酒蔵街を抜ける偽りの翼――迫田ツインズ、空港ノイズ密輸線を断て
伊丹の空には、いつも翼の影が落ちる。
白壁の酒蔵。
古い町家。
石畳の路地。
歴史の匂いを残す町の上を、巨大な旅客機が低く横切っていく。機体が雲を切り、ジェットエンジンの轟音が屋根瓦を震わせる。
清酒の歴史を受け継ぐ町。
空の玄関口を抱える町。
古い時間と新しい時間が、狭い市域の中で肩を並べている。
伊丹は、派手に自分を主張する町ではない。
だが歩けば分かる。
酒蔵街には、商いと文化を積み重ねてきた誇りがある。城跡の周囲には、今も町の起点だった記憶が残る。少し移動すれば、住宅街の向こうを旅客機が滑るように降下してくる。
歴史も、暮らしも、空港もある。
黒鷹は、そのすべてを密輸のために利用しようとしていた。
狙われたのは、無人航空機の航法制御へ転用可能な超小型チップだった。
チップは、高級清酒の瓶底へ埋め込まれている。
外から見れば、海外の取引先へ贈られる日本酒の詰め合わせ。丁寧な包装、木箱、銘柄を記した紙札。税関で箱を開けても、ただの高級酒にしか見えない。
だが、瓶底の内側には軍事転用可能な部品が隠されていた。
チップは単体では作動しない。
黒鷹は伊丹市内の三地点に、解除コードを送る認証装置を設けていた。
酒蔵街の受け渡し地点。
城跡周辺の中継地点。
空港側の回収拠点。
航空機が低空を通過する数秒間、周辺は轟音と電波の揺らぎに包まれる。黒鷹はその瞬間だけ、三つの装置から短い認証信号を送る。
ジェット音が、違法通信を隠す蓋になる。
すべての認証を終えた酒箱は空港側の車両へ積まれ、そのまま別の物流網へ入る。荷物だけ押収しても、黒鷹の認証担当は逃げる。受け渡し役だけ捕まえても、回収網は残る。
三地点を、ほぼ同時に押さえなければならない。
玲奈は、分室の作戦会議で地図を広げた。
「正担当は、迫田ツインズ」
澪香と澄香が並んで座っている。
瓜二つの美人姉妹。
幼さを前面に出した双子ではない。二人とも端正で、落ち着きがあり、都会的で洗練された雰囲気を持つ。
一人でも視線を集める。
同じ美貌が二つ並べば、見る者の記憶そのものが揺らぐ。
「黒鷹は監視カメラと顔認証を使っています」
玲奈は三地点へ印をつける。
「二人を、同一人物として認識させます」
澪香が静かに言った。
「酒蔵街で見せる」
澄香が続ける。
「城跡で、もう一度見せる」
「空港側では、再び澪香が現れる。黒鷹には、一人の女性が三地点を異常な速さで移動しているように見える」
副担当に指名されたあかりが、真面目に手を挙げる。
「私は、どこで同じ顔になればいいですか?」
彩香が即座に答えた。
「あんたはならんでええ。そもそも顔が違う」
「そうでした」
「気づくの遅いわ!」
あかりの役目は、空港側の逃走路を塞ぐことだった。
身体能力ならNSTでも屈指。逃走者が車を捨て、細い路地や河川敷へ入っても、あかりなら追いつける。
彩香は念を押す。
「ええか。今回は待機が大事や。勝手に飛び出したらあかん」
「はい」
「知り合いを見かけても、立ち話すな」
「はい」
「特に、この町にはさつきが住んどる」
あかりは首を傾げる。
「お会いしたら、挨拶だけはした方がよいですよね?」
「挨拶はしてもええ。けど、そこで終われ」
「分かりました」
彩香はあかりの顔を見た。
まっすぐな目。
嘘のない返事。
それなのに、不安しかなかった。
「ほんまに分かっとるんやろな……」
作戦は午後から始まった。
酒蔵街には、穏やかな陽が差していた。
白壁の建物。
黒い板塀。
軒先へ落ちる影。
澪香は、海外企業の代理人を装って受け渡し場所へ現れた。
黒鷹の男が、贈答用の酒箱を差し出す。
「中身は確認しない方がいい」
澪香は男の目を見る。
「私は、依頼された物を運ぶだけです」
その冷静な横顔を、路地の角に仕掛けられた監視カメラが捉えていた。
澪香は酒箱を受け取り、ゆっくり歩き出す。
黒鷹の監視担当は、一人の女性が荷物を持って酒蔵街を離れたと判断した。
路地の死角には、澄香が待っている。
上着。
鞄。
酒箱。
二人は短い時間で持ち物を交換する。
「城跡へ」
「空港側へ」
それだけで通じる。
澄香は澪香と同じ歩幅で城跡方向へ向かう。澪香は裏道へ入り、別の車両で空港側へ移動する。
数分後。
城跡周辺の監視カメラが、酒箱を持つ澄香を捉えた。
顔認証は、酒蔵街にいた女性と同一人物だと表示する。
黒鷹の監視員が画面へ顔を寄せた。
「もう城跡へ着いたのか?」
「移動時間が合わない」
「裏道を使ったんだろ」
だが、その直後。
空港側のカメラへ、澪香が現れた。
同じ顔。
同じ髪型。
同じ上着。
監視室が騒然とする。
「待て。女は城跡にいる」
「こっちにもいるぞ」
「映像を戻せ!」
二画面へ、同じ美貌が同時に映っている。
黒鷹の人間は、機械の故障を疑った。
次に、映像の改ざんを疑った。
双子の存在を疑うまでに、時間がかかった。
その遅れが、迫田ツインズの武器だった。
一方。
空港側の封鎖地点へ向かっていたあかりは、駅近くの商業施設前で聞き覚えのある声に呼び止められた。
「あかりちゃん、どうしたん?」
振り返る。
三好さつきが立っていた。
清楚な黒髪。
仕事中より柔らかな私服姿。
隣には、若い男性がいる。
あかりは反射的に姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは。今日はお休みですか?」
「そうやねん。買い物してから、ご飯食べに行こうと思って」
さつきは隣の男性を紹介した。
あかりも名乗り、礼儀正しく挨拶する。
その瞬間、あかりは気づいた。
以前、さつきと一緒にいた男性とは違う。
髪型が変わった程度ではない。
眼鏡を外したのでもない。
どう見ても、別人だった。
あかりは固まった。
聞いてはいけない。
顔へ出してもいけない。
そもそも任務中だ。
頭の中で三つの警告が鳴る。
さつきが心配そうに尋ねる。
「あかりちゃん、どうしたん? 顔が固いで」
「いえ。何も気にしていません」
「何を?」
「前回と違う、などとは思っていません」
隣の男性が、わずかに眉を動かした。
さつきも首を傾げる。
「前回?」
あかりはすぐに頭を下げた。
「失礼しました。こちらの話です」
本来なら、そこで切り上げるべきだった。
だが、あかりは真面目で律儀だった。
先輩ヒロインであるさつきが、自分へ笑顔で話しかけている。それを「急いでいますので」と軽くあしらうことができない。
さつきは一人暮らしの話を始めた。
近所の店。
最近買った家具。
大学の課題。
仕事で使う衣装。
伊丹で見つけたカフェ。
あかりは、一つずつ丁寧に返す。
「そうなんですね」
「それは良かったです」
「勉強になります」
「この町は暮らしやすそうですね」
無線から彩香の声が飛んだ。
「あかり、配置につけ」
「はい。少々お待ちください」
「何を待っとんねん!」
「さつきさんがお話し中です」
「話を終わらせろ!」
あかりは困った顔で、イヤホンへ小声で答える。
「先輩が楽しそうに話しておられるので、途中で切るのは失礼です」
無線が沈黙した。
彩香が大きく息を吸う音だけが聞こえた。
「もうええ」
「はい?」
「あかりは捨てる」
玲奈がすぐに確認する。
「作戦要員から外す、という意味ですね」
「そうです。あいつを待っとったら、黒鷹が酒箱抱えて外国まで行ってまう」
玲奈は迫田ツインズへ指示を切り替える。
「計画を変更します。空港側の逃走路も二人で処理してください」
澪香が答える。
「了解」
澄香が続ける。
「二人で足りる」
その時、旅客機が伊丹の空へ低く進入した。
巨大な影が町を覆う。
ジェットエンジンの轟音が、酒蔵の白壁と住宅街の窓を震わせた。
黒鷹が動く。
城跡周辺の認証担当が、通信装置を起動する。
澄香は石段を上がり、男の背後へ迫る。
男が振り返る。
「お前は空港側にいたはずだ!」
「そう見えましたか」
男は簡易スタン装置を抜いた。
澄香は半歩だけ下がる。
電極が空を切る。
手首を外側へ流す。
男の重心が前へ崩れる。
澄香は背後へ回り、腕を取った。
男の膝が石畳へ落ちる。
通信装置のランプが点滅する。
澄香は端末を奪い、認証信号を停止させた。
「城跡側、封鎖」
一方、空港側では回収車両が酒箱を積んで走り出していた。
本来なら、あかりが止める。
だが、あかりはまだ、さつきからカフェの限定メニューについて説明を受けていた。
澪香が車両を追う。
回収車両は幹線道路へ抜けようとする。
澪香は正面から止めない。
路地へ先回りし、運転手が避けたくなる位置へ立つ。
男は、澪香の姿を認めて急ハンドルを切った。
「なぜ先にいる!」
車両が狭い道へ入る。
澪香は無線で短く言った。
「西へ追い込んだ」
澄香が返す。
「十五秒」
認証装置を停止させた澄香は、裏通りを駆けた。
白壁の間を抜ける。
低い塀を越える。
町家の角を曲がる。
二人の間に、長い説明はいらない。
澪香が相手を動かす。
澄香が、その先へ立つ。
回収車両が角を曲がった。
前方に、澄香。
運転手は息を呑んだ。
後方から追っていた女が、いつの間にか前方へいる。
急ブレーキ。
タイヤが路面を擦る。
車両が止まる。
責任者が酒箱を抱えて飛び出した。
前方には澄香。
後方には澪香。
同じ端正な顔。
同じ落ち着いた眼差し。
男は二人を見比べる。
「どちらが本物だ」
澪香が答える。
「両方」
澄香が続ける。
「一人だと思った時点で、あなたの負け」
男が澪香へ突進する。
澪香は腕を受けず、横へ流す。
男の意識が澪香へ向いた瞬間、澄香が酒箱を奪った。
男が振り返る。
澪香が足元を崩す。
澄香が腕を取る。
二人の動きは、鏡のようだった。
一人が引けば、もう一人が押す。
片方が視線を奪えば、もう片方が懐へ入る。
男は、最後までどちらを警戒すべきか判断できなかった。
石畳へ押さえ込まれる。
航空機の轟音が遠ざかる。
認証の時間は過ぎた。
酒瓶に埋め込まれたチップは解除されず、空港側の密輸線は沈黙した。
県警部隊が到着する。
受け渡し役。
認証担当。
回収車両。
酒瓶に隠された超小型チップ。
すべてが押収された。
玲奈が静かに告げる。
「任務完了」
迫田ツインズだけで、作戦は完遂された。
その頃。
さつきはようやく腕時計を見た。
「あ、ごめん。長いこと引き止めてもうたな」
あかりは丁寧に頭を下げる。
「いえ。貴重なお話をありがとうございました」
さつきと男性を見送った後、あかりは彩香へ連絡する。
「彩香さん、今から配置につきます」
返ってきた声は、乾いていた。
「もう知らん」
通信が切れる。
あかりは端末を見つめた。
「かなり怒っておられますね」
気づくのが遅すぎた。
ヒロ室西日本分室へ戻ると、空気が張りつめていた。
任務自体は成功している。
だが、本来三人で負うべき作戦を、迫田ツインズだけで完遂した。玲奈は報告書を確認し、澪香と澄香は淡々と経過を説明する。
その横で、彩香が腕を組んで待っていた。
あかりが入室すると、彩香は顎で正面を示す。
「そこ立て」
「はい」
あかりは直立した。
彩香の説教が始まる。
任務中に私的な会話へ引き込まれないこと。
先輩への礼儀より、仲間の安全を優先すること。
相手を軽くあしらえないなら、任務中であることを伝えて立ち去ること。
「挨拶すなとは言うてへん!」
「はい」
「けど、なんで家具の話からカフェの限定メニューまで聞いとんねん!」
「さつきさんが詳しく説明してくださったので」
「聞くな!」
「途中で話を切るのは失礼かと」
「任務を切っとる方が失礼や!」
「申し訳ありません」
彩香は怒鳴る。
あかりは謝る。
同じやり取りが何度も続く。
最初は激しかった彩香の声も、やがて少しずつ力を失っていった。
怒り疲れていた。
怒っても、あかりは反抗しない。
言い訳もしない。
すべて真面目に受け止める。
だから余計に、怒りの行き場がない。
「もう……ほんまに、あんたは……」
彩香は額を押さえた。
「何でそんなに真面目やのに、真面目な方向を間違えるんや……」
呆れが怒りを追い越し始めていた。
あかりは深く頭を下げる。
「次回から気をつけます」
「次回は絶対、話を切れ」
「はい」
「先輩でも切れ」
「はい」
「さつきでも切れ」
あかりは一瞬迷った。
「努力します」
「そこは言い切れ!」
彩香は机へ手をつき、大きく息を吐いた。
もはや怒鳴る体力も残っていない。
分室には、任務後特有の硬い空気が残っていた。
迫田ツインズは任務を成功させた。
あかりは失敗した。
誰もが事実として分かっている。
あかり自身も、それを理解していた。
だから、最後に気になったことだけを報告しようとした。
長い説教で緊張していた。
何度も「彩香さん」と呼びかけていた。
そのせいで、主語が入れ替わった。
「それと、彩香さん」
彩香は疲れ切った顔で答える。
「今度は何や……」
あかりは真面目に言った。
「彩香さんの彼氏、前と違う人でした」
部屋の時間が止まった。
澪香と澄香が同時に顔を上げる。
玲奈の指が、報告書の上で止まる。
彩香は数秒、言葉を失った。
怒る力さえ残っていなかったはずの顔に、最後の火がともる。
「ウチの彼氏やないわぁ~、ボケェ~!」
絶叫が分室全体を震わせた。
あかりはすぐに頭を下げる。
「申し訳ありません。さつきさんの彼氏です。主語を間違えました」
「間違える主語が致命的すぎるわ!」
その瞬間、澪香が吹き出した。
続いて澄香も顔を伏せる。
二人はしばらく耐えようとした。
だが無理だった。
普段は落ち着き、敵の監視網すら完璧に欺く迫田ツインズが、同時に声を上げて笑い始める。
「彩香さんの彼氏……」
「前と違う人……」
「復唱すな!」
彩香が叫ぶ。
だが、もう先ほどまでの刺々しさはない。
怒り疲れている。
呆れている。
そして自分でも、この状況が馬鹿馬鹿しくなっている。
「もうええ……」
彩香は椅子へ崩れるように座った。
「黒鷹より、あんたの報告の方が心臓に悪いわ……」
あかりは申し訳なさそうに立っている。
「今後、主語にも気をつけます」
「任務にも気をつけろ……」
「はい」
迫田ツインズの笑いはまだ止まらない。
張りつめていた分室の空気が、少しずつほどけていく。
任務成功の安堵。
あかりへの苛立ち。
迫田ツインズだけに負担をかけた重さ。
それらが、笑いの中へ溶けていった。
玲奈は報告書へ目を落としていた。
いつもの鉄仮面。
いつもの無表情。
だが、彩香が「ウチの彼氏やないわぁ」と叫んだ瞬間から、その口元は僅かに緩んでいる。
彩香は疲れた目で玲奈を見る。
「玲奈さん……笑ってますよね」
「笑っていません」
「もう否定する気力もないですわ……」
澪香が笑いながら言う。
「笑っていた」
澄香も続ける。
「明確に」
あかりも真面目に頷く。
「私にも分かりました」
彩香は天井を仰いだ。
「なんで任務の時より、こういう時の方が全員の連携ええねん……」
声にも、もう勢いはなかった。
怒り疲れと、深い呆れ。
それでも、分室の空気は先ほどより明るい。
あかりは任務では失敗した。
現場へ入れず、迫田ツインズへ自分の担当まで背負わせた。弁解の余地はない。
だが、ピリついていた西日本分室の空気を、一言で笑いへ変えた。
誰も狙ってできることではない。
あかり自身も、もちろん狙ってはいなかった。
玲奈は報告書の最後へ、静かに一行を書き加えた。
作戦目標、達成。
副担当、現場貢献なし。
そこで一度、ペンが止まる。
玲奈は少し考えた後、その下へ小さく書いた。
任務後の士気回復には、一定の貢献あり。
彩香が気づく。
「玲奈さん、今なんか余計なこと書きませんでした?」
「事実を記録しただけです」
「何て?」
「機密です」
「絶対あかりを褒めるようなこと書いたでしょ!」
あかりが驚いて玲奈を見る。
「私、何か成功しましたか?」
彩香は疲れた顔で答えた。
「知らん……もう知らん……」
迫田ツインズが再び笑い出す。
伊丹の夜空を、一機の旅客機が横切っていく。
酒蔵街には静かな灯りがともる。
空港からは、次の便が飛び立つ。
黒鷹は、轟音へ犯罪を隠そうとした。
だが、同じ美貌を持つ二つの影が、その密輸線を断ち切った。
迫田ツインズは任務を成功させた。
あかりは任務に失敗した。
それでも一日の最後に、西日本分室へ必要だったものを持ち帰った。
笑いだった。
もちろん、本人だけは最後まで、自分が何を成功させたのか分かっていなかった。




