消えた杜氏、偽りの酒蔵 ― サケ・シャドウブリュー
灘五郷の朝は、酒の匂いがする。
神戸市の沿岸部から西宮市へかけて広がるこの一帯は、日本酒の国そのものだった。六甲山系から流れ出る水、海風、冬の冷え込み、そして長い年月をかけて磨かれてきた職人の勘。白壁の酒蔵、黒い瓦、積み上げられた酒樽、観光客を迎える資料館。そこには、港町神戸の華やかさとは違う、静かな誇りがあった。
だが、その誇りの中に黒い影が入り込んでいた。
県警から西日本分室へ届いた情報は、奇妙なものだった。
灘五郷の複数の酒蔵で、杜氏や蔵人が短期間に不自然な配置転換を受けている。表向きは人事異動。体調不良。家庭の事情。事件としては扱いにくい。だが、その直後から、海外向け限定酒の出荷記録に不可解なズレが出始めた。
玲奈は資料を閉じた。
「酒を隠れ蓑にしとるな」
彩香が端末を覗き込む。
「黒鷹ですか」
「可能性は高い」
黒鷹は、空港から撤退しても消えたわけではない。リコールされた元県知事の私兵として、県内のあちこちに影を落としている。今度は酒蔵。灘の名を利用して、海外への通信と資金移動を仕込もうとしているらしい。
今回、前へ出るのは白浜麻衣だった。
紀州の舞姫。
小柄で童顔、穏やかで親切。だが任務を重ねるごとに、判断力と胆力を身につけてきた。今回のような人の出入りが多い観光型施設では、彼女の柔らかさが武器になる。
玲奈は短く言った。
「麻衣、酒蔵スタッフとして入れ」
「はい」
彩香は念を押す。
「無理すんな。怪しい思うても一人で追うな。報告優先や」
麻衣は頷いた。
「分かってます」
その返事は、以前よりずっと頼もしかった。
麻衣は灘五郷の一角にある老舗酒蔵へ入った。白いブラウスに、酒蔵スタッフ用の紺の法被。髪をきちんとまとめ、名札をつけると、もう昔からそこにいたように見えた。
潜入は、あまりにも自然だった。
「こちらが見学受付です」
「足元にお気をつけください」
「試飲は少量ずつお願いします。お車の方はご遠慮くださいね」
麻衣の声は柔らかい。観光客にも高齢者にも外国人にも、目線を合わせて説明する。難しい酒造りの工程も、相手が分かる言葉に置き換える。
「お米を磨いて、麹をつくって、酵母を育てて、ゆっくり発酵させるんです。急がせたらいいお酒になりません」
その説明に、観光客が頷く。
「分かりやすいなあ」
「感じのええ子やね」
「またこの人に案内してほしいわ」
酒蔵の責任者まで感心し始めた。
「白浜さん、ほんまに臨時ですか?」
「はい」
「いや、せめて繁忙期だけでもアルバイトで来てもらえません? 見学対応がものすごく助かります」
麻衣は困ったように笑う。
「お気持ちは嬉しいです」
その様子を離れた場所から見ていた彩香は、無線で呟いた。
「何しに行っとんねん。普通にスカウトされとるやん」
玲奈は淡々と返す。
「向いてるんやろ」
「向きすぎですわ」
だが、平穏は長く続かなかった。
酒蔵にテレビクルーが入ってきた。
長身。長い黒髪。清楚な雰囲気。カメラの前に立つと、自然に場が華やぐ。
神戸放送の情報番組レポーター、三好さつきだった。
「今日は灘五郷の酒造りを取材します。伝統の現場にお邪魔しています!」
彩香は監視画面を見て、頭を抱えた。
「また来たんか、さつき……」
さつきは何も知らない。もちろん任務のことも、黒鷹のことも知らない。ただ灘の酒造りを真面目に紹介しようとしているだけだった。
しかし、彼女は動く。
発酵タンクを見に行く。貯蔵庫を覗く。瓶詰工程に近づく。資料館で杜氏の話を聞き、売店で限定酒を紹介し、カメラマンと音声スタッフを連れて蔵の中を歩き回る。
黒鷹にとって、それは最悪だった。
本来、黒鷹の工作員は人目の少ない時間に、輸出用の酒瓶へ特殊ラベルを貼り替える予定だった。だが、さつきがいる。カメラがある。照明がある。観光客も集まる。
工作員は動けない。
彩香は呆れたように言う。
「今回は邪魔が味方しとるな」
玲奈は短く返す。
「使える騒ぎは使え」
麻衣は、その混乱の中で違和感を拾った。
輸出用限定酒の棚。瓶は整然と並んでいる。だが、一本だけラベルの位置がわずかに違う。印字のかすれも不自然だった。
麻衣はそれを手に取る。
「玲奈さん」
「何や」
「このラベル、他の瓶と違います」
彩香の声が入る。
「具体的には?」
「貼り方が少しだけ浅いです。それと、出荷番号の末尾だけ字体が違います」
梓はいない。あおいも美音も結月もいない。今回は現場の観察がすべてだった。麻衣は焦らず、瓶を元の位置へ戻し、何食わぬ顔で案内に戻る。
その後、裏で確認されたラベルには、特殊インクによる暗号が仕込まれていた。
輸出用の酒瓶に紛れ込ませ、海外の協力者へ情報を送る。
灘の信用を盾にした、卑劣な通信手段だった。
麻衣の表情が変わる。
「伝統あるお酒を、こんなことに使うんは嫌です」
声は静かだった。だが、怒っていた。
黒鷹の工作員は、さつきの取材が長引いたことで焦った。予定が狂い、瓶の持ち出しを強行する。
男が酒蔵の裏手へ向かう。
麻衣は報告する。
「対象、動きました」
玲奈が言う。
「追え。ただし客を巻き込むな」
「はい」
麻衣は走った。
ただの走りではない。狭い酒蔵の通路、積まれた酒樽、見学客、濡れた床。そのすべてを避けるように、麻衣の体が滑る。
紀州の舞姫。
その異名通り、彼女の足運びは舞のようだった。
男が振り返る。麻衣は正面からぶつからない。半歩横へずれ、相手の腕をかわし、くるりと回るように進路を塞ぐ。
男が強引に抜けようとする。
麻衣は低く踏み込み、相手の重心を外した。華麗なステップが、そのまま制圧の動きへ変わる。男の体勢が崩れ、手にしていた瓶が落ちかける。
麻衣は瓶だけを先に受け止めた。
「これは返してもらいます」
男が逃げようとした瞬間、彩香が裏口に現れた。
「終わりや」
短い制圧。
黒鷹の通信ルートは潰された。
その頃、表ではさつきが笑顔でレポートを締めていた。
「灘の酒造りには、長い歴史と職人さんたちの思いが詰まっていました。皆さんもぜひ、酒蔵巡りを楽しんでください」
彼女は最後まで何も知らない。自分が黒鷹の計画を狂わせたことも、そのすぐ裏で麻衣が工作員を追い詰めたことも。
任務後、酒蔵の責任者は麻衣に深々と頭を下げた。
「今日は本当に助かりました。見学のお客さんにも評判が良くて……白浜さん、やっぱり繁忙期だけでも来てもらえません?」
麻衣は少し照れながら笑った。
「すみません。別の仕事がありますので」
「惜しいなあ」
その言葉は本気だった。
分室へ戻る車内で、彩香は言った。
「麻衣、酒蔵から引き抜き来とるぞ」
麻衣は困ったように笑う。
「接客しただけです」
玲奈は短く言う。
「それができるから強い」
麻衣は少しだけ驚いて、すぐに頷いた。
「はい」
灘五郷の酒は守られた。
白いラベルに隠された黒い通信は、一本の瓶とともに封じられた。
だが黒鷹はまだ終わらない。
兵庫県内のどこかで、次の影が動き始めている。
西日本特別諜報班NST。
彼女たちは表に出ない。称賛も受けない。
それでも、街の誇りを汚す者がいる限り、静かに動く。
この夜、紀州の舞姫は、灘の酒蔵に潜む影を舞うように斬った。




