本命印は黒く塗られた ――迫田ツインズ、馬主席の八百長名簿を追え
競馬場には、二種類の沈黙がある。
一つは、発走直前の沈黙だ。
ゲートの中で馬が息を整え、騎手が手綱を握り直す。観客は勝馬投票券を握り締め、実況席さえ一瞬だけ言葉を止める。
もう一つは、金を持つ者たちの沈黙だった。
それは声を潜めるためのものではない。
何も知らないふりをするためにある。
兵庫県東部。
大阪との境に近い住宅地の一角に、地方競馬を代表する小回り競馬場があった。
一周千メートル余りの走路。
観客席のすぐ前を競走馬が何度も駆け抜ける。
最終コーナーは短く、直線も長くない。仕掛けを一瞬ためらえば、前の馬を捕らえられない。騎手の判断と位置取りが、勝敗へ露骨に表れる競馬場だった。
上空には、大阪国際空港へ降りる旅客機が低く横切る。
スタンドでは、古参の競馬ファンが赤鉛筆で新聞へ印をつけている。
売店からは、串物と焼きそばの匂いが漂う。
パドックの柵際では、馬体を見つめる者たちが、肩の張りや歩幅について真剣に語り合っている。
中央競馬の巨大な競馬場にはない、人と馬との近さがあった。
一頭が走る。
観客が叫ぶ。
騎手が追う。
外れた者は新聞を丸め、数分後には次の競走を考え始める。
この場所では、負けたことさえ次の夢への前売券になる。
だが、一般スタンドから離れた上階には、別の時間が流れていた。
馬主席。
厚い絨毯。
革張りの椅子。
白いクロスの掛かったテーブル。
大きな窓の向こうには、走路とパドックを見渡せる景色が広がっている。
飲み物は静かに運ばれ、皿とグラスが触れ合う音さえ抑えられていた。
そこへ集まるのは、馬主だけではない。
企業経営者。
建設会社の役員。
医療法人の理事。
政界関係者。
馬を介して知り合った者たちが、所有馬の話から商売の話へ、商売の話から金の話へ移っていく。
競馬番組のページをめくるふりをしながら、公共事業の予定が語られる。
グラスへ氷を落としながら、企業買収の話が進む。
パドックへ目を向けたまま、誰かを負けさせる相談が行われる。
黒鷹は、歓声に包まれた競馬場の最も静かな場所を、秘密会談へ使っていた。
標的は、鷲尾玄一郎。
県内で運送会社、建設会社、医療法人を経営する有力馬主だった。
所有馬は多い。
勝ち星も少なくない。
地方競馬の将来を考える名士として、表向きの評判は良かった。
若い騎手を支援する。
小規模な厩舎へ馬を預ける。
引退馬の行き先にも金を出す。
競馬関係者の前では、いつも穏やかな笑みを浮かべている。
だが、その笑顔の裏で、鷲尾は競走馬を黒い金の運搬役にしていた。
価値の低い馬を、黒鷹のフロント企業間で高値売買する。
育成費。
輸送費。
治療費。
預託料。
帳簿へ並ぶ数字を水増しし、共同所有馬の賞金や売却益として金を戻す。
表面上は、競走馬への投資だった。
実際には、馬を使った資金洗浄である。
さらに鷲尾には、特定の競走結果を操作している疑いがあった。
黒鷹が欲しいのは、勝つ馬の情報だけではない。
人気馬が勝たない。
本命馬が積極的な競走をしない。
有力騎手が、仕掛けを僅かに遅らせる。
それを事前に知るだけで、投票の組み合わせは大きく変わる。
鷲尾は、八百長という言葉を使わなかった。
「今日は無理をさせない」
「次の開催が本番だ」
「前を追わなくていい」
「あの若い騎手なら、自分の立場は分かっている」
曖昧な言葉。
だが、意味を知る者には十分だった。
鷲尾は、黒革の競馬番組入れを愛用していた。
その内側には、小型の黒い手帳が差し込まれている。
手帳には馬名が書かれていない。
枠番号。
厩舎番号。
馬主服の色。
騎手を示す記号。
企業名の略号。
それらを組み合わせ、不正競走と資金移動の予定を記録していると考えられた。
NSTの任務は三つ。
鷲尾と黒鷹関係者の会話を記録する。
競走馬売買を使った資金洗浄の証拠を集める。
そして、当日のメイン競走で予定されている八百長の、具体的な指示を確認する。
馬主席へ潜入するのは、迫田澪香と迫田澄香。
迫田ツインズ。
端正な顔立ち。
洗練された物腰。
華やかな容姿を持ちながら、幼さや軽さを感じさせない。
高級ラウンジでも、私鉄系百貨店でも、二人は周囲へ自然に溶け込んだ。
今回の舞台である馬主席にも、よく似合っていた。
澪香は接遇担当。
飲み物や軽食を提供し、馬主たちのテーブルを回る。
澄香は受付担当。
馬主証を確認し、席へ案内し、競馬番組を渡す。
双子だとすぐに悟られないよう、印象には僅かな差をつけた。
澪香は髪を柔らかく巻き、少し華やかに。
澄香は髪をすっきりまとめ、控えめで知的に。
作戦前。
競馬場内の会議室に設けられた監視拠点で、岡本玲奈が最後の指示を出した。
「鷲尾は、馬主席のスタッフへ関心を持ちません」
モニターには、鷲尾と黒鷹関係者の顔写真が並んでいる。
「自分より立場が下だと判断した人間を、家具や設備と同じように扱います」
澄香が静かに答えた。
「そこを利用します」
「見られても、記憶へ残らないスタッフになる」
澪香も続ける。
「相手の言葉は、全部記憶する」
西川彩香は、二人の制服姿を見比べた。
「ラウンジ、百貨店、今度は馬主席。迫田ツインズ、高級な場所へ行くほど本職らしくなるな」
「任務です」
二人の声がそろう。
「分かっとる。返事までそろえんでええ」
作戦は、第一競走の発走前から始まった。
澄香は受付へ立ち、入室者の馬主証を確認する。
名前と顔を、一度で覚える。
「鷲尾様、いつもの窓側のお席をご用意しております」
「榊原様のお連れ様は三名でよろしいでしょうか」
客が競馬番組を落とす前に拾う。
老人が席を立てば、杖を取りやすい位置へ差し出す。
初めて馬主席へ入る若い馬主には、窓側席とパドックへ続く通路を簡潔に説明する。
澪香は、グラスが空になる前に飲み物を運ぶ。
酒の銘柄。
氷の数。
水を常温で飲む客。
食後にだけコーヒーを頼む客。
一度聞いたことは忘れない。
客が重要な話を始めれば、何も聞いていないように視線を外す。
だが、耳は一言も逃さなかった。
鷲尾は、午前の競走が終わる頃には、二人の存在を完全に気に留めなくなっていた。
「北摂の運送会社は、次の共同所有へ入れろ」
「育成費は前回より二割増しで処理する」
「売却益は財団へ回せばいい」
「医療法人は、馬を一頭買ったことにしておけ」
黒い会話が、何気ない世間話の間へ混じる。
澪香はグラスを置きながら、企業名を記憶した。
澄香は競馬番組を差し出しながら、鷲尾の手元を見る。
黒い番組入れ。
その内側から、手帳が僅かに見える。
鷲尾が開いたページには、枠番号と企業名の略号が並んでいた。
澄香は配置まで覚えた。
昼前。
黒鷹の関係者が、声を潜める。
「二番の件は、厩舎へ伝わっているのか」
「昨日、話を通した」
「騎手は?」
「若いが、自分の立場は分かっている」
八百長を疑わせる会話。
しかし、それだけでは確証にならない。
どの馬へ、どのような競走をさせるのか。
誰が指示し、誰が金を受け取ったのか。
鷲尾が具体的な言葉を口にするのは、メイン競走直前と予測されていた。
監視会議室の彩香は、映像を見ながら満足そうに頷いた。
「ええやん。今日は完璧や」
玲奈も記録を確認する。
「フロント企業三社。架空の育成費。共同所有を使った資金移動。黒い手帳の存在も確認できました」
「あと八百長の具体的な指示が取れたら百点満点や」
彩香は椅子の背へ身体を預けた。
「今日は厄災も馬主席までは来んやろ」
玲奈が横を見る。
「何か心当たりがあるのですか」
「イベントステージに、美月と真央が来とるんです」
一般エリアでは、すでに人だかりができていた。
出演者は赤嶺美月。
山田真央。
そして、著名競馬評論家の井田修三郎。
井田修三郎は、半世紀近く競馬を見続けてきた名物評論家だった。
七十代。
使い込まれた赤鉛筆。
何度も折り直された競馬新聞。
派手すぎない蝶ネクタイ。
重賞競走の歴史を尋ねられれば、数十年前の馬場状態や展開まで楽しそうに語る。
血統。
調教。
騎手の癖。
馬場傾向。
知識の深さは本物だった。
だが、知識を振り回して初心者を見下すことはない。
予想が外れても、馬や騎手を責めない。
自分の読み違いだけを、笑いへ変える。
「馬は一生懸命走りました。間違えたのは、赤鉛筆を持っていた私です」
それが井田の口癖だった。
長年競馬を見てきたからこそ、勝敗の向こうに馬と人の努力があることを知っている。
そして長年外してきたからこそ、外れた予想を誰より楽しく語ることができた。
ステージへ登場すると、大きな拍手が起こった。
美月が明るく尋ねる。
「井田先生、今日の本命はどの馬なん?」
井田は競馬新聞を広げ、ゆっくり観客を見回した。
「その質問へ答える前に、皆さんへ重要なお知らせがあります」
会場が静かになる。
「私の本命を外して買うと、的中へ一歩近づく可能性があります」
一拍遅れて、爆笑が起きた。
真央が巻き髪を揺らして突っ込む。
「先生、自分で言ってええことなんだがね?」
「長年競馬を続けると、自分の予想との適切な距離感が分かるんです」
美月が新聞をのぞき込む。
「先生、控室では六番が本命いうてたやん」
「控室の私は、まだ若かった」
「二十分前やで!」
観客の笑い声が大きくなる。
井田は真顔で答える。
「予想は締切まで成長します」
真央が言う。
「成長しすぎて、別の馬になっとらん?」
美月も続く。
「先生の予想、成長やなくて迷子ちゃう?」
井田は赤鉛筆を持ち上げた。
「迷子でも、競馬場の中にいる限りは帰ってこられます」
会場はさらに沸いた。
冗談の合間には、馬を見る目も見せる。
パドック映像を見ながら、一頭ずつ丁寧に解説する。
「この馬は耳をよく動かしていますね。周りを気にしているように見えますが、これが普段どおりなら心配はいりません」
美月が尋ねる。
「先生、馬の気持ち分かるん?」
「分かったつもりになった時が、一番危ないんです」
「結局分からへんのかい!」
また笑いが起きる。
井田は穏やかな表情で続けた。
「馬にも性格があります。静かな馬もいれば、周りをよく見る馬もいる。人間の基準だけで、落ち着きがないと決めつけてはいけません」
観客が頷く。
「人間は勝った、負けたと言いますが、馬は与えられた条件の中で走っています。予想が外れても、馬を悪く言ってはいけません」
温かい拍手。
真央が笑顔で言う。
「ええ話なのに、先生が言うと外れた時の予防線にも聞こえるがね」
「五十年かけて築いた予防線です」
会場は再び爆笑に包まれた。
監視会議室の彩香は、ステージの音声を聞きながら額へ手を当てた。
「アホツインテールに巻き髪、さらに井田修三郎までそろっとる。これは厄介や」
玲奈は馬主席の映像から目を離さない。
「任務区域とは離れています」
「あの三人がそろったら、距離の問題やない気がするんです」
だが、ステージの騒ぎは馬主席へ届かなかった。
馬主たちは大きな窓の向こうへ視線を向け、企業経営や所有馬について語り続けている。
一般客の注目がイベントステージへ集まったことで、黒鷹関係者の動きは、むしろ目立ちにくくなっていた。
迫田ツインズは順調に情報を引き出す。
彩香の表情へ笑みが戻った。
「よし。アホツインテールと巻き髪は、あっちで井田先生に任せとけばええ」
「先ほどは厄介だと言っていました」
玲奈が指摘する。
「影響ないなら、好きなだけ笑わせたらええんです」
彩香の笑顔は、長く続かなかった。
問題はイベントステージとは別の方向から来た。
神戸放送。
レポーターの三好さつきが、カメラマンと音声担当を連れて馬主席へ入ってくる。
企画は、
「一般客は入れない――知られざる馬主席の一日」。
競馬場広報から正式な撮影許可を得た取材だった。
撮影区域も限定されている。
玲奈たちは、取材班が入ること自体は把握していた。
だが、さつきが迫田ツインズを見つけることまでは想定し切れていなかった。
受付にいた澄香と、さつきの目が合う。
さつきの表情が明るくなる。
「えっ、澪香さん?」
澄香の動きが、ほんの一瞬止まった。
さつきは、澄香を姉の澪香だと思い込んでいる。
「澪香さん~! ここで何してるんですかぁ~!」
カメラを連れたまま近づいてくる。
本物の澪香は、離れた席で鷲尾たちへ飲み物を運んでいる。
ここで訂正すれば、さつきは必ず聞く。
澪香もいるのか。
なぜ双子で馬主席にいるのか。
何の仕事をしているのか。
澄香は即座に判断した。
澪香のふりをする。
「本日は、スタッフとしてお手伝いしています」
声の高さも、僅かに姉へ近づけた。
さつきは疑わない。
「やっぱり澪香さん、こういう上品な場所めっちゃ似合いますね!」
「ありがとうございます」
「せっかくやから、カメラに向かって馬主席を紹介してください!」
澄香は営業用の笑顔を向けた。
「馬主席では、馬主の皆様が落ち着いて競走をご覧いただけるよう、お席のご案内や飲み物の提供を行っております」
簡潔。
自然。
任務を疑わせる言葉はない。
ここで終われば、問題はなかった。
さつきはカメラへ向き直った。
「実は澪香さん、私の戦隊ヒロインの仲間なんですよ!」
澄香の笑顔が、僅かに固まる。
「こんなところで会えるなんて、うれしいです!」
馬主席の客たちが、澄香へ視線を向ける。
鷲尾も顔を上げた。
目立たないスタッフだった女が、突然、戦隊ヒロイン関係者になった。
さつきは止まらない。
「最近、また敵の動きが活発になってますからね。ますます私たちの活動も忙しくなります!」
澄香の内心に、珍しく強い言葉が浮かぶ。
――今、それを言う必要はない。
「澪香さんもしっかり準備して、また一緒に頑張りましょうね!」
監視会議室で彩香が立ち上がった。
「何を言うとんねん!」
玲奈が無線で指示する。
「澄香。取材を終わらせてください」
澄香は笑顔を崩さなかった。
「申し訳ありません。勤務中ですので、これ以上の取材は広報担当者を通していただけますか」
「そっか。お仕事中ですもんね!」
さつきは明るく手を振った。
「また後で!」
――後はない。
澄香は心の中だけで答えた。
しかし、すでに遅かった。
鷲尾は、黒い競馬番組入れを閉じていた。
戦隊ヒロイン。
敵の動き。
活動が忙しくなる。
その言葉だけで、疑う理由には十分だった。
鷲尾は黒鷹関係者へ短く告げる。
「今日は帰る」
「メイン競走は?」
「見る必要はない」
澪香が何も知らないスタッフの顔で近づく。
「お車をご用意いたしましょうか」
鷲尾は澪香を見る。
受付に立つ澄香。
目の前にいる澪香。
よく似た二人。
その関係を測るように、数秒だけ視線を動かした。
「結構だ」
鷲尾は、黒い手帳を持ったまま退席する。
玲奈は追跡班を動かした。
だが、今の段階で鷲尾を確保できる証拠はない。
接触すれば、競馬界へ張り巡らされた黒鷹の経路が閉ざされる可能性もある。
尾行だけを続ける。
馬主席に残った黒鷹関係者たちは、競走についての会話を完全に止めた。
天候。
馬場状態。
次開催の予定。
当たり障りのない話題へ切り替わる。
迫田ツインズは、最後まで接客を続けた。
残った言葉を一つずつ拾う。
フロント企業三社。
共同所有馬を利用した資金移動。
架空の育成費。
不自然な競走馬売買。
厩舎関係者への金。
「メインは二番を外せ」
「あの騎手には話を通した」
そこまでは取れた。
だが、確証には届かない。
どのように負けさせるのか。
騎手本人は何を了承したのか。
誰が金を出したのか。
黒い手帳には何が書かれているのか。
核心の二十五パーセントは、鷲尾とともに競馬場から消えた。
任務達成率、七十五パーセント。
通常の諜報任務なら、十分な成果だった。
黒鷹の馬主網。
資金洗浄の仕組み。
不正競走へつながる複数の会話。
次の捜査へ進む材料はそろっている。
だが、西川彩香は完璧主義者だった。
得られた七十五より、逃した二十五の方が大きく見える。
その頃、イベントステージでは、井田修三郎の予想が発表されていた。
井田は競馬新聞へ三つの本命印をつける。
美月が目を丸くした。
「先生、本命が三頭もおるやん」
「一頭だけにすると、その馬へ責任が集中します」
「先生の本命にされた馬、迷惑なん?」
「私の本命印は、長年の経験で少し重くなっております」
真央が笑う。
「先生、その印、赤鉛筆やのに鉛より重いがね」
井田は真剣な顔で続けた。
「競馬の予想には、血統、調教、馬場状態、騎手の相性が必要です」
美月が頷く。
「急に真面目になったな」
「最後に勘を加えます」
真央が即座に突っ込む。
「全部台無しだがね!」
会場は大爆笑。
発走時刻が来る。
井田が選んだ三頭は、それぞれ懸命に走った。
だが、勝てなかった。
美月が笑いながら井田を見る。
「先生、三頭とも来てへんで!」
井田は走り終えた馬たちへ拍手を送った。
「三頭とも無事に帰ってきました。それが一番です」
観客から温かい拍手が起こる。
「予想を外した責任は、全馬が帰ってきた後で、私一人が引き受けます」
真央が尋ねる。
「どうやって責任取るん?」
「反省会で、予想会より長くしゃべります」
美月が言う。
「反省会を先にした方がええんちゃう?」
この日一番の笑いが、ステージ前へ広がった。
井田は外れた予想を笑いに変えながら、馬、騎手、厩舎関係者へ拍手を送る。
「勝った馬も、負けた馬も、多くの人に支えられてここまで来ました。次の競走でも、まず全馬が無事に戻ることを願いましょう」
美月と真央も頭を下げる。
爆笑の中に、競馬への敬意が残る。
井田修三郎らしい、楽しく温かなトークショーだった。
任務終了後。
競馬場内の会議室。
迫田ツインズは、馬主席スタッフの制服姿で戻ってきた。
二人とも、普段より僅かに不満そうだった。
彩香は、それ以上に不機嫌だった。
「七十五パーセント……」
机の周りを歩き回る。
「あと二十五パーセント。あと数分あったら、取れたかもしれへんのに!」
玲奈は報告書を確認する。
「今回の情報だけでも、十分に次の捜査へつながります」
「ウチは百点が欲しかったんです!」
「諜報任務で、すべてを一度に得られるとは限りません」
「分かってます。分かってますけど、あのアホツインテールと巻き髪、もう堪忍ならん!」
迫田ツインズが、同時に首を傾けた。
「美月と真央は何も悪くないよ」
「イベントステージにいただけ」
彩香が二人を見る。
「うるさかったやろ!」
澄香が冷静に答える。
「馬主席には、ほとんど聞こえていません」
澪香も続ける。
「一般客の注意をステージへ集めてくれたので、むしろ潜入には有利だった」
彩香の勢いが一度止まる。
「そ、それはそうやけど……」
澄香が静かに言う。
「さつきちゃんが来なければ……」
澪香も同じ調子で続ける。
「ねえ」
姉妹の声が、きれいに重なる。
彩香の怒りが、ようやく正しい方向へ戻った。
「せや! さつきや! 何が『私の戦隊ヒロインの仲間なんですよ』や! 潜入中の人間をカメラの前で紹介すな!」
玲奈が言う。
「澄香を澪香だと間違えていました」
「そこが余計にややこしいんです!」
澄香が説明する。
「訂正すれば、澪香の所在も尋ねられると思いました」
彩香は少し感心する。
「よう即座に姉になれたな」
「姉ですから」
澪香も答える。
「私も澄香のふりはできる」
「黒鷹より味方をだます技術ばっかり高うなっとるやないか」
会議室のモニターには、イベントステージの録画映像が流れている。
美月と真央が大笑いし、井田修三郎が自分の外れ予想を楽しそうに振り返っていた。
彩香は画面を指さす。
「見てください、この二人! こっちは二十五パーセント取り逃がして胃が痛いいうのに、何を楽しそうに笑っとるんですか!」
澄香が答える。
「仕事だから」
澪香も続ける。
「ステージを盛り上げるのが二人の役目」
「正論で返さんといて!」
画面の中で、美月が井田へ尋ねる。
『先生、次のレースも予想するん?』
井田が笑顔で答える。
『もちろんです。外れた予想は、次の予想で取り返せばいいんです』
真央が突っ込む。
『先生、それで五十年ずっと取り返し中なんだがね!』
迫田ツインズが小さく笑う。
玲奈の口元も僅かに緩んだ。
彩香だけは腕を組む。
「笑い事ちゃいます。ウチらの任務も七十五パーセントで取り返し中や」
玲奈は報告書を閉じた。
「鷲尾は黒い手帳を持っています。今回の情報を使い、次の接触機会を作ります」
「次は百パーセント取ります」
「目標としては認めます」
彩香はモニターの美月と真央を睨んだ。
「次回は、あのアホツインテールと巻き髪を競馬場へ入れません」
「二人は妨害していません」
玲奈まで迫田ツインズと同じ意見だった。
彩香は、ますます不満そうになる。
「ほな、別件で腹立つから罰します」
「完全な八つ当たりです」
澄香が指摘する。
「分かっとるわ!」
彩香は勢いよく言った。
「あのアホツインテールと巻き髪とさつきを、三人まとめてゼッケンつけてパドック十周させたる!」
玲奈が尋ねる。
「ゼッケンには何と書くのですか」
彩香は即答した。
「美月は『単勝一・一倍、現場混乱』!」
迫田ツインズが声をそろえる。
「美月は関係ないよ」
「真央も」
彩香は続ける。
「真央は『巻き髪絶好調、任務影響なし』!」
玲奈が淡々と指摘する。
「それでは罰になっていません」
「さつきは『単勝一・〇倍、任務妨害確定』や!」
澪香が僅かに頷く。
「さつきちゃんだけは、少し分かる」
澄香も続ける。
「十周は多いけど」
「美月と真央も一緒や!」
迫田ツインズが再び声をそろえる。
「二人は関係ないよ」
彩香の我慢が切れた。
「知るかぁ~、ボケェ!」
玲奈の口元が緩む。
澄香がすぐに気づく。
「玲奈さん、笑いましたね」
「笑っていません」
澪香も玲奈を見る。
「口元が動いた」
「確認した」
彩香が玲奈を指さす。
「迫田ツインズによる写真判定、玲奈さん笑顔で一着です!」
「その判定は無効です」
玲奈は平静を装い、報告書へ目を落とした。
だが、笑みは完全には消えていなかった。
その時、会議室の外から井田修三郎の声が聞こえた。
「七十五パーセント当たったなら、私なら祝杯を挙げますよ」
井田が入口に立っていた。
事情は知らない。
廊下を通りかかり、「七十五パーセント」という言葉だけを聞いたらしい。
「競馬の予想で七十五パーセント当てたら、大先生です」
彩香が答える。
「任務の達成率です」
「それは失礼しました」
井田は軽く頭を下げる。
そして穏やかに笑った。
「でも、残り二十五パーセントがあるなら、次も楽しめますね」
後ろから、美月が顔を出す。
「彩香さん、何で機嫌悪いん?」
真央も続く。
「さっきから、こっちまで声聞こえとったがね」
彩香は二人を指さした。
「ちょうどええところへ来たな、アホツインテールと巻き髪!」
「何でウチら怒られるん?」
「理由が分からんがね!」
迫田ツインズが二人をかばう。
「美月と真央は何もしてないよ」
「ステージを盛り上げていただけ」
美月は胸を張った。
「今日、めっちゃウケたで!」
真央も笑う。
「井田先生のおかげだがね」
井田は首を横へ振った。
「お二人が楽しそうに笑ってくれたから、私も話しやすかったんです」
彩香は、ますます納得できない顔になった。
「何でそっちは百パーセント成功しとるねん!」
会議室へ笑い声が広がった。
玲奈は、ついに笑みを隠すことを諦めた。
馬主席で得られた情報は、七十五パーセント。
黒い手帳も、八百長の核心も、まだ鷲尾の手元にある。
任務は未完だった。
だが、黒鷹の馬主網と資金経路は確かに見えた。
次の任務へつながる蹄跡は、残されている。
競馬場では、最終競走の発走時刻が近づいていた。
観客が走路へ目を向ける。
馬は走る。
人は予想する。
当たれば笑い、外れても次の競走を待つ。
井田修三郎は赤鉛筆を手に取り、すでに次の競馬番組へ印をつけ始めていた。
彩香が尋ねる。
「先生、さっき全部外したんですよね」
「はい」
「それでも、また予想するんですか」
井田は楽しそうに笑った。
「競馬は、次のレースがあるから面白いんです」
玲奈が静かに言う。
「私たちにも、次の任務があります」
彩香はしばらく黙った。
やがて深く息を吐き、鷲尾の写真を見つめる。
「次は百パーセント取ります」
迫田ツインズが同時に頷いた。
「次は取れるよ」
「私たちが取る」
美月が勢いよく手を挙げる。
「ウチも手伝うで!」
真央も続いた。
「うちもやったるがね!」
彩香は即座に叫んだ。
「お前らは来るなぁ!」
その声は、最終競走の発走を告げる場内放送にも負けないほど大きかった。




