銀の湯けむり、黒い帳簿――宍粟・偽装温泉ファンド
黒鷹は、港から消えた。
だが、死んだわけではない。
神戸港の表ルートを失い、六甲ベイオペレーションという古い殻を捨てた黒鷹は、より静かな場所へ潜った。鉄と潮の匂いがする港ではなく、森と湯けむりの町へ。荷役の伝票ではなく、地域再生の企画書へ。密輸の黒い金ではなく、善意の投資金へ。
次に浮かび上がったのは、兵庫県宍粟市だった。
山が深い。
川が走る。
温泉がある。
廃校があり、道の駅があり、森林体験を売り物にした観光企画がある。
派手な都市ではない。
大きな港もない。
だが、黒鷹が潜るにはちょうどよかった。
表向きは、温泉宿再生ファンド。
老朽化した温泉施設を改修し、廃校を合宿所に変え、森林ツアーと地元食材を組み合わせた観光事業を立ち上げる。地域に人を呼び、雇用を生み、山間部の未来をつくる。
聞こえはよかった。
だからこそ、玲奈は嫌な匂いを嗅ぎ取った。
投資額の割に、改修工事の実態が薄い。宿泊者数と食材の仕入れ量が合わない。温泉施設にぶら下がる法人が多すぎる。しかも、そのうちの一社に、六甲ベイオペレーション清算直前の資金移動先とつながる痕跡があった。
黒鷹は港から山へ移った。
物流から資金洗浄へ。
密輸から地域再生へ。
悪い顔をして近づくのではない。
いい話の顔をして入り込む。
玲奈は、今回の任務に麻衣を主担当として指名した。
会議室にいた彩香が、思わず聞き返す。
「玲奈さん、麻衣を主で行かせるんですか」
玲奈は静かに頷いた。
「今の麻衣なら、現場を預けられる」
彩香は黙った。
麻衣は、もう守られるだけの妹分ではなかった。紀伊ハンターとして現場を重ね、人に溶け込む力、相手の表情から違和感を拾う力、場の空気を壊さず核心へ近づく力を身につけていた。
玲奈は、その成長を見ていた。
「彩香は副につけ」
「私が副ですか」
「そう。口を出しすぎないこと」
彩香の眉がぴくりと動く。
「それ、私に一番難しい指示ですよ」
「だから指示している」
玲奈の声は淡々としていた。
「麻衣の成長のため。それと、あなた自身のため」
彩香は玲奈を見る。
玲奈は感情を出さないまま言った。
「いずれ、あなたには私の地位を継いでもらいたいと思っている」
その言葉は、短かった。
だが、重かった。
彩香は息を呑む。
玲奈は続ける。
「自分で動くのは簡単。全部背負うのも簡単。けれど、指揮官に必要なのはそれじゃない。誰に任せるか。どこで待つか。どこで止めるか。どこで背中を押すか。それを覚えて」
黒鷹との戦いで、玲奈は一人で背負う危うさを思い知った。
だからこそ、今度は彩香へ少しずつ伝え始めていた。
命令すること。
任せること。
奪わないこと。
そして、部下が自分で勝つ瞬間を見届けること。
彩香にとって、それは戦うより難しかった。
任務は、静かに始まった。
麻衣は観光客を装い、宍粟市内の温泉宿、道の駅、廃校を改修した地域交流施設を回った。派手なことはしない。地元の土産物店で店員と話し、温泉宿の女将に世間話をし、林業関係者から何気なく聞き出す。
彩香は少し離れて見ていた。
口を出したくなる。
「麻衣、そこはもっと突っ込んで聞いた方が……」
言いかけて、彩香は黙る。
玲奈の言葉が頭をよぎる。
任せろ。
麻衣は、意外なほど落ち着いていた。
宿の帳簿を直接覗くわけではない。だが、送迎バスの運行回数、朝食の仕入れ量、売店商品の減り方、浴場改修に使われた資材の種類を丁寧に見ていく。
そして、小さく言う。
「宿泊客が多い言うてる割に、朝食の仕入れが少なすぎますね」
彩香は目を細めた。
「そこ見るんか」
「泊まり客がほんまに多いなら、卵と味噌と米はもっと動くはずです」
彩香は何も言えなくなる。
派手ではない。
だが、鋭い。
さらに麻衣は、廃校を改修した地域交流施設で不自然な通信設備を見つける。表向きはワーケーション用の高速通信環境。だが、山間部の小施設にしては機材が過剰で、配線の一部が地下倉庫へ伸びていた。
資金洗浄だけではない。
黒鷹は、宍粟の山中に小規模な通信中継拠点を作ろうとしていた。
麻衣は冷静に報告する。
「温泉ファンドは表の看板です。裏は資金洗浄と通信拠点。山の中なら目立たんと思うたんでしょうね」
彩香は、しばらく黙った。
口やかましく、ストイックで、現場に厳しい彩香ですら、今回の麻衣には文句がつけられなかった。
「……やるやん」
彩香がぼそっと言う。
麻衣は微笑んだ。
「彩香さんにそう言われると、ちょっと怖いです」
「褒めとるんや」
「怒られる前触れかと思いました」
「私を何やと思っとるんや」
「怖い先輩です」
「否定しにくいやろ、それ」
任務は順調だった。
黒鷹側の表の窓口である温泉再生会社の社長も、麻衣の調査に気づいていない。偽装ファンドの帳簿データへ近づき、地下通信設備の場所も特定した。あとは、資金移動の現場を押さえればいい。
このまま静かに終わる。
彩香ですら、そう思った。
その時、最悪の二人が現れた。
三好さつきと赤嶺美月だった。
二人はCS放送の情報番組のレポーターとして宍粟を訪れていた。企画名は「知られざる兵庫の癒やし旅」。温泉、自然、地元グルメ、廃校カフェ、森のアクティビティを紹介する、いかにも平和な旅番組だった。
さつきは、兵庫県内では知名度九十パーセントとも言われる人気レポーターである。街を歩けば声をかけられる。店に入れば店主が喜ぶ。観光地へ行けば、いつの間にか人だかりができる。
そして美月は、戦隊ヒロインとして微妙な人気者だった。
全国区ではない。
だが妙に目立つ。
声が大きい。
ツインテールが揺れる。
河内弁で押しが強い。
本人は、自分を戦隊ヒロイン界の中心人物だと思っている。
この二人が動くと、人がついてくる。
麻衣と彩香にとっては、はっきり言って邪魔だった。
遠くから二人を見つけた瞬間、彩香は低く呻く。
「何でおんねん」
麻衣は苦笑した。
「番組ロケみたいですね」
「今すぐ帰ってほしい」
「無理やと思います」
「なら山に帰ってほしい」
「美月さんは山の生き物やないです」
さつきは悪気なく温泉再生会社の社長へ近づき、笑顔でマイクを向けた。
「地域再生にかける思いを教えてください」
その瞬間、社長の表情が一瞬だけ固まる。
麻衣は見逃さない。
だが同時に、美月が大声で割り込んだ。
「うわあ、ここめっちゃええ雰囲気やん! 河内にはない癒やしや!」
観光客が笑う。
カメラが回る。
社長は笑顔を作り、逃げるように奥へ引っ込む。
麻衣たちが追おうとした時、美月がなぜか手を振った。
「あっ、麻衣やん! 何してんの!」
最悪だった。
潜入中の麻衣が、一気に目立つ。
黒鷹側の運び役は異変に気づき、予定より早く帳簿データ入りの端末を持ち出して逃げる。
あと一歩だった。
美月のせいで取り逃がした。
彩香の顔が怒りで赤くなる。
「あのアホツインテール……今度ばっかりは許さん」
彩香は本気で美月へ向かおうとする。
麻衣が止めた。
「彩香さん、今は美月さんに怒ってる場合やないです」
「怒る場合や! あいつ、何回邪魔したら気が済むんや!」
「でも、追う方が先です」
麻衣の声は落ち着いていた。
彩香は踏みとどまる。
副として支える。
麻衣を主担当として立てる。
玲奈の言葉が頭をよぎる。
彩香は奥歯を噛んだ。
「……分かった。指示して」
麻衣は頷く。
「社長は逃げてません。逃げたのは端末を持った運び役です。あの人、観光客に紛れて道の駅側へ抜けるはずです」
「根拠は」
「靴が山道用やなくて、運転用でした。車で来てます。それに、さっきから右手でポケットの鍵を確認してました」
彩香は一瞬だけ目を見開く。
「よう見てるな」
「彩香さんに鍛えられましたから」
麻衣と彩香は追跡を始める。
運び役は道の駅の裏手からワゴン車へ乗り込む。山間部の細い道路へ逃げ込もうとする。
彩香が運転する車で追う。
麻衣は助手席で道を読む。
「この先、橋があります。右へ逃げたら林道。左なら温泉街へ戻ります」
「どっちや」
「右です。人目を避けたいはずです」
麻衣の読みは当たった。
ワゴン車は林道へ入る。
狭い道。
急カーブ。
片側は斜面。
もう片側は川。
派手な追跡戦になった。
彩香は舌打ちしながらハンドルを切る。
「麻衣、しっかり掴まっとき!」
「はい!」
逃走車は倒木ぎりぎりを抜け、山道を荒く走る。彩香は無理にぶつけない。距離を保ち、逃げ道を読ませ、相手の焦りを待つ。
玲奈から教わった“追い詰めすぎない”判断だった。
その時、前方に妙な人だかりが見えた。
美月だった。
ロケの流れで、なぜか地元の人たちと一緒に道の駅裏の広場で即席の観光PRダンスをしている。しかも、撮影スタッフの車と観光客の車が中途半端に道を塞いでいた。
彩香が叫ぶ。
「何してんねん、あいつ!」
だが、それが結果的に逃走車の進路を塞いだ。
運び役は慌ててブレーキを踏み、車体が横滑りする。逃げ場を失ったところへ、彩香が車を斜めに入れて退路を塞ぐ。
麻衣が素早く飛び出す。
運び役は端末を持って逃げようとするが、麻衣はすでに先回りしていた。道の駅裏の木製デッキの段差を利用し、相手の進路を止める。
彩香が後ろから腕を押さえる。
確保。
観光客は何が起きたのか分からず、なぜか拍手した。
美月も目を丸くする。
「え、うち今、何か大活躍した?」
彩香は歯ぎしりする。
「腹立つけど……した」
美月は胸を張る。
「やっぱりうち、戦隊ヒロイン界の中心人物やな!」
「調子乗るな!」
さつきはカメラを回したまま、困ったように笑っていた。
「これは……放送できませんね」
任務は完了した。
端末からは、偽装温泉ファンドの帳簿データ、黒鷹の資金洗浄ルート、廃校地下の通信設備に関する記録が見つかる。温泉再生会社の社長も事情聴取を受け、黒鷹の山間部ルートは潰された。
麻衣は、主担当として冷静に任務をまとめた。
彩香も認めざるを得なかった。
「麻衣、ようやった」
麻衣は少し照れたように笑う。
「ありがとうございます」
だが、彩香の怒りは収まらなかった。
分室へ戻った後も、彩香はずっとわめいていた。
「あのアホツインテール……ホンマええ加減にせえよ。宍粟の原木しいたけで頭ポカポカしたるわ」
麻衣は冷静に突っ込む。
「それって意味あるんですか?」
彩香は即答した。
「知らんわ! ボケェ!」
麻衣はさらに首を傾げる。
「しいたけ、たぶん割れますよ」
「割れたら鍋に入れたるわ!」
「それ、美月さんへの罰やなくて晩ごはんですやん」
「知らんわ! ボケェ!」
そのやり取りを聞いていた玲奈は、いつもの鉄仮面のままだった。
だが、口元がほんの少しだけ緩む。
彩香はそれに気づいた。
「玲奈さん、今笑いました?」
玲奈は即答する。
「笑っていません」
麻衣は小さく笑う。
「今のは笑ってましたね」
玲奈は表情を戻す。
「任務報告を続けて」
彩香はまだぶつぶつ言っている。
「あのアホツインテール……原木しいたけ十本でも足りへん……」
麻衣は落ち着いた声でまとめた。
「でも、今回分かったことがあります。黒鷹は、悪い顔して近づいてくるんやなくて、ええ話の顔して入り込んでくるんですね」
玲奈は静かに頷いた。
「だから厄介なの」
宍粟の温泉ファンドは潰れた。
だが、黒鷹の地下ルートがすべて消えたわけではない。
港から山へ。
物流から資金洗浄へ。
会社から地域再生へ。
黒鷹は姿を変えながら、まだ地下で息をしている。
そしてNSTもまた、少しずつ変わり始めていた。
玲奈は背負うだけの指揮官ではなくなろうとしていた。
彩香は次代の指揮官として、人を動かすことを学び始めた。
麻衣はもう、守られるだけの妹分ではなかった。
宍粟の山に立ちのぼる湯けむりの向こうで、黒い帳簿の一枚が燃え尽きる。
だが、その灰はまだ地下へ落ちていく。
黒鷹は消えない。
ただ、次の顔を探している。




