湯けむり迷宮を駆けろ――美咲と結月、有馬温泉坂道チェイス
有馬の湯けむりは、罪を洗い流さない。
ただ、隠すだけだ。
六甲山の北側。山懐に抱かれた温泉街は、朝から白い蒸気を吐いていた。
赤褐色の金泉。
無色透明の銀泉。
軒を連ねる老舗旅館。
濡れた石畳を縫う細い坂道。
日本三古泉の一つ。関西の奥座敷。
古くは皇族や武将、文化人が身体を休め、今では若い旅行客や外国人観光客が炭酸せんべいを片手に歩く。
大阪や神戸から近い。
それでも、この町へ入ると都市の時間は遠ざかった。
坂の上から湯気が流れ、旅館の格子戸が古い記憶を守っている。狭い路地を曲がるたび、別の時代へ迷い込んだような錯覚を覚える。
美しい町だった。
そして、逃げる者にとっては都合がよすぎる町でもあった。
道は狭い。
坂は急だ。
観光客は多い。
湯けむりは、数メートル先の人影さえ飲み込む。
黒鷹は、その迷宮へ二つの暗号を持ち込んだ。
一つは赤。
金泉の成分分析装置へ偽装された、小型無人機の誘導制御データ。
もう一つは白。
銀泉を利用した化粧品検査装置へ偽装された、認証キー。
赤と白。
二つの端末を一定距離まで近づければ、分割された設計データが一つに戻る。
黒鷹は赤色端末を老舗旅館の倉庫へ、白色端末を土産物店裏手の保管庫へ隠していた。
運び役は、旅館へ備品を納める業者に化ける。
二つを温泉街外れの旧保養施設へ運び、復元したデータを六甲山側の回収車両へ引き渡す。
片方だけを押さえても意味はない。
黒鷹は残った端末を破壊し、別の線を引く。
二人の運び役と、最後に現れる責任者。
すべてを同時に表へ出させる必要があった。
西日本分室の作戦室で、岡本玲奈は有馬の地図を机へ広げた。
曲がりくねった道が、血管のように山肌へ張り巡らされている。
「二つの端末が動き、合流責任者が姿を見せるまで待ちます」
玲奈は地図上の三点を指した。
「早く動けば、黒鷹は尻尾を切ります」
正担当の美咲は、旅館街の写真を見つめた。
「観光客の中から、運び役を見つけます」
副担当の大西結月は、坂道の勾配を記した資料を確認している。
「車では追えません。最後は徒歩か自転車になります」
「有馬の坂は甘う見たらあかんで」
西川彩香が腕を組んだ。
「下りは速い。けど、止まれへん。石畳は濡れとるし、路地から人が出てくる。追う方も逃げる方も、一回の判断ミスで終わりや」
結月は地図から目を上げた。
「坂なら、私の方が最後まで残ります」
声は静かだった。
だが、迷いはなかった。
元競輪選手。
結月にとって、自転車は速く走るためだけの道具ではない。
路面から伝わる振動。
空気の重さ。
前を走る者の呼吸。
次に脚が止まる場所。
それらを読むための、もう一つの感覚器官だった。
任務当日。
美咲たちが温泉街へ入って間もなく、彩香は不吉なものを見つけた。
坂の上で、明るいツインテールが揺れている。
「嘘やろ……」
赤嶺美月だった。
しかも一人ではない。
祖父の清一。
祖母の花。
父の真人。
母の春菜。
赤嶺家五人による、一泊二日の家族旅行だった。
清一は案内板を静かに読み、花は美月と温泉まんじゅうを眺めている。
春菜は上品な装いで、外国人観光客が広げる地図を横から見ていた。
真人だけは、すでに土産物店の主人と十年来の友人のように笑い合っている。
彩香は赤嶺家をよく知っていた。
美月の戦隊ヒロイン活動を通じて、真人や春菜とは何度も顔を合わせている。
陽気という言葉では足りない真人の社交性も知っている。
家庭では春菜がしっかり手綱を握っていることも知っている。
だからこそ、彩香には分かった。
今日は危ない。
「あのアホツインテール一人でも厄災やのに、真人さんまで一緒や……」
美咲が春菜へ目を向けた。
「あの美月さんの隣にいる、とてもきれいな方は、お姉様ですか?」
結月も頷く。
「年の離れた姉妹に見えます」
「あれは春菜さん。美月のおかんや」
美咲と結月が同時に彩香を見る。
「お母様?」
「正真正銘のおかんや。何回も会うてるから間違いない」
美咲はもう一度、春菜を見た。
「美月さんより、お姉様に見えます」
「本人の前で言うたら、春菜さんは喜ぶ。美月は一日中むくれるで」
その美月は、すでに観光客に囲まれ始めていた。
「あの、戦隊ヒロインの方ですよね?」
若い女性が声をかける。
美月は愛想よく振り返った。
「そうやで。写真か?」
「お願いします!」
「ええよ。せっかく有馬まで来たんや。温泉街を背景に撮ろか」
美月は求められた写真やサインを断らなかった。
子どもには腰を屈める。
年配者には丁寧に話す。
記念撮影では、誰よりも明るく笑う。
微妙な知名度が、温泉街ではちょうどよかった。
誰もが知っている大スターではない。
だが、見かければ少し得をした気分になる。
小さな人だかりができた。
そして真人が、その人だかりを三倍にした。
「美月、こっち来い! この店のご主人もお前のこと知っとるで!」
「お父ちゃん、勝手に呼ばんといて!」
真人は試食の炭酸せんべいを一枚口へ入れ、目を見開いた。
「軽いなあ! 空気みたいやのに、ちゃんと甘い。これ十枚いけるで!」
店主が笑う。
周囲の客も笑う。
真人はさらに調子へ乗った。
「ほら、皆さんも食べてみ! 旅行は遠慮したら負けやで!」
「お父ちゃん、店員みたいになっとるやん!」
「今日から臨時販売員や!」
「勝手に就職すな!」
笑いが広がる。
真人は近くにいた観光客を記念撮影へ誘い、外国人旅行者にまで身ぶり手ぶりで声をかけた。
誰とでも五秒で打ち解ける。
十秒後には肩を並べる。
一分後には、昔からの知人のように笑っている。
彩香は遠くから額を押さえた。
「真人さん、ほんま頼むからそこどいて……。今日は家族サービスだけして、知らん人全員と親戚になろうとせんといて……」
美咲が小声で尋ねた。
「直接言えばよいのでは?」
「ウチが出ていったら美月に見つかる。それに真人さん、ウチを見つけたら絶対『彩香ちゃんも一緒に撮ろう』言うてくる」
結月が言う。
「断れば済みます」
「断って済む人やないねん。『遠慮せんでええ』言うて肩組んでくる人や」
彩香の口調には確信があった。
その頃、春菜は夫と娘の騒ぎから少し離れ、外国人夫婦と英語で話していた。
金泉と銀泉の違い。
入浴時の作法。
坂道で滑らない歩き方。
おすすめの土産。
発音は滑らかで、説明も落ち着いている。
美咲が感心した。
「本当にお上手ですね」
「春菜さんは器用やで」
彩香は真人を見ながら答えた。
「あの真人さんを長年制御してる時点で、並の人やない」
「現在は制御されていません」
結月が冷静に指摘する。
「家族旅行中くらい放し飼いにしとるんやろ」
その時、黒鷹が動いた。
赤色端末を持つ男が、旅館の裏口から出てくる。
作業着。
納品伝票。
赤い測定器用ケース。
白色端末を持つ女は、土産物店の裏から現れた。
観光客向けの小型自転車を押し、白いケースを前籠へ入れている。
二人とも、町へ溶け込んでいた。
だが、美咲は見抜いた。
男は旅館を出たのに、振り返って看板を確認しなかった。
配達業者なら、次の納品先を確かめる。
女は土産物店から出たのに、商品袋を一つも持っていない。視線だけが、遠くの路地へ立つ男へ向いている。
「赤と白、動きました」
美咲が無線で告げた。
結月が自転車へ跨がる。
「逃走路へ入ります」
「まだや」
彩香が止めた。
「責任者が出てくるまで待つ」
二人の運び役が人混みの向こうで近づいていく。
路地の奥に、旧保養施設へ誘導する男が現れた。
美咲は息を浅くする。
あと十メートル。
責任者が二人へ合図を送る。
その瞬間だった。
「ほな今度は、ここにおる全員で撮ろうや!」
真人の大声が温泉街へ響いた。
観光客が一斉に道の中央へ集まる。
美月まで腕を取られ、人垣の真ん中へ連れていかれた。
「お父ちゃん! ウチは家族旅行に来たんや! 何で知らん人二十人と集合写真撮らなあかんねん!」
「もう家族みたいなもんや!」
「会うて五分や!」
「時間やない。心や!」
「急にええこと言うな!」
人々が笑う。
真人はさらに通行人へ手招きした。
「そこの人も入って! 遠慮せんでええ!」
美咲の前を、観光客が塞いだ。
右へ抜けようとすれば、撮影位置を調整する親子が動く。
左へ回れば、真人に呼ばれた外国人旅行者が入ってくる。
結月も自転車を降りた。
「通れません」
「真人さん!」
彩香が無線の向こうで叫んだ。
「何でよりによって今、知らん人らを親戚に昇格させるん!」
真人には届かない。
「もうちょっと詰めて! 美月、笑顔!」
「お父ちゃんが一番楽しんでるやん!」
美月の声で、また笑いが起きる。
その笑いの裏を、黒鷹の三人が抜けていった。
美咲が人垣を抜けた時、赤と白の影は消えていた。
「対象を見失いました」
湯けむりが坂道を流れている。
路地は三つに分かれていた。
どれも狭く、どれも先が見えない。
彩香は頭を抱えた。
「美月だけやなく真人さんにまで任務妨害されるとは……。赤嶺家、敵に回したら黒鷹より厄介やろ」
集合写真を終えた美月は、父へ文句を言いながら歩き去っていく。
「もう勝手にイベント始めんといてや!」
「みんな喜んどったやろ!」
「旅行の予定、全然進まへんねん!」
二人の言い合いが、温泉街の笑いをさらに増やした。
美咲は笑わなかった。
周囲を見る。
人の顔を見る。
誰が何を見ていたかを探す。
逃走者は急いでいた。
誰かの記憶には残っている。
その時、美咲は春菜に気づいた。
春菜は外国人夫婦とまだ話している。
美咲は駆け寄った。
「失礼します」
春菜が振り返る。
面識はない。
「先ほど、赤い箱を持った男性と、白いケースを持った女性を見ませんでしたか?」
春菜は少し考え、坂の下へ目を向けた。
「そういや、おったな。男の人は下へ走っていって、女の人はあっちの細い路地へ入ったと思う」
外国人夫婦も、身ぶりを交えて英語で説明する。
赤い箱の男は広い道へ向かった。
白いケースの女は自転車に乗った。
右側の狭い道。
急な下り坂。
美咲はすべてを理解できたわけではない。
だが、必要な言葉は聞き取れた。
Red box.
White case.
Right side.
Narrow street.
Bicycle.
春菜が日本語で補う。
「白い方は自転車や。下りへ行ったで」
「ありがとうございます」
美咲が頭を下げる。
春菜は微笑んだ。
「何か知らんけど、急いでるんやろ。気ぃつけてな」
美咲は無線を開いた。
「結月。白いケースは右の路地。自転車で急坂へ入っています。赤い箱は坂下の広い道路です」
結月の目が細くなる。
「白を追います」
ペダルへ足を乗せた。
「赤は県警が坂下で挟む!」
彩香が指示する。
「美咲は結月の先へ回れ!」
結月が踏み込んだ。
自転車は、湯けむりの中へ消えた。
白色端末を持った女は、急な下り坂を走っていた。
観光用の小型自転車。
前籠には白いケース。
ブレーキを握る指が震えている。
石畳は温泉の湿気で濡れていた。
タイヤが跳ねる。
旅館の軒先から噴き出した白い蒸気が、路地を横切る。
女の姿が一瞬消えた。
結月は速度を落とさない。
湯けむりへ突っ込む。
視界が白に染まった。
前は見えない。
代わりに音を聞く。
逃走者のチェーンが跳ねる音。
濡れた石をタイヤが擦る音。
乱れたペダリング。
右前方。
距離、十二メートル。
結月はハンドルを数センチ左へ切った。
湯けむりを抜けた瞬間、目の前に旅館の送迎車が現れる。
狭い道を塞ぐように、ゆっくり曲がってくる。
逃走者は慌てて歩道側へ寄った。
観光客がいる。
女はベルを鳴らし、無理に隙間へ入ろうとする。
結月はブレーキを一度だけ短く握った。
後輪が軽く流れる。
車体を斜めにし、送迎車の後ろをすり抜ける。
白い蒸気が再び路地を覆った。
結月の肩と髪へ、細かな水滴がつく。
視界は二メートル。
それでも、女の走りは読めた。
恐怖に駆られた者は、最短の道を選ばない。
下っているという安心だけで、より急な坂を選ぶ。
その先に急角度の右折があることまで考えない。
結月は無線へ言った。
「次の分岐、相手は右へ入ります」
美咲の声が返る。
「右は行き止まりに近い石段です」
「だから右を選ぶ」
女が湯けむりから飛び出し、右へ車体を傾ける。
結月は外側から一気に距離を詰めた。
車輪と車輪が並ぶ。
接触はしない。
ただ、右へ曲がるための空間を消す。
女が叫ぶ。
「邪魔するな!」
結月は前だけを見ている。
「止まりなさい」
「どけ!」
女が無理にハンドルを切ろうとする。
結月は数センチだけ自転車を寄せた。
ぶつからない。
だが、曲がれない。
女は諦め、左へ進路を変えた。
「左へ誘導」
結月が無線へ告げる。
「次の石段脇へ向かいます」
美咲は旅館の裏手を走っていた。
階段を一段飛ばしで下りる。
格子戸の横を抜ける。
湯けむりが路地から吹き上がり、美咲の姿を白く包む。
女は坂を下る。
速すぎた。
濡れた石畳で後輪が滑る。
ハンドルが揺れる。
白いケースが籠の中で跳ねた。
結月は追いつける。
だが、抜かない。
逃走者の真後ろへつけば、転倒に巻き込まれる。
少し外側を走り、相手の逃げ道だけを削る。
前方から観光客が現れる。
結月が叫んだ。
「左へ寄ってください!」
観光客が壁際へ避ける。
女はその間を強引に抜ける。
次の瞬間、湯けむりの向こうに人影が立った。
美咲だった。
女が急ブレーキをかける。
前輪が横へ滑った。
後方には結月。
前方には美咲。
横には石段。
逃走者は白いケースを美咲へ投げつけた。
美咲は避けない。
両腕で受け止める。
衝撃で一歩下がる。
女はその隙に石段へ飛び込もうとした。
結月が自転車を倒し込む。
後輪が濡れた石畳を滑り、白い湯気を切り裂いた。
車体が石段の入口へ横向きに止まる。
逃げ道が消えた。
女が反転する。
美咲は白いケースを石畳へ滑らせた。
結月が片手で受け取る。
もう片方の手で、倒れかけた自転車を支える。
美咲は女の懐へ入った。
拳が飛ぶ。
美咲は腕を内側へ流す。
肩へ体重を預ける。
逃走者の重心を、濡れた石畳へ落とす。
女の膝がついた。
美咲が腕を背中へ回す。
「白色端末、確保」
結月はケースの表示を確認した。
「破損なし。認証も始まっていません」
湯けむりが二人の周囲を流れていく。
だが、追跡はまだ終わらない。
赤色端末を持った男が、坂下の広い道路から細い路地へ逃げ込んだ。
県警車両を避け、川沿いの橋へ向かっている。
美咲は白色端末を県警へ渡した。
結月が自転車を起こす。
「乗ってください」
美咲が後部へ飛び乗る。
結月は一気にペダルを踏み込んだ。
急な下り。
次に、短い上り。
湯けむりの帯が、道を何度も横切る。
結月は白い霧を切り裂くように走った。
下りの勢いを殺さず、そのまま上りへ入る。
脚へ負荷がかかる。
前輪が浮きそうになる。
結月は上体を低くし、路面へ力を押し込んだ。
美咲が後ろから言う。
「男は橋へ向かっています」
「出口を取ります」
結月は途中の路地へ入った。
男を直接追わない。
坂を一つ横切り、橋の向こう側へ回る。
美咲は曲がり角で飛び降りた。
「反対から入ります」
結月は頷くだけだった。
赤い箱を抱えた男が、細い橋へ飛び込んだ。
前方の湯けむりが割れる。
その中から、結月が現れた。
自転車を横向きに止め、橋の出口を塞いでいる。
男は振り返る。
後ろには美咲。
川は低い石壁の向こうを流れている。
逃げ場はない。
男は赤い箱を持ち上げた。
「近づくな! 川へ捨てるぞ!」
美咲は止まらない。
「それを捨てれば、あなたの価値もなくなる」
男の手が止まる。
その一瞬を、結月は逃さなかった。
自転車の前輪を男の足元へ滑り込ませる。
男が足を取られ、体勢を崩す。
赤い箱が宙へ浮いた。
美咲が踏み込む。
両手で箱を受け止める。
男が美咲へ体当たりする。
美咲は箱を胸へ抱え、半身になった。
衝撃を正面から受けない。
横へ流す。
結月が男の背後へ回り、腕を取った。
美咲が足を払う。
結月が倒れる速度を制御する。
男の身体が橋の床へ沈んだ。
湯けむりが橋の上を流れ、三人の輪郭を一瞬だけ消した。
霧が薄れた時、男は拘束されていた。
美咲は赤い箱を掲げた。
「赤色端末、確保」
結月が呼吸を整えながら答える。
「二つとも規定距離へ入っていません」
データは復元されていない。
送信も始まっていない。
旧保養施設で待っていた黒鷹の責任者も、県警に確保された。
玲奈の声が無線へ届く。
「全対象を確保。任務完了」
その頃、赤嶺家は炭酸せんべいを食べていた。
遠くを警察車両が走る。
美月が首を傾げた。
「なんや、随分にぎやかやな」
真人が笑う。
「人気温泉地やからな!」
美月は父を見る。
「さっき一番にぎやかにしてたん、お父ちゃんやけどな」
「みんな楽しんどったやろ」
「旅行の予定、真人さんの交流会で一時間押してるで」
春菜が穏やかな顔で言った。
真人の笑顔が固まる。
「春菜さん、名前で呼ぶ時は怒っとる時やな」
「よう分かってるやん」
清一と花は何も言わず、静かに炭酸せんべいをかじっている。
家族旅行は、何事もなかったように続いた。
夜。
ヒロ室西日本分室で、美咲は春菜のことを思い返していた。
「春菜さん、本当に素敵な方でした」
結月も頷く。
「最初は美月さんのお姉様だと思いました」
「英語の発音もきれいでしたし、外国人観光客への説明も丁寧でした。突然尋ねた私にも、落ち着いて協力してくださいました」
彩香は椅子へ深く沈んだ。
「あのアホツインテールと大違いやな」
玲奈が報告書から目を上げる。
「美月にも長所はあります」
「写真とサインに丁寧に応じとったところは認めます」
美咲が言う。
「観光客の方は喜んでいました」
「せやけど、美月が人だかり作って、真人さんが三倍に拡張したんや。任務現場で勝手に集客イベント始めんといてほしいわ」
結月が静かに言う。
「高い社交性でした」
「任務中は移動式障害物や」
「周囲を笑顔にする能力もあります」
「黒鷹を笑わせて、その場から動けんようにしてくれたら特殊功労賞やったんやけどな」
美咲が笑った。
「でも、春菜さんの情報がなければ、追跡は難しかったです」
「そこや」
彩香は机を指で叩く。
「美月と真人さんが道を塞いで、春菜さんが正しい道を教える。赤嶺家だけで妨害と救援を両方やっとる」
結月が淡々と整理する。
「父娘がマイナス。母親がプラス」
「家族旅行を収支決算みたいに言うな」
「最終的には黒字ですか?」
美咲が尋ねる。
彩香は少し考えた。
「任務だけ見たら黒字。ウチの精神的損失を計上したら、大幅赤字や」
玲奈の口元が僅かに緩んだ。
彩香が見逃さない。
「玲奈さん、今笑いましたよね」
「笑っていません」
「ほころびました」
美咲が言う。
「確認しました」
結月も続ける。
彩香は天井を仰いだ。
「それにしても真人さん、何で知らん観光客と五秒で親戚みたいになれるんや……。次から赤嶺家の旅行予定も作戦資料に入れといてください」
「個人の旅行予定を常時把握することはできません」
玲奈は冷静に答えた。
「ほな真人さんを発見した時点で、迂回路を三本設定してください」
「災害対策ではありません」
「ウチにとっては災害や!」
美咲が笑いをこらえる。
「皆さん、楽しそうでしたけど」
彩香も最後には苦笑した。
「まあな。春菜さんは相変わらず美人でしっかりしとる。アホツインテールも観光客には愛想ええ。清一さんと花さんは静かで、何も悪うない」
結月が尋ねた。
「真人さんは?」
彩香は深く息を吐いた。
「真人さんは……もう、有馬温泉の新しい名物いうことにしとこ。湯けむりより広がるの早いし、誰にも止められへん」
玲奈の口元が、今度は先ほどより少し大きく緩んだ。
有馬の夜に、湯けむりが立ち上る。
石畳には旅館の灯りが落ち、坂道の先は白い霧へ消えていた。
黒鷹は、その霧を隠れ蓑にした。
だが、美咲は人の言葉から道を見つけた。
結月は湯けむりをかき分け、濡れた坂道を読み切った。
父と娘が道を塞ぎ、母が道を教える。
先の読めない赤嶺家の家族旅行の陰で、黒鷹の二つの暗号は、有馬の湯へ沈む前に断ち切られた。




