松の影、鉄の風――高砂・臨海サイクルチェイス
高砂の風には、二つの匂いが混じっている。
ひとつは、古い松の匂い。
もうひとつは、鉄と油と海の匂い。
高砂神社のあたりを歩けば、町は静かに古びている。松の影が参道に落ち、古い家並みの向こうに、港町の記憶が残っている。だが、少し南へ出れば、景色は一変する。
臨海部。
工場の配管が空へ伸び、煙突が夕暮れを切り、倉庫の壁が海風を受けて鈍く光る。運河沿いには作業車が走り、フェンスの向こうで機械が低く唸っている。
古い町と、鉄の町。
その境目に、黒鷹は潜った。
黒鷹は、切られた線をつなぎ直そうとしていた。
川西の地下通信網。
西脇の播州織ステルスコード。
加古川の給食センター偽装契約。
尼崎の廃工場リサイクル線。
NSTが一つ潰すたびに、黒鷹は別の線を引いた。
今度は高砂の臨海工業地帯だった。
表向きは、工場設備の保守会社。
実態は、黒鷹残党が使う小型エネルギー装置と偽装通信端末の搬出ルート。
大型トラックは使わない。
港湾倉庫から堂々と運ばない。
部品を細かく分け、作業用カート、小型電動車、自転車便に紛れ込ませる。
臨海部では、人も自転車も作業車も多い。
車両追跡では見落とす。
防犯カメラにも、ただの工場関係者として映る。
だから玲奈は、車ではなく、人を選んだ。
正担当、あかり。
副担当、結月。
あかりは、NSTで最も身体能力が高い。
頭は弱い。
複雑な理屈は苦手だ。
遠回しな言い方も、駆け引きも、三手先を読む作戦も得意ではない。
だが、それを補ってなお余るものがある。
速い。
跳べる。
止まらない。
怖がらない。
そして、真っすぐだ。
曲がれないのが難点だった。
だが、真っすぐ進む力だけなら、誰よりも強い。
結月は、その逆だった。
元競輪系の脚力と、コース取りの読み。
風の向き、路面の荒れ、逃走者が曲がりたくなる角度、ブレーキを踏ませる位置。
自転車に乗った結月は、単に速いのではない。
相手を、走らせたい道へ走らせる。
作戦前、玲奈は静かに告げた。
「今回は、車では追えません。足と自転車で追う任務です」
彩香があかりを見た。
「あかり、あんたは考えすぎるな」
あかりはぱっと顔を上げる。
「考えんでええんですか?」
「いや、最低限は考えろ」
「どっちですか?」
彩香は額を押さえた。
「そういうとこや!」
結月が静かに口を挟む。
「あかりさんは、前へ出てください。道は私が作ります」
あかりは笑った。
「結月さんが道作ってくれるなら、うち、全力で走れるに」
玲奈は頷く。
「あかりは逃走者を押し込む。結月は逃走路を読む。彩香と麻衣は確保地点の調整。私は県警との連携を取ります」
任務は、高砂の臨海部で始まった。
フェンス沿いの細い道。
倉庫の裏口。
運河沿いの直線。
海風が抜ける堤防道。
あかりは、すでに走りたそうにしていた。
結月は自転車の空気圧を確認し、ブレーキに指をかけ、ギアを一段ずつ確かめている。
そこへ、予定外の二人が現れた。
三好さつきと山田真央。
二人はCS情報番組「戦隊ヒロインと行く、播磨の港町レトロ散歩」のロケで、高砂を訪れていた。
さつきは清楚な黒髪の女性だった。
落ち着いた声で、高砂神社や古い町並みを紹介している。港町の歴史、松の景色、工場のある暮らしを、穏やかにまとめる。
真央は派手な巻き髪で、臨海部へ入った瞬間に目を輝かせた。
「この配管の並び、でら美しいがね! 機能美だわ! 港町レトロ散歩って言っとるけど、工場のラインも立派な景色だで!」
さつきはにこやかに受ける。
「真央さんは、工場の配管にも美しさを見つけるんですね」
「当たり前だがね。こういうのは無駄がないのがええんだわ」
清楚で落ち着いたさつき。
賑やかで理屈っぽい真央。
対極のようで、妙に息が合っていた。
ロケスタッフが動く。
地元の人が足を止める。
工場関係者がちらりと見る。
普段なら静かな臨海部の通路に、人だまりができる。
遠くから見ていた彩香は、顔をしかめた。
「またあいつらや。今回はアホツインテールが居らんだけマシや」
同行していた麻衣がすぐ突っ込む。
「そこですか?」
「そこや。アホツインテールがおらんだけで、現場の騒音指数が三割下がる」
「真央さんも結構にぎやかですよ」
「巻き髪は腹立つけど、アホツインテールほどの破壊力はまだない」
「比較対象がおかしいです」
だが、そのロケは黒鷹の予定を狂わせた。
カメラが入り、人の流れが変わった。
黒鷹側の作業員は、予定より早く小型ケースを動かそうとする。
玲奈の無線が入る。
「動きました」
結月が自転車に跨った。
「南側の倉庫から一台出ます。囮の可能性あり。本命は二分後」
あかりが身を乗り出す。
「ほな、うちが追います!」
結月は首を振る。
「最初の一台は追わせます。あかりさんは本命を」
「でも逃げますよ?」
「逃げさせます。逃げた先に彩香さんと県警がいます」
あかりは一瞬考えた。
そして、すぐに諦めた。
「分かりました。難しいことは任せます」
彩香が無線越しにぼそっと言う。
「潔すぎるやろ」
二分後、本命が出た。
作業着姿の男が、小型の黒いケースを背負い、自転車で臨海部の裏道へ出る。
別の男が作業用カートで反対側へ動く。
結月の目が細くなる。
「本命は自転車。ケースの重心が高い。中身が空なら、あの揺れ方はしません」
あかりは頷いた。
「追います!」
次の瞬間、あかりは飛び出した。
白いロングブーツがアスファルトを蹴る。
フェンス脇の狭い通路を抜け、低い段差を跳び、倒されたパレットを片手で越える。
速い。
考えるより先に体が動く。
迷いがない。
逃走者が振り返り、目を見開く。
「何だ、あいつ……!」
あかりは息を乱さず詰める。
「逃げ足、遅いに!」
結月は自転車で並走する。
ただ追うのではない。
工場脇の直線で加速し、運河沿いで風を受け流し、路地の手前でギアを落とす。
相手がどこで曲がりたくなるかを読んでいる。
結月が無線で言う。
「次、右へ逃げます。あかりさん、正面から圧をかけてください」
「あいよ!」
「右へ行かせるんです。捕まえに行かないでください」
「え、捕まえたらダメなんですか?」
「今はダメです」
「難しい!」
彩香の声が飛ぶ。
「難しくないわ! 言う通り動け!」
あかりは結月の指示通り、正面から圧をかけた。
逃走者は焦って右へ曲がる。
その先には、すでに結月が滑り込んでいた。
男は慌てて左へ戻る。
そこに、あかり。
コンテナの角を蹴り、体をひねって進路へ着地する。
「そこ、行き止まりやに」
男はスタン装置を抜こうとした。
だが、あかりの反応が速い。
腕を弾く。
ケースを蹴り上げる。
足を払う。
男は崩れる。
しかし、もう一人が別のケースを持って自転車で逃げた。
結月が反応する。
「二台目、私が追います」
結月の自転車が加速した。
堤防道へ出る。
横風が吹く。
逃走自転車はふらつく。
結月は風を読んで、車体を低くした。
内側から距離を詰める。
ただ抜かない。
相手のラインを削る。
ブレーキを使わせる。
焦らせる。
逃走者は、自分で逃げ道を選んでいるつもりだった。
だが実際には、結月に選ばされていた。
結月が無線で告げる。
「路地へ誘導しました。出口、お願いします」
あかりは即答する。
「任せて!」
「出口は二つあります」
「えっ」
「右です」
「あいよ!」
あかりは迷わず右へ走った。
曲がる方向さえ誰かが教えれば、あかりは最速でそこへ行く。
迷わない時のあかりは強い。
逃走者が路地から飛び出した瞬間、あかりが現れる。
「結月さん、完璧や!」
「止めてください」
「あいよ!」
あかりはハンドルを直接掴まなかった。
相手を転倒させれば、ケースが壊れる可能性がある。
肩口へ入る。
体を寄せる。
速度だけを殺す。
結月が後ろから自転車を止め、落ちかけたケースを確保した。
「確保」
あかりは笑う。
「うち、頭使った気がする!」
結月は少し考えてから言う。
「今回は、半分くらい使っていました」
「半分!」
彩香が無線で突っ込む。
「褒められとるか微妙やぞ!」
最後の工作員が、臨海道路へ逃げた。
夕暮れ。
播磨灘からの風。
赤く染まる工場の煙突。
点り始めた照明。
高砂の工場夜景が、鉄の海のように広がる。
工作員は小型端末を海へ投げ捨てようとしていた。
玲奈の声が短く入る。
「端末を落とさせないで」
あかりが全力で走る。
結月も横から追う。
二人の影が、アスファルトに長く伸びる。
男が手すりへ向かう。
腕を振りかぶる。
端末が海へ投げられようとする。
その瞬間、あかりが跳んだ。
手すりの手前で地面を蹴り、男の腕へ飛びつく。
力任せではない。
タイミングだけを合わせた一撃。
端末が宙で弾かれる。
結月が自転車を横滑りさせるように停めた。
前輪の直前で端末が止まる。
結月は身をかがめ、それを拾い上げる。
麻衣、彩香、玲奈、そして県警が一斉に到着した。
彩香が男を押さえる。
「終わりや」
県警が周囲を固める。
玲奈が端末を確認する。
「任務完了」
高砂の臨海ルートは潰された。
押収された端末には、黒鷹が臨海部から小型部品を分割して運び、別の地下網へつなぎ直そうとしていた記録が残っていた。
玲奈は静かに言う。
「黒鷹は、切った線を別の線でつなぎ直そうとしている」
結月が頷く。
「だから、線になる前に追う必要がある」
あかりは真面目な顔で言う。
「線は切る。逃げるやつは追う。分かりやすいです」
彩香は頭を抱えた。
「分かりやすくしすぎや」
麻衣が笑う。
「でも、あかりさんらしいです」
任務後。
分室に戻った彩香は、腕を組んだまま不機嫌だった。
「あの巻き髪、最近腹立ってきた」
麻衣が首を傾げる。
「さつきさんは良いんですか?」
彩香は無言になった。
麻衣は少し笑う。
「さつきさんも現場にいましたよね?」
彩香はまだ黙る。
結月が淡々と言う。
「さつきさんには文句を言いにくい理由がありますね」
あかりが不思議そうに聞く。
「なんでですか?」
麻衣が説明する。
「彩香さんとさつきさんは同じ大学で、さつきさんは彩香さんの一つ下なんです。それに、さつきさんを戦隊ヒロインプロジェクトに紹介したのは彩香さんなんですよ」
あかりは納得したように手を打つ。
「ああ、自分で連れてきたから怒りにくいんや!」
彩香が叫ぶ。
「言うな!」
結月が冷静に続ける。
「つまり、巻き髪には怒れる」
麻衣が頷く。
「さつきさんには怒れない」
あかりがまとめる。
「彩香さん、相手選んで怒ってるんですね!」
彩香は顔を真っ赤にした。
「ちゃうわボケェ!」
玲奈は報告書を見ていた。
いつもの鉄仮面。
無表情。
沈着。
だが、彩香が本気で「ちゃうわボケェ!」と叫んだ瞬間、口元がほんの僅かに緩む。
麻衣が見逃さない。
「玲奈さん、今ちょっと笑いましたね」
玲奈は即答する。
「笑っていません」
結月が淡々と言う。
「笑っていました」
あかりも頷く。
「うちにも分かりました」
彩香が叫ぶ。
「なんでこういう時だけ全員観察力上がるねん!」
玲奈は表情を戻し、静かに言う。
「任務報告を続けて」
高砂の港には、夜風が吹いている。
松の影。
鉄の風。
臨海部の灯り。
黒鷹の線は、また一本切られた。
そしてNSTには、また一つ新しい形の連携が生まれた。
真っすぐすぎるあかり。
その道を作る結月。
走る者と、走らせる者。
高砂の夜に、二人の機動力が黒鷹の影を裂いた。




