荒湯の煙、消えた湯治客 ― スチーム・シャドウパス
湯けむりは、嘘を白く隠す。
兵庫県美方郡新温泉町・湯村温泉。
但馬の山あいに抱かれたその温泉街は、派手な看板で人を呼ぶ町ではない。深い山の気配、日本海側の湿った風、川沿いに続く旅館の灯り、そして町の真ん中で絶えず白い蒸気を上げる荒湯。
湯村の湯は、暮らしの中にある。
観光客は荒湯で温泉卵を作り、地元の人は足湯のそばで世間話をする。浴衣姿の湯治客が下駄を鳴らし、湯けむりが街灯に溶ける。夜になると、温泉街は少しだけ寂しく、少しだけ色っぽくなる。
静かな町だった。
だからこそ、影が紛れやすい。
黒鷹一味は、その静けさを選んだ。
県北部の協力者と再接続するため、彼らは湯治客に紛れて湯村温泉へ入り込んでいた。使われるのは、銃でも札束でもない。旅館の宿帳、湯治券、温泉卵用の網袋についた番号札。そして荒湯の蒸気。
端末は、一定温度の蒸気を一定時間浴びなければ開かない。熱認証。荒湯の高温の湯けむりを利用した、妙に土地勘のある仕掛けだった。
端末の中には、但馬から山陰方面へ抜ける黒鷹残党の連絡ルートが入っている。
それを押さえれば、黒鷹の逃げ道を一つ潰せる。
今回の主人公は、春日美咲だった。
奈良公園の鹿のように大人しく、従順で、目立たない。だが、目立たないことは弱さではない。美咲は温泉旅館の帳場補助として潜入した。
紺色の作務衣。
控えめな声。
丁寧な会釈。
宿帳を預かり、鍵を渡し、湯治客へ外湯の案内をする。
女将はすぐに美咲を気に入った。
「春日さん、ほんま気ぃつく子やねぇ。帳場、初めてとは思えへんわ」
美咲は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます。できることだけ、きちんとします」
その“きちんと”が、美咲の強さだった。
宿帳の筆跡。
浴衣の帯の結び方。
下駄の底の擦れ。
外湯へ出る時間。
部屋へ戻る時の足音。
美咲は何もかも見ていた。
騒がず、疑わず、ただ記憶する。
一方、河合美音はボイラー点検業者として旅館の裏側へ入った。温泉配管、加温設備、ボイラー室、給湯管理盤。機械に強い美音にとって、旅館の裏はもう一つの地図だった。
「源泉側の配管に、後付けのセンサーがあります」
美音の声が無線に入る。
「熱認証用の補助装置かもしれません。端末本体は荒湯側、もしくは足湯裏へ持ち出す想定ですね」
玲奈は短く返した。
「分かった。美咲、宿帳を見ろ」
「はい」
そして今回、玲奈自身も現地へ入っていた。
湯治客として。
淡い色の浴衣に、落ち着いた羽織。髪をいつもより少し柔らかくまとめ、旅館の廊下を静かに歩く玲奈は、普段の鉄仮面の指揮官とは違って見えた。温泉街の灯りが頬に落ち、湯けむりが輪郭を曖昧にする。
妙に色っぽい。
だが、近づけば冷たい。
彩香は無線越しにぼそりと言った。
「玲奈さん、浴衣姿やと迫力の方向性が変わりますね」
玲奈は間を置かずに返す。
「任務に関係ない」
あかりが我慢できずに続けた。
「でも、旅館の人、玲奈さん見たら湯治どころじゃなくなりそうです」
「黙っとき」
「はい」
彩香が低く笑う。
「今のであかりの口も熱認証停止やな」
「何ですかそれ!」
任務は、静かに進むはずだった。
だが、湯村温泉には予定外の三人組がいた。
長い黒髪の清楚な長身女性、三好さつき。
明るいツインテールの小柄な女性、赤嶺美月。
巻き髪の女性、山田真央。
三人はCS旅番組の新企画で湯村温泉を訪れていた。
番組名は、『仲良し戦隊ヒロインの湯けむりごほうび旅』。
もちろん、三人ともNSTの任務のことなど何も知らない。
完全に旅ロケである。
荒湯の前で、さつきがいつもの明るい声を響かせる。
「今回は新企画、『仲良し戦隊ヒロインの湯けむりごほうび旅』! 湯けむり情緒あふれる湯村温泉からお届けします!」
監視していた彩香は頭を抱えた。
「またあいつらや……今度は巻き髪まで居る。厄災が増えた」
あかりが横から言う。
「でも、いるものは仕方ないですよ」
彩香は深く息を吐いた。
「せや。居るモンはしゃーない。腹くくるしかない」
そこへ、さつきのマイクが番組名をもう一度きれいに拾った。
「仲良し戦隊ヒロインの湯けむりごほうび旅、まずは荒湯で温泉たまご作りです!」
彩香の眉が跳ねた。
「……ちょっと待て。“仲良し戦隊ヒロインの湯けむりごほうび旅”ってなんやねん」
あかりが呆れる。
「彩香さん、今そこですか?」
「そこもや。極秘任務中に何や、そのゆるい番組名は」
「番組名に罪はないです」
「罪はないけど腹立つねん。湯けむりごほうびって、こっちは黒鷹の後始末やぞ」
「テレビ番組に八つ当たりしないでください」
「やかましい」
荒湯の周辺では、美月と真央が温泉たまご作りを始めていた。
美月は網袋に卵を入れながら、必要以上に元気だった。
「これ何分や? 半熟? 固ゆで? ウチ、絶対ええ感じに仕上げたいねん!」
真央が巻き髪を揺らしながら返す。
「美月さん、卵より声が先に茹だっとるがね。ちょっと静かにしやぁ」
「何でやねん! 温泉たまごやで? テンション上がるやろ!」
「上がりすぎだがね。湯村の湯けむりより美月さんの声の方が立ちのぼっとるわ」
「うまいこと言わんでええねん!」
観光客が笑った。
子どもが足を止める。
年配の夫婦が微笑む。
さつきがすぐにマイクを向ける。
「美月さん、初めての荒湯温泉たまご、いかがですか?」
「めっちゃ楽しいです! でも真央ちゃんがうるさい言うねん!」
「実際うるさいでかんわ」
真央が即座に返し、周囲がさらに笑う。
人だかりができた。
それが黒鷹の計画を大きく狂わせた。
黒鷹は、人の少ない時間を狙い、荒湯の一角で端末を蒸気に当てる予定だった。網袋の番号札で端末の起動コードを確認し、宿帳の偽名と湯治券番号を照合し、熱認証を完了させる。
だが、荒湯の前は旅番組ロケと美月・真央の騒ぎで完全に塞がれた。
黒鷹の偽湯治客たちは近づけない。
計画は狂った。
焦った彼らは、足湯裏の人目の少ない蒸気口へ移動しようとした。
その乱れを、美咲は見逃さなかった。
帳場で宿帳を見ていた美咲は、ある宿泊客の記載に違和感を覚えていた。字が古風に崩されすぎている。湯治客らしい名を書いているのに、宿帳の筆圧が固い。下駄の底は濡れておらず、浴衣の帯は旅館の仲居が結ぶ形ではなかった。
さらに、温泉卵用の網袋番号が不自然だった。
「七番、十三番、二十一番……」
美咲は小さく呟く。
観光客なら気にしない数字。
だが、それは宿帳の部屋番号、湯治券番号、端末起動コードと対応していた。
美咲は無線を入れる。
「玲奈さん。偽湯治客、動きました。荒湯ではなく、川沿いの足湯裏へ向かっています。端末を持っています」
玲奈の声が返る。
「位置は」
「荒湯から下流側、石橋の手前です。二名。もう一人、路地で待機しています」
「分かった」
湯治客姿の玲奈が、ゆっくりと立ち上がる。
温泉街の夜は白かった。
湯けむりが街灯をぼかし、川の音が低く流れる。浴衣姿の玲奈は、その中を静かに歩いた。下駄の音は小さい。だが、確実に近づいてくる。
川沿いの足湯裏で、黒鷹の男たちは端末を取り出していた。
一人が蒸気口へ端末をかざす。
もう一人が番号札を確認する。
「荒湯が使えなかった。ここでやる」
「温度が足りるのか」
「補助装置を使う」
その時、背後から声がした。
「湯治客にしては、湯に浸からんのやな」
男たちが振り返る。
湯けむりの中に、玲奈が立っていた。
浴衣の袖が風に揺れる。
温泉街の灯りを受けた横顔は、妙に艶があった。だが、その目は冷たい。
「湯治に来たんやない。あんたらを見に来た」
男の一人が逃げようとする。
だが、路地の奥には美音がいた。ボイラー点検業者の作業着姿で、端末の補助装置を片手に持っている。
「熱認証用の外部センサー、切っておきました。もうその端末は温まりません」
もう一人が反対側へ走る。
そこには美咲が立っていた。
旅館の帳場補助のまま、静かな顔で。
「お客様、そちらは通れません」
声は柔らかい。
しかし、逃げ道はなかった。
玲奈が一歩詰める。
「宿帳、湯治券、網袋番号、端末。全部揃った。終わりや」
男が端末を投げ捨てようとする。
玲奈は腕を取った。
動きは派手ではない。
だが、無駄がない。
一瞬で男の体勢が崩れ、石畳に膝をつく。もう一人は美音に進路を塞がれ、美咲の通報で駆けつけた県警の協力部隊に押さえられた。
荒湯の煙に紛れた黒鷹の県北ルートは、湯村温泉の静けさの中で消えた。
一方、荒湯前の三人は、最後まで何も知らない。
美月は温泉たまごを手にしていた。
「できた! ウチの温泉たまご、完璧ちゃう?」
真央がのぞき込む。
「ちょっと固すぎるがね」
「うそやん! 何分が正解やったん?」
「美月さんの場合、喋っとる時間も加算されるんちゃう?」
「それズルいやろ!」
さつきは清楚にカメラへ向き直る。
「湯けむりと人の温かさに包まれる湯村温泉。皆さんもぜひ、仲良し旅で訪れてみてください」
彩香は無線越しにうめいた。
「仲良し旅ちゃう。こっちは黒鷹旅や」
任務後。
NSTの拠点に戻った美咲は、宿帳の写しと端末解析記録を机に置いた。美音は熱認証装置の構造を説明し、玲奈は浴衣姿からいつもの姿へ戻っていた。
報告は簡潔だった。
黒鷹の端末を押収。
県北部ルートの一部を特定。
偽湯治客三名を県警へ引き渡し。
旅館、温泉街、観光客への被害なし。
完了。
だが、彩香の機嫌はよくなかった。
「あのアホツインテール、堪忍ならん。巻き髪もや」
あかりが楽しそうに聞く。
「今度は何するんですか?」
彩香は真顔だった。
「あいつら二人、荒湯の前で温泉たまご百個分の網袋持たせて、一個ずつ湯加減を報告させたる」
「百個ですか」
「せや。『これは半熟です』『これは固ゆでです』『これはアホツインテールゆでです』『これは巻き髪蒸しすぎです』ってな」
あかりが首を傾げる。
「それって意味あります?」
彩香は即答した。
「ないわボケェ」
分室に笑いが広がった。
麻衣は口元を押さえ、美咲も小さく笑った。美音は真面目な顔で、
「アホツインテールゆでの温度条件が不明です」
と呟き、あかりがさらに笑った。
玲奈は書類を見るふりをしていた。
だが、その口元はわずかに緩んでいた。
湯村温泉には、いつもの湯けむりが戻った。
荒湯では観光客が温泉卵を作り、旅館街には浴衣の足音が響く。
誰も知らない。
その白い煙の向こうで、黒鷹の影が一つ消えたことを。
静かな温泉街は、今日も何事もなかったように湯を沸かし続ける。
湯けむりは、嘘を隠す。
だが、春日美咲の目からは逃げられない。




