海峡を渡る青いペダル ― アワイチ・シャドウライド
海峡の風は、嘘を押し流す。
淡路島。
兵庫県の南に浮かぶその島は、海と空の境目が近い。
北には明石海峡大橋。
橋の白い主塔が空を切り、神戸と淡路を一本の線で結ぶ。
東海岸には、瀬戸内の海を横目に走る道が続く。
洲本には城下町の名残と温泉街の気配があり、南へ下れば玉ねぎ畑、漁港、うずしおへ向かう潮の匂いが濃くなる。
淡路島は、車で走れば美しい。
だが、自転車で走れば、もっと正直になる。
風の向き。
坂の重さ。
海沿いの光。
ペダルに返ってくる路面の感触。
島を一周するサイクリングルート、通称アワイチ。
淡路市、洲本市、南あわじ市を結ぶその道は、観光の顔を持ちながら、脚力と集中力を試す長い輪だった。
その道に、黒鷹一味が紛れ込んだ。
NSTに入った情報は、淡路島一周サイクリングイベントを利用した暗号通信だった。
ゼッケン番号。
補給所の通過時刻。
サイクルコンピューターのGPSログ。
淡路市、洲本市、南あわじ市の各ポイントを、決められた順に、決められた時刻で通過する。
それが、黒鷹残党の隠し口座を起動させる認証コードになる。
表向きは、海を眺める観光サイクリング。
裏では、黒鷹の資金移動と連絡網再起動が走っている。
分室のモニターに、サイクリングイベントのルートが表示されていた。
彩香が腕を組む。
「走る任務ですね。こういうのは、あかり向きです」
玲奈も頷いた。
「本来なら、あかりを入れる」
だが、山本あかりは不在だった。
ヒロ室東海、まだ正式名称も仮の地方活動に呼ばれている。四日市出身の突貫娘は、そちらでイベント警備とステージ補助を兼ねた任務に入っていた。
彩香は舌打ちを飲み込む。
「あかりがおらんのは痛いですね。体力もあるし、現場で無理が利く」
玲奈は静かに言った。
「代わりがおる」
「誰です?」
「大西結月」
その名前に、彩香はすぐ反応した。
元女子競輪選手。
現在は岸和田でスポーツインストラクターとして活動する女性。
NSTの正式メンバーではない。だが、玲奈が“代打の切り札”として全幅の信頼を寄せている人物だった。
彩香は少しだけ考え、それから頷いた。
「結月さんなら、文句ありません。自転車任務なら、むしろ本職です」
玲奈の目がわずかに細くなる。
「そういうことや」
結月への連絡は短かった。
「淡路島。自転車を使う任務や」
玲奈が言うと、電話の向こうで結月は即答した。
「行けます」
「準備は」
「いつでも」
現在、結月は岸和田でスポーツインストラクターとして活動している。選手ではなくなった。だが、身体を緩ませたことは一度もなかった。
朝のローラー。
筋力トレーニング。
心肺機能の維持。
食事管理。
フォーム確認。
人を指導する立場になったからこそ、自分自身を整え続けている。
「呼ばれた時に動けないなら、元プロとは言えません」
結月はそう言った。
玲奈は短く返す。
「頼む」
「任せてください」
その言葉に、過剰な熱はない。
だが、重さがあった。
淡路島の朝は青かった。
明石海峡大橋の向こうから、淡い光が海へ落ちている。サイクリングイベントの参加者たちが、ヘルメットをかぶり、ゼッケンを確認し、タイヤの空気圧を見ている。
結月は一般参加のサイクリストとして潜入した。
ロードバイク。
ヘルメット。
サングラス。
淡い色のサイクルジャージ。
見た目は、ただの参加者だった。
だが、立ち姿が違った。
無駄がない。
自転車を押す手の位置、ペダルへ足を乗せる角度、視線の配り方。どこにも力みがないのに、いつでも踏める。
結月は最初から本気を出さなかった。
速すぎれば目立つ。
遅すぎれば追えない。
黒鷹の偽装ライダーが油断する位置。
風を受けすぎず、相手の脚が見える場所。
そこに、結月は自然に入った。
「前に出すぎません。後ろに下がりすぎません。相手の呼吸と脚を見ます」
無線越しの声は、落ち着いていた。
黒鷹の偽装ライダーは三人。
一人はゼッケン番号で通信する役。
一人はサイクルコンピューターにGPSログを残す記録役。
一人は補給所で受け渡しを行う連絡役。
NSTの当初計画は、洲本手前の補給ポイントで三人の通過記録を確認し、南あわじ方面へ抜ける前に押さえることだった。
玲奈は全体を見ている。
彩香は補給所周辺の導線を監視する。
麻衣と美咲は観光客の誘導役として、コース脇に入っていた。
順調だった。
少なくとも、赤嶺美月が現れるまでは。
美月はプライベートで、大学の友人たちと淡路島へ遊びに来ていた。
「淡路島、めっちゃ気持ちええやん! 海きれいやし、風も最高やし、サイクリングって青春やな!」
明るいツインテールが、潮風の中で揺れる。
美月はレンタサイクルを借りていた。
本格的なロードバイクではない。観光用の軽い自転車だ。本人はコースの邪魔にならないよう気をつけているつもりだった。
だが、はっきり言って邪魔だった。
コース脇をチョロチョロ走る。
海を見て止まる。
友人に手を振る。
写真を撮る。
また走る。
しかも、美月は妙に有名だった。
明るいツインテール。
小柄で目立つ。
戦隊ヒロインとして、微妙に顔が知られている。
「あれ、美月ちゃんやない?」
「ほんまや!」
「写真いいですか?」
あっという間に人だかりができた。
美月は人がいい。
断れない。
「ええで! でも自転車の邪魔にならんように、端寄ってな!」
本人は気を使っている。
しかし、そのファンサービスこそが、NSTの計画を狂わせた。
補給ポイントへ入る導線が、人だかりで詰まった。
黒鷹の記録役が予定時刻に通過できない。
連絡役が補給所へ入れない。
GPSログの時刻がズレる。
彩香は監視車両の中で、額を押さえた。
「あのアホツインテール……またや。淡路島まで来て邪魔しよった」
麻衣が横で静かに言う。
「でも、美月さんは何も知らないんです。悪気はありません」
彩香はモニターを睨んだまま、かなり物騒なことを言った。
「あのアホツインテール、ロケットランチャーで吹き飛ばしてやりたいわ」
麻衣が即座に言う。
「それは言い過ぎです」
「言い過ぎやけど、気持ちはそれくらいや」
「言ってはいけない気持ちです」
「分かっとるわ!」
玲奈は冷静だった。
「計画変更」
彩香はすぐに顔を戻す。
「補給所で押さえる予定、崩れました」
「結月に任せる」
「同意します。ここからリカバリーできるのは、結月さんです」
彩香の声に迷いはなかった。
結月はすでに、黒鷹の乱れを読んでいた。
偽装ライダーたちは、人だかりを避けて予定外の海沿いの脇道へ流れようとしている。距離は短いが、横風が強く、道幅が狭い。焦った者ほど脚を使う道だった。
結月は無線に入る。
「黒鷹は焦っています。脚を使う場所を間違えました」
玲奈が問う。
「追えるか」
「追うだけなら誰でもできます」
結月は前を見た。
「逃げ道を消します」
そこからの結月は、別人だった。
いや、ようやく本来の姿に戻ったと言うべきかもしれない。
結月は一気に踏まない。
風を見る。
海沿いの向かい風。
脇道に入る前の緩い上り。
偽装ライダーの肩の揺れ。
ペダルの回転。
ギアの選択。
呼吸の深さ。
競輪は、ただ速く走る競技ではない。
位置を取る。
風を読む。
相手の脚を削る。
逃げる者の心理を見抜く。
勝負所まで、踏みすぎない。
黒鷹の偽装ライダーが加速した。
だが、焦りが脚を削る。
海風が前から押し返す。
予定外のルートで、補給のタイミングも狂っている。
結月は後方から静かに上がった。
一人目を抜く。
まだ踏まない。
二人目の背後につく。
相手が振り返る。
そこでラインを変える。
「そこでは逃げられません」
声は聞こえない。
だが、相手には分かった。
南あわじ方面へ向かう手前の緩い上り。
潮風が強くなる場所。
黒鷹のライダーが、ほんの一瞬失速した。
結月はそこで踏んだ。
無駄のないフォーム。
ぶれない上半身。
滑るように回るペダル。
一瞬で距離が詰まる。
「競輪は、前を見る競技じゃありません。相手の逃げ道を見る競技です」
結月は相手の前へ出た。
危険な接触はしない。
急に止めることもしない。
ただ、相手が自然に減速せざるを得ないラインを作る。
逃げ場が消える。
偽装ライダーは、足を止めた。
その瞬間、玲奈が県警へ指示を飛ばす。
「今や」
県警車両が先回りする。
連絡役を確保。
GPSログを持つ記録役も押さえられる。
ゼッケン番号、補給所通過記録、サイクルコンピューター内の暗号ログ。すべて回収された。
黒鷹の暗号通信は、淡路島を一周できなかった。
表向きには、サイクリングイベントは何事もなく続いた。
海沿いの道を参加者が走り、観光客は青い海を眺める。
そして美月は、まだファンサービスを続けていた。
「淡路島、ほんま最高やな! また来たいわ!」
彩香はモニター越しにうめいた。
「こっちは二度と来んでほしいわ……」
任務後。
夕方の淡路島に、柔らかい光が落ちていた。
海は少し赤くなり、明石海峡大橋の影が遠くに伸びている。
玲奈は結月に歩み寄った。
「助かった」
結月はヘルメットを外し、静かに答える。
「代打ですから。呼ばれたら走ります」
「代打以上や」
玲奈は短く言った。
「次も頼む」
結月は小さく頷く。
「いつでも」
その一言に、プロの重みがあった。
元競輪選手。
現在はスポーツインストラクター。
しかし、勝負の匂いを忘れてはいない。
彩香も近づき、珍しく素直に言った。
「結月さんで正解でした。あれは、あかりやと突っ込んで終わってました」
結月は少しだけ笑った。
「それも強さです。でも、今日は風を使う日でした」
彩香は頷く。
「納得です」
だが、納得できないものが一つだけ残っていた。
赤嶺美月である。
彩香の怒りは、まだ収まっていなかった。
「あのアホツインテール、もう堪忍ならん!」
麻衣が苦笑する。
「まだ怒っているんですね」
「怒るに決まっとるやろ! あいつ一人で補給所の導線めちゃくちゃにしよったんやぞ!」
美咲が静かに言う。
「でも、結果的には黒鷹の予定も崩れました」
彩香はさらに怒る。
「そこが一番腹立つんや! 邪魔しとるのに役に立つな!」
あかりが不在のため、美咲が首を傾げる役を担う。
「それって、怒る理由として成立していますか?」
「成立しとる!」
彩香は意味不明な罰を思いついた。
「あのアホツインテール、淡路島一周、補助輪付きママチャリで走らせたる!」
美咲は少し考えてから言った。
「それって意味あります?」
彩香は即答しなかった。
怒りがさらに膨らんだらしい。
「淡路島一周では足らん。二周や」
美咲は真面目に聞く。
「意味は増えましたか?」
彩香は叫んだ。
「増えてへんわ!」
麻衣が口元を押さえ、結月も少しだけ笑った。
玲奈は報告書を見るふりをしていた。
だが、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。
淡路島の海には、夕日が沈み始めていた。
青いペダルは、海峡を越えなかった。
黒鷹の暗号は、潮風の中で砕けた。
その道を止めたのは、代打の切り札。
大西結月。
玲奈が信じ、彩香も認めた元女子競輪選手の脚だった。




