戻らない港、奪われた社名 ― オカモト・シャドウカーゴ 第4話 父と同じ死に方を仕掛けられた夜――港に仕掛けられた事故、ブラック・デッドエンド
港は、夜になると人間の顔を奪う。
照明はある。
監視カメラもある。
ゲートには警備員が立ち、遠くではフォークリフトの警告音が鳴っている。
それでも、港の夜は暗い。
光が当たる場所と、当たらない場所がはっきり分かれている。
光の中ではコンテナが動き、書類が交わされ、船が荷を吐き出す。
闇の中では、人の名前が消え、会社の歴史が塗り替えられ、誰かの死が事故として処理される。
岡本玲奈は、その闇の縁に立っていた。
黒川玄蔵が遺した資料。
元従業員・藤村孝志の証言。
法人登記の変遷。
岡本港湾サービス、港栄ロジスティクス、神戸湾岸カーゴ、六甲ベイオペレーション。
名前は変わっていた。
看板も変わっていた。
役員も変わっていた。
だが、法人格は一本につながっていた。
父の会社は、死んでいなかった。
死ぬことさえ許されず、黒鷹の密輸に使われ続けていた。
玲奈が追っていた男の名は、真壁亮次。
現在は六甲ベイオペレーションの経営顧問。
名刺には、港湾物流の実務に長く携わった温厚な相談役のような肩書が並んでいる。
港では顔が利く。
荷主にも顔が利く。
古い倉庫業者にも、下請けの運送会社にも顔が利く。
そういう男は、表の世界では便利がられる。
だが玲奈が掘り起こした真壁の過去は、別の顔をしていた。
真壁は、かつて岡本港湾サービスに従業員を装って入り込んでいた。現場作業員として汗を流すふりをしながら、取引先、倉庫の鍵、会社印の保管場所、経理の流れ、父の行動予定、母の勤務時間まで探っていた。
父は黒鷹からの密輸協力を拒んだ。
母は帳簿に残った不審な入金と架空取引に気づいた。
黒川玄蔵の捜査も、黒鷹の港湾ルートへ近づいていた。
そのすべてが重なった時、黒鷹は事故を作った。
過積載トラック。
ルート変更。
誘導。
衝突。
玲奈の両親は、運悪く死んだのではない。
予定され、待たれ、消された。
県警本部は、玲奈へ圧力をかけてきた。
「岡本警部補。単独行動は慎むように」
穏やかな声だった。
書類上は助言だった。
だが、中身は命令だった。
「六甲ベイオペレーションは現在も複数の港湾業務に関わっている。証拠不十分の段階で刺激すれば、物流に影響が出る」
「もう少し泳がせるべきだ」
「君のご両親の件がある以上、君自身が前面に出るのは望ましくない」
言葉はどれも正しかった。
正しすぎる言葉には、たまに腐臭が混じる。
泳がせる。
慎重に進める。
証拠を固める。
時期を待つ。
その間に、相手は逃げる。
倉庫は空になる。
帳簿は処分される。
真壁亮次は別の名前を得る。
六甲ベイオペレーションは清算され、父の会社の最後の痕跡も消える。
玲奈は、県警の言葉を信用しなかった。
県警本部の全員が黒鷹の味方だとは思っていない。
だが、中に誰かがいる。
情報を流している者。
見て見ぬふりをしている者。
あるいは、黒鷹に弱みを握られている者。
正式な経路に乗せれば、証拠は消える。
だから玲奈は、一人で動いた。
波田巌蔵の声が頭をよぎる。
――帰り道を作れ。
玲奈は、車のハンドルを握ったまま呟いた。
「帰るつもりはある」
その声は、空虚だった。
自分でも分かっていた。
帰るつもりがあることと、帰り道があることは違う。
藤村から情報が入ったのは、その日の夕方だった。
「事故当日の配車記録が、まだ残っとるかもしれん」
藤村の声は掠れていた。
場所は神戸港の外れ。
使用停止中の古い倉庫。
かつて岡本港湾サービスが一時的に使っていた場所。
倉庫番号。
古いロッカーの位置。
保管箱に書かれた現場班の略称。
細部は具体的だった。
藤村しか知らないはずのことまで含まれていた。
玲奈は罠を疑った。
だが、行かない選択肢はなかった。
もし本物なら、両親の事故と真壁亮次を直接つなぐ証拠になる。
もし罠なら、黒鷹が自分をどこまで把握しているか分かる。
どちらにせよ、行く価値はある。
危険を価値と呼ぶようになった時点で、もう普通ではない。
それでも玲奈は向かった。
誰にも告げずに。
大阪府内のヒロ室西日本分室は、その頃、別の意味で危険な状態にあった。
崩壊モードだった。
玲奈不在の分室に、赤嶺美月が元気よく飛び込んでくる。
「邪魔するで~!」
彩香はもう条件反射だった。
「邪魔するなら帰って~」
美月は素直に一歩下がった。
「そうやな……」
そして、目をむく。
「って、なんでやねん!」
さつきは慣れた様子でお茶を入れていた。
迫田ツインズは目を合わせると、同時に一歩下がった。巻き込まれない距離を熟知している。
美咲は最初から関与する気がなく、机で書類を整理している。騒ぎは背景音に過ぎない。
美月は彩香の机の前に立つ。
「今日こそ白状してもらうで。彩香、あんたら何か秘密の活動しとるやろ」
彩香は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「してへん」
「嘘や。顔が秘密や」
「どんな顔やねん」
「姫路城の白壁みたいな顔や。表は綺麗やけど、中に武器庫ありそう」
「また姫路城を悪用すな!」
美月は麻衣を抱き寄せる。
「麻衣もや。最近、うちの妹分やのに、ちょっと大人の顔しとる。何か隠してる」
麻衣は困ったように笑う。
「隠してませんよ」
「その笑顔が一番怪しいねん。大人はみんなそうやって、子ども扱いして秘密にするんや」
彩香が割って入る。
「麻衣を勝手に妹分にすな」
「彩香かて、あかりを妹分みたいに扱ってるやん」
あかりは菓子棚を見ながら言う。
「私は食欲の管理対象です」
「それもどうかと思うで」
美月のちょっかいは止まらなかった。
彼女はNSTという名前すら知らない。
ただ、彩香や麻衣が自分の知らないところで、何か危険で、何か秘密めいた活動に関わっていることだけは察している。
邪魔をしたいわけではない。
本気で首を突っ込みたいわけでもない。
いや、少しは突っ込みたい。
だが、本音はもっと単純だった。
仲間外れが嫌なのだ。
そして、彩香に構ってほしいのだ。
「うち、戦隊ヒロインプロジェクトの中心人物やのに、なんで肝心なことに混ぜてもらわれへんのやろなあ。彩香も麻衣も、何かコソコソしてるし」
彩香は鼻で笑う。
「中心人物は自称やろ」
「自称も続ければ実績になる」
「ならへん」
「彩香は冷たいなあ。うちに構ってくれてもええやん」
「いま全力で構わされとるわ!」
口喧嘩は、いつものように低い方へ転がっていった。
東大阪と姫路、どちらが西日本の顔にふさわしいか。
美月の明るさは戦力か騒音か。
彩香の怒鳴り声は指揮か威嚇か。
麻衣は誰の妹分なのか。
あかりの食欲は管理可能なのか災害指定なのか。
あかりはその間に、美月の差し入れの焼き菓子を一つ、また一つと食べていた。
「これは争いを鎮めるための消費です」
彩香が叫ぶ。
「あんた、火事場泥棒みたいに菓子食うな!」
「火事ではありません。分室です」
「状況は火事や!」
その時、美月が彩香の机に置かれた資料の一部を覗こうとした。
彩香が慌てて隠す。
「見るな!」
「ほら! やっぱり何かあるやん!」
「ない!」
「ある!」
「ない言うてるやろ! これはNSTの――」
彩香の口が止まった。
分室の空気が、妙な形で固まった。
美月の目が光る。
「えぬ……えす……てぃ?」
彩香の顔から血の気が引いた。
「いや、違う」
「今、絶対言うた。NSTって言うた。何それ。秘密組織? 新しい戦隊? うち聞いてへんで!」
美月が食いつく。
彩香は露骨に動揺した。
「聞き間違いや」
「聞き間違いやない。うち、こういう時だけ地獄耳やねん」
「都合のええ耳やな!」
美月はさらに身を乗り出す。
「NSTって何? 西日本……戦隊……特別? いや、絶対カッコええやつやん! なんでうち入ってへんの!」
その瞬間、麻衣が一歩前へ出た。
顔は柔らかい。
だが、判断は早かった。
「美月さん、それ新潟の放送局の略称ですよ」
美月が止まる。
「新潟?」
麻衣は自然な口調で続けた。紀州弁が少し混じる。
「そうやして。新潟のテレビ局さんの略称やと思いますわ。たぶん彩香さん、さっき資料見ながら放送関係の話とごっちゃになったんやないですかね。そういえば、美雪さんって新潟出身なんですよね」
彩香は内心で息を呑んだ。
麻衣の機転だった。
美月は単純だった。
「そういえば美雪さん、新潟やったなぁ」
美月の興味は、見事に別方向へ逸れた。
「せやから肌綺麗やねん。羨ましいわ~。あの透明感、反則やろ。今頃どこで公演してんのやろ……海外かなあ。東京かなあ。新潟で凱旋公演とかやったら絶対映えるやん」
彩香は胸をなで下ろす。
「……ほんま、助かった」
麻衣が小声で返す。
「口、気ぃつけてくださいよ」
「すまん」
美月はもう完全に高田美雪の話へ移っていた。
「美雪さんって、ステージで出てきた瞬間に空気変えるやん。あれ、すごいよなあ。うちもああいう大物感ほしいわ」
さつきが穏やかに笑う。
「美月さんは、すでに別方向の大物感がありますよ」
「それ、褒めてます?」
迫田ツインズは部屋の隅で小声で言う。
「今の危なかったね」
「麻衣ちゃん、ナイス」
「美月さん単純でよかった」
美咲は顔を上げずに言う。
「情報管理は徹底してください」
彩香が小さく肩を落とした。
「はい……」
また分室は騒がしくなった。
美月は美雪の肌の透明感について語り、彩香は疲れた顔で聞き流し、あかりはまた菓子を食べ、さつきはお茶を注ぎ、迫田ツインズは安全圏で見物し、美咲は完全にスルーしている。
だが、麻衣だけは笑えなかった。
美雪の名を口にした瞬間、胸の奥がざわついた。
高田美雪。
波田巌蔵。
玲奈の不在。
最近増えた空白の予定。
持ち帰られた黒川玄蔵の資料。
港の匂いがするような、重い沈黙。
麻衣は玲奈の空席を見る。
妙な胸騒ぎがした。
その頃、玲奈は神戸港の外れにいた。
古い倉庫は、闇の中に沈んでいた。
錆びたシャッター。
破れたフェンス。
港湾照明に照らされた濡れたアスファルト。
遠くでクレーンが軋む音。
海風に混じる鉄と軽油の匂い。
玲奈は車を降りた。
周囲を確認する。
人影はない。
だが、静かすぎる。
港に人影がないことは珍しくない。
だが、音まで死んでいる夜は別だった。
玲奈はコートの内側に手を入れ、最低限の装備を確認する。拳銃ではない。証拠を持ち帰るための薄い封筒、ライト、折り畳み式の小型工具、予備の端末。
戦いに来たのではない。
証拠を取りに来た。
そう自分に言い聞かせる。
倉庫の中は、古い埃の匂いがした。
懐中ライトの光が闇を切り裂く。
床には古いタイヤ痕。
壁には剥がれた注意書き。
錆びた棚。
折れたパレット。
もう誰も使っていないはずの場所。
奥に、藤村が言っていた保管箱があった。
玲奈は膝をつき、箱を開ける。
中には封筒が一つ入っていた。
紙は古い。
しかし保存状態は悪くない。
事故当日の配車表のコピー。
過積載トラックの運行予定。
直前に変更されたルート。
玲奈の父が乗る車両の通行予定時刻。
母の同乗を示すメモ。
そして、手書きの指示。
「対象車両、予定通り合流地点へ誘導」
署名欄には、真壁亮次がかつて使っていた旧名が残っていた。
玲奈は、紙を見つめた。
父と母は、ここにいた。
血の跡ではない。
写真でもない。
遺品でもない。
だが、この紙の上に、二人の死が置かれていた。
事故ではなかった。
偶然ではなかった。
運命でもなかった。
計画だった。
岡本港湾サービスを乗っ取るため、父と母は同時に消された。
玲奈は封筒を閉じた。
その時だった。
外で、金属音が響いた。
重いものが落ちる音。
続いて、シャッターが軋む音。
玲奈は振り向く。
入口のシャッターが、外から下ろされていた。
別の出入口へ走る。
そちらも閉じられている。
通信機は沈黙していた。
スマートフォンの表示は圏外。
罠だった。
藤村の情報は、本物だった。
しかし、本物だからこそ餌になった。
藤村本人が脅されたのか。
連絡を偽装されたのか。
それとも、藤村の知らないところで情報を利用されたのか。
今は分からない。
分かるのは、黒鷹が玲奈をここへ誘い込んだということだけだった。
倉庫の外で、低いエンジン音が響く。
大型車両。
玲奈は壁の隙間から外を見た。
ヘッドライトが二つ、闇の中で白く燃えている。
大型トラックの車体は不自然に沈んでいた。
過積載。
十数年前、父と母を殺したのと同じ構図だった。
スピーカーから男の声が流れる。
「岡本玲奈」
真壁亮次の声だった。
「親父さんと同じ終わり方なら、筋が通るだろう」
玲奈は表情を変えなかった。
証拠の入った封筒を、コートの内側へしまう。
真壁の声は、淡々としていた。
「会社を返せと言いに来たのか。真相を暴きに来たのか。親の仇を取りに来たのか。どれでもいい。だが、ここで終われば全部同じだ」
玲奈は黙っている。
「十数年前もそうだった。正しいことを言う人間は、道路の上ではただの障害物になる」
大型トラックが、ゆっくり後退する。
突入する角度を取っている。
玲奈は倉庫内を見回す。
逃げ道は少ない。
通信は封じられている。
県警へ連絡しても、どこへつながるか分からない。
波田には何も告げていない。
NSTのメンバーにも知らせていない。
帰り道は、作っていなかった。
波田の声が頭の奥で響く。
――帰り道を作れ。
玲奈は奥歯を噛む。
父と同じ死に方を仕掛けられている。
母と同じように、事故の紙一枚へ押し込められようとしている。
表情は崩れない。
だが、血は冷えていた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
もっと硬い何かだった。
玲奈は、古い鉄骨の柱と、積まれたパレットの位置を確認する。トラックが突っ込んでくる方向、壁の強度、逃げ込める隙間、証拠を守る場所。
生きて出るためではない。
証拠を失わないためでもある。
外でエンジン音が高くなる。
ヘッドライトが倉庫の壁を白く焼く。
玲奈は低く言った。
「同じにはならない」
その声は、エンジン音に飲まれた。
大阪の分室では、美月がまだ高田美雪の話で盛り上がっている。
「美雪さん、今どこで公演してるんやろなあ。新潟で凱旋とかしてたら、うち見に行きたいわ」
麻衣は、その言葉に返事ができなかった。
胸騒ぎが、今度は痛みに変わっていた。
玲奈の空席。
高田美雪の名前。
波田巌蔵の影。
港の匂い。
全部が一本の線につながるような気がした。
麻衣は小さく呟く。
「玲奈さん……?」
その声は、分室の騒ぎの中に消えかけた。
けれど、麻衣の顔色だけは明らかに変わっていた。
港では、トラックが動き出そうとしていた。
黒鷹は、玲奈を事故で消すつもりだった。
十数年前と同じように。
ただし今度の標的は、岡本港湾サービスの社長ではない。
その娘だった。




