皿そば十枚、偽りの家老屋敷 ― サラ・シャドウカウン
出石の町には、時間が丸く積もっている。
兵庫県豊岡市出石町。
但馬の小京都と呼ばれるその城下町は、派手な観光地ではない。だが、歩けば分かる。辰鼓楼の古い時計台、白壁の町並み、出石城跡へ続く石段、武家屋敷の静かな佇まい。どれも声高に自慢しない。ただ、長い年月を背負ってそこにある。
石畳を踏む足音。
暖簾を揺らす風。
そば店の前に並ぶ観光客。
小皿が重なる軽い音。
出石皿そばは、この町の誇りだった。
小皿に少しずつ盛られたそばを、つゆ、卵、とろろ、ねぎ、わさびで味を変えながら食べる。十枚、十五枚、二十枚。皿の数を重ねる楽しみが、城下町の空気に馴染んでいる。
だが、黒鷹一味はその“皿の数”に目をつけていた。
西日本特別諜報班NSTに入った情報は、出石の老舗そば店と家老屋敷周辺を使った資金認証ルートの存在だった。
現金は動かない。
封筒も渡さない。
暗号は、皿そばの枚数だった。
十枚で止める。
十五枚を頼んで一枚残す。
卵だけを使わない。
薬味の皿を右へ寄せる。
伝票番号と店を巡る順番を合わせる。
最後に家老屋敷の展示室へ向かい、偽の古文書パネルに隠された記録媒体を回収する。
観光客には、ただの皿そば巡りにしか見えない。
だが黒鷹にとっては、隠し口座の認証番号だった。
今回の主人公は、白浜麻衣。
麻衣は老舗そば店の接客スタッフとして潜入した。
小柄で、柔らかく、よく気がつく。白い割烹着姿で客席を回り、皿を下げ、薬味を補充し、観光客へ食べ方を説明する。
「まずはつゆだけで。そのあと、卵やとろろで味を変えてみてください」
声は穏やかだった。
動きは軽かった。
忙しい店内でも、麻衣はぶつからない。皿を持つ手は静かで、客の表情を見る目は優しい。
店主はすぐに感心した。
「麻衣ちゃん、初日とは思えへんなぁ。うちで働かへんか?」
麻衣は困ったように微笑む。
「ありがとうございます。でも、今日はお手伝いだけです」
その微笑みの裏で、麻衣はすべてを見ていた。
三番卓。
男二人。
皿十枚で止めた。
卵を使わない。
伝票を折り曲げた。
薬味皿を右へ二センチ。
麻衣は小声で無線を入れる。
「三番卓、合図の可能性があります。皿十枚、卵未使用、薬味皿右寄せです」
観光案内所では、迫田澄香が潜入していた。
城下町マップを配り、辰鼓楼、出石城跡、家老屋敷、そば店の場所を案内する。知的で落ち着いた雰囲気は、まるで本職の観光案内員だった。
澄香の任務は、人の流れを記憶すること。
誰がどの店に入り、何分滞在し、どの道を通り、どの展示施設へ向かうか。観光客の流れに紛れた黒鷹の影を、澄香は静かに拾っていた。
そして、山本あかりは客として潜入していた。
そこまでは良かった。
だが、問題は皿そばが美味すぎたことである。
「うまっ……」
あかりは真剣な顔でそばをすすっていた。
最初は自然に客へ紛れるためだった。
しかし五枚、十枚、十五枚と皿が重なるうちに、任務よりそばへの集中力が上がっていく。
麻衣が皿を運びながら、そっと小声で言った。
「あかりちゃん、任務忘れないで」
あかりはつゆの器を持ったまま頷く。
「大丈夫だよ。ちゃんと見てる」
「今、そばしか見てないよ」
「そば越しに見てる」
「それ、見てないよ」
「大丈夫。私、やる時はやるから」
そう言いながら、あかりは追加を頼みかけていた。
麻衣は少し困った顔で、厨房へ戻った。
その時だった。
出石城下町の静かな空気を破るように、店の外が騒がしくなる。
CS旅番組、**『仲良し戦隊ヒロインの湯けむりごほうび旅・但馬の城下町寄り道編』**のロケ隊が到着したのだ。
前回の湯村温泉編が好評だったらしい。今回は出石へ寄り道し、城下町と皿そばを紹介するという企画だった。
出演者は三人。
長い黒髪の清楚な長身女性、三好さつき。
明るいツインテールの小柄な女性、赤嶺美月。
そして、巻き髪の山田真央。
当然、三人ともNSTの任務のことなど何も知らない。
さつきが辰鼓楼前で明るくレポートする。
「今回は『仲良し戦隊ヒロインの湯けむりごほうび旅・但馬の城下町寄り道編』! 出石城下町の歴史と名物皿そばを、仲良し三人で楽しみます!」
監視していた彩香は、遠隔で頭を抱えた。
「またあいつらや……湯けむり旅やのに、とうとう城下町まで来よった」
あかりが店内から小声で言う。
「寄り道編です」
「説明せんでええ。そば食え。いや食うな。任務せえ」
「忙しいですね」
「誰のせいや」
三人がそば店へ入ってくると、店内は一気にざわついた。
美月は皿そばを見て目を輝かせる。
「うわ、ちっちゃい皿いっぱい来るんや! これ絶対、枚数勝負になるやつやん!」
真央が即座に言う。
「美月さん、勝負する前にまず静かにしやぁ。そばより声が先に伸びとるがね」
「何でやねん!」
さつきはカメラに向かってにこやかに話す。
「出石皿そばは、小皿に盛られたそばを何枚も楽しむ名物です。薬味を変えながら味わえるのも魅力ですね」
そのロケに気づき、店内の客がざわつく。
人の流れが変わる。
席の配置が乱れる。
店員の動きも変わる。
黒鷹にとっては、最悪だった。
工作員たちは、本来なら皿数暗号を静かに成立させ、決められた順番で家老屋敷へ向かう予定だった。ところがロケ隊の登場で、店内の視線が増えすぎた。
さらに悪いことに、真央が工作員へ目をつけた。
もちろん、真央は何も知らない。
だが、知らないからこそ遠慮がない。
真央は突撃レポーターのように、三番卓の男二人へぐいっと近づいた。
「お兄さんら、どっから来たん?」
男たちは固まった。
「……大阪です」
真央は目を細める。
「大阪? ほんとに? なんか大阪っぽくないがね。どのへん? 北? 南? それとも“だいたい大阪”って言う時の大阪?」
「いや、その……市内です」
「市内って広いがね。大阪市内だけで逃げ切ろうとしとる感じ、ちょっと怪しいでかんわ」
男の一人が水を飲む。
真央は止まらない。
「ところでお兄さん、皿の数、さっきから見すぎだがね。そば食べに来たん? それとも皿を数えに来たん? 出石皿そばの皿カウント職人か何か?」
美月が横から顔を出す。
「皿カウント職人って何なん?」
真央は無視して続ける。
「しかも卵使っとらんがね。出石皿そばで卵使わんの? 使わん派? アレルギー? それとも卵を右に置く宗派?」
男の顔が引きつる。
「別に……」
「別にって言う人ほど別にじゃないでかんわ。あと、薬味の皿、なんでそんな几帳面に右へ寄せとるん? 普通そんなに寄せんがね。右寄せ派? 左利き? 暗号?」
最後の一言に、男の肩が微かに跳ねた。
真央はそこを見逃さない。
「今、反応したがね! え、何? 暗号なん? 皿そば暗号? 何それ、ちょっと面白そうだが!」
男は完全にタジタジだった。
「違います」
「違うなら違うで、そんな顔せんでもええがね。今の顔、完全に“それ言ったらいかんやつ言われた”顔だったでかんわ」
美月が笑う。
「真央ちゃん、攻めすぎやろ!」
「だって気になるがね。お兄さん、皿十枚で止めたのに全然満足そうじゃないんだわ。普通は“もうちょっといけるかな”とか“腹八分目やな”とか顔に出るんやけど、この人ら、皿見て段取り確認しとる顔だが」
工作員は汗をかく。
真央はマイクも持っていないのに、完全に突撃レポーターだった。
「はい、質問です。お兄さんら、出石初めて? 辰鼓楼は見た? 家老屋敷行く? 何で今、家老屋敷って言ったらまた顔変わったん? ねえ、何で? なんでそんな分かりやすいん?」
男が立ち上がろうとする。
真央がさらに詰める。
「あ、逃げるん? そば残っとるよ? 食べ物残して逃げるのはよくないがね。美月さん、こういう時どう思う?」
美月は真面目に頷く。
「そばは最後まで食べなあかんな」
「ほら、美月さんでも分かることだがね」
「“でも”って何や!」
黒鷹の工作員は、完全に予定を崩された。
監視していた彩香は、低く唸った。
「巻き髪……ウザい。めちゃくちゃウザい。せやけど、急所だけは確実に踏んどる」
玲奈は静かに言う。
「黒鷹が崩れた。使う」
真央の尾張弁突撃で、工作員たちは予定より早く席を立った。皿数暗号は中途半端になり、家老屋敷へ向かう順番も乱れた。
麻衣はそれを見逃さない。
「対象、移動します。家老屋敷方面へ向かいます」
澄香も観光案内所から即座に報告する。
「二名が辰鼓楼側へ。もう一名は裏路地から先回り。家老屋敷の展示室へ向かう可能性があります」
玲奈が指示を出す。
「麻衣、追え。あかり、支援。澄香、導線を読め」
「了解です」
麻衣は厨房側から店を出た。
城下町の路地は細い。
白壁、古い塀、暖簾、観光客、石畳。
大きく走れば目立つ。だから麻衣は走らない。
舞うように追う。
小柄な体を活かし、観光客の間をすり抜ける。暖簾の影を抜け、路地の角を滑るように曲がり、黒鷹の背後へ迫る。
工作員は家老屋敷へ向かう。
そこには、偽の古文書パネルに見せかけた記録媒体がある。皿そば暗号と伝票番号を組み合わせることで、隠し口座の認証コードが完成する仕組みだった。
あかりも追おうとした。
しかし、立ち上がるのが一瞬遅れた。
食べ過ぎだった。
「うっ……ちょっと入れすぎた」
麻衣が小声で呼ぶ。
「あかりちゃん!」
「大丈夫! リカバリーする!」
あかりは一拍遅れて動いた。
だが、そこからは速い。
四日市の突貫娘。
皿そば十五枚分の重さを抱えながらも、走り出せば強い。店先の隙間を抜け、観光客にぶつからないよう体をずらし、裏道へ回り込む。
澄香は城下町マップを見ながら、冷静に導線を読む。
「対象は辰鼓楼前には出ません。観光客が多すぎます。裏手の細道へ逃げるはずです」
玲奈が短く返す。
「彩香、県警を家老屋敷裏へ」
「了解」
麻衣は路地を舞うように追う。
黒鷹が曲がる。
その先に、あかりが立っていた。
「はい、そこまでです」
男が強引に突破しようとする。
あかりは正面から受け止めた。
食べ過ぎの遅れは、ここで取り返す。腕を押さえ、体を止め、壁際へ追い込む。
「さっきは遅れましたけど、今は大丈夫です」
男は動けない。
もう一人は家老屋敷へ逃げ込もうとする。
しかし、そこには澄香が先回りしていた。
観光案内所スタッフの顔のまま、落ち着いて告げる。
「本日の展示室奥は、関係者以外立入禁止です」
男が反転する。
そこへ麻衣が追いついた。
「逃げないでください」
声は優しい。
だが、足元は逃がさない。
最後は玲奈が県警と連携し、家老屋敷裏手で工作員を確保した。偽古文書パネルに隠された記録媒体、皿そばの伝票番号表、隠し口座の認証コード。すべて押さえられた。
任務完了。
表向きには、出石城下町は何も変わらない。
観光客は皿そばを食べ、辰鼓楼を撮影し、家老屋敷を見学する。
ロケ隊も最後まで何も知らない。
さつきは笑顔でカメラに向かう。
「出石城下町の歴史と名物皿そばを満喫しました。湯けむりごほうび旅、次回もお楽しみに!」
美月は皿を数えている。
「ウチ、結局何枚食べたんやろ?」
真央が呆れる。
「喋っとる枚数の方が多いんちゃう?」
「そんなん数えんでええねん!」
任務後、分室。
玲奈が報告書を確認する横で、彩香はあかりに向き直った。
「あかり」
「はい」
「客として潜入するんはええ。自然に紛れるのもええ」
「はい」
彩香は目を細める。
「せやけど、客として入り込み過ぎや」
あかりは視線を逸らす。
「ちゃんと任務はしました」
「初動遅れとったやろ」
「でも、リカバリーしました」
「そば十五枚食うてからリカバリーするな」
「おいしかったんです」
「感想は聞いてへん」
麻衣が小さく笑い、澄香も静かに微笑んだ。
彩香はさらに続ける。
「それと、巻き髪。あれは何や。ウザいのに役に立つ。めちゃくちゃ腹立つ」
あかりが笑う。
「真央さん、ほぼ尋問でしたね」
「あれはレポートやない。尾張弁の強制事情聴取や」
玲奈は書類を見るふりをしていた。
だが、その口元がわずかに緩んでいた。
出石の町には、また静かな時間が戻った。
辰鼓楼は時を刻み、白壁の路地を観光客が歩き、そば店には小皿の音が響く。
誰も知らない。
その皿の数に紛れて、黒鷹の資金暗号が潰されたことを。
皿そば十枚。
偽りの家老屋敷。
そして、食べ過ぎた突貫娘と、ウザすぎる巻き髪。
NSTの任務記録には、また一つ、少し締まらない勝利が加わった。




