銀の針、消えた処方箋 ― メディカル・シャドウライン
神戸には、海と異国情緒だけではない。
旧居留地の石畳、北野の坂、南京町の灯り、六甲山の夜景。
それらが神戸の華やかな顔だとすれば、中央区・ポートアイランドに広がる医療産業都市は、もう一つの冷たい横顔だった。
白い研究棟。
硝子張りのオフィス。
静かに出入りする白衣の研究者。
病院、研究施設、製薬関連企業、大学機関、先端医療センター。
港町の潮の匂いの先に、命を救うための科学が積み上げられている。観光地の熱とは違う。そこにあるのは、整然とした道路、無機質な廊下、カード認証の電子音、そして未来へ向かう静かな緊張感だった。
神戸医療産業都市。
それは、兵庫が誇る先端医療の集積地であり、命を守るための知性が集まる場所だった。
だが、命を守る場所ほど、命を金に換えようとする者に狙われる。
西日本特別諜報班NSTに入った情報は、処方箋データの偽装だった。
黒鷹一味は、特殊薬剤そのものを直接盗み出すのではない。
治験番号、処方箋記録、患者コード、研究協力機関の承認ログを組み替え、合法的に薬剤が出たように見せかける。
薬を盗むのではなく、薬が正しく処方されたという“事実”を偽造する。
玲奈は資料を見て、低く言った。
「命を扱う場所で、命を金に変えとる」
彩香が眉を寄せる。
「医療データの偽装は厄介ですね。見た目が整ってたら、現場では通ってしまう」
美咲も静かに頷く。
「数字も、書類も、形が綺麗なら疑われにくいです」
今回は珍しく、玲奈自身が潜入することになった。
普段の玲奈は、分室の中枢で全体を動かす指揮官だった。冷静で、無駄がなく、現場に出る時も最後の一手を打つために姿を見せる。
だが今回は違う。
相手は医療財団、研究機関、行政関係者、製薬企業にまたがっている。現場で書類を読み、違和感を拾い、即座に判断できる者が必要だった。
ただし、大きな問題があった。
岡本玲奈の顔は、県内ではそれなりに知られている。
元県警交通課出身。
NSTの中心人物。
裏社会の情報網にも、その名は流れている。
そのまま入れば、見る者が見ればすぐに警戒される。
だから玲奈は変装した。
黒髪を普段よりきっちりとまとめる。
細い銀縁の眼鏡。
柔らかいグレーのスーツ。
鋭さを少し消すメイク。
低く短い命令口調を封じ、外部監査担当らしい丁寧で事務的な話し方に変える。
分室でその姿を見たあかりが、目を丸くした。
「玲奈さん、めっちゃ美人の監査員さんみたいです」
彩香が呆れる。
「元々美人やろ」
あかりは真剣な顔で続ける。
「いや、いつもの玲奈さんは“美人だけど近づいたら叱られそう”なんですけど、今日は“美人だけど書類の不備で心を折られそう”です」
玲奈は無表情であかりを見た。
「褒めとるんか」
「褒めてます」
「ほな、黙っとき」
「はい」
麻衣が口元を押さえ、美咲も小さく肩を揺らした。
彩香はため息をつく。
「変装しても目ぇ怖いのはそのままですね」
玲奈は眼鏡を直した。
「そこまでは変えられへん」
玲奈は医療財団の外部監査担当として研究棟へ入った。
麻衣は受付補助。
美咲は医療事務補助。
あかりは搬入口の臨時警備補助。
彩香は外部の監視車両から全体導線を押さえる。
白い廊下に、玲奈のヒールの音が小さく響く。
監査室で、玲奈は治験番号と処方箋記録を照合していった。
書類は綺麗だった。
綺麗すぎるほどに。
承認印、日付、投与記録、薬剤ロット番号、患者識別コード。すべてが整っている。だが、整いすぎていた。
玲奈は資料をめくる手を止める。
「美咲」
「はい」
「この患者コード、別の研究棟にも出とる。同じ時間帯や」
美咲が端末で確認する。
「同一人物が、同じ時間に二つの検査を受けたことになっています」
麻衣も受付記録を照合する。
「来館記録には、その方の名前がありません」
玲奈は小さく頷いた。
「架空患者やな」
黒鷹は、実在する治験制度の隙間に、存在しない患者データを滑り込ませていた。そこから処方箋を偽造し、薬剤や関連物資を県内の協力者へ流す仕組みだった。
玲奈の目が冷たくなる。
「ようできとる。けど、できすぎや」
その時、研究棟のロビーがざわついた。
神戸放送の取材班が到着したのだ。
先頭に立っていたのは、長身で長い黒髪の清楚な女性。
三好さつき。
彼女は明るい声でカメラに向かっていた。
「今日は、神戸が誇る最先端医療の現場からお伝えします! こちら医療産業都市では、未来の医療を支えるさまざまな研究が行われています。普段なかなか見ることのできない施設の一部を、特別にご紹介します!」
監視車両の中で、彩香が額を押さえた。
「また来たんか、さつき……」
さつきは何も知らない。
黒鷹のことも、玲奈の潜入も、偽造処方箋も知らない。
ただ、神戸放送の情報番組の取材で、医療産業都市の特集を撮りに来ただけだった。
だが、その取材が黒鷹の計画を狂わせる。
黒鷹側は、本来なら取材対応で人の流れが薄くなる裏導線を使い、処方箋データ入りの端末を搬入口から外へ出す予定だった。ところが、さつきの取材班がロビー、説明ブース、研究紹介パネル、廊下の角、薬剤保管棟へ続く通路付近にまでカメラを向ける。
黒鷹の協力者は動けない。
予定していた導線が使えない。
代替ルートへ変えるしかない。
彩香が苦々しく呟く。
「邪魔やのに、また役に立っとる……」
玲奈は監査室で、その動線変更を見抜いた。
「動いた」
美咲が端末を確認する。
「搬入口ではなく、薬剤保管棟側へ記録が移っています」
麻衣も受付から報告する。
「白衣の男性二人が、取材班を避けるように別棟へ移動しました」
玲奈は低く言う。
「さつきが炙り出した」
彩香が無線で返す。
「本人は未来医療のレポートしとるだけですけどね」
玲奈は立ち上がった。
「追う」
変装した玲奈は、監査担当者の顔で別棟へ向かう。
白い廊下の空気が、少しずつ冷えていく。表の研究棟には人の気配があった。だが薬剤保管棟に入ると、音が変わる。カード認証の電子音。空調。遠くの機械音。人の少ない場所特有の、乾いた静けさ。
黒鷹の協力者二人が、端末を持って保管室へ入ろうとしていた。
玲奈は声をかけた。
「監査です。そちらの移動記録を確認させてください」
男たちは一瞬だけ固まる。
「今は対応できません」
玲奈は眼鏡の奥から相手を見る。
「では、後ほどではなく、今ここで」
声は丁寧だった。
だが、逃げ道はない。
男の一人が無線機へ手を伸ばす。
その瞬間、玲奈の目が変わった。
どれほど変装しても隠しきれない、岡本玲奈の目だった。
「それ以上動くな」
男たちは悟る。
この女は監査員ではない。
片方が端末を持って走る。
玲奈は追わない。
「彩香」
「了解」
搬入口側で待っていたのは、あかりだった。
「止まってください!」
男は強引に突破しようとする。
あかりは正面から受けた。
四日市の突貫娘らしい踏み込みで、相手の進路を潰す。男の肩が揺れ、端末が落ちかける。あかりはそれを足で止め、男の腕を押さえ込んだ。
もう一人は階段側へ逃げる。
そこには彩香がいた。
「そっちは出口やない。行き止まりや」
播州の烈火。
彩香は短く踏み込み、男の腕を取った。体を半回転させ、壁際へ押さえ込む。大きな音は立てない。だが、制圧は一瞬だった。
麻衣はロビー側で来訪者を自然に誘導する。
「こちら、取材のため少し混み合っております。別ルートをご案内します」
美咲は医療事務補助として通行記録を確保していた。
「玲奈さん、端末の持ち出し記録、偽装されています。でも実ログが残っています」
玲奈は端末を受け取った。
そこには、偽造処方箋データ、架空患者コード、治験番号の改ざん記録、薬剤ロット番号の移動先が入っていた。
黒鷹の医療ルートは断たれた。
その頃、ロビーではさつきが明るく締めていた。
「命を守る研究の最前線。神戸の未来を感じる取材でした!」
彩香が無線でぼやく。
「命を守る取材の裏で、命を食い物にする連中が捕まっとるんやけどな」
あかりが笑いをこらえる。
「さつきさん、今回も何も知らないんですよね」
「知らんからタチ悪いねん」
任務後、県警へ身柄と証拠が引き渡された。
表向きには、研究棟の業務も、神戸放送の取材も、何事もなく終わった。
玲奈は分室へ戻り、眼鏡を外す。
髪をほどくと、いつもの玲奈に戻った。
あかりがまた余計なことを言う。
「玲奈さん、今日の変装、ちょっともったいなかったですね。あのまま医療ドラマ出られそうでした」
玲奈は無表情で返す。
「次言うたら、あんたを患者役にする」
「何の患者ですか?」
彩香が横から言う。
「口が軽い病や」
麻衣が笑い、美咲も小さく頷いた。
玲奈は窓の外を見た。
ポートアイランドの白い研究棟が、夕方の光を受けている。
そこでは今日も、誰かを救うための研究が続いている。
玲奈は低く言った。
「命を救う場所で、命を売るな」
その言葉に、誰も茶々を入れなかった。
神戸医療産業都市の静かな白い街並みの中で、黒鷹の処方箋偽装ルートは消えた。
そして珍しく自ら影へ潜った玲奈は、再び指揮官の顔に戻る。
今回も、さつきは最後まで何も知らない。
だが、その明るい取材が、黒鷹の導線を狂わせ、任務を好転させた。
彩香は最後にため息交じりに呟いた。
「ほんま、さつきは邪魔なんか味方なんか分からん……」
玲奈の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
白い研究棟の灯りが、夜のポートアイランドに浮かび始めていた。
銀の針は、もう黒鷹の手にはない。




