白鍵の街、消えた調律師 ― ピアノ・シャドウコード
白い鍵盤には、嘘が乗る。
兵庫県尼崎市。
その名だけを聞けば、工業地帯、下町、商店街、鉄の匂いを思い浮かべる者も多い。だが、北側へ入ると、尼崎は別の顔を見せる。
塚口から武庫之荘へ続く沿線の街は、どこか穏やかだった。駅前には生活に根づいた商店やカフェがあり、少し歩けば落ち着いた住宅街が広がる。並木の影、昔ながらの医院、個人経営の音楽教室、洒落た洋菓子店、小さなホール。大阪にも神戸にも近い利便性を持ちながら、街には急ぎすぎない呼吸がある。
派手ではない。
しかし、文化の匂いがする。
そんな街の一角に、会員制の音楽サロンがあった。
表向きは、富裕層や音楽愛好家が集う小さなピアノ演奏会。
実態は、黒鷹一味の連絡拠点だった。
黒鷹は調律師に成りすました工作員を使い、サロンのグランドピアノに細工をしていた。特定の鍵だけを、わずかに狂わせる。常人には分からないほどのズレ。だが、その音の並びが、隠しサーバーの認証コードになっていた。
さらに、演奏会の記念品として配られるハーモニカ。
その中に、小型記録媒体が仕込まれている。
音楽を愛する場所で、音が犯罪の暗号に変えられようとしていた。
玲奈は資料を閉じた。
「音を使うか」
彩香が眉を寄せる。
「調律のズレを暗号にするって、えらい回りくどいですね」
「回りくどいから見つかりにくい」
「誰を入れます?」
玲奈はいつもの鉄仮面の無表情で言った。
「美音や」
河合美音。
静岡県浜松市出身。
その勇猛果敢さから、通称、遠州の勇者。
大型自動二輪免許を持ち、船舶免許も持つ。機械、物流、設備、乗り物。どれを任せても外さない。NSTの中でも異常な対応範囲を持つ、ほとんど反則のような人材だった。
だが、今回の武器はそれだけではない。
河合というファミリーネームが示すように、美音は浜松の大手楽器メーカー創業家の遠縁にあたる。幼い頃から音楽に親しみ、絶対音感を持っていた。ピアノとハーモニカの腕は、プロ級と言っていい。
彩香は腕を組んだ。
「美音なら、一発で分かりますね」
玲奈は頷かない。
ただ、短く言う。
「分かるし、押さえる」
それが答えだった。
美音は、急病で来られなくなったピアノ講師の代役として、音楽サロンへ潜入した。
黒いジャケット。
白いブラウス。
細身のパンツ。
そして、トレードマークのバイオレットカラーのショートカット。
入口で軽く会釈した時、紫がかった髪がふわりと揺れた。派手すぎず、しかし目を引く。音楽サロンの柔らかな照明の中で、その色は妙に似合っていた。
支配人が少し不安そうに言う。
「急なお願いで申し訳ありません。本日のミニコンサート、よろしくお願いします」
美音は涼しげに微笑んだ。
「問題ありません。譜面は確認済みです」
客席には、上品な服装の中高年、音楽愛好家らしい夫婦、若いピアノ教師らしき女性。黒鷹の工作員も、その中に紛れていた。
美音はグランドピアノの前に座る。
指を置く。
一音だけ鳴らす。
その瞬間、彼女の目がわずかに細くなった。
「……変ですね」
支配人が聞き返す。
「何か?」
美音はもう二音鳴らした。
ド。
ファ♯。
ラ。
普通の客には、ただの確認音にしか聞こえない。
だが、美音には違った。
「このピアノ、三つの鍵だけ意図的に狂わせています」
支配人の顔がこわばる。
「古い楽器ですから、多少は……」
「経年劣化ではありません。狂わせ方が均一すぎます」
美音は、何事もないように演奏を始めた。
ショパン風の静かな曲。
客席の空気が和らぐ。
だが、美音は演奏しながら、すでに暗号を解いていた。
狂った三音。
音程差。
鍵盤番号。
演奏順。
それが、サロン奥に隠された端末のロックコードを示している。
遠隔で見ていた彩香が低く言う。
「もう分かったんか」
麻衣が画面を見つめる。
「まだ、演奏を始めたばかりなのに……」
玲奈は無表情のままだった。
「美音やからな」
演奏が終わると、拍手が起きた。
美音は涼しげに立ち上がり、記念品として置かれていたハーモニカを手に取る。
「こちら、本日の記念品ですか?」
支配人が頷く。
「ええ。特別に作ったものです」
美音は軽く息を入れた。
短い音が鳴る。
だが、一つだけリードの返りが鈍い。
美音はすぐに分かった。
「一本、鳴り方を殺していますね」
近くにいた男が反応した。
ほんの一瞬。
だが、美音は見逃さない。
「中に何かあります」
男が動いた。
記念ハーモニカを持ったまま、サロン裏口へ向かう。
同時に、別の男が地下倉庫へ降りようとする。
三人目は、駅方面へ抜ける通りへ逃げようとしていた。
本来なら、ここで彩香、麻衣、美咲が動く。
だが、この日は違った。
美音が一人で動いた。
まず、客席へ向かって穏やかに言う。
「少し調律確認を続けます。皆さまはそのままお待ちください」
不安を与えない。
騒がせない。
現場を崩さない。
それから、美音はピアノの上に置いた小型レコーダーを操作し、狂った三音の録音データを保存した。片手で証拠を押さえ、もう片手で端末へ信号を送る。
「玲奈さん。暗号音、保存しました。記念ハーモニカに記録媒体。地下倉庫にサーバー。三名動きます」
玲奈は無表情で短く言う。
「任せる」
「はい」
美音はサロン裏口へ向かった。
裏口から逃げた男は、塚口の駅前方向ではなく、住宅街の細い道へ入った。大通りを避け、人目の少ない場所へ抜けるつもりだった。
美音は追わない。
一度、表へ出る。
駐輪場に置いていた大型自動二輪へ向かう。
バイオレットカラーのショートカットが風になびいた。
エンジンをかける音は低い。
乱暴ではない。
だが、速い。
男が角を曲がった先で、美音はすでに待っていた。
「逃げ道、間違えましたね」
男は足を止める。
美音は涼しい顔だった。
「そのハーモニカ、返してください」
男が強引に抜けようとする。
美音は半歩だけ横へ動き、腕を取る。派手な格闘ではない。最短で崩す。相手の重心を外し、壁際へ押さえる。
「一人目、確保」
その声を聞き、彩香が思わず呟いた。
「もうかい」
地下倉庫へ向かった二人目は、サーバーのデータを消去しようとしていた。
しかし、美音はそれも読んでいた。
サロンへ戻ると、迷わず配電盤を開ける。機械系統に強い彼女は、サーバーへ直接触れるより早く、電源とバックアップラインを切り替えた。
「消去信号を遮断。サーバー保全」
男が背後から飛びかかろうとする。
美音は振り返りもしない。
足音だけで距離を読んでいた。
体をずらし、男の腕を取る。
そのまま床へ崩す。
「二人目、確保」
三人目は、調律師に成りすました工作員だった。
彼は楽譜ケースに隠した予備端末を持ち、武庫之荘方面へ抜けようとしていた。
美音は窓の外を見る。
「次の合流地点、分かりました」
彩香が聞く。
「何で分かるんですか」
「狂わせた鍵盤の順が、移動順にもなっています。塚口から武庫之荘方面。二つ目の小ホールです」
麻衣が小さく息をのむ。
「音で、移動先まで……」
美音は淡々と返す。
「暗号に使うなら、音は嘘をつけません」
大型二輪で先回りする。
塚口から武庫之荘へ続く落ち着いた住宅街。並木の影、カフェの看板、音楽教室の前に置かれた発表会のポスター。美音はその道を読み、男より先に小ホール裏へ到着した。
男が現れる。
美音はバイクを降り、ヘルメットを外す。
バイオレットカラーのショートカットが、また風になびいた。
「三人目です」
男が後ずさる。
「何者だ」
美音は涼しげに答える。
「ただの代役講師です」
そして、一歩で距離を詰めた。
三人目も、抵抗する間もなく押さえられる。
予備端末、記録媒体、暗号化された支援者リスト。すべて確保。
県警が到着した時には、もう終わっていた。
玲奈から無線が入る。
「美音、状況は」
美音は落ち着いて答える。
「三名確保。記録媒体回収。サーバー保全。来客への被害なし。演奏会も成立。証拠音源も保存済みです」
沈黙があった。
玲奈はいつもの鉄仮面の無表情のまま、短く言った。
「完了や」
美音は少しだけ肩をすくめた。
「こんなの朝飯前です」
その声は、涼しげだった。
任務後、分室。
モニターの前で、NSTの面々は妙な空気になっていた。
麻衣がぽつりと言う。
「私たち、なにかしました?」
彩香は寂しげに答える。
「見物していただけや」
美咲も控えめに頷く。
「観光客誘導も、追跡も、証拠保全も、犯人確保も……全部、美音さんが」
彩香が机に肘をつく。
「おかしいやろ。ピアノ弾いて、ハーモニカ見抜いて、バイクで先回りして、サーバー止めて、犯人三人押さえて、客には拍手されて。何なんや、あの遠州の勇者」
麻衣が苦笑する。
「でも、すごく綺麗でした。演奏も、動きも」
「そこも腹立つねん。完璧すぎるわ」
玲奈は報告書を見ていた。
表情は動かない。
いつもの鉄仮面。
無表情のまま、淡々とページをめくる。
彩香がじっと見る。
「玲奈さん、ちょっとは驚いてます?」
玲奈は顔を上げない。
「想定内や」
「想定内で一人に全部やらせるんですか」
「できるから任せた」
「こっち、出番なしですけど」
玲奈はようやく顔を上げた。
無表情のままだった。
「美音を起用する判断も、任務や」
彩香は少し黙り、それから小さく笑った。
「便利な言い方ですね」
その時、通信画面に美音が映った。
バイオレットカラーのショートカットを軽く指で整えながら、涼しい顔をしている。
「報告書、あとで送ります。サロンの方から、次回の演奏会もお願いされました」
彩香が目を閉じる。
「潜入先からスカウトまでされとる……」
麻衣が微笑む。
「美音さんらしいですね」
美音はさらりと言った。
「音楽も、追跡も、機械も、基本は同じです。狂いを見つけて、整えるだけです」
分室に沈黙が落ちた。
彩香がぼそりと言う。
「その発言まで完璧なん、もう反則やろ」
玲奈は報告書に目を戻した。
やはり表情は動かない。
鉄仮面のまま。
だが、ほんの一瞬だけ、場の空気が柔らかくなった。
塚口から武庫之荘へ続く街には、また静かな夜が戻っていた。
音楽教室の灯りが消え、住宅街に風が抜ける。小さなホールでは、誰かが明日の発表会に向けて鍵盤をなぞっている。
誰も知らない。
白鍵の街で、黒鷹の暗号が消えたことを。
嘘は音に乗った。
だが、遠州の勇者・河合美音の耳からは逃げられなかった。




