海上空港非常線 第46話 遠州の耳、滑走路を止める――河合美音、空港に潜む不協和音を聴く
遠州の耳、滑走路を止める――河合美音、空港に潜む不協和音を聴く**
夜明け前、神戸の海は鉛色だった。
海上空港へ続く連絡橋を、一台の大型自動二輪が低く唸りながら渡っていく。
風を裂くように走るその姿は、夜の終わりに現れた一本の紫の線のようだった。
ライダーは河合美音。
浜松から大型二輪で単独走行してきた、NSTのサポートメンバー。バイオレットカラーのショートカットがヘルメットの下からわずかに覗く。華やかさより精密さ。感情より機能美。そんな印象の女だった。
空港の職員用駐輪スペースにバイクを止め、美音はヘルメットを外した。
潮の匂い。
滑走路灯の低い振動。
空調音。
遠くで鳴るゲートチャイム。
その瞬間、美音の眉がわずかに動いた。
「……音が濁ってる」
岡本玲奈は、到着した美音を見て短く言った。
「長距離移動の直後で悪いけど、聞いてほしいものがある」
美音はグローブを外しながら答える。
「もう聞こえています」
玲奈は目だけで続きを促した。
美音は空港ロビーへ歩く。
人は少ない。始発便の準備前で、空港はまだ眠りの中にある。だが、機械だけは眠らない。
誘導放送。
作業車両の警告音。
エスカレーターの駆動音。
搭乗ゲートのチャイム。
整備区画のアラーム。
普通の人間には、ただの空港の音にしか聞こえない。
だが美音には違った。
「ゲート案内音の上に、別の信号が乗ってる。低すぎる。けど、耳には残る」
玲奈が問う。
「妨害?」
「妨害というより、調律の悪い嫌がらせです。でも目的はある。作業員の集中を数秒削れる」
その数秒が命取りになる。
黒鷹一味は、爆弾でも毒物でもなく、音を使っていた。
誘導音や警告音に、ごく微細な周波数異常を混ぜる。人間が意識できないほど小さなノイズ。しかし積み重なれば判断を鈍らせ、貨物導線と旅客導線を一瞬乱す。
その一瞬で、重要物資をすり替える。
玲奈は低く言う。
「美音がいなければ、機器不調で処理されていた」
美音は冷静だった。
「でしょうね。普通は気づきません。でも、気持ち悪い音です」
河合美音は、音にうるさい。
絶対音感を持ち、遠縁には大手楽器メーカー創業家の血を引く。遠州の楽器文化の中で育った彼女にとって、音のズレは単なる違和感ではない。空間の歪みだった。
「ここの反響、変です」
美音はロビー中央で足を止める。
「正面スピーカーじゃない。上から乗ってる。整備区画側の中継器を経由している」
玲奈は通信端末を出す。
「案内して」
美音は歩き出した。
空港の裏側へ。
白い蛍光灯が続く職員通路。
貨物搬入口の低い機械音。
床に響く台車の車輪音。
美音は耳だけで進む。
「左。次の通路。違う、こっちは反響。発信源は奥」
玲奈は無言でついていく。
二人が着いたのは、整備区画裏の配電ボックス前だった。
美音は膝をつき、耳を近づける。
「ここ」
玲奈がカバーを開けると、小型発信装置が仕込まれていた。通常の配線に見えるが、微弱な信号を空港内の音響設備へ流している。
美音は吐き捨てるように言った。
「下手な細工です。音が汚い」
「黒鷹にしては雑?」
「いいえ。目的には足りています。ただ、音楽としては最低」
玲奈はわずかに口元を動かした。
「評価基準が違うのね」
「大事な基準です」
装置は一つではなかった。
美音は空港内を歩き続け、音の濁りを追った。
ゲート裏。
貨物棟。
整備車両の待機場。
非常放送系統の副配線。
計四つ。
黒鷹は、空港の音を汚染していた。
その頃、貨物区画ではすり替えが始まろうとしていた。
作業員の動きがわずかに鈍る。
警告音の違和感に、誰も気づかないまま眉をひそめる。
動線が一瞬、乱れかける。
玲奈が言う。
「止められる?」
美音は制御室の端末を見る。
「消すだけなら簡単。でも、それだと相手に気づかれる」
「なら?」
「逆に狂わせます」
美音は音響制御端末に向かう。
指先が鍵盤を叩くように滑る。
発信装置が混ぜ込んだ不協和音へ、別の周波数を重ねる。
黒鷹の合図として使われていた信号を、半拍ずらす。
ほんのわずか。
だが、作戦には致命的だった。
貨物区画の黒鷹工作員たちは、合図を見失った。
一人が早く動きすぎる。
一人が遅れる。
搬送台車が予定位置に入らない。
玲奈が短く動く。
「今」
黒鷹のすり替えは崩れた。
工作員が逃げようとした時には、すでに導線は塞がれていた。
大きな銃声も、派手な格闘もない。
ただ、空港の流れが正常に戻り、異物だけが浮かび上がる。
美音は制御室で、最後のノイズを切った。
ロビーに正常なチャイムが戻る。
彼女は小さく息を吐いた。
「やっと、まともな音になった」
作戦後、玲奈は滑走路を望むガラスの前で美音に言った。
「大仕事だったわ」
美音は平然としていた。
「気づかない方が変です」
「普通は気づかない」
「普通の耳なら」
白い照明の下、バイオレットのショートカットが鮮やかに揺れた。
大型二輪で浜松から走ってきた疲れなど、顔には出さない。
玲奈は少しだけ笑う。
「遠州の勇者、耳まで鋭い」
美音は無表情のまま返す。
「音が悪い現場は、だいたい仕事も雑です」
海上空港の外では、朝の光が滑走路に落ち始めていた。
飛行機のエンジン音が、空へ向けてまっすぐ伸びる。
美音はヘルメットを手に取る。
「戻ります。浜松まで距離がありますから」
「休まないの?」
「バイクの音は正常です。問題ありません」
玲奈は背を向ける美音を見送った。
黒鷹は、音で空港を乱そうとした。
だが、相手が悪かった。
港の上に浮かぶ空港で、不協和音は断たれた。
遠州の耳を持つ女は、何事もなかったように大型二輪へまたがり、朝の連絡橋へ消えていった。




