海上空港非常線 第76話 静かな老獪、動く国家 ― ミスター・ハタ
波田巌蔵は、ただの好々爺に見える。
ヒロ室に顔を出せば、若いヒロインたちに軽口を叩く。
「おう、彩香。眉間のシワで敵を捕まえる気かい」
「あかり、おめぇは転ぶ前に考えろ。考えた後でも転ぶなら、まあ走れ」
昼間から東京下町の赤ちょうちんに腰を下ろし、焼き鳥の煙を浴びながら、琥珀色の麦芽飲料を焼酎で割った庶民派の一杯を片手にご機嫌で笑っている。
どう見ても、ただの隠居だった。
だが、目だけは違う。
笑っていても、眼光が鋭い。
人の本音、組織の嘘、権力の匂いを見逃さない。
波田巌蔵。
元は政府中枢にいた男だった。
官邸筋、警察庁、防衛関係、危機管理部門。
いまでも一本電話を入れれば、霞が関の奥で誰かが背筋を伸ばす。そんな種類の人脈を、まだ持っている。
第75話の空港島封鎖未遂をNSTが防いだことで、県警本部はますます強気になった。
「NSTの即応能力は特殊部隊級」
「今後は広域危機対応へ正式投入すべき」
「高危険度任務にも対応可能」
玲奈は反発した。
「彼女たちは特殊部隊ではありません」
しかし、県警本部は譲らない。
玲奈は県警から出向している立場だ。正面から命令系統を拒み続けるには限界がある。
その空気を見て、波田が動いた。
県警本部の会議室。
幹部たちは波田を、最初は形式的な顧問と見ていた。
だが、波田が椅子に座り、ゆっくりと口を開くと空気が変わった。
「いやぁ、若い衆をずいぶん便利に使ってくれてるらしいじゃねぇか」
べらんめえ口調。
軽い笑み。
だが、声の奥が冷たい。
警察官僚の一人が言う。
「NSTは実績があります。能力に見合った任務を――」
波田が遮った。
「能力に見合った、ねぇ。そいつぁ聞こえはいいが、要は危ねぇところへ先に突っ込ませたいって話だろ」
会議室が沈む。
別の幹部が硬い声で返す。
「黒鷹の脅威は拡大しています。国家的危機です」
波田は頷いた。
「分かってるよ。だから玲奈も現場も逃げちゃいねぇ」
そこで、目だけが鋭くなる。
「だがな、責任だけ現場に落として、命令だけ上から被せるな。そいつぁ指揮じゃねぇ。押し付けだ」
幹部たちは黙った。
波田はそこで、携帯を取り出した。
「おう、久しぶりだな。まだ官邸にいるのか。ちょいと危機管理の筋で確認してぇことがあってな」
その一本で、会議室の空気が変わる。
次の電話。
「警察庁のあいつ、今どこだ。ああ、そうか。じゃあ伝えといてくれ」
さらに一本。
「防災の件で昔世話したろ。今度はこっちの番だ」
小役人たちは、その時ようやく理解する。
この老人は、ただの顧問ではない。
紙の肩書では測れない場所に、今も線を持っている。
格が違った。
波田は電話をしまい、淡々と条件を並べる。
「NST投入には任務ごとの危険度評価を出せ」
「未成年と学生メンバーの高危険度任務投入は玲奈の承認を必須にしろ」
「武装制圧は県警本隊が前に出ろ」
「撤退権限は現場統括に置け」
「NSTは使い捨ての尖兵じゃねぇ」
県警側は渋る。
波田は笑った。
「飲めねぇなら、上で話を通すだけだ」
静かだった。
脅しているようには見えない。
だが、脅しより効いた。
会議は、県警本部の一方的な要求を押し戻す形で終わった。
廊下に出た玲奈が、深く頭を下げる。
「顧問、すみません」
波田は手を振った。
「謝るこたぁねぇよ。お前さん、よく踏ん張ってる」
玲奈は黙る。
波田は続けた。
「玲奈、お前さんは正しい。若いのを守ろうとするのは当然だ」
そして、少しだけ声を厳しくする。
「だがな、守りすぎてもいけねぇ。あいつらはもう、ただの子どもじゃねぇ」
玲奈の目が動く。
「任務はやらせろ。ただし帰り道を作れ。撤退線を引いてから送り出せ」
それが波田の答えだった。
使い潰すな。
抱え込みすぎるな。
生きて帰らせろ。
詰所に戻ると、波田はいつもの調子に戻った。
「おう、あかり。おめぇ今日も顔が騒がしいな」
「顔が騒がしいって何ですか?」
「見りゃ分かる」
彩香が聞く。
「顧問、本部で何したんですか?」
波田はにやりと笑う。
「ちょいと昔の知り合いに挨拶しただけだ」
麻衣が不思議そうに言う。
「それだけで変わるんですか?」
「世の中な、声のでけぇ奴より、電話一本で黙らせる奴の方が怖ぇんだよ」
美咲が小さく頷く。
「……勉強になります」
「おう、美咲は駅でも役所でも食ってけそうだな」
いつもの軽口。
だが、温かかった。
玲奈はそんな波田を見ていた。
この男は、ふざけているようで全部見ている。
現場の疲れも、県警本部の圧も、若いメンバーの成長も、玲奈の孤独も。
波田は最後に、全員へ言った。
「黒鷹は追い詰められてる。次はもっと汚ねぇ手を使う」
詰所の空気が締まる。
「県警とも組め。空港警察とも組め。だが、こっちの線はこっちで守れ」
玲奈が短く答える。
「はい」
波田は笑った。
「固ぇな。まあ、それがお前さんのいいとこだ」
戦闘はない。
爆弾もない。
だが、国家の裏側で静かな刃が交わされた。
波田巌蔵。
昼は下町の酒場で笑うご隠居。
夜は一本の電話で官僚を黙らせる老獪な男。
彼は若いヒロインたちを便利な戦力としてではなく、帰ってくるべき人間として見ていた。
そしてそのためなら、国家の奥に眠る古い人脈を動かすこともためらわない。
静かな老獪が動いた時、県警本部の空気は変わった。
だが黒鷹は待たない。
嵐は、まだ終わっていなかった。




