった。
澄香は静かに近づく。
「念のため、当店で確認させていただけますか」
春菜が英語へ訳す。
夫婦は安堵し、箱を澄香へ渡した。
「こちらで責任を持ってお預かりいたします」
澄香は端末を操作するふりをして、短い通信を送る。
「本物を確認。青いリボン。417番。外国人夫婦へ運ばせようとしていました」
バックヤードの澪香が即座に答える。
「返品台車にも同じ番号がある」
「こちらが本物です」
「地下は囮」
黒鷹の仕組みが見えた。
外国人夫婦が持つ本物は、百貨店の正式な配送記録へ残らない。
返品台車の偽物は、内部監査や警備の目を引く。
誰かが不審に思って確認しても、箱には模造品しかない。
本物は、その間にホテルへ運ばれる。
だが、春菜の英語が計画を壊した。
単に「配送について困っている」と訳しただけでは足りない。
購入していない。
知らない男から渡された。
レシートにない。
ホテルで別人へ渡すよう指示された。
春菜が相手の説明を正確に聞き取り、順序立てて日本語へ直したからこそ、澄香は本物だと確信できた。
監視映像の隅で、外商担当者の表情が変わった。
男も、青いリボンの箱が売場へ戻ったことに気づいた。
携帯端末を確認する。
足早に従業員通路へ入る。
「対象が動きました」
澄香が報告する。
「澪香、追ってください」
玲奈が指示した。
「確保はまだです。回収役まで引き出します」
バックヤード。
外商担当者は返品保管場所へ向かった。
台車から偽物の417番を取り出す。
蓋を開け、中身を確認する。
そして電話をかけた。
「本物が売場へ戻された」
声には焦りがあった。
「外国人が余計なことをした。予定変更だ。地下搬出口へ来い」
商品棚の陰で、澪香が会話を記録する。
外商担当者は偽物の箱を抱え、サービスエレベーターへ乗る。
地下搬出口。
作業着姿の男が待っていた。
黒鷹の回収役。
男は箱を受け取り、重さを確かめた。
「軽い」
「本物は売場にある」
「取り返せ」
「販売員が預かった。保安へ回される前に動かないと間に合わない」
回収役は外へ出る。
黒いワゴン車。
運転席には配送責任者がいる。
三人が車へ乗り込む寸前、県警の私服捜査員が動いた。
逃走経路を塞ぐ。
回収役が反転する。
澪香がサービス口から現れ、進路を遮る。
「動かないでください」
外商担当者が箱を投げ捨てようとする。
捜査員が腕を押さえる。
数秒で、三人は確保された。
売場では、春菜が外国人夫婦のそばに残っていた。
夫婦は不安そうに澄香を見る。
「大丈夫です」
澄香が言った。
春菜が英語へ訳す。
「百貨店側で確認します。お二人に責任はありません」
夫婦は何度も礼を言った。
春菜は少し眉を寄せた。
「知らん人から荷物預かるのは、やっぱり危ないね」
「はい」
澄香は答える。
「春菜様が詳しくお話を聞いてくださらなければ、気づけなかったかもしれません」
「私は英語で聞いただけやから」
「それが、とても重要でした」
春菜は少し照れたように笑った。
「困ってる人がおったら、放っとかれへんやろ」
春菜は、義母へのスカーフと真人へのネクタイを受け取り、何事もなかったように百貨店を出ていった。
自分が黒鷹の秘密配送を止めたことも。
目の前の販売員がNSTの潜入要員であることも知らない。
本物の青いリボンの箱は、保安責任者と県警の立ち会いで開封された。
中には高級ジュエリーのケース。
だが、宝飾品は精巧な模造品だった。
二重底を外す。
薄い記憶媒体が現れる。
解析されたデータには、黒鷹の外商取引が記録されていた。
フロント企業。
架空名義の法人外商口座。
政財界関係者への高級品供与。
返品を装った商品券化。
商品券を利用した資金移動。
外国人客を使った秘密配送。
内部協力者。
青いリボンの暗号規則。
黒い外商簿は、完全な形で確保された。
澄香も澪香も身元を疑われていない。
百貨店側には、外商担当者による個人的な不正行為として説明できる。
澄香の販売員としての評価は高いまま。
澪香も商品管理部門の応援スタッフとして信頼を得た。
この私鉄系百貨店は、今後も潜入先として利用できる。
任務は成功だった。
翌朝。
ヒロ室西日本分室。
窓の外には、神戸の明るい空が広がっていた。
昨夜の硬い緊張は消え、机の上には報告書と、百貨店から支給された残り物の菓子が置かれている。
玲奈が解析結果を読み上げた。
「黒鷹の外商資金洗浄ルートを解明しました。内部協力者、回収役、配送責任者を確保。政財界関係者への利益供与を示す記録も確認されています」
彩香は椅子へ深く座り、大きく息を吐いた。
「最初に春菜さんが映った時は、赤嶺家の厄災第三弾やと思ったんですけどね」
澄香が顔を上げる。
「春菜様が、美月のお母様だったんですか?」
彩香が頷く。
「せや。赤嶺春菜さん」
澄香は数秒、考え込んだ。
「三十代前半くらいだと思っていました」
澪香も資料写真を見る。
「美月のお姉様ではなく?」
「正真正銘、美月のオカンや」
「とても若く見えますね」
澄香が素直に言う。
「女優さんのようにきれいで、品のある方でした」
彩香は菓子を一つ取った。
「せやろ。あの百貨店の婦人服売場へ立ってても、完全に溶け込む人や」
「英語も、とても流暢でした」
澄香は感心した様子で続ける。
「ただ訳すだけではなくて、外国人のお客様が何を言いたいのか、一つずつ確認していました」
玲奈も頷く。
「春菜さんが、購入の有無、受け取った場所、ホテルでの引き渡し相手まで確認したことが決め手になりました」
澪香が言う。
「今回の最重要協力者ですね」
彩香は指を折って数え始めた。
「美月は、有馬とゴルフ場で任務を邪魔した」
「はい」
澪香が答える。
「真人さんは、ラウンジで任務を邪魔した」
「はい」
澄香も答える。
「春菜さんは、百貨店で任務を成功させた」
「はい」
迫田ツインズが同時に頷く。
彩香は厳粛な顔で結論を出した。
「赤嶺家、三試合して春菜さんだけ圧勝や」
玲奈の口元が、僅かに緩んだ。
澄香が見逃さない。
「玲奈さん、今笑いましたね」
「笑っていません」
澪香も玲奈を見る。
「少し笑っていました」
「確認した」
澄香が続ける。
彩香は玲奈を指さした。
「双子の証言が一致しましたよ」
「任務報告を続けてください」
玲奈は平静を装う。
澄香は少し考えた後、言った。
「それにしても、美月のお母様は、とても美人で気品のある方でした」
彩香が首を傾ける。
「そこは、あのアホツインテールとは違うところなんやな……」
「顔立ちは、よく似ています」
澪香が指摘する。
「顔は似とる。問題は中身や」
「美月にも明るさがあります」
澄香がかばう。
「それが現場へ来たら厄災になるねん」
「行動力もあります」
「それも現場へ来たら厄災になるねん」
「人見知りもしません」
「知らん人にまで話しかけるから厄災になるねん!」
澄香は黙った。
澪香が小さく笑う。
「何を褒めても厄災へ戻るね」
「実績があるからな!」
玲奈が書類を閉じた。
「今回は春菜さんの英語力と善意に助けられました。それで十分です」
彩香は菓子を一口食べる。
「次に赤嶺家の誰かが任務現場へ来るなら、春菜さん一人でお願いします」
「一般のご家族の行動を指定することはできません」
「分かってます。願望です」
澄香が真面目な顔で尋ねる。
「美月が百貨店へ来た場合、どの売場へ行くと思いますか」
彩香は即答した。
「化粧品売場。そんで美容部員さん全員と友達になって、試供品もらいすぎて袋パンパンにして帰る」
澪香が続ける。
「真人さんなら?」
「紳士服売場で派手なネクタイ選んで、店員さんへ家族の話を延々する」
「春菜さんなら?」
「困ってる外国人助けて、ついでにもう一件くらい事件解決する」
澄香は静かに頷いた。
「かなり差がありますね」
「せやから、春菜さんだけ大勝利なんや!」
玲奈の口元がまた緩む。
今度は、先ほどより明らかだった。
彩香が声を上げる。
「玲奈さん、今度は完全に笑ってるやないですか!」
「気のせいです」
「迫田ツインズ、現認!」
澪香と澄香が同時に玲奈を見る。
「笑っています」
「笑っていますね」
玲奈は数秒だけ沈黙した。
そして諦めたように、小さく息をついた。
「……報告書には記載しないでください」
彩香が笑う。
「そこは機密扱いなんですか」
分室へ笑い声が広がった。
昨夜、百貨店の売場で見せていた澄香の完璧な笑顔とは違う。
澪香も肩の力を抜き、妹と顔を見合わせて笑っている。
玲奈も、もう口元を隠そうとはしなかった。
机の上には、黒鷹の外商簿をまとめた分厚い報告書。
その横には、春菜が外国人客へ通訳した内容を記した記録。
そして百貨店の地下食品売場から届いた、小さな洋菓子の箱。
彩香は最後の一つへ手を伸ばした。
澄香も同時に手を伸ばす。
二人の指が箱の上で止まった。
「これはウチのです」
彩香が言う。
「私が売場で任務をしたので、私の分だと思います」
澄香が譲らない。
「監視で一晩中胃を痛めたのはウチや」
「私は一日中立って接客しました」
澪香が箱をのぞく。
「半分にすれば?」
「小さすぎて無理や」
玲奈が静かに菓子を取り上げた。
「任務責任者が預かります」
彩香と澄香が同時に声を上げる。
「それはずるい!」
「玲奈さん!」
今度こそ、分室全体が明るい笑いに包まれた。
三宮の私鉄系百貨店では、その日も開店を知らせる音楽が流れていた。
販売員が頭を下げ、関西マダムが季節の商品を選び、外国人旅行者が神戸の土産を探す。
美しい包装紙は、本来、人から人へ届ける思いを包むためにある。
黒鷹は、その内側へ金と秘密を隠した。
だが、青いリボンをほどく最初の糸口となったのは、捜査員の追跡でも、特殊装備でもない。
困っている旅行者を放っておけず、流暢な英語で事情を聞いた、一人の母親の善意だった。
赤嶺家は、NSTにとって厄災である。
少なくとも彩香は、そう主張し続けていた。
しかしこの日だけは、誰も否定できなかった。
赤嶺春菜は、文句なしの福の神だった。




