若葉マークが黒鷹を止めた夜――尼崎・鉄くず街道の偽装線
尼崎の朝は、少し錆びた音がする。
海側を走る生活感の濃い私鉄の高架から、年季の入った車両が軋むように町を抜けていく。都会の新車両みたいに気取ってはいない。どこか煤けていて、座席にも手すりにも、毎日使われているもの特有のくたびれた匂いがある。
正直、ボロい。
だが、しぶとい。
夜勤明けの工員を乗せる。商店街へ向かうおばちゃんを乗せる。工場へ急ぐ若い職人を乗せる。雨の日も、猛暑の日も、試合帰りの騒がしい客が乗ってきても、文句ひとつ言わずに走る。
ボロいが、働く町には似合っていた。
岡本玲奈は、その高架下の工場地帯を見渡していた。
潮の匂いは薄い。代わりに、油と鉄と焦げた金属の匂いがあった。シャッターの下りた町工場、古い看板、低い倉庫、積まれたパレット、錆びたドラム缶。派手さはない。だが、どの建物も簡単には死なない顔をしている。
黒鷹は、こういう場所に潜った。
神戸港で表の殻を捨て、宍粟の偽装温泉ファンドも潰された黒鷹は、今度はもっと生活の匂いがする場所へ入り込んでいた。
廃工場リサイクル偽装線。
表向きは、環境配慮型の金属リサイクル事業だった。古い工場から出る機械部品、配線、制御盤、モーター、鉄くずを回収し、分別し、再資源化する。時代に合った、聞こえのいい商売だ。
だが、玲奈が見つけた搬出入記録は、おかしかった。
廃棄されたはずの通信機材が、別名義の町工場に再流通している。処理済みのはずの小型ドローン部品が、試作品パーツとして帳簿に復活している。解体車両のプレート類が、別ルートで偽装車両に使われた疑いもある。
黒鷹は、道具を捨てていなかった。
一度、鉄くずにした。
そして、尼崎の町工場ネットワークの中で組み直そうとしていた。
玲奈は、今回の主担当にあかりを指名した。
副担当は美咲。
彩香は、その人選を聞いた時、少しだけ眉を寄せた。
「あかりを正に出すんですか」
玲奈は静かに頷いた。
「今回は、あかりを前に出す」
「あの子、まだ詰めが甘いところありますよ」
「だから任せる」
彩香は腕を組む。
あかりは彩香の妹分のような存在だった。食いしん坊で、どこか抜けて見えることもある。だが、現場での勘は悪くない。いや、むしろ鋭い。足も速い。迷わず動ける。
彩香があかりに厳しいのは、嫌っているからではなかった。
期待しているからだ。
玲奈はそれを見抜いていた。
「彩香」
「はい」
「厳しさは必要。でも、任せることも覚えて」
彩香は答えなかった。
玲奈は続ける。
「美咲を副につける。あかりの瞬発力と、美咲の冷静さなら噛み合う」
美咲は、いつものように表情を変えずに頷いた。
「了解しました。あかりさんの足を、うちが道で受けますわ」
あかりは少し緊張した顔で立っていた。
「任せてもらえるなら、やります。うち、ちゃんと見とるで。見逃さへんに」
彩香は厳しい目を向ける。
「ミスったら容赦せえへんからな」
あかりは笑った。
「いつも容赦ないやん。けど、今回はミスせんようにするに」
「期待しとるからや」
彩香は、珍しくそれを口にした。
あかりの顔が、一瞬だけ柔らかくなる。
「……はい」
任務は、尼崎の下町工場地帯から始まった。
あかりと美咲は、金属リサイクル業者の周辺を洗った。表の看板は健全だった。環境、再資源化、地域連携。どこにでもある言葉が並んでいる。
だが、現場は嘘をつくのが下手だった。
あかりは空気を見た。工場の稼働音、フォークリフトの動き、搬出トラックの沈み方、休憩中の職人の数、弁当屋が運び込む袋の量。
美咲は紙を見た。重量票、搬出時間、処理番号、業者名、廃棄予定品と再利用品の差異。
昼前、あかりが低く言った。
「美咲さん、あそこ、従業員八人の工場やのに、弁当十五個入っとるに」
美咲は帳簿をめくる。
「名簿にない人が中におる可能性がありますね」
「黒鷹の作業班やろか」
「もしくは、スクラップの中身を選別する専門要員やと思いますわ」
あかりは工場の奥を見た。
「普通の鉄くずやったら、そんな人いらんもんな」
「そうですね。中に“鉄くずでは困るもの”が混じってるんやと思います」
二人は順調に、黒鷹の隠れ作業場へ近づいていた。
その時だった。
最悪の乱入者が現れた。
明るいツインテールの美月。
派手な巻き髪の真央。
二人は、CS放送の情報番組の収録で尼崎を訪れていた。テーマは「町工場の底力と下町グルメ」。美月が元気に町を歩き、真央が工場作業を体験するという、いかにも平和な企画だった。
遠くから二人を見つけた彩香は、露骨に顔をしかめた。
「またアホツインテールや。巻き髪までおる。厄災や。なんで居るねん」
玲奈は淡々と答える。
「番組収録でしょう」
「分かってます。分かってますけど、なんで毎回こっちの現場に来るんですか」
「偶然」
「黒鷹より厄介な偶然です」
美月と真央は、とにかく目立った。
美月は声が大きい。ツインテールが揺れる。町工場の前で立ち止まるたび、近所の人間が「テレビか?」と集まってくる。
真央は真央で、派手な巻き髪なのに手先が異様に器用だった。金属部品の仕上げ体験を任されると、初見とは思えない手つきで寸法を合わせていく。
ベテラン職人たちは、二人を妙に気に入ってしまった。
「美月ちゃん、筋がエエな」
美月は得意げに笑う。
「ウチのじいちゃん、町工場経営してんねん。この雰囲気、めっちゃ好きなんですわ!」
「ほな、旋盤の音も怖ないか」
「全然怖ないです! むしろ落ち着きますわ!」
別の職人が真央を見て唸る。
「真央ちゃん、あんた愛知の子やろ。やっぱりモノづくりの血ぃ流れとるな」
真央は涼しい顔で言った。
「細かい作業は嫌いやないですよ。寸法がぴったり合うと、なんか気持ちええがね」
「おお、分かっとるやないか」
真央は、いつの間にか製品づくりを手伝うほど現場に馴染んでいた。
美月は職人たちに囲まれ、ノリノリで工場紹介をしている。
「この油の匂い、ええですねえ! 働く町の匂いや!」
職人が笑う。
「分かっとるな、美月ちゃん」
あかりは物陰からそれを見て、げんなりした。
「目立ちすぎやに……」
美咲も緩く頷く。
「ほんまですねえ。あれは、隠密には向いてませんわ」
「隠密どころか、町内放送やん」
「けど、黒鷹側も慌ててますね」
美咲の言う通りだった。
黒鷹側の監視役が、ロケ隊と観光客の人だかりに気づく。予定では夜間にスクラップを移すはずだった。だが、テレビカメラが近づき、職人たちが浮き足立ち、工場周辺の人通りが増えたことで、証拠品の混じったコンテナを予定より早く移動させようとする。
作戦は狂った。
だが、それが逆に功を奏した。
あかりは、その動きを見逃さなかった。
「美咲さん、あのフォークリフト。さっきまで止まっとったのに、急に奥のコンテナ出しとるに」
美咲は即座に伝票を確認する。
「搬出予定は今夜ですわ。今動かす理由、ありませんねえ」
「逃げる気やな」
「追跡開始でええと思います」
黒鷹側の作業員は、小型トラックへコンテナを積み替え、工場裏の細い道から逃げようとする。
あかりは走り出した。
速かった。
下町の狭い路地。積まれたパレット。古い自転車。低い高架。油の染みたアスファルト。鉄くずの山から、昼の光が鈍く跳ね返る。
あかりは白ロングブーツで地面を蹴った。
食いしん坊で、どこかのんびりした印象とは違う。走るあかりは別人だった。前だけを見る。余計な声を出さない。角を曲がる前に相手の足音を拾い、トラックの加速音を読む。
黒鷹の作業員が振り返り、舌打ちした。
「何だ、あいつ」
あかりは息を乱さず距離を詰める。
「逃げ足、遅いに。そんなんやと尼崎の路地、抜けられへんよ」
一方、美咲は冷静だった。
最近、自動車免許を取得したばかりの美咲は、きっちり若葉マークをつけた車に乗り込んだ。
運転も性格どおり律儀だった。
一時停止は完全停止。
左右確認は過剰なほど丁寧。
速度は法定速度。
ウインカーは早め。
だが、頭の中では逃走ルートを正確に読んでいた。
「この道幅やと、大きい道にはすぐ出られませんねえ。工場裏から運河沿いへ抜けるはずですわ。うち、先回りします」
美咲の若葉マーク付き車が、静かに動き出す。
その若葉マークが、思わぬ効果を生んだ。
逃走中の黒鷹側は、曲がり角の先に停まっている美咲の車を見た。
フロントとリアに、律儀に貼られた若葉マーク。
運転席には、表情を変えない美咲。
普通なら、初心者の車など気にしない。少し邪魔な一般車。せいぜい、その程度だ。
だが、黒鷹側は異常なほど警戒した。
「何だ、あの車」
「初心者マークだ」
「逆に怪しい」
「このタイミングで初心者が先回りしてるわけないだろ」
「罠か」
「爆発物か?」
「いや、県警の偽装車両かもしれん」
完全に深読みだった。
美咲はただ、免許を取ったばかりなので律儀に若葉マークをつけているだけだった。
だが、黒鷹側は怯んだ。
ほんの一瞬、トラックの速度が落ちる。
その隙だった。
玲奈と彩香が動いた。
玲奈は正面から逃走車両の進路を塞ぐ。
彩香は横から回り込み、運転席側のドアを押さえる。
あかりが後方から追いつき、コンテナのロックを確認する。
美咲は車を安全な位置に停め、冷静に退路を塞いだ。
黒鷹側の作業員たちは、完全に包囲された。
彩香が低く言う。
「終わりや」
作業員の一人が逃げようとする。
あかりが一歩で詰めた。
「そっちは行き止まりやに」
美咲が淡々と補足する。
「正確には行き止まりやあらへんのですけど、二十七メートル先で工事のフェンスに当たりますねん」
彩香が思わず突っ込む。
「細かいな!」
任務は完了した。
押収されたスクラップの中から、六甲ベイオペレーション時代の通信装置の一部が見つかった。さらに、小型ドローンの基板、偽装車両用のナンバープレート加工部品、港湾倉庫で使われていた制御盤の部品も発見される。
黒鷹は、港を捨てたのではない。
港で使っていた道具を、町工場のリサイクルルートで再生していた。
玲奈は、押収品を見ながら静かに言った。
「黒鷹は死体を残さない。部品にして、また組み直す」
美咲が頷く。
「尼崎のリサイクル網を利用した再構築ルートやね」
あかりは息を整えながら言った。
「でも、今回は止めましたに」
彩香はあかりを見る。
いつもなら、何かしら厳しい言葉を投げるところだった。
走るタイミングが早い。詰めが甘い。確認が遅い。報告が短い。いくらでも言おうと思えば言える。
だが、今回は違った。
あかりは見逃さなかった。
迷わなかった。
走り切った。
美咲との連携も崩さなかった。
ノーミスだった。
彩香は少しだけ視線を逸らし、ぼそっと言った。
「……ようやった」
あかりは目を丸くする。
「え、今、褒めました?」
「褒めてへん」
「いや、褒めましたよね。うち、聞いたに」
「結果を言うただけや」
玲奈が静かに口を挟む。
「褒めていた」
彩香は顔をしかめる。
「玲奈さんまで」
美咲も淡々と言う。
「音声記録があれば、褒め言葉として解析されると思いますえ」
「解析すな!」
あかりは嬉しそうに笑った。
「彩香さんに褒められると、なんかご飯三杯いけそうやに」
「そこで食欲に戻るな」
そこへ、美月と真央がロケ隊を連れてやってきた。
美月は事情をよく分かっていないまま、胸を張る。
「ウチらのロケが役に立った感じ?」
彩香は即座に顔をしかめた。
「結果だけ見たらな。途中経過は災害や」
真央は手にした金属部品を眺めながら言う。
「でも、ここの職人さんたち、かなり技術ありますね。もう少し見学したいです」
彩香は頭を抱えた。
「巻き髪まで居座る気か……」
美月は職人たちに手を振る。
「また来ますー!」
職人たちは笑顔で返す。
「美月ちゃん、いつでも来いや!」
「真央ちゃんも次は仕上げまでやってみい!」
二人は完全に尼崎の工場街に馴染んでいた。
彩香は低く呟く。
「黒鷹より先に、あいつらの出没ルート潰した方がええんちゃうか」
あかりが笑う。
「でも、今回は役に立ちましたよ。結果オーライやに」
「結果論や」
美咲が緩く言う。
「結果は任務において重要ですえ」
「正論で追い詰めるな」
尼崎の空には、薄い煙と油の匂いが漂っていた。
生活感のある古い電車が、遠くの高架を軋むように走っていく。その音は少し古くさい。だが、働く町の心臓音のようでもあった。
黒鷹は、また一つ地下ルートを失った。
だが、玲奈は分かっている。
鉄くずに紛れた影は、一度溶けても、また別の形に固まる。港で使われた部品が、町工場で組み直されていたように。
黒鷹は消えない。
ただ、姿を変える。
そのたびに、NSTもまた変わらなければならない。
今回、あかりは一つ階段を上がった。
美咲は副として確実に支えた。
彩香は、妹分の成長をようやく正面から認めた。
玲奈はその様子を見て、静かに頷く。
尼崎の鉄と油の匂いの中で、NSTはまた少しだけ強くなった。




