戻らない港、奪われた社名 ― オカモト・シャドウカーゴ 第3話 帰り道を失くした女――老獣・波田巌蔵、静かに牙をむく
岡本玲奈の単独行動は、長くは隠せなかった。
神戸港周辺での目撃情報。
県警内部端末への深夜の照会履歴。
六甲ベイオペレーションの関連会社を洗った痕跡。
非番の日に、玲奈の車が港湾地区の高架下で確認されているという報告。
どれも、普通の上司なら見落とす細い線だった。
だが、波田巌蔵は普通の上司ではない。
波田は、表の命令系統だけで人を見ていない。
人の嘘、迷い、焦り、死に急ぐ気配を見る。
玲奈の動きは、捜査官のものではなかった。
警察官としての慎重さは残っている。だが、その奥に、刃物のような個人的な熱があった。
静かすぎる熱。
声を荒げない私怨。
それが一番危ない。
波田は玲奈を呼び出した。
場所は大阪市内の古い雑居ビルの一室だった。
ヒロ室西日本分室でも、県警本部でもない。
灰色のブラインドが下りた、昼でも薄暗い部屋。
窓の外では車が流れている。
だが、この部屋だけは街から切り離されていた。
玲奈が入ると、波田は窓際に立っていた。
年齢を重ねても、その背中にはまだ現場の獣の匂いがあった。退いた男ではない。必要なら、今でも泥に足を突っ込む男だった。
「座れ」
玲奈は黙って椅子に座った。
波田は机の上に数枚の資料を置いた。
神戸港周辺の監視記録。
県警内部端末の照会履歴。
六甲ベイオペレーション関連会社の一覧。
玲奈が洗っていた下請け業者の名前。
そして、玲奈の車が映った監視カメラの切り出し画像。
玲奈は表情を変えなかった。
波田が低く言う。
「単独で追うのはやめろ」
命令だった。
玲奈は即答する。
「できません」
波田の目が細くなる。
「命令だ」
「これはNSTの任務ではありません」
「屁理屈を言うな」
「個人的なことです」
その一言で、部屋の温度が落ちた。
個人的なこと。
玲奈は、あえてそう言った。
黒川玄蔵が遺した真実。
両親の死。
事故に見せかけた殺害。
父が築いた岡本港湾サービスの乗っ取り。
社名を変えながら生き残り、今も父の信用を密輸の隠れ蓑にしている六甲ベイオペレーション。
それは任務ではない。
職務ではない。
報告書に書ける案件ですらない。
墓の中にいる父と母へ、玲奈がようやくたどり着くための道だった。
波田は怒鳴らなかった。
怒鳴れば、玲奈は黙る。
命令で押せば、玲奈はさらに深く潜る。
この女は、反抗的な声を出さない。泣かない。喚かない。代わりに、自分を削って前へ進む。
「玲奈」
波田の声が、少しだけ沈んだ。
「私怨で動くな」
玲奈は視線を上げる。
「私怨がないとは言いません」
「認めるのか」
「はい」
迷いのない返事だった。
波田は机の資料を指で叩く。
「黒鷹は変わった。昔みたいに、金と暴力だけで動く連中じゃねぇ。警察の中にも、役所の中にも、港の中にも根を張っている。最近は口封じの速度も早い。事故に見せる。失踪に見せる。自殺に見せる。ためらわねぇ」
玲奈は黙って聞いていた。
「おめぇが一人で追えば、殺される」
「想定しています」
波田の眉が、わずかに動いた。
「想定してるなら、なお悪い」
玲奈は答えない。
「おめぇは死ぬ準備をしてるわけじゃねぇつもりだろう。だがな、帰り道を作らずに奥へ入るってのは、死ぬ準備をしてるのと同じだ」
「帰るつもりはあります」
「つもりで帰れたら、現場に死体は転がらねぇ」
波田の声は冷たかった。
玲奈の鉄仮面は崩れない。
しかし、沈黙の深さだけが少し変わった。
波田は続けた。
「おめぇに万が一のことがあったら、若いNSTメンバーはどうする」
玲奈の目が、ほんのわずかに揺れた。
彩香。
麻衣。
美咲。
あかり。
迫田ツインズ。
貴重なサポートメンバーの美音、あおい。
代打の切り札として玲奈が全幅の信頼を置く結月。
玲奈は、彼女たちを巻き込まないために一人で動いている。
だが波田は、そこを逃がさなかった。
「おめぇは巻き込んでねぇつもりだろう。違う。おめぇが死んだ瞬間、全員巻き込まれる。残された連中は、何で気づけなかったのか、何で止められなかったのか、何で一緒に行けなかったのか、一生抱える」
玲奈は無表情だった。
「私が死ぬ前提で話を進めないでください」
返事は遅かった。
「死ぬ奴は、だいたいそう言う」
波田は逃げなかった。
「おめぇの父親も、たぶんそうだったんだろうな。自分は正しいことをしている。筋を通している。だから最後までは行かねぇ。どこかで踏みとどまれる。そう思っていたはずだ」
玲奈の目が、波田を刺した。
殺気ではない。
怒気でもない。
もっと静かな、温度のない視線だった。
波田はそれを受け止めた。
「だが、黒鷹は踏みとどまらなかった」
部屋に沈黙が落ちる。
玲奈の両親は、事故に見せかけて殺された。
父は黒鷹の密輸協力を拒んだ。
母は不審な入金と架空取引に気づいた。
二人は、消された。
同じ手口が、今度は玲奈へ向かっている。
玲奈は抑揚のない声で言った。
「だからこそ、止まれません」
波田は目を閉じた。
「おめぇは、本当に聞き分けの悪い女だ」
「承知しています」
「褒めてねぇ」
「承知しています」
「今すぐ手を引け。六甲ベイオペレーションは、こっちで洗う」
玲奈は首を横に振った。
「県警内部に内通者がいます」
「分かっている」
「正式な経路に乗せれば、証拠は消えます」
「だからといって、おめぇ一人が沈んでいい理由にはならねぇ」
「沈むつもりはありません」
「帰り道を作ってから言え」
玲奈は黙った。
波田は、そこで声を落とした。
「黒川玄蔵は、おめぇに何て残した」
玲奈はすぐには答えない。
灰色のブラインド越しの光が、玲奈の横顔を冷たく照らしていた。
やがて、玲奈は言った。
「黒鷹を追え。ただし、帰ってこい」
波田は即座に返す。
「なら、帰ってこい」
それは命令ではなかった。
願いに近かった。
だが、玲奈は立ち上がった。
「ご忠告は記憶します」
「やめるとは言わねぇんだな」
「はい」
「NSTのボスとしての立場は」
「理解しています」
「理解していて、それでも行くのか」
「はい」
その返事には、迷いがなかった。
迷いのない人間ほど危ない。
波田は、それを嫌というほど知っている。
力ずくで止めることはできる。
監視をつけることもできる。
県警本部に圧力をかけ、玲奈の動きを封じることもできる。
だが、それをやれば、玲奈はもっと深く潜る。
この女は、自分を守る檻を壊してでも前へ進む。
玲奈は一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる。
波田はしばらく、その扉を見ていた。
「……あの頑固さは、誰に似たんだか」
答えは分かっている。
父親だ。
そして、黒川玄蔵だ。
波田は机の上の電話を取った。
県警本部ではない。
表の指揮系統でもない。
水面下の連絡先だった。
「港の件だ。岡本玲奈を見張れ。止めるな。だが、殺させるな」
相手が何かを言う。
波田は短く答えた。
「もう向こうも気づいている。玲奈に影がついている」
電話を切る。
そして、もう一本、別の番号へかける。
「高田美雪に繋げ」
波田巌蔵は、静かに牙をむいた。
玲奈を止めるためではない。
玲奈が帰ってくる道を、外側から作るためだった。
その頃、大阪府内のヒロ室西日本分室では、空気がまったく違っていた。
薄暗い部屋で老獣と鉄仮面が死の話をしていた頃、こちらでは若い女たちが、どうでもいいことで世界の終わりみたいに騒いでいた。
扉が勢いよく開く。
「邪魔するで~!」
赤嶺美月だった。
彩香は反射で返す。
「邪魔するなら帰って~」
美月は素直に一歩下がる。
「そうやな……」
一瞬、空気が止まる。
次の瞬間、美月が目をむいた。
「って、なんでやねん!」
麻衣が小さく笑い、あかりは菓子棚の前で振り向いた。
美咲は顔も上げずに書類をめくる。
迫田ツインズは部屋の隅で、すでに見て見ぬふりの姿勢に入っていた。
彩香は書類を抱えたまま睨む。
「毎回毎回、何しに来るんや。ここは東大阪の公民館ちゃうぞ」
美月は胸を張る。
「戦隊ヒロインプロジェクトの中心人物として、妹分たちの健全な育成を確認しに来たんや」
「また自称中心人物か」
「自称ちゃう。実質や」
「実質迷惑や」
「ひどっ!」
美月は麻衣の肩に腕を回す。
「麻衣はうちの妹分やからな。変な隠密活動に巻き込まれてないか、姉として確認せな」
麻衣は困ったように笑う。
「美月さん、大丈夫ですから」
「その“大丈夫ですから”が怪しいねん。大人はみんなそう言うて秘密持つんや」
彩香が割って入る。
「麻衣を勝手に妹分にすな」
「彩香かて、あかりを妹分扱いしとるやん」
あかりが菓子棚を覗きながら振り返る。
「私は彩香さんの妹分なんですか」
彩香は少し考えた。
「食欲の管理対象や」
「妹分より厳しいですね」
美月が腹を抱える。
「ほら見ぃ。彩香の妹分は餌付け方式や」
「誰が餌付けや!」
その瞬間、あかりが美月の持っていた紙袋に気づく。
「今日は食べ物ありますか」
美月は得意げに掲げる。
「あるで。収録先でもろたクッキー」
あかりの目が輝く。
「では私は美月さん派です」
彩香が叫ぶ。
「食べ物で寝返るな!」
「お菓子のあるところに正義があります」
「どこの国の憲法や!」
美月はクッキーを一枚取り出し、彩香の口元へ差し出す。
「ほら、これ食べて落ち着き」
「餌付けされるか!」
横から、あかりがぱくりと食べた。
「美味しいです」
彩香と美月が同時に叫ぶ。
「お前やない!」
分室は完全に動物園だった。
美月は彩香の椅子に勝手に座る。
「ここ、中心人物席にちょうどええな」
「うちの席や!」
「今日は借りる」
「返せ!」
「彩香、そんな怒ったら姫路城の白壁にヒビ入るで」
「うちの顔は文化財ちゃう!」
麻衣が止めようとする。
「二人とも、落ち着いてください」
美月は麻衣に抱きつく。
「麻衣は優しいなあ。やっぱりうちの妹分や」
彩香が麻衣を反対側から引っ張る。
「麻衣はこっち側や!」
「どっち側ですか」
麻衣は左右から引っ張られ、困った顔になる。
あかりはその隙に、クッキーをもう一枚食べた。
「これは争いを減らすために、私が消費しておきます」
「火種を増やしてるんや!」
彩香の怒号が飛ぶ。
美咲はそのすべてを見事にスルーしていた。
綾乃の妹分である美咲は、自分の席で書類を整理し、淡々とページをめくっている。
美月が助けを求める。
「美咲、何とか言うてや! 彩香が怖い!」
美咲は顔を上げずに言った。
「私は関与しません」
「冷たい!」
「巻き込まれない判断です」
迫田ツインズも同じだった。
部屋の隅で、お茶を飲みながら小声で話す。
「止める?」
「無理」
「玲奈さんが戻ってきたら?」
「全員、姿勢を正す」
「それまで待機」
双子は静かに頷いた。
彩香の怒号。
美月のツッコミ。
あかりの咀嚼音。
麻衣の困った声。
美咲の紙をめくる音。
そこだけ見れば、ただの明るい女子大生たちの溜まり場だった。
だが麻衣だけは、時折、玲奈の空席を見ていた。
いつもなら、玲奈が一言「静かにしろ」と言えば終わる。
その一言が、今日はない。
それが妙に重かった。
そしてその頃、玲奈は再び港にいた。
六甲ベイオペレーションの関連倉庫から、黒い車が一台出ていく。
第2話の夜、玲奈の背後を通り過ぎた車と同じナンバーだった。
玲奈は気づいている。
自分が追っているのではない。
もう、追われ始めている。
波田の言葉が頭をよぎる。
――帰り道を作れ。
玲奈は表情を変えず、車のライトが闇へ消えていく方向を見た。
「まだ、帰れません」
誰に言うでもなく、そう呟く。
港の風が、その声を奪った。
遠く大阪では、まだ美月と彩香がくだらない喧嘩をしている。
その明るさは、玲奈には届かない。
波田巌蔵は水面下で動き始めた。
だが、黒鷹もまた動き始めていた。
玲奈の単独調査は、もう個人的な追跡では済まなくなっていた。
帰り道を作る前に、道そのものが消されようとしていた。




