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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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359/386

白鍵の街、消えた調律師 ― ピアノ・シャドウコード

白い鍵盤には、嘘が乗る。


兵庫県尼崎市。

その名だけを聞けば、工業地帯、下町、商店街、鉄の匂いを思い浮かべる者も多い。だが、北側へ入ると、尼崎は別の顔を見せる。


塚口から武庫之荘へ続く沿線の街は、どこか穏やかだった。駅前には生活に根づいた商店やカフェがあり、少し歩けば落ち着いた住宅街が広がる。並木の影、昔ながらの医院、個人経営の音楽教室、洒落た洋菓子店、小さなホール。大阪にも神戸にも近い利便性を持ちながら、街には急ぎすぎない呼吸がある。


派手ではない。

しかし、文化の匂いがする。


そんな街の一角に、会員制の音楽サロンがあった。


表向きは、富裕層や音楽愛好家が集う小さなピアノ演奏会。

実態は、黒鷹一味の連絡拠点だった。


黒鷹は調律師に成りすました工作員を使い、サロンのグランドピアノに細工をしていた。特定の鍵だけを、わずかに狂わせる。常人には分からないほどのズレ。だが、その音の並びが、隠しサーバーの認証コードになっていた。


さらに、演奏会の記念品として配られるハーモニカ。

その中に、小型記録媒体が仕込まれている。


音楽を愛する場所で、音が犯罪の暗号に変えられようとしていた。


玲奈は資料を閉じた。


「音を使うか」


彩香が眉を寄せる。


「調律のズレを暗号にするって、えらい回りくどいですね」


「回りくどいから見つかりにくい」


「誰を入れます?」


玲奈はいつもの鉄仮面の無表情で言った。


「美音や」


河合美音。

静岡県浜松市出身。

その勇猛果敢さから、通称、遠州の勇者。


大型自動二輪免許を持ち、船舶免許も持つ。機械、物流、設備、乗り物。どれを任せても外さない。NSTの中でも異常な対応範囲を持つ、ほとんど反則のような人材だった。


だが、今回の武器はそれだけではない。


河合というファミリーネームが示すように、美音は浜松の大手楽器メーカー創業家の遠縁にあたる。幼い頃から音楽に親しみ、絶対音感を持っていた。ピアノとハーモニカの腕は、プロ級と言っていい。


彩香は腕を組んだ。


「美音なら、一発で分かりますね」


玲奈は頷かない。

ただ、短く言う。


「分かるし、押さえる」


それが答えだった。


美音は、急病で来られなくなったピアノ講師の代役として、音楽サロンへ潜入した。


黒いジャケット。

白いブラウス。

細身のパンツ。

そして、トレードマークのバイオレットカラーのショートカット。


入口で軽く会釈した時、紫がかった髪がふわりと揺れた。派手すぎず、しかし目を引く。音楽サロンの柔らかな照明の中で、その色は妙に似合っていた。


支配人が少し不安そうに言う。


「急なお願いで申し訳ありません。本日のミニコンサート、よろしくお願いします」


美音は涼しげに微笑んだ。


「問題ありません。譜面は確認済みです」


客席には、上品な服装の中高年、音楽愛好家らしい夫婦、若いピアノ教師らしき女性。黒鷹の工作員も、その中に紛れていた。


美音はグランドピアノの前に座る。


指を置く。

一音だけ鳴らす。


その瞬間、彼女の目がわずかに細くなった。


「……変ですね」


支配人が聞き返す。


「何か?」


美音はもう二音鳴らした。


ド。

ファ♯。

ラ。


普通の客には、ただの確認音にしか聞こえない。

だが、美音には違った。


「このピアノ、三つの鍵だけ意図的に狂わせています」


支配人の顔がこわばる。


「古い楽器ですから、多少は……」


「経年劣化ではありません。狂わせ方が均一すぎます」


美音は、何事もないように演奏を始めた。

ショパン風の静かな曲。

客席の空気が和らぐ。


だが、美音は演奏しながら、すでに暗号を解いていた。


狂った三音。

音程差。

鍵盤番号。

演奏順。

それが、サロン奥に隠された端末のロックコードを示している。


遠隔で見ていた彩香が低く言う。


「もう分かったんか」


麻衣が画面を見つめる。


「まだ、演奏を始めたばかりなのに……」


玲奈は無表情のままだった。


「美音やからな」


演奏が終わると、拍手が起きた。


美音は涼しげに立ち上がり、記念品として置かれていたハーモニカを手に取る。


「こちら、本日の記念品ですか?」


支配人が頷く。


「ええ。特別に作ったものです」


美音は軽く息を入れた。


短い音が鳴る。

だが、一つだけリードの返りが鈍い。


美音はすぐに分かった。


「一本、鳴り方を殺していますね」


近くにいた男が反応した。


ほんの一瞬。

だが、美音は見逃さない。


「中に何かあります」


男が動いた。


記念ハーモニカを持ったまま、サロン裏口へ向かう。

同時に、別の男が地下倉庫へ降りようとする。

三人目は、駅方面へ抜ける通りへ逃げようとしていた。


本来なら、ここで彩香、麻衣、美咲が動く。

だが、この日は違った。


美音が一人で動いた。


まず、客席へ向かって穏やかに言う。


「少し調律確認を続けます。皆さまはそのままお待ちください」


不安を与えない。

騒がせない。

現場を崩さない。


それから、美音はピアノの上に置いた小型レコーダーを操作し、狂った三音の録音データを保存した。片手で証拠を押さえ、もう片手で端末へ信号を送る。


「玲奈さん。暗号音、保存しました。記念ハーモニカに記録媒体。地下倉庫にサーバー。三名動きます」


玲奈は無表情で短く言う。


「任せる」


「はい」


美音はサロン裏口へ向かった。


裏口から逃げた男は、塚口の駅前方向ではなく、住宅街の細い道へ入った。大通りを避け、人目の少ない場所へ抜けるつもりだった。


美音は追わない。


一度、表へ出る。

駐輪場に置いていた大型自動二輪へ向かう。


バイオレットカラーのショートカットが風になびいた。


エンジンをかける音は低い。

乱暴ではない。

だが、速い。


男が角を曲がった先で、美音はすでに待っていた。


「逃げ道、間違えましたね」


男は足を止める。


美音は涼しい顔だった。


「そのハーモニカ、返してください」


男が強引に抜けようとする。

美音は半歩だけ横へ動き、腕を取る。派手な格闘ではない。最短で崩す。相手の重心を外し、壁際へ押さえる。


「一人目、確保」


その声を聞き、彩香が思わず呟いた。


「もうかい」


地下倉庫へ向かった二人目は、サーバーのデータを消去しようとしていた。


しかし、美音はそれも読んでいた。


サロンへ戻ると、迷わず配電盤を開ける。機械系統に強い彼女は、サーバーへ直接触れるより早く、電源とバックアップラインを切り替えた。


「消去信号を遮断。サーバー保全」


男が背後から飛びかかろうとする。


美音は振り返りもしない。

足音だけで距離を読んでいた。


体をずらし、男の腕を取る。

そのまま床へ崩す。


「二人目、確保」


三人目は、調律師に成りすました工作員だった。

彼は楽譜ケースに隠した予備端末を持ち、武庫之荘方面へ抜けようとしていた。


美音は窓の外を見る。


「次の合流地点、分かりました」


彩香が聞く。


「何で分かるんですか」


「狂わせた鍵盤の順が、移動順にもなっています。塚口から武庫之荘方面。二つ目の小ホールです」


麻衣が小さく息をのむ。


「音で、移動先まで……」


美音は淡々と返す。


「暗号に使うなら、音は嘘をつけません」


大型二輪で先回りする。


塚口から武庫之荘へ続く落ち着いた住宅街。並木の影、カフェの看板、音楽教室の前に置かれた発表会のポスター。美音はその道を読み、男より先に小ホール裏へ到着した。


男が現れる。


美音はバイクを降り、ヘルメットを外す。

バイオレットカラーのショートカットが、また風になびいた。


「三人目です」


男が後ずさる。


「何者だ」


美音は涼しげに答える。


「ただの代役講師です」


そして、一歩で距離を詰めた。


三人目も、抵抗する間もなく押さえられる。

予備端末、記録媒体、暗号化された支援者リスト。すべて確保。


県警が到着した時には、もう終わっていた。


玲奈から無線が入る。


「美音、状況は」


美音は落ち着いて答える。


「三名確保。記録媒体回収。サーバー保全。来客への被害なし。演奏会も成立。証拠音源も保存済みです」


沈黙があった。


玲奈はいつもの鉄仮面の無表情のまま、短く言った。


「完了や」


美音は少しだけ肩をすくめた。


「こんなの朝飯前です」


その声は、涼しげだった。


任務後、分室。


モニターの前で、NSTの面々は妙な空気になっていた。


麻衣がぽつりと言う。


「私たち、なにかしました?」


彩香は寂しげに答える。


「見物していただけや」


美咲も控えめに頷く。


「観光客誘導も、追跡も、証拠保全も、犯人確保も……全部、美音さんが」


彩香が机に肘をつく。


「おかしいやろ。ピアノ弾いて、ハーモニカ見抜いて、バイクで先回りして、サーバー止めて、犯人三人押さえて、客には拍手されて。何なんや、あの遠州の勇者」


麻衣が苦笑する。


「でも、すごく綺麗でした。演奏も、動きも」


「そこも腹立つねん。完璧すぎるわ」


玲奈は報告書を見ていた。


表情は動かない。

いつもの鉄仮面。

無表情のまま、淡々とページをめくる。


彩香がじっと見る。


「玲奈さん、ちょっとは驚いてます?」


玲奈は顔を上げない。


「想定内や」


「想定内で一人に全部やらせるんですか」


「できるから任せた」


「こっち、出番なしですけど」


玲奈はようやく顔を上げた。

無表情のままだった。


「美音を起用する判断も、任務や」


彩香は少し黙り、それから小さく笑った。


「便利な言い方ですね」


その時、通信画面に美音が映った。


バイオレットカラーのショートカットを軽く指で整えながら、涼しい顔をしている。


「報告書、あとで送ります。サロンの方から、次回の演奏会もお願いされました」


彩香が目を閉じる。


「潜入先からスカウトまでされとる……」


麻衣が微笑む。


「美音さんらしいですね」


美音はさらりと言った。


「音楽も、追跡も、機械も、基本は同じです。狂いを見つけて、整えるだけです」


分室に沈黙が落ちた。


彩香がぼそりと言う。


「その発言まで完璧なん、もう反則やろ」


玲奈は報告書に目を戻した。


やはり表情は動かない。

鉄仮面のまま。


だが、ほんの一瞬だけ、場の空気が柔らかくなった。


塚口から武庫之荘へ続く街には、また静かな夜が戻っていた。

音楽教室の灯りが消え、住宅街に風が抜ける。小さなホールでは、誰かが明日の発表会に向けて鍵盤をなぞっている。


誰も知らない。

白鍵の街で、黒鷹の暗号が消えたことを。


嘘は音に乗った。

だが、遠州の勇者・河合美音の耳からは逃げられなかった。

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