海上空港非常線 第50話 沈黙の楽器ケース、逃げる巨塔 ― ケース・オブ・ノーリターン
国際線貨物口に、黒い大型楽器ケースが運び込まれた。
外側には傷ひとつ少ない。高級楽器を守るための頑丈なハードケース。角には金属補強、側面には航空貨物用のタグ。申告書類も整っている。
名目は、文化交流イベントを終えた海外演奏団の機材返送。
表面上は何もおかしくない。
だが、海上空港非常線の仮設詰所では、岡本玲奈がその映像をじっと見ていた。
「……箱やな」
彩香が横から確認する。
「例の密出国ですか」
玲奈は頷く。
「脱税で有罪判決を受けた外国人経営者。黒鷹の資金洗浄にも絡んどる。出国制限中やのに、今夜ここから消える気や」
方法は、楽器ケース。
笑い話のようで、笑えない。
大物は、自分の足で逃げない。
金と人を使い、荷物になって逃げる。
玲奈は短く命じた。
「通すな。騒がせるな」
前線に立つのは、税関職員に扮した河合美音と白浜麻衣だった。
国際線貨物口は、旅客ロビーとは違う緊張がある。
笑顔は少ない。
書類、タグ、重量、搬出時間。
すべてが数字で処理される。
その中で、美音は楽器ケースの前に立った。
バイオレットのショートカット。
税関職員の制服。
落ち着いた目。
彼女はケースを見て、すぐに言った。
「重心が違います」
彩香がインカムで聞く。
「開ける前に分かるんですか」
「分かります」
美音はケースのキャスターを見る。
「本物の大型楽器なら、重さはもっと偏ります。これは中に空間を作って、重さを散らしてる」
麻衣もそっとケースに目を向けた。
「それに、運んでる人たちが楽器を大事にしてへん」
「手つきか?」
「はい。音楽の道具を運ぶ人は、もっと怖がります。傷つけたらあかんって」
麻衣の声は柔らかい。
だが、見ているところは鋭かった。
ケースを運ぶ男たちは、演奏団関係者を装っていた。
だが、目つきが違う。
楽器を見る目ではない。
荷物を見る目だった。
美音は低く告げる。
「開けます」
その瞬間、空気が変わった。
最初に動いたのは、取り巻きの大柄な男だった。
「No need. Documents are complete.」
美音は一歩も引かない。
「Inspection is required. Open it.」
男の目が細くなる。
次の瞬間、男は美音の腕を掴もうとした。
美音は速かった。
掴まれる前に手首を外し、相手の腕を内側へ巻き込む。
体重を乗せて、壁際へ押し込む。
「邪魔です」
声は冷たい。
男は力で押し返そうとした。
だが、美音は力で受けない。
角度を変え、相手の肩を殺し、膝を崩す。
がつん、と男の背中が壁に当たる。
彩香が思わず呟いた。
「美音さん、格闘もいけるんか……」
美音は答えない。
すでに二人目を見ていた。
背後から別の男が来る。
美音は振り向きざま、相手の肘を外へ流し、足を払った。
男は床に崩れる。
無駄がない。
派手な叫びもない。
ただ、確実に倒す。
まさに職人の格闘だった。
一方、麻衣の前にも男が立った。
小柄な麻衣を見て、男は侮った。
それが間違いだった。
男が強引に突破しようとする。
麻衣は真正面から受けなかった。
一歩、横へ滑る。
紀州の舞姫。
その異名の通り、麻衣の足運びは軽い。
踏み込み、かわし、回り込み、相手の力が空振りする位置へ身体を運ぶ。
男の腕が伸びる。
麻衣は半歩沈む。
そのまま懐へ入り、相手の膝裏へ足を添えるように入れた。
流れるような動き。
男の巨体が崩れる。
麻衣は相手の手首を押さえ、静かに言った。
「ここは通しません」
声は小さい。
だが、絶対に退かない声だった。
男がなおも起き上がろうとする。
麻衣はまた一歩、横へ動く。
正面に立たない。
相手の視界の外へ消え、次の瞬間には腕の内側にいる。
舞うようにかわし、
踊るように崩し、
最後は確実に止める。
小柄な体が、広い貨物口の中で大きく見えた。
美音はケースの留め具へ手を伸ばした。
「この金具、後から触っています」
麻衣が周囲を見ながら頷く。
「開けてください」
男たちの顔色が変わる。
里緒が空港警察へ連絡する。
「出口を閉じてください。一般作業員は近づけないで」
梓の声が入る。
「逃走支援役、外側通路に二名。彩香さん、右側です」
彩香が動く。
「あかり、最後の一人や」
「はい!」
あかりが飛び出し、外側へ逃げようとした取り巻きを押さえる。
「確保です!」
その間に、美音がケースを開けた。
中は、楽器ケースに見えるよう作り込まれていた。
本物の楽器部品。
クッション材。
湿度調整用の小物。
だが、その奥に、不自然な隔壁がある。
美音は指で叩いた。
「空洞です」
彩香が低く言う。
「開けろ」
隠し蓋が外される。
中にいたのは、窮屈そうに身を縮めた男だった。
脱税で有罪判決を受けた外国人経営者。
かつて巨大企業の頂点にいた男。
金と権力をまとい、裁きから逃げようとした男。
その姿は、巨塔などではなかった。
ただの荷物だった。
男はケースから引き出されても、なお尊大だった。
「You don’t know who I am.」
美音は冷たく返す。
「We know exactly who you are.」
麻衣も静かに言った。
「だから、通しません」
玲奈が詰所で映像を見ながら低く呟く。
「逃げる巨塔も、箱に入ればただの荷物や」
ケースの中からは、偽造書類、通信端末、そして黒鷹の資金線に関わる暗号化された記録媒体が見つかった。
単なる密出国ではなかった。
逃がせば、黒鷹の資金ルートも一緒に海外へ消えるところだった。
任務は完了した。
国際線貨物口は、数分後には何事もなかったように動き出した。
作業員は荷物を運び、税関職員は書類を確認し、空港は淡々と流れていく。
誰も知らない。
巨大な楽器ケースの中に、国際的な逃亡劇の主役が隠れていたことを。
そして、それを止めたのが、二人の女性税関職員に扮した戦隊ヒロインだったことを。
彩香は麻衣を見て、素直に言った。
「麻衣、今の動き、ほんま舞みたいやったな」
麻衣は少し照れた。
「怖かったです。でも、通したらあかんと思って」
「怖かったようには見えへんかったで」
美音はケースを見下ろしながら、淡々と続けた。
「楽器ケースは嘘をつきません。嘘をつくのは、運ぶ人間です」
あかりが興奮気味に言う。
「美音さんも麻衣さんも、めっちゃカッコよかったです!美音さんは勇ましいし、麻衣さんはほんまに舞ってました!」
彩香が頷く。
「今日は二人の回やな」
玲奈の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「よう止めた」
それだけで、十分だった。
逃げる巨塔は、沈黙の楽器ケースに隠れた。
だが、そのケースは空を越えられなかった。
河合美音は、重心と金具と嘘を見抜き、勇ましく取り巻きを倒した。
白浜麻衣は、紀州の舞姫のステップで敵を翻弄し、小さな体で逃走路を閉じた。
空港の裏側で、また一つ巨大な影が消えた。
飛行機は飛ぶ。
貨物は流れる。
誰も知らない。
だが、その日、海上空港の非常線は確かに閉じていた。




