水仙の崖に双子の影――淡路島・黒鷹断崖ビーコンを封鎖せよ
黒鷹は、陸を追われて海へ向かった。
川西の地下通信網は沈黙した。
西脇で布地に織り込んだ暗号は解かれた。
高砂の臨海搬出ルートも、あかりと結月に切断された。
だが、黒鷹は死んではいない。
奴らは組織ではなく、網になった。
切られた線を捨て、別の線を引く。
会社を潰されれば任意団体へ。
倉庫を押さえられれば、閉鎖施設へ。
陸路を塞がれれば、海へ逃げる。
次の結び目は、兵庫県洲本市の南東部にあった。
紀淡海峡を見下ろす断崖。
曲がりくねった海岸道路。
冬には斜面を白と黄色に染めた水仙畑。
そこには、閉館した古い観光施設が残されていた。
かつては、急斜面に咲く水仙と、眼下に広がる海を同時に楽しめる名所だった。海と花だけなら、誰が見ても一級品。青い海を背景に水仙が風へ揺れる景色は、淡路島の冬を代表する絶景と呼んで差し支えなかった。
ただし、園内には独自の世界観があった。
昭和の観光施設らしい手作り感。
妙に力の入った看板。
花を見に来たはずなのに、途中から別の意味で目が離せなくなる展示物。
美しい水仙と雄大な海を楽しんでいた観光客が、数分後には「これは誰が、どういう会議を経て設置したのだろう」と首を傾げる。
上品とは言い難い。
洗練からも遠い。
だが、忘れられない。
少し怪しく、かなり濃く、妙に愛嬌がある。
普通の花園では決して得られない記憶を、来園者へ強引に持ち帰らせる場所だった。
閉館し、観光客の声が消えた今も、潮風にさらされた建物や色あせた案内板には、その強烈な存在感の名残があった。
黒鷹は、その静寂へ潜った。
表向きは、閉鎖施設の防犯設備と斜面崩落を監視するための観測事業。
実態は、紀淡海峡を航行する小型工作船と無人艇を誘導する、違法ビーコン基地だった。
旧展望施設には指向性アンテナ。
管理倉庫にはドローン管制装置。
斜面下の旧作業場には海上ビーコン。
地下の配線路には、川西で押収された中継機と同系統の通信設備。
断崖から送信される信号を使い、黒鷹の工作船は海上警備の薄い区域を抜ける。上空では小型ドローンが県警車両や巡視船の動きを監視する。
玲奈は今回の正担当に、迫田ツインズを指名した。
澪香と澄香。
瓜二つの美人双子。
端正な顔立ち。
落ち着いた目。
洗練された立ち姿。
二人並べば、鏡が立っているように見える。
可愛らしい双子という雰囲気ではない。
同じ美貌が二つ並ぶことで、現実の方が間違っているように感じさせる、不思議な迫力があった。
副担当は、あおい。
ヘリコプターによる空中支援を担当し、上空の監視ドローン、断崖を走る工作員、海上の逃走船を同時に追う。
作戦会議で玲奈は航空写真を広げた。
「黒鷹は施設内の監視カメラを掌握しています。普通に侵入すれば、位置を追われます」
澪香が写真を見る。
「なら、見せる」
澄香が続ける。
「間違った位置を」
玲奈は頷いた。
「黒鷹には、侵入者が一人しかいないと思わせます」
あおいが施設内のカメラ位置へ印をつける。
「旋回型が五台。固定型が三台。死角はありますが、移動するたびに変わります。上空からタイミングを伝えます」
彩香は断崖の写真を見て顔を険しくした。
「追い詰めすぎたら、海へ飛び込むかもしれませんよ」
「だから空を押さえます」
玲奈の声には迷いがなかった。
「地上に二つの影。上空に一つの翼。黒鷹には、どこを見ても正しい情報が入らない状況を作ります」
任務当日。
断崖には強い海風が吹いていた。
澪香は、旧正門側から施設へ入った。
錆びた門。
風に揺れる鎖。
文字の薄れた案内板。
かつて観光客が歩いた遊歩道には草が伸びている。水仙が植えられていた斜面の向こうに、紀淡海峡が青黒く広がっていた。
監視カメラが澪香を捉える。
澪香は隠れなかった。
むしろ、監視されていることを知りながら、カメラの正面をゆっくり横切った。長い髪が風に流れ、整った横顔が画面へ鮮明に映る。
黒鷹の監視員は、一人の女性が正面から侵入したと判断する。
澪香は旧展示館へ向かった。
その三分後。
施設裏側の管理道路へ、澄香が現れた。
同じ顔。
同じ体格。
同じ上着。
上空のヘリから、あおいの声が届く。
「カメラ二番、三秒後に海側へ旋回。今です」
澄香が素早く道路を横切る。
次の固定カメラが澄香を捉えた時、監視室の男は画面へ顔を寄せた。
「正面にいた女が、もう裏側にいる?」
図面上では、移動に十分以上かかる距離だった。
澄香は監視カメラへ横顔を見せ、管理倉庫の陰へ消える。
同じ頃、旧展示館の窓際へ澪香が現れた。
片方が見える時、片方は消える。
二人は上着を交換し、髪を結ぶ位置まで合わせていた。歩幅も、振り返る角度も、カメラを見上げる仕草も同じだった。
黒鷹の監視員は、一人の女が施設内を異常な速度で移動しているとしか思えない。
「地下通路があるのか?」
「そんなものは図面にない」
「侵入者は何人だ?」
「映っているのは同じ女だ!」
工作員たちは、存在しない地下通路を探して配置を崩した。
澪香が小声で言う。
「展望台から二人動いた」
澄香が返す。
「管理倉庫が空いた」
あおいが上空から二人の位置を確認する。
「制御室までの通路、今なら抜けられます。澪香さんは展示館の端末。澄香さんは展望台下のビーコンへ」
「了解」
「同時に取る」
三人の動きは、正確だった。
だが、その作戦図へ、計算不能の一点が入り込んだ。
赤嶺美月だった。
明るいツインテールを揺らした美月は、大学の友人たちとプライベートで淡路島を訪れていた。
目的は、閉館した観光施設跡を巡ること。
もちろん、NSTの任務など知らない。
許可された見学区域から古い施設を眺め、美月は目を輝かせた。
「ここや、ここ! 昔テレビ番組でやってたところや!」
友人が尋ねる。
「有名だったの?」
「有名やで。ちっちゃい眼鏡のおっちゃんが、変わった観光地を紹介する企画で来ててな。確か『何とかパラダイス』とかいうて、めっちゃ騒いでたところやったわ」
美月は斜面と古い建物を見渡した。
「うわあ、ほんまにあったんやな。営業してる時に来たかったわ!」
友人が笑う。
「展示が変わってたんでしょ?」
「そら変わってたみたいやけど、それがええねん。海と水仙は本気で綺麗で、そこに意味分からんくらい濃い展示が乗ってくるんやろ? そんな場所、ほかにないで」
美月は色あせた案内板を見つめた。
「普通に綺麗な観光地は、ほかにもある。でも、ここは一回見たら絶対忘れへん。閉まる前に来たかったなあ」
その声には、からかいではなく、素直な惜しさがあった。
遠くから美月を発見した彩香は、怒りで肩を震わせた。
「あのアホツインテール、遊びで来るな。こっちは真剣勝負の任務やで……!」
隣にいた麻衣が、すぐに腕を押さえる。
「彩香さん、落ち着いて」
「落ち着けるか! ロケでも仕事でもない、大学の友達と完全な私生活で来よったぞ!」
「廃墟巡りなら、大学生が来ても不思議ではありません」
「出現率が不思議や言うてんねん!」
彩香は美月のツインテールを睨む。
「あいつのスマホ押収して、休日予定を全部調べたろか!」
「犯罪です」
「大学の時間割だけでも――」
「もっと駄目です」
「ほな、あいつ専用の『NST任務現場接近禁止令』を――」
「法律を勝手に作らないでください」
美月と友人たちは、許可された場所で写真を撮っているだけだった。
しかし、人気戦隊ヒロインが現れたことで、静かな施設跡の空気が変わる。
管理関係者が顔を出す。
見学者が立ち止まる。
美月に気づいた人間が記念撮影を頼む。
友人たちは海と廃墟を背景に動画を撮り始める。
スマートフォンのレンズが増えた。
黒鷹側が焦る。
本来なら日没後、ビーコン制御装置を斜面下の小型船へ運ぶ予定だった。だが、今動けば誰かの動画へ映り込む。待てばNSTの侵入者に設備を発見される。
責任者が判断した。
「制御装置を今すぐ移動する」
玲奈が通信を拾う。
「敵が動きました」
彩香が苦々しく吐き捨てる。
「またアホツインテールが役に立った……」
麻衣が頷く。
「結果としては」
「それ言うな。頭痛なる」
黒鷹の工作員が、旧展示館から飛び出した。
一人は海上ビーコンの制御ケースを抱え、斜面下の管理道路へ走る。もう一人はドローン管制端末を持ち、旧展望施設へ向かった。
迫田ツインズが同時に動いた。
澪香が展示館の出口を塞ぐ。
工作員は澪香を見ると、反対方向へ走る。
その先に澄香が立っていた。
同じ美貌。
同じ冷静な目。
同じ角度で海風になびく髪。
男は息を呑んだ。
「お前、今、後ろにいたはずだ」
澄香が静かに答える。
「見間違いです」
背後から澪香が近づく。
「たぶん」
男は前後を見比べる。
同じ顔が二つ。
どちらを警戒すべきか判断できない。
視線が揺れる。
足が止まる。
双子の美貌は、任務では武器だった。
相手の視線を奪う。
記憶を混乱させる。
判断を一秒遅らせる。
戦いでは、その一秒で十分だった。
工作員が簡易スタン装置を抜く。
澪香が真正面から踏み込む。
男の意識が澪香へ向く。
その瞬間、澄香が横から手首を押さえた。
澪香が装置を弾く。
澄香が腕をねじる。
澪香が膝裏を崩す。
男の体が石畳へ沈む。
「ひとり」
「確保」
制御ケースを抱えた別の工作員は、海側の管理道路を走る。
澪香が後ろから追う。
澄香は斜面上の旧遊歩道へ入った。
あおいのヘリが断崖上空を旋回する。
「逃走者、次の分岐で海側へ曲がります。澪香さん、そのまま追ってください。澄香さん、十一秒で先回りできます」
「了解」
「十一秒で十分」
男は澪香から逃れようと、海側へ曲がった。
古い階段を下りた先に、澄香が現れる。
男は足を止めた。
「またお前か!」
澄香は答えない。
男が反対へ戻る。
そこには澪香。
双子は無理に追わない。
片方が姿を見せる。
相手が方向を変える。
もう片方が、その先に立つ。
敵は自分で逃走経路を選んでいるつもりだった。
だが、実際には二人に選ばされている。
その時、黒鷹の監視ドローン三機が上空へ飛び出した。
あおいが即座に報告する。
「ドローン三機。二機は海上の工作船を誘導。一機はツインズを自動追跡しています」
玲奈が命じる。
「工作船を岸へ寄せないで。ツインズの上空も空けて」
「了解」
あおいはヘリを海側へ大きく旋回させる。
ローター音が断崖へぶつかり、古い施設の窓を震わせた。水仙畑だった斜面の草が、下降気流で海のように波打つ。
黒鷹のドローンがヘリを避けようと高度を変える。
あおいは撃ち落とさない。
ヘリの位置と風圧で、飛べる場所を奪う。
一機目は下降気流に巻かれ、海側へ流される。
二機目は断崖の陰へ逃げ込み、通信を失う。
三機目は迫田ツインズを追い続けていた。
あおいが叫ぶ。
「澪香さん、澄香さん、追跡ドローンが接近!」
澪香が管理道路を走る。
澄香は上側の遊歩道へ出る。
自動追跡カメラは、澪香を目標として認識した。
数秒後、別の位置に同じ顔の澄香が現れる。
追跡システムが揺れる。
澪香。
澄香。
同じ輪郭。
同じ髪型。
同じ衣装。
機械は二人を別人として処理できない。
「あおい、交差する」
「了解。三秒後に上下の道路が重なります!」
迫田ツインズは、上下に分かれた通路を逆方向へ走った。
海側から見れば、二人の姿が一瞬重なる。
次の瞬間、同じ顔が左右へ分かれた。
ドローンのカメラが激しく振れる。
対象を澪香へ戻す。
また澄香へ切り替える。
判断が遅れた。
あおいのヘリが上から被さる。
ローターの気流がドローンを押し下げる。機体はバランスを崩し、かつての水仙畑だった草地へ不時着した。
「監視ドローン、全機無力化」
しかし、制御ケースを持った最後の工作員は、断崖下の旧作業場へ到達していた。
海上から小型工作船が近づいてくる。
あおいはヘリを海側へ回し、強烈なサーチライトを工作船へ向けた。
白い光が、船体を海の上へ浮かび上がらせる。
発見されたと悟った工作船は進路を変え、沖へ逃げ始めた。
「工作船、接岸を断念」
玲奈の声が返る。
「地上を終わらせます」
最後の工作員は、制御ケースを海へ投げ捨てようとした。
澪香が正面から迫る。
澄香は斜面上の階段から管理道路へ飛び降りるように着地した。
海と山。
二方向から、同じ美しい顔が現れる。
男の視線が揺れた。
上空から、あおいのサーチライトが三人を照らす。
工作員はケースを投げようと腕を振る。
澪香がその腕を押さえる。
澄香がケースを受け取る。
男が澪香を振り払おうとする。
澪香は重心を前へ誘う。
澄香が足元を崩す。
男の体が倒れる寸前、二人が同時に腕を取り、衝撃を殺しながら地面へ伏せさせた。
鏡の中と外から同時に襲われたような、逃げ場のない制圧だった。
管理道路の出口には、彩香、麻衣、玲奈、そして県警部隊が到着している。
彩香が低く告げた。
「終わりや。海も空も、もう逃げ道ないで」
工作員を全員確保。
海上誘導ビーコン。
ドローン管制端末。
工作船の航路記録。
県内の黒鷹残党へ送られた通信ログ。
すべてが押収された。
玲奈が静かに言う。
「任務完了」
閉ざされた水仙の楽園で、黒鷹の海上中継線は沈黙した。
任務後。
分室へ戻った彩香は、椅子へ座ることもなく怒鳴っていた。
「あのアホツインテール、もう堪忍ならん!」
麻衣が落ち着いて尋ねる。
「今度は何をするつもりですか?」
彩香は拳を握る。
「あいつを水仙の植木鉢でぐるっと囲んで、昭和の珍妙な展示館の真ん中に立たせたる! 首から『任務現場へ私生活で現れる謎のツインテール生物』いう札を下げて、永久展示したるわ!」
麻衣が冷静に問う。
「それって意味ありますか?」
彩香は即答した。
「ないわボケェ!」
澪香が静かに言う。
「水仙に罪はない」
澄香が続ける。
「展示館にもない」
「分かっとるわ!」
あおいが真剣な顔で考える。
「永久展示にすると、美月さん目当ての観光客が来ると思います」
彩香が振り向く。
「人気施設にすな!」
麻衣が笑いをこらえる。
「美月さんなら、展示されても記念写真に応じそうですね」
澪香が頷く。
「自分からポーズを取る」
澄香も続ける。
「三十分ごとに解説を始める」
あおいが美月の口調を真似た。
「『昔テレビで紹介されたパラダイスに、新名物として加わりましたー!』」
彩香は頭を抱えた。
「適応力高すぎるやろ! 罰が観光振興になっとるやないか!」
麻衣が追い打ちをかける。
「営業している時に来たかったと言っていましたから、本人は喜ぶかもしれません」
「閉館後に本人を展示して復活させるな!」
澪香が言う。
「土産物も作れる」
澄香が続ける。
「ツインテール型の水仙キーホルダー」
「あおい、ヘリでこいつら全員どっか運んで!」
「輸送先はどちらにしますか?」
「真面目に聞くな!」
そのやり取りを聞きながら、玲奈は報告書へ目を落としていた。
いつもの鉄仮面。
いつもの無表情。
だが、彩香が「罰が観光振興になっとる」と叫んだ瞬間、口元がほんの僅かに緩んだ。
麻衣が見逃さない。
「玲奈さん、今笑いましたね」
玲奈は即答する。
「笑っていません」
迫田ツインズが同時に言う。
「笑った」
「確認済み」
あおいも頷く。
「上空からでも確認できる程度でした」
彩香が叫ぶ。
「なんで最後だけ全員の連携が完璧やねん!」
夜の紀淡海峡に、静かな風が吹いていた。
かつて水仙が斜面を彩り、多くの旅人が海を眺め、そして少し不思議な展示に首を傾げた場所。
閉館しても、その価値まで消えたわけではない。
美月が言った通りだった。
普通に美しいだけなら、似た場所はほかにもある。
だが、美しさと妙な濃さを同時に持つ場所は、二度と簡単には作れない。
黒鷹は、忘れられた場所だと思った。
だが、忘れられてはいなかった。
地上には、瓜二つの美しい影。
上空には、あおいの翼。
一人を追えば、もう一人が先にいる。
海へ逃げれば、空が塞ぐ。
水仙の崖で、黒鷹の退路はすべて消えた。
閉ざされた楽園に、双子の影は二つある。




