琥珀のグラスに沈む黒い名簿 ――迫田ツインズ、三宮VIPラウンジ潜入
美しく見せる。
旧居留地の石造りの壁は街灯を淡く返し、港では客船の明かりが黒い海面を揺らしていた。山側へ目を向ければ、六甲の斜面に張りついた住宅の灯が、夜空からこぼれた星のように見える。
その海と山の間に、三宮はあった。
鉄道が集まり、人が交わり、金が動く。
昼の三宮には、買い物袋を抱えた客と急ぎ足の会社員がいる。夜になれば、北野坂や東門街の細い路地にバーやクラブの看板が灯り、昼とは別の顔を見せる。
磨かれた革靴。
控えめな香水。
グラスの中で揺れる琥珀色の酒。
笑顔と笑顔の間へ落とされる、金額、名前、約束。
神戸の夜では、秘密さえ上等な衣装を着る。
黒鷹は、その衣装の仕立て方をよく知っていた。
北野坂から一本奥へ入った高層ビル。その最上階に、会員制高級ラウンジ「クラブ・アステリア」はあった。
看板は小さい。
初めて訪れた者なら、そこが神戸や阪神間の政財界人に利用される特別な社交場だとは気づかない。
入店には会員の紹介が必要だった。店側による審査もある。
店内には広いメインフロアと、防音設備を備えた複数のVIP個室が設けられている。
低く流れるピアノ。
間接照明に照らされた花。
厚い絨毯。
革張りの椅子。
氷がグラスへ落ちる音さえ、客の会話を邪魔しないよう計算されていた。
表向きは、酒と会話を楽しむ上質な社交場。
だが、その経営会社を複雑な資本関係の奥までたどると、黒鷹のフロント企業「神港アーバンパートナーズ」へ行き着く。
黒鷹はアステリアを、政治と財界をつなぐ非公式な応接室として使っていた。
港湾開発事業への参入。
県内大型公共工事の入札調整。
再開発区域の事前取得。
政治家秘書を介した偽装献金。
高級酒の売上へ見せかけた資金洗浄。
書類は持ち込まない。
携帯電話はVIP個室へ入る前に預けさせる。
記録へ残る連絡は避け、口頭で確認する。
だが、取引のすべてを人間の記憶だけへ頼ることはできない。
店で注文される高級ボトルの管理番号。
ラウンジ嬢の指名番号。
個室の使用時刻。
それらが黒鷹の暗号になっていた。
ボトル番号は、金を出すフロント企業。
指名番号は、政治家側の受取人。
開栓時刻は、送金予定日。
そして店のどこかに保管されているVIP顧客台帳には、黒鷹へ協力する企業幹部、政治家、秘書、仲介人が別名義で記録されている可能性があった。
その名簿を見つける。
同時に、今夜行われる黒鷹と政財界関係者の会話を記録する。
ただし、店側へ潜入を悟られてはならない。
一夜の摘発で終わらせるのではなく、アステリアを今後も情報源として利用する必要があるからだ。
岡本玲奈は、その任務を迫田ツインズへ与えた。
迫田澪香。
迫田澄香。
よく似た顔立ちを持つ双子だった。
だが、幼さや愛らしさを売りにする姉妹ではない。
端正な輪郭。
落ち着いた眼差し。
華やかでありながら品を失わない立ち姿。
二人とも、都会的で洗練された大人の美女だった。
高級ラウンジという舞台に立たせれば、客より先に店側が納得する。
澪香は客席へ入る。
髪は普段より暗い栗色に見せ、毛先へ緩い巻きを加えた。目元の化粧と眉の形を変え、声も僅かに低くする。
源氏名は、美玲。
宮崎県出身。
大学進学を機に関西へ移り、神戸で三年暮らしている。以前はホテルラウンジに勤めていたという偽装経歴だった。
澄香はバックヤードへ入る。
予約管理の補助スタッフを装い、客の入退室、指名状況、ボトル番号、黒服の配置、VIP個室の使用記録を監視する。
姉が表で言葉を拾い、妹が裏で意味をつなぐ。
二人は別々の場所にいても、短い通信だけで互いの呼吸を読めた。
潜入前。
近くのビルに設置された臨時監視室で、玲奈は二人へ最後の指示を出した。
「今夜は逮捕も身柄確保も行いません」
モニターにはアステリアの見取り図と、黒鷹関係者の顔写真が表示されている。
「情報だけを持ち帰ってください。店側に疑われれば、今後の潜入経路が失われます」
澪香は静かに頷いた。
「相手に、自分から話したと思わせます」
澄香も続ける。
「こちらが知っていると気づかせない。それなら、次も使えます」
西川彩香は腕を組み、店内映像を見つめた。
「戦闘なし。追跡なし。静かな任務やな」
玲奈は答えた。
「その予定です」
「予定どおり終わったら、ですけどね」
彩香の言葉には、理由のない不吉さが混じっていた。
午後八時。
クラブ・アステリアが、最も華やぐ時間を迎える。
美玲となった澪香は、黒鷹のフロント企業幹部がいる席へついた。
初日とは思えない接客だった。
客のグラスが空になる直前に酒を注ぐ。
会話を横取りしない。
褒めすぎない。
男が自分の業績を話せば、その結果ではなく、そこへ至る苦労を尋ねた。
「それほど大きな事業をまとめるのは、大変だったでしょうね」
建設会社の社長は、満足そうに笑う。
「簡単な仕事ではないよ」
「関係する方も多いのでしょうね」
「県の連中もいる。だが最後は、誰の話を聞けばいいか分かっている」
澪香は少しだけ驚いた顔を見せる。
「皆様から信頼されているんですね」
「信頼というより、力関係だ」
男は酒を口へ運び、自分から続けた。
「次の湾岸案件も、もう話はついている」
別の幹部が声を落とす。
「ここで言う話じゃない」
「美玲ちゃんは何も分からんよ」
男は澪香を見て笑った。
「なあ?」
澪香も柔らかく笑う。
「難しいお話は、よく分かりません」
嘘だった。
一言も聞き逃していない。
「ただ、皆様が大きなお仕事をされていることは分かります」
男たちは安心した。
キャディーや運転手と同じだった。
近くにいても、会話の中身を理解しない存在。
そう思わせた時点で、澪香の勝ちだった。
「先生本人に金を渡す必要はない」
一人が言う。
「財団へ回せば、表では文化振興になる」
「神港アーバンの帳簿なら監査も追えん」
「県だけやない。市にも窓口はある」
情報が、琥珀色の酒と一緒にこぼれていく。
バックヤードでは、澄香が断片を整理していた。
「フロント企業を二社追加確認」
澄香の声が、監視室へ届く。
「二十二時十五分、県議会関係者の秘書がVIP二号室へ入る予定」
「ボトル番号四一七。政治側への資金移動を示す可能性が高い」
彩香はモニターを見ながら感心した。
「澪香、ラウンジ嬢が天職なんちゃうか」
澄香が即答する。
「否定はしない」
「妹が認めるんかい」
「澪香は、相手が話したくなる間を作るのが上手いから」
玲奈が静かに言った。
「転職相談ではありません。任務へ集中してください」
作戦は順調だった。
むしろ、順調すぎるほどだった。
黒鷹と県議会関係者を結ぶ秘書。
港湾再開発の入札情報。
政治団体を経由する資金。
VIP台帳の存在。
澪香は核心へ近づきつつある。
その時、アステリアのエレベーターが開いた。
数人の男性が、上機嫌で店へ入ってくる。
取引先の接待客だった。
その中央に、赤嶺真人がいた。
赤嶺美月の父。
普段から明るい。
声が大きい。
誰とでもすぐに打ち解ける。
そして、その夜はすでに一次会で酒が入っていた。
顔色はよい。
笑い声は大きい。
身ぶりは普段より三割増しだった。
監視映像へ真人が映った瞬間、彩香は両手で頭を抱えた。
「こんな時に、よりによって美月のオトンが……」
玲奈が確認する。
「任務対象との関係はありますか」
「ありません」
「では一般客ですね」
「普通の一般客やったら、ウチも絶望してません!」
真人は奥の席へ案内された。
最初の数分は、取引先の話を聞きながら比較的おとなしく座っていた。
だが、近くで接客している美玲に気づく。
上品な笑顔。
落ち着いた物腰。
華やかでありながら、品を失わない容姿。
真人の目が輝いた。
「美玲ちゃんいうの? 上品でええねえ!」
澪香は営業用の笑顔を向けた。
「ありがとうございます」
「美玲ちゃん、戦隊ヒロインとかなれるんちゃう?」
澪香の笑顔は崩れない。
心の中だけで答える。
――すでにやっている。
「うちの子、美月いうて戦隊ヒロインやってんねん。知ってる?」
「お名前は存じ上げています」
――知っているどころか、一緒に活動している。
「今度紹介したるわ!」
――紹介は必要ない。
「ありがとうございます。機会がございましたら」
完璧に受け流した。
だが真人は、受け流されたことに気づかない。
むしろ、話を丁寧に聞いてくれる美玲を気に入った。
「美玲ちゃん、出身どこ?」
「宮崎です」
「宮崎なん! ええところやねえ。暖かいし、食べ物うまいし、鶏もマンゴーもある!」
「ありがとうございます」
「そういや宮崎出身の美人モデル、おったよな」
真人は真剣に考え込む。
「甲殻類みたいな名前の子や」
澪香の指が、グラスの陰で僅かに止まった。
「カニちゃんやったか?」
「……」
「エビちゃん?」
「……」
「シャコちゃん?」
澪香は微笑みを保った。
「おそらく、エビちゃんではないでしょうか」
真人が膝を叩いた。
「それや! エビちゃんや! シャコちゃんはモデルいうより寿司屋やな!」
取引先の男たちが笑う。
澪香も品よく笑った。
心の中では、冷静に答えている。
――エビちゃんで合っている。
真人はますます調子へ乗った。
「美玲ちゃんもモデルいけるで。双子の妹とかおったら、二人で売り出せるのにな!」
バックヤードの澄香が、監視映像を見つめる。
彩香が呻いた。
「何で無駄に核心へ近づくねん……」
真人は美玲の席を離れない。
黒鷹幹部たちは、騒がしい一般客へ不快そうな視線を向け始める。
会話も途切れる。
このままでは、せっかく緩んだ警戒が戻る。
澄香は真人の予約情報を確認した。
接待の主賓ではない。
取引先の重要顧客をもてなす側である。
奥の席では、記念ボトルの開栓と集合写真が予定されていた。
澄香は黒服へ指示を出す。
「赤嶺様へ、主賓がお呼びだと伝えてください」
「何とお伝えしますか」
「記念ボトルを開けずに待っている。集合写真も赤嶺様がいないと始められないと」
黒服が真人へ近づく。
「赤嶺様。奥のお席で皆様がお待ちです。記念ボトルの開栓をお願いしたいとのことです」
真人が勢いよく立ち上がった。
「おお、そうやった! 美玲ちゃん、ちょっと待っててな!」
澪香は笑顔で頭を下げる。
「どうぞ、ごゆっくり」
心の中では別の言葉を返した。
――待たない。
真人は奥の席へ連れていかれる。
彩香が深く息を吐いた。
「剥がれた……」
澄香は冷静だった。
「十五分ほどしか持たないと思う」
「何で分かるん?」
「戻ってくると言っていたから」
十三分後。
真人は空になったグラスを持って、本当に戻ってきた。
「美玲ちゃん、戻ってきたで!」
彩香が机へ額をつけた。
「戻ってこんでええ……」
その時、VIP個室から澪香へ指名が入った。
黒鷹幹部と県議会関係者の秘書が、同席を求めている。
今夜の核心だった。
澪香は真人の相手を続けられない。
しかし美玲が突然別の席へ移れば、真人が騒ぎかねない。何度も黒服を使って遠ざければ、店側にも不自然に思われる。
澄香は、双子にしか使えない方法を選んだ。
美玲を二人にする。
スタッフ用通路。
澪香と澄香が、僅かな時間で入れ替わる。
同じ髪型。
同じ衣装。
同じアクセサリー。
同じ化粧。
澄香は、澪香が使っていた香水まで身につけた。
「真人さんは話の途中」
澪香が小声で告げる。
「宮崎の話。美月を紹介すると言っている」
「分かった」
「分からなくても、向こうが話し続ける」
「それも分かった」
姉から妹へ、美玲という女が引き継がれる。
澪香は別の通路からVIP個室へ入る。
澄香はメインフロアへ戻った。
真人は、目の前の美玲が別人になったことに気づかない。
ただ、少し首を傾げた。
「美玲ちゃん、さっきより雰囲気変わった?」
澄香の心臓が一度だけ強く鳴る。
だが、笑顔は動かなかった。
「お酒が進んだからでしょうか」
真人が納得したように頷く。
「なるほどな! ウチも飲めば飲むほど男前になるからな!」
「そうかもしれませんね」
無線の向こうで彩香が呟いた。
「誰も肯定してへんで……」
真人は質問を再開した。
「美玲ちゃん、宮崎のどこ?」
「宮崎市です」
「海近いな。サーフィンする?」
「いいえ」
「ゴルフは?」
「しません」
「野球は?」
「詳しくありません」
「ほな何が好き?」
「静かな時間でしょうか」
真人が大笑いする。
「それ、ウチと正反対やな!」
――よく理解している。
澄香は心の中で答えた。
真人は今度、美月の幼い頃の話を始めた。
祭りで迷子になった話。
運動会で、本人より父親の方が目立った話。
家族旅行の日程を勝手に変更し、春菜に怒られた話。
「美月な、ちっちゃい頃から目立ちたがりやってん」
「想像できます」
「分かる?」
「何となく」
「やっぱり美玲ちゃん、人を見る目あるわ!」
澄香は美月をよく知っている。
それどころか、現在進行形で似たような苦労を味わっている。
だが、それを言うことはできない。
「今度、美月のイベント連れていったる」
「お気持ちだけで十分です」
「遠慮せんでええ!」
「遠慮ではなく――」
「美月に言うとくから!」
会話が成立していなかった。
真人は名刺を二枚取り出した。
「一枚は美玲ちゃん用」
一枚を澄香へ渡す。
「もう一枚は、美玲ちゃんの双子の妹がおった時用」
澄香は二枚目を見た。
「双子の妹がいるとは申し上げていませんが」
「さっき双子の話してたやろ。何となくおりそうやん」
彩香が監視室で震えた。
「何やねん、その無駄に鋭い直感……」
澄香は名刺を両手で受け取る。
「妹がおりましたら、渡しておきます」
――本人が受け取った。
真人は満足そうに頷いた。
「妹さんも美人なんやろな」
「よく似ています」
「やっぱりおるんや!」
澄香は自分が墓穴を掘ったことに気づいた。
だが、真人の興味は正体の追及には向かわなかった。
すぐに食べ物の話へ変わる。
「チキン南蛮は、タルタル多い方がええよな?」
「好みによると思います」
「美玲ちゃんは甘酢派?」
「どちらでも」
「地鶏は?」
「食べます」
「マンゴーは?」
「食べます」
「エビちゃんは?」
「食べません」
真人が腹を抱えて笑った。
「そら人やから食べたらあかんわ!」
澄香は笑顔を保ったまま、心の中で長いため息をついた。
VIP個室では、澪香が黒鷹幹部と秘書の間へ座っていた。
照明は暗い。
テーブルの上には、番号四一七のボトルが置かれている。
秘書は酒を口へ運びながら言った。
「次の湾岸案件は、県だけで決められる規模じゃない」
黒鷹幹部が答える。
「神戸市側の窓口は用意してある」
澪香はグラスへ酒を注ぐ。
「皆様のお仕事は、本当に多くの方が関わるんですね」
「表へ出る人間は多い」
幹部が笑う。
「だが、最後に決めるのは少人数だ」
「先生ご本人も、こちらへいらっしゃるのですか?」
「先生は名前を出さない」
秘書が言った。
「金は財団が受ける」
「文化振興の財団ですか?」
「表向きはな」
澪香はそれ以上追わなかった。
質問を重ねれば、相手は警戒する。
沈黙を置く。
相手が、自分の力を示すために続きを話すのを待つ。
やがて黒鷹幹部が言った。
「VIP台帳の青い印を見れば、どこへ流したか全部分かる」
澪香は微笑みながら、氷を一つグラスへ落とした。
それが合図だった。
バックヤードの記録担当が動く。
澄香が事前に確認していた保管経路と照合し、VIP顧客台帳が支配人室奥の施錠棚へ移される時刻を特定する。
青い印。
それが政界側への資金移動を示している。
黒鷹と政界を結ぶ政治団体。
港湾開発を巡る不正入札。
文化財団を経由する偽装献金。
フロント企業四社。
ボトル番号と送金日の暗号。
そして、VIP台帳に記された別名義の顧客。
今夜の目的は達成された。
ただし、メインフロアでは、まだ真人が止まらない。
「美玲ちゃん、今度家族で神戸来た時、この店連れてきてもええ?」
澄香は笑顔で答える。
「会員制ですので、事前にご確認ください」
「美月も連れてくるわ!」
監視室の彩香が反射的に叫ぶ。
「連れてくるな!」
真人には聞こえない。
「うちの嫁も美人やで。美玲ちゃんと並んだら姉妹みたいに見えるかもな」
澄香は春菜を知っている。
「きっと、おきれいな方なのでしょうね」
「美月より若う見えるで!」
「そうでしょうね」
真人が不思議そうに尋ねる。
「何で分かるん?」
「何となくです」
真人は膝を叩いた。
「ほんま、人を見る目あるわ!」
彩香はついに弱音を吐いた。
「誰か美月のオトンを止めて……」
澄香はバックヤードへ合図を送った。
黒服が真人へ近づく。
「赤嶺様。主賓の方がお帰りになります」
真人が立ち上がった。
「もうそんな時間か!」
名残惜しそうに澄香を見る。
「美玲ちゃん、また来るわ!」
「お待ちしております」
仕事としての言葉だった。
だが真人は満面の笑みになった。
「約束やで! 美月にも言うとくから!」
――言わなくていい。
澄香は、最後まで笑顔を崩さなかった。
真人がエレベーターへ乗る。
扉が閉まる。
数秒間、澄香は同じ姿勢を保った。
完全に姿が見えなくなったところで、ようやく小さく息を吐く。
彩香が無線で尋ねた。
「澄香、生きてる?」
「精神的には少し疲れた」
「よう耐えたな」
澄香は真人から受け取った二枚の名刺を見た。
「美月が、よく似ている理由は分かった」
その後、澪香と澄香は再び元の配置へ戻った。
美玲が途中で入れ替わったことに、客も店側も気づいていない。
澪香は最後まで黒鷹関係者の接客を続ける。
澄香はバックヤードへ戻り、VIP台帳の保管場所と移動経路を記録する。
深夜。
クラブ・アステリアの営業が終わる。
店内の照明が一つずつ落ちていく。
迫田ツインズは、正体を悟られないまま店を出た。
潜入は成功した。
黒鷹のフロント企業四社。
県議会関係者の秘書。
神戸市の港湾部門へ接触する仲介役。
財団を使った偽装献金。
VIP台帳の暗号規則。
政財界と黒鷹を結ぶ、複数の線が明らかになった。
最上位の政治家本人の名前には、まだ届かない。
だが、次の扉を開ける鍵は手に入れた。
そして何より重要なのは、二人が誰にも疑われなかったことだった。
美玲の接客は、店側から高く評価された。
客から新たな指名も入る。
支配人からは、今後も継続して勤務してほしいと声をかけられた。
澄香も予約管理補助として信頼を得ており、バックヤードへの出入りを怪しまれていない。
クラブ・アステリアは、次回も使える。
撤収後、玲奈は迫田ツインズへ告げた。
「美玲の身分は維持します」
澪香が頷く。
「次の指名にも応じられます」
澄香も続ける。
「店側には疑われていない。次回もバックヤードへ入れる」
「この店は継続監視対象とします」
玲奈は静かに結論を出した。
「再び二人へ潜入を依頼する可能性があります」
夜が明ける。
神戸の港側から薄い朝日が差し込み、三宮のビルの窓を淡く照らした。
華やかな看板は消え、昨夜の客たちはそれぞれの日常へ帰っていく。
ヒロ室西日本分室では、眠そうな彩香が机へ肘をついていた。
ほとんど一晩中、真人の行動を監視していたため、任務に出た二人より疲れて見える。
「あのアホツインテールだけやない。一族でNSTの任務を妨害する気か……」
玲奈は報告書へ目を通す。
「赤嶺さんは、任務が行われていることを知りません」
「知らんまま、毎回一番邪魔なところへ入ってくるから天敵なんです!」
澪香は真人から渡された名刺を机へ置いた。
「美月のお父さん、賑やかで楽しい人でした」
彩香が顔を上げる。
「任務中やなかったらな」
澄香も、もう一枚の名刺を置いた。
「私の分ももらった」
彩香は二枚の名刺を見比べる。
「何で澄香まで持っとんねん!」
「双子の妹へ渡すように言われた」
「自分で受け取っとるやないか!」
澪香が小さく笑った。
「真人さん、最後まで私たちが入れ替わったことに気づかなかったね」
「気づかれてたまるか!」
澄香も僅かに笑う。
「でも、美月によく似ていた」
「話を止めても、違う話題から続けるところもそっくり」
澪香が付け加える。
彩香の声が分室へ響いた。
「知らんわ、ボケェ!」
玲奈の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
彩香は見逃さない。
「玲奈さん、今笑いましたよね」
「笑っていません」
澪香が言った。
「少し笑っていた」
澄香も頷く。
「確認した」
「双子で証言固めんといて!」
玲奈は平静を装い、報告書へ視線を戻した。
「ともあれ、潜入は成功しました」
「真人さん込みで成功したんが、余計に腹立つんです」
「美玲の身分も維持できています」
「次回は、入店予定客の名簿に赤嶺真人の名前がないか、最初に確認してください」
玲奈は冷静に答える。
「一般客の予定を完全に把握することは困難です」
「ほな入口に『赤嶺真人、本日入店不可』いう札を出してください」
「不可能です」
澄香が真面目な顔で言った。
「真人さんなら、入口の黒服と仲良くなって、別の客の紹介で入ってくると思う」
彩香は天井を仰いだ。
「何で敵より侵入能力高いねん……」
その言葉で、澪香が吹き出した。
澄香も笑う。
玲奈も今度は完全には隠せず、口元を緩めた。
彩香は三人を見回す。
「笑い事ちゃいますよ!」
そう言いながら、彩香自身も最後には笑っていた。
机の上には、確保した情報をまとめた報告書。
その横には、真人が美玲と「双子の妹」へ渡した二枚の名刺が並んでいる。
昨夜、琥珀色のグラスの向こうに沈んでいた黒い名簿は、まだすべて姿を現してはいない。
だが、一部は確かに引き上げられた。
澪香は、美玲という女になって客の自尊心から秘密を引き出した。
澄香は、バックヤードから店全体を動かし、最後には姉と入れ替わって想定外の厄災を引き受けた。
二人の正体は暴かれなかった。
美玲は、クラブ・アステリアの夜に残った。
次の客を待ち、次の秘密を聞き出すために。
そして赤嶺真人だけは、上品な美玲を戦隊ヒロインへ勧誘し、娘へ紹介できる日を楽しみにしながら、上機嫌で家へ帰った。
自分がその夜、二人の迫田姉妹と交互に話していたことなど、少しも知らずに。
三宮には新しい朝が来る。
夜の秘密を飲み込んだ街は、何事もなかったように人々を迎える。
クラブ・アステリアの扉も、次の夜には再び開く。
美玲の物語も、まだ始まったばかりだった。




