戻らない港、奪われた社名 ― オカモト・シャドウカーゴ 第1話 父の会社は死んでいなかった――奪われた信用と、消える前の最後の荷
死んだ人間は戻らない。
だが、会社は違う。
名前を変え、看板を掛け替え、経営者の顔をすげ替えれば、かつての中身を失っても生き続けることができる。
黒川玄蔵が遺した資料を精査していた岡本玲奈は、自宅の机に古い法人登記簿を並べていた。
岡本港湾サービス。
父が経営し、母が事務と経理を支えた会社だった。両親の事故後、会社は事実上消滅したと玲奈は聞かされていた。
しかし、登記記録は違う事実を示していた。
会社は解散していない。
法人格も失っていない。
岡本港湾サービスは、両親の死後、「港栄ロジスティクス」へ社名を変更していた。その数年後には「神戸湾岸カーゴ」となり、現在は「六甲ベイオペレーション」という名称で、神戸港周辺の倉庫管理や貨物取扱業務を続けている。
社名も所在地も役員も違う。
だが、法人の履歴は一本につながっていた。
玲奈は、登記簿に記された番号を見つめた。
父の会社は死んでいなかった。
死んだ父の名前だけを切り捨てられ、黒鷹の道具として生かされていた。
黒鷹一味は、会社をただ奪ったのではない。
父が築いた信用まで奪っていた。
岡本港湾サービスは、小さな会社だったが、港湾関係者からの信頼は厚かった。荷を乱暴に扱わない。約束した時間を守る。無理な過積載を認めない。現場作業員の安全を軽視しない。
「あそこへ任せれば間違いない」
父は、その言葉を何年もかけて積み上げた。
黒鷹は評判を壊さなかった。
むしろ丁寧に維持した。
長年問題を起こしていない会社の荷は、疑われにくい。役所とのやり取りに慣れた業者の書類は、細かく確認されにくい。
父が正直な仕事で作った道を、黒鷹は密輸の通路に変えた。
玲奈は鉄仮面を崩さなかった。
ただ、登記簿を押さえる指だけに力が入った。
黒川の資料には、元従業員の名前があった。
藤村孝志。
岡本港湾サービスの創業期から働き、現場の班長を務めた古株だった。父の信頼が厚く、幼い玲奈とも多少の面識がある。
会社へ遊びに来た玲奈に、港の大型機械を遠くから見せてくれた。夏祭りでは、冷えたラムネを買ってくれた。両親の葬儀では、棺の前で何度も頭を下げていた。
現在、藤村は港湾業界を離れ、神戸市西部の整備工場で働いていた。
玲奈は一人で藤村を訪ねた。
これはNSTの任務ではない。
警察官としての正式な捜査でもない。
岡本玲奈個人の調査だった。
工場には油と鉄の匂いが満ちていた。
藤村は玲奈を見ると、工具を持ったまま動きを止めた。
「……玲奈ちゃんか」
「お久しぶりです」
「大きなったな」
玲奈はすでに二十代後半である。だが藤村の目には、父親の後ろを歩いていた少女の姿が残っているらしかった。
玲奈は登記簿の写しを差し出す。
「岡本港湾サービスは、現在も法人として存続しています」
藤村の顔から懐かしさが消えた。
「どこまで調べた」
「社名変更の履歴と、現在の事業内容までです」
藤村は周囲を見回し、玲奈を工場奥の休憩室へ入れた。
狭い室内には、古びた机と二脚の椅子があった。
藤村は長い間、口を開かなかった。
玲奈は急かさない。
沈黙も供述の一部だ。
黒川玄蔵から教えられたことだった。
「社長が事故に遭う前や」
ようやく藤村が言った。
「一人、妙な男が入ってきた。仕事はできた。愛想もよかった。せやけど、現場の人間にしては、会社の内側を知りたがりすぎた」
取引先の一覧。
倉庫の鍵。
会社印の保管場所。
経理担当者の勤務時間。
社長の行動予定。
その従業員は、黒鷹が送り込んだ工作員だった。
玲奈の両親が事故死すると、その男は混乱する会社の中心へ入り込んだ。
従業員の雇用を守る。
取引先との契約を切らせない。
会社を潰さない。
そう言って、黒鷹が用意した人間を経営陣へ迎え入れた。
「わしらも、会社を残したかった」
藤村は両手を組んだ。
「社長の会社を潰したない。そればっかり考えとった。まさか、残すこと自体が乗っ取りやとは思わんかった」
やがて帳簿にない荷が増えた。
深夜の積み替えが始まった。
荷の中身を尋ねた者は現場から外された。
藤村も会社を去った。
玲奈は淡々と尋ねた。
「現在の計画について、ご存じですか」
藤村の視線が下がる。
「あと数回や」
「密輸が、ですか」
「ああ。大きな荷をあと数回通したら、会社を清算する。幹部連中は金を持って海外へ逃げるつもりらしい」
長年利用した父の信用を、最後まで使い切る。
その後は法人ごと捨てる。
玲奈は名刺を机に置いた。
「追加の情報があれば、ご連絡ください」
藤村は名刺を見なかった。
「玲奈ちゃん」
昔と同じ呼び方だった。
「もうやめとけ」
玲奈は顔を上げる。
「あんたのお父さんも、真面目すぎた。間違っとることを見過ごせん人やった。その結果が、あの事故や」
「事故ではありません」
「……そうやな」
藤村の顔が歪んだ。
「せやから言うとる。あんたまで、お父さんみたいな事故に遭うようなことになってほしない」
玲奈は黙っている。
「あんたまで死んだら、社長も奥さんも浮かばれへん。わしも、もう一回、岡本家の葬式に立つんは嫌や」
藤村の言葉には、恐怖より後悔があった。
玲奈は立ち上がる。
「ご忠告は記憶しておきます」
「やめるとは言わんのやな」
「はい」
藤村は深く息を吐いた。
目の前の女は、父親によく似ていた。
真面目すぎて、止まるべき場所で止まれないところまで。
玲奈は一礼し、工場を出た。
その頃、大阪府内のヒロ室西日本分室には、珍しく平和な時間が流れていた。
玲奈の不在は増えていたが、メンバーは当初、県警本部との調整に追われているのだろうと考えていた。
麻衣だけは、玲奈の空席を見るたび、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
その静けさを破ったのは、赤嶺美月だった。
「みんな、ええもん持ってきたで!」
美月と三好さつきが、大きな白い箱を抱えて分室へ入ってきた。
CS放送の情報番組収録を終えた二人が、番組スタッフから差し入れとしてもらったものだった。
箱を開けた瞬間、甘く優しい香りが部屋中に広がる。
大阪で長年愛される、焼きたての丸いチーズケーキ。
表面は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。ナイフを入れると生地がふわりと沈み、口へ運べば、しゅわっとほどけて消えていく。
濃厚なのに重くない。
卵の風味とチーズの穏やかなコクが絶妙で、焼きたての温かさも、冷やした後のしっとり感も捨てがたい。
気取った高級菓子ではない。
だが、一度食べれば誰もが笑顔になる。
美月が言った。
「スタッフさんが、みんなで食べてってくれてん」
歓声が上がった。
「それ、大好きです!」
「私もです」
普段は冷静な美咲まで、わずかに声を弾ませる。
中でも彩香の反応は大きかった。
「うちの一番好きなチーズケーキやん!」
「彩香、目ぇ怖いで」
美月が箱を引き寄せる。
「うちは大きめな」
「なんでやねん。持ってきたんはうちらやぞ」
「スタッフさんにもろただけやろ。美月が焼いたみたいな顔すな」
「東大阪代表として持ち帰ったんや!」
「全国放送でもないCSの収録で何の代表や!」
美月と彩香の、極めて子供じみた争いが始まった。
二人が互いの出身地と食文化を巡って言い争う間、あかりは静かに一切れを食べ終えた。
そして、隣の皿へ手を伸ばした。
「うまいなあ……ほんま、幸せやに」
二切れ目も、あっという間だった。
ようやく美月との口論を終えた彩香が席へ戻る。
目の前には、空の皿があった。
「あれ」
彩香は皿を見る。
次に、口元を拭いているあかりを見る。
「……あかり」
「はい」
「うちの分、知らん?」
あかりは少し考えた。
「食べてしもた」
彩香の目が据わる。
「あかりぃ……」
分室の空気が震えた。
「うちが! この瞬間を! どれだけ楽しみにしとったと思うとんねん!」
「ほんまに幸せで、つい……」
「うちの幸せを食うなあああ!」
美月は腹を抱えて笑い始める。
「彩香、顔が怖すぎる! たかがチーズケーキ一個で怒っとるやん!」
「笑うな! あんたの分もよこせ!」
「絶対嫌や!」
そこで美月が、箱の中を見た。
「玲奈さんの分、残っとるやん」
全員の視線が、玲奈の空席へ向いた。
美月は悪びれずに言う。
「これ、彩香に回したらええやん」
麻衣が戸惑う。
「玲奈さんの分ですよ」
「玲奈さん、今日おらんし。彩香は今にも暴れそうやし。治安維持のためや」
彩香は真剣に頷いた。
「正しい判断や」
美咲が冷静に言う。
「本人の許可がありません」
美月は人差し指を立てる。
「この事実は、ここにおるメンバーだけの秘密や」
あかりも頷く。
「秘密にします」
彩香が睨む。
「あんたが一番黙っとかなあかんねん」
さつきは困ったように笑った。
「私まで共犯になるんですか」
「全員一致ということで決定や!」
こうして玲奈の一切れは、彩香へ再配分された。
その事実は、分室内の最高機密となった。
彩香は取り戻した幸福を噛み締め、美月はまだ笑い、あかりは三切れ目がないか箱を覗いていた。
麻衣も笑った。
だが、やがて玲奈の空席へ視線を戻した。
その頃、玲奈は神戸港を見下ろす道路脇に車を止めていた。
六甲ベイオペレーションの倉庫から、大型トラックが一台出てくる。
車体の沈み方が、申告された重量と合っていない。
玲奈はナンバーを記録した。
父の会社は、まだ生きている。
だが、その信用を食い潰し、最後の荷を運び終えれば、黒鷹は会社を殺して逃げる。
玲奈はトラックを追って車を発進させた。
分室では、彼女のチーズケーキが消えたことを、全員が必死に隠そうとしていた。
誰も知らない。
玲奈自身もまた、仲間から何かを隠し始めていることを。
麻衣の胸に残った小さな棘だけが、笑い声の向こうから近づく影を感じ取っていた。




