戻らない港、奪われた社名 ― オカモト・シャドウカーゴ 第5話 主役が落ちる前に ― ミユキ・グランドイリュージョン
港の外れにある古い倉庫は、棺桶に似ていた。
錆びたシャッター。
ひび割れたコンクリート。
剥がれた注意書き。
湿った埃の匂い。
そして外では、過積載の大型トラックが低く唸っている。
岡本玲奈は、その棺桶の中にいた。
手元には、両親の死が事故ではなかったことを示す証拠がある。
事故当日の配車表。
直前に変更されたトラックのルート。
父の車が通る予定時刻。
母の同乗を示すメモ。
そして、真壁亮次がかつて使っていた旧名の署名。
十数年前、岡本港湾サービスの社長とその妻は、偶然死んだのではない。
誘導され、狙われ、過積載トラックに潰された。
黒鷹はそれを事故にした。
そして今、同じやり方で娘を消そうとしている。
倉庫の入口は外から閉ざされていた。
別の出入口も封鎖されている。
通信は妨害され、スマートフォンには圏外の表示。
県警へ助けを求めても、どこへつながるか分からない。県警内部に内通者がいることは、すでに玲奈自身が確証している。
倉庫の外で、真壁亮次の声がスピーカーから流れる。
「岡本玲奈。親父さんと同じ終わり方なら、筋が通るだろう」
玲奈は表情を変えなかった。
だが、状況は最悪だった。
大型トラックは、倉庫の壁へ向かう角度を取っている。
エンジン音が一段高くなるたび、古い壁が細かく震えた。
ヘッドライトが隙間から差し込み、埃を白く浮かび上がらせる。
玲奈は倉庫内を見回す。
鉄骨の柱。
積まれた古いパレット。
錆びた機材。
崩れかけた棚。
逃げ込める隙間はある。だが、過積載トラックが壁を破って突っ込んでくれば、どこまで耐えられるか分からない。
父と同じ死に方。
黒鷹は、そこまで計算している。
玲奈はコートの内側に証拠の封筒を押し込んだ。
自分が死んでも、証拠だけは残す。
そう考えた瞬間、波田巌蔵の声が頭の奥で響いた。
――帰り道を作れ。
玲奈は奥歯を噛む。
帰り道は作っていなかった。
誰にも告げず、単独で来た。
彩香にも、麻衣にも、美咲にも、あかりにも、迫田ツインズにも知らせていない。
巻き込まないためだった。
だが今になって、その言葉が言い訳に聞こえた。
外でトラックのエンジンがさらに高くなる。
真壁の声が響く。
「終わりだ、岡本玲奈」
玲奈は低く呟く。
「同じにはならない」
だが、次の瞬間、トラックが動き出す気配を見せた。
もはやこれまで。
そう思った、その時だった。
倉庫の照明が、すべて消えた。
完全な闇が落ちる。
黒鷹工作員たちの怒号が外で弾けた。
「何だ!」
「電源を見ろ!」
「誰かいるぞ!」
「予定にないぞ!」
次いで、存在しないはずの複数の車両音が、別々の方向から響き始めた。
右手から急ブレーキ音。
左手から複数のドアが一斉に開く音。
背後から重い車両が停まる音。
さらに、遠くからサイレンが重なる。
一台ではない。
二台でもない。
まるで県警の車両部隊が、倉庫を包囲したかのようだった。
倉庫の外壁に、盾を構えた部隊の影が映る。
赤色灯の光が壁を走る。
無線の声が飛ぶ。
「対象施設を包囲」
「突入準備」
「逃走路を封鎖」
「対象者、確認」
黒鷹工作員たちが混乱する。
「県警だ!」
「早すぎる!」
「内通から連絡は来てないぞ!」
「どこから漏れた!」
大型トラックが止まる。
運転手はアクセルを踏めない。
本当に包囲されたのか、演出なのか判断できない。
その一瞬の迷いが、死の突入を止めた。
闇の中で、細い光が走る。
封鎖されていたはずの側面扉が、音もなく開いた。
そこに女が立っていた。
高田美雪。
黒を基調にした動きやすい服装。
舞台衣装ではない。
だが、立ち姿そのものが舞台だった。
夜の倉庫に、異質な華が咲いたようだった。
美雪は妖艶な笑みを浮かべる。
「お待たせ」
その声は軽い。
だが、状況を完全に支配していた。
玲奈が言葉を返す前に、美雪は動いた。
速かった。
闇と光の境目を滑るように抜け、近づいてきた黒鷹工作員の手首を取る。体を反転させ、相手の重心を崩し、声を上げる前に床へ落とす。
別の男が銃を抜こうとした瞬間、美雪の指先から細いワイヤーが走った。男の手元が弾かれ、同時に小さな閃光が目を焼く。男が怯んだところへ、玲奈が踏み込み、足を払った。
「反応は悪くないわね」
美雪は笑っている。
「でも、段取りは最悪」
玲奈は返さない。
美雪が作った音と光の包囲演出は、黒鷹の判断力を奪っていた。存在しない県警車両、存在しない突入部隊、存在しないサイレン。それらが本物の混乱を生んでいる。
イリュージョン。
舞台なら観客を魅了する技術。
現場なら敵を騙し、生き残るための技術。
美雪は、その境界を軽々と越えていた。
「こっち」
美雪は玲奈の腕を軽く引く。
倉庫の裏手へ続く細い通路。
外から見れば完全に塞がれていたはずの場所に、逃げ道ができている。
玲奈は証拠の封筒を押さえながら走る。
背後で黒鷹工作員の怒号が響く。
トラックのエンジンが空ぶかしする。
真壁の声が乱れる。
「何をしている! 早く――」
その言葉は、さらに近づいてくる本物のサイレンに飲まれた。
今度は演出ではなかった。
県警の車両だった。
波田巌蔵が、水面下で作った帰り道。
美雪はそれを、舞台へ変えただけだった。
玲奈と美雪が波止場へ抜けた時、夜風が強く吹いた。
倉庫の方では、県警の車両が次々に到着し始めている。黒鷹工作員たちは混乱したまま取り押さえられ、真壁亮次も身柄を拘束された模様だった。少なくとも、逃げ切れたようには見えない。
玲奈は息を整え、美雪を見る。
「なぜ、ここに?」
美雪は髪をかき上げ、余裕のある笑みを浮かべた。
「NSTのボスに万が一のことがあったら嫌じゃない? それに、残された彩香やあかり、麻衣、美咲、迫田ツインズはどうするの?」
玲奈は黙る。
美雪の声は柔らかい。
だが、逃げ場がない。
「もっとメンバーのこと、信頼して欲しいな」
その一言は、波止場の夜風より冷たく、深く刺さった。
「彩香は玲奈さんのことを、あなたが思っている以上に心酔しているよ。口は悪いし、すぐ怒るけど、あの子の軸はあなたにある」
玲奈の目がわずかに動く。
「麻衣は、もう現場の指揮を任せられるくらい成長した。私が思っている以上に早く成長したね。あの子は勘がいい。人の異変にも気づける」
美雪は淡々と続ける。
「あかりは相変わらず猪突猛進だけど、筋は良いよ。好きなタイプだね。危なっかしいけど、嘘がない」
玲奈は何も言わない。
「美咲は目立たないけど、いい働きをしている。隠密活動には一番向いているね。静かで、冷静で、余計な自分を出さない。ああいう子は強い」
美雪は倉庫の方を一瞥する。
「迫田ツインズも、潜入捜査で本当に頑張っている。二人でいることを弱点みたいに見せて、実は強みにしている」
そして、玲奈へ視線を戻す。
「サポートメンバーの美音も、あおいも、代打の切り札の結月も、みんなよく頑張っている。みんな玲奈さんのためにだよ」
玲奈の鉄仮面は崩れなかった。
だが、沈黙は変わった。
美雪には、それで十分だった。
「そんな仲間を、もっと信頼してね」
言い終えると、美雪は急に軽い声になる。
「この後、公演とTV収録があるから。それじゃあ、ごきげんよう」
「待ってください」
玲奈が言うより先に、美雪は歩き出していた。
波止場に停めてあった黒い車のドアが開く。
美雪は振り返らない。
舞台袖へ消える主演女優のように、颯爽と夜の中へ去っていった。
玲奈は一人、波止場に立ち尽くした。
狐につままれたような表情だった。
命を救われた。
証拠も守られた。
真壁も拘束されたらしい。
だが、同時に叱られた。
それも、誰よりも華やかに、誰よりも痛い場所を突かれて。
やがて、県警本部の偉い人間が現場へ歩いてきた。
険しい表情だった。
「岡本警部補」
玲奈は振り向く。
男は倉庫の方を一瞥し、次に玲奈を見る。
「後日、ゆっくり話す必要がある」
それだけだった。
だが、その言葉には、事情聴取、処分、圧力、警告、すべてが含まれていた。
玲奈は黙って一礼する。
真実へ近づいた。
命は助かった。
真壁も捕まった。
しかし、玲奈の単独行動は県警本部との関係をさらに悪化させた。
勝ったのか。
救われたのか。
それとも、もっと深い場所へ引きずり込まれたのか。
答えは、まだ出ない。
その頃、大阪府内のヒロ室西日本分室では、玲奈が死にかけていたことなど誰も知らず、相変わらずどうでもいいことで大騒ぎしていた。
玲奈不在の分室は、もはや小さな動物王国のようである。
ポートアイランドにある全天候型の動植物施設のように、天候に関係なく賑やかで、距離感が近く、個性の強い生き物たちが自由に動き回り、時々予測不能な鳴き声が響く。花や鳥や小動物とふれあえる夢の空間ならぬ、彩香と美月が衝突する騒音の楽園だった。
「彩香、目玉焼きにはソースやろ!」
「醤油や!」
「ソースや!」
「醤油や言うとるやろ!」
「東大阪の勢いはソースやねん!」
「姫路の品格は醤油や!」
麻衣は頭を抱える。
「そこ、そんな真剣に争うところですか……」
美月は麻衣を指差す。
「麻衣はどっち派や!」
彩香も迫る。
「答えや、麻衣!」
麻衣は巻き込まれた。
「え、えっと……その日の気分で……」
「逃げた!」
「政治家みたいな答えや!」
あかりは横で菓子を食べながら言う。
「私は目玉焼きより、焼き菓子派です」
彩香が叫ぶ。
「今その話してへん!」
美月も叫ぶ。
「あかり、自由すぎるやろ!」
あかりは平然としている。
「自由は大事です」
「菓子食べながら思想語るな!」
さつきは笑顔でお茶を飲み、迫田ツインズは安全圏から眺め、美咲は一切関与せず書類をめくっている。
「美咲、どっち派や!」
美月が聞く。
美咲は顔を上げずに答えた。
「食べられれば何でもいいです」
「一番冷たい答え来た!」
彩香は頭を抱える。
「玲奈さんがおらんと、ほんまこの有様やな……」
その言葉に、全員が一瞬だけ玲奈の空席を見る。
いつもなら、玲奈が一言「静かにして」と言えば終わる。
その一言がないだけで、分室は簡単に崩壊する。
麻衣は小さく息を吐いた。
胸騒ぎは、少しだけ弱まっていた。
理由は分からない。
ただ、どこか遠くで誰かが玲奈を引き戻してくれたような気がした。
波止場では、玲奈が夜の海を見ていた。
美雪の言葉が耳に残る。
――そんな仲間を、もっと信頼してね。
玲奈は証拠の封筒を握りしめる。
帰り道は、自分一人で作るものだと思っていた。
だが、その道を外側から照らす者がいる。
そして、帰る場所で待っている者たちがいる。
玲奈は初めて、その事実を少しだけ受け入れた。
夜の港の奥で、県警の赤色灯が揺れている。
主役は落ちなかった。
だが、幕はまだ下りていない。
黒鷹の影は、港のさらに深い場所へ伸びていた。




