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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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過積載の記憶、沈黙の元老刑事 ― ブラックロード・レクイエム

丹波の空気は、年老いた肺には優しかった。


兵庫県丹波市青垣町。

山が近く、朝は霧が低く降りる。街の喧騒は遠く、窓を開ければ湿った土と木々の匂いが入ってくる。黒川玄蔵が身を置いている療養施設は、その山あいにあった。


神戸の港で泥をかぶり、夜の国道を走り、現場の血と排気ガスを吸い続けてきた元刑事には、あまりに静かすぎる場所だった。


黒川玄蔵は、もう長くなかった。


医者ははっきりとは言わない。施設の職員も、いつも通り穏やかに接してくれる。だが、本人が一番分かっている。身体の奥で、古いエンジンが止まりかけている。


黒川には、墓場まで持っていくと決めた秘密があった。


岡本玲奈の両親の死。


あれは事故ではなかった。

黒鷹一味が仕組んだ殺しだった。


玲奈の父は、神戸港の荷揚げ業者「岡本港湾サービス」を経営していた。港湾荷役の世界は、綺麗ごとだけでは回らない。人脈、利権、荒い現場、古いしがらみ。魑魅魍魎が行き交う世界である。


その中で、岡本港湾サービスは異様なほど堅い会社だった。


怪しい荷は扱わない。

裏金は受け取らない。

作業員の安全を軽んじない。

積荷の重量をごまかさない。

港の仕事に筋を通す会社だった。


だから黒鷹は近づいた。

そして、拒まれた。


黒川はその動きを追っていた。

当時、定年間際。刑事として最後の大仕事にしたいという欲があった。最後に大きなヤマを挙げ、現役を終えたい。自分では冷静なつもりだった。だが、今になれば分かる。


焦っていた。


黒鷹を追い詰めすぎた。

岡本港湾サービスを守る前に、黒鷹の神経を逆撫でした。


そして、あの日。


過積載トラックが、玲奈の両親の乗る車へ突っ込んだ。


表向きは交通事故。

積荷の偏り。

整備不良。

運転手の過労。

そういう形で処理された。


だが黒川は、現場で分かっていた。


積み方が不自然すぎる。

衝突位置が狙いすぎている。

運転手の供述が揃いすぎている。

事故の後始末が早すぎる。


あれは、消されたのだ。


岡本港湾サービスは、その後、名義を変え、黒鷹側に取り込まれていった。

会社は残った。

だが、岡本の名が守っていた芯は死んだ。


その日、まだ中学生だった岡本玲奈は、港の匂いを失った。


黒川は、玲奈が丹波篠山市の父方の祖父母の家に引き取られる場面に立ち会った。


冬の終わりだった。


丹波篠山の空は薄く、城下町の屋根には冷たい光が落ちていた。玲奈は小さな鞄をひとつ持って、祖父母の家の前に立っていた。長身で、すでに人目を引くほど整った顔立ちをしていたが、そこに子どもらしさはなかった。


泣いていない。

怒ってもいない。

ただ、表情が消えていた。


祖母が震える手で玲奈の肩を抱く。祖父は何も言えず、玄関先で深く頭を下げた。黒川はその背中を見ていた。


自分は刑事だ。

真実を追う人間だ。

そう信じてきた。


だがその日、黒川は真実を玲奈から隠した。


「事故やった」


そう言うしかなかった。


その嘘を、黒川は何十年も抱えることになる。


玲奈は丹波篠山で育った。

祖父母は優しかった。だが、年老いた二人に、中学生の玲奈の胸の底までは届かなかった。玲奈は塞ぎ込み、以前からあった冷たい影をさらに濃くした。


黒川は通った。


参考書を持っていった。

学校の話を聞いた。

祖父母の相談に乗った。

警察関係の手続きも手伝った。

時には、何も言わずに茶だけ飲んで帰った。


贖罪だった。


玲奈は最初、黒川にも心を開かなかった。

だが、黒川は踏み込まなかった。ただ、そこにいた。必要な時にいる。それだけを続けた。


やがて玲奈は、少しずつ口を開くようになった。


高校時代の玲奈は、抜群に優秀だった。

才色兼備。文武両道。手先も器用で、教師からは旧帝大も狙えると言われていた。男子からの人気はあったが、誰も近づけなかった。高嶺の花。冷たい美貌。そう見られていた。


黒川は、奨学金の斡旋まで持ちかけた。


「玲奈、大学へ行け。金のことは心配せんでええ。わしが話をつける。お前は普通の学生になったらええ」


玲奈は静かに首を振った。


「高齢の祖父母に、これ以上負担はかけられません」


「それは大人が考えることや」


「私も、もう子どもではありません」


黒川は黙った。


玲奈は続けた。


「過積載で悲惨な事故を減らしたいんです」


黒川の胸が鳴った。


「それに」


玲奈は、黒川をまっすぐ見た。


「玄蔵さんのように、被害者に寄り添える警察官になりたいと思っています」


その言葉は、褒め言葉ではなかった。

黒川にとっては、刃だった。


自分は玲奈の両親を守れなかった。

真相を隠し続けた。

玲奈を孤児にした事件の影に、自分の焦りがあった。


その自分を、玲奈は尊敬していた。


黒川は、止められなかった。


「……そうか。決めたんやな」


「はい」


「警察は、綺麗な仕事ばかりやないぞ」


「分かっています」


分かっていない。

黒川は心の中でそう思った。

分かっていないままでいてほしかった。


だが玲奈は警察官になった。


そして、優秀だった。


交通課では過積載取締で恐れられた。

国道二号線の鬼台貫。

その異名を聞いた時、黒川は誇らしさと吐き気を同時に覚えた。


玲奈は知らずに戦っている。

自分の両親を奪った手口そのものと。


その後、玲奈は警察官として経験を積み、ノンキャリアとしては異例に若く警部補へ昇進した。さらにNSTへ進み、黒鷹と直接ぶつかる立場になった。


それでも玲奈は、黒川を訪れ続けた。


警察官になってからも、何度も来た。

任務で悩んだ時。

組織の論理と現場の感情の間で迷った時。

被害者家族への向き合い方が分からなくなった時。


「玄蔵さんなら、どうしますか」


黒川は、そのたびに答えた。

老いた刑事として。

玲奈が尊敬する男として。


だが、答えるたびに、黒川の中の古傷は深くなった。


玲奈は鋭い。

勘もいい。

資料を読む目もある。

人の嘘を見抜く。

黒鷹を追えば追うほど、いつか必ず、あの事故へたどり着く。


黒川は最初、それでも墓場まで持っていくつもりだった。


玲奈に知らせて何になる。

過去は戻らない。

両親は帰らない。

玲奈の中に、また新しい穴を開けるだけだ。


そう言い聞かせてきた。


だが、ある日、封筒が届いた。


差出人はない。

中には、一枚の写真が入っていた。


古い事故現場。

歪んだ車体。

横転した過積載トラック。

散乱した積荷。


黒川の手が震えた。


写真の裏には、短く文字があった。


「娘はもう近い」


黒鷹だった。


黒川は、椅子に座ったまま長い時間動けなかった。


玲奈は、いずれ真相にたどり着く。

それは分かっていた。

だが、黒鷹の口から聞かされるのだけは、絶対にあってはならない。


自分が黙っていれば、玲奈は黒鷹の嘲りとして真実を受け取ることになる。

それは、二度目の裏切りだった。


黒川は悩んだ。


施設の窓の外には、丹波の山があった。

空気は澄んでいる。

鳥の声がした。

老いた身体には優しい場所だった。


だが、胸の奥は、まだ神戸港の夜のままだった。


数日後、黒川は施設職員に頼んだ。


「岡本玲奈に連絡してくれ」


玲奈は来た。


黒いスーツに、白いシャツ。

背筋はまっすぐ。

表情はいつもの鉄仮面。

療養施設の柔らかい空気の中にいても、玲奈だけは温度が違っていた。


部屋には、薄い夕陽が差していた。

窓の外の山が、濃い影を作っている。


黒川はベッドの上で、玲奈を見た。


「来てくれて、すまんな」


玲奈は静かに座る。


「いえ」


それだけだった。


黒川は、長い沈黙のあと、話し始めた。


神戸港のこと。

岡本港湾サービスのこと。

玲奈の父がどれほど堅い男だったか。

母が会社の事務を支え、従業員一人ひとりの名前を覚えていたこと。

黒鷹が密輸を持ちかけたこと。

父が拒否したこと。

黒川がそれを追っていたこと。

定年が迫り、焦っていたこと。


玲奈は黙って聞いていた。


黒川は、息を整えた。


「玲奈」


その名を呼ぶのに、ひどく力が要った。


「お前の両親の事故は、事故やなかった」


玲奈の表情は動かなかった。


人形のようだった。

あるいは、刃物のようだった。


黒川は続けた。


「黒鷹が仕組んだ。過積載トラックを使うて、事故に見せかけた殺しやった」


玲奈は何も言わない。


瞳も揺れない。

唇も動かない。

ただ、沈黙だけが部屋を満たした。


黒川は、その沈黙に押し潰されそうになりながら、話し続けた。


「わしは知っとった。少なくとも、事故やないと分かっとった。黒鷹が関わっとることも掴んどった」


玲奈は黙っている。


「せやのに、言わんかった。お前に言えんかった。わしが黒鷹を焦らせた。わしの捜査が、奴らに引き金を引かせた。直接殺したんは黒鷹や。けど、わしに責任がないとは言えん」


玲奈は黙っている。


不気味なほど静かだった。

怒りもない。

涙もない。

問いもない。


黒川は、自分が裁判台に立たされているように感じた。

だが、裁判官は何も言わない。

ただ見ている。


「岡本港湾サービスは、その後、乗っ取られた。名義を変え、黒鷹の物流に組み込まれた。お前の父親が守った会社を、わしは守れんかった」


玲奈は黙っている。


黒川は枕元の封筒を取った。


震える手で差し出す。


「これが、わしの残した全部や。当時の写真、捜査メモ、握り潰された報告書の写し、旧岡本港湾サービスの名義変更記録。読むかどうかは、お前が決めろ」


玲奈は封筒を受け取った。

だが、開けなかった。


黒川は目を伏せた。


「許せとは言わん。許したらあかん。わしは、お前に真実を隠した。お前から、親を奪った真相まで奪った」


部屋は静かだった。


窓の外で、風が木を揺らした。


玲奈は長いあいだ、何も言わなかった。


やがて、立ち上がる。


黒川は、責められるのを待った。

罵倒でもよかった。

恨み言でもよかった。

自分を殴ってくれてもよかった。


だが玲奈は、抑揚のない声で言った。


「両親の事故以降、私と祖父母を支えてくださったことには、感謝しています」


黒川は顔を上げた。


玲奈の表情は変わらない。


「高校時代、進路の相談に乗ってくださったこと。警察官になってからも、何度も話を聞いてくださったこと。現場で迷った時に、助言をくださったこと。それらがあったから、私は今も警察官でいられます」


声に温度はなかった。

感謝の言葉なのに、刃のように平坦だった。


黒川は、何も言えなかった。


玲奈は続ける。


「その事実は、消しません」


それだけだった。


許すとも言わない。

憎むとも言わない。

泣きもしない。

怒りもしない。


黒川にとって、それはどんな罵倒より重かった。


玲奈は一礼した。


刑事への礼か。

恩人への礼か。

罪人への別れか。

黒川には分からない。


玲奈は部屋を出た。


廊下を歩く足音は乱れなかった。

封筒を持つ手だけが、白く固まっていた。


黒川は一人残された。


夕陽は沈みかけていた。

丹波の空気は澄んでいる。

だが、黒川の胸にある神戸港の闇は消えなかった。


それでも、ようやく言えた。


墓場まで持っていくつもりだった秘密。

それを墓場へ持っていかなかったことが、贖罪になるのかどうかは分からない。


ただ、黒川玄蔵は最期の前に、もう一度だけ刑事に戻った。

真実を隠す老人ではなく、真実を証言する男として。


数日後。


NST分室。


玲奈は封筒を机に置いた。

彩香がその重さに気づく。

麻衣も、美咲も、何も言わない。


玲奈はいつもの鉄仮面で告げた。


「黒鷹の港湾ルートを洗い直す」


彩香が低く聞く。


「玲奈さん、それは……」


玲奈は答えなかった。


ただ、封筒に手を置いた。


「任務や」


声はいつも通りだった。

冷たく、静かで、乱れがない。


だが彩香には分かった。


同じではない。

何かが、玲奈の中で完全に変わった。


黒い道は、過去から現在へ続いていた。

過積載の記憶は、沈黙の元老刑事の口から、ようやく白日の下へ出た。


そして岡本玲奈は、何も言わずに、その道を歩き始めた。

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