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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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黒い証書は恋を喰う 第6話  恋は契約書にサインする

日本協和商事は、まだ倒れていなかった。

倒れていないどころか、世間から見ればむしろ伸びている会社に見えた。


一等地の支店。磨き上げられたロビー。客の目に入るように並べられた金の延べ棒。資産保全を語る洗練された広告。大学生向けの投資セミナー、ネットバナー、若い講師陣の笑顔。低金利の時代における“賢い守り”を語る会社として、日協商事は真っ当な顔をしていた。


だが、その内側では既に歯車が軋んでいた。

配当は新しい金で回し、古い穴は別の口座で塞ぐ。市況は悪化し、会社は拡大しすぎ、幹部たちは笑いながら青ざめている。表向きは何ひとつ破綻していない。だが、骨の内側から腐るように、会社はゆっくりと死に始めていた。


その死の匂いを、岡本玲奈だけが感じ取れていなかった。


恋は、理性のもっと手前で人を鈍らせる。

兵庫県警警部補、西日本特別諜報班NSTのボス。任務では容赦がなく、部下の一瞬の迷いすら見逃さない女。その玲奈が、この頃には少しずつ変わっていた。


分室で彩香と美月がくだらない口喧嘩をしていても、以前なら一喝で終わらせたはずなのに、今はどこか眺めるように見ている。あかりがまた勝手なことをしても、口調の棘は薄い。迫田ツインズの軽口にも、眉ひとつ動かすだけで済ませることが増えた。チームのメンバーたちは「玲奈さん、最近ちょっと丸なった?」と半分本気で気味悪がるが、玲奈自身はそれを認めない。ただ、スマートフォンに亮介からの着信が入るたび、その冷たい眼差しがごくわずかに緩むのを、誰より玲奈自身が一番意識していた。


その夜、玲奈は神戸のホテルラウンジにいた。

窓の外には港の光。グラスの中では琥珀色の酒が静かに揺れている。向かいに座る水野亮介は、いつも通り整った男だった。色黒の肌、スポーツで鍛えた肩、よく似合うスーツ。女に慣れているはずなのに、妙に押しつけがましくない。その距離感こそが、玲奈をここまで連れてきた。


「今日は少し仕事の話をしてもいいですか」


亮介がそう言った時、玲奈はもう断るつもりではいなかった。

むしろ、自分から聞きたかったのかもしれない。


亮介の説明は、鮮やかだった。

金を増やす話ではなく、失わないための話。低金利、物価の目減り、老後不安、相続、資産の偏り。NISAを否定せず、預金を馬鹿にせず、そのうえで「紙の数字だけでは守りきれないこともある」と静かに言う。人は欲で動くより、不安で動く。亮介はそれを知り尽くしていた。


「皆さん、急に金持ちになりたいわけじゃないんです」

亮介はグラスを持つ手を止めずに言った。

「今ある生活を崩したくないだけです。家族に迷惑をかけたくない。老後に慌てたくない。そのために、現物に近い形で守る考え方がある。うちの仕事は、それを整えることです」


玲奈は黙って聞いていた。

頭の悪い女ではない。むしろその逆だ。だからこそ、亮介の話法が危険だった。夢を煽らない。断言しすぎない。選択肢を奪わない。理屈の上に理屈を載せて、最後に「決めるのはあなたです」と退く。聡明な人間ほど、こういう男に弱い。自分で納得したと思わされるからだ。


「将来のお金のこと、考えたことありますか」

玲奈は少しだけ笑った。

「ない、って言ったら怒る?」

「怒りません。ただ、あなたみたいな人ほど後回しにしてそうだと思っただけです」

「そんなふうに見える?」

「任務が先にある人の顔をしてます」


その一言が玲奈に刺さる。

警察官としても、NSTのボスとしても、戦隊ヒロインとしても、玲奈はいつも“役目の顔”で生きてきた。亮介はその仮面を、わざと乱暴に剥がさない。ただ、そこにあることだけを静かに言い当てる。だからずるい。


やがて亮介は、テーブルの端に薄いファイルを差し出した。

金地金の保全契約。数字は整理され、説明は簡潔で、証書は立派だった。日本協和商事という会社の名は、ネット広告や大学生向けセミナーで見かける“時代の先端”の顔をしている。怪しさより先に、安心感がある。それもまた、会社が用意した精巧な舞台装置だった。


「急がなくていいです」

亮介はそう言った。

「でも、今のタイミングなら悪くない。あなたが損をしない形で組めます」


この時、玲奈は投資の話を聞いていたのではない。

亮介の言葉を聞いていた。

理知的で、落ち着いていて、自分を軽く扱わない男。その男が、自分の将来を真面目に考えてくれている。そう信じたかった。いや、もう信じていた。


玲奈は小さく息をついてから、バッグから封筒を取り出した。

数百万円。

契約金としては十分すぎる額だ。


亮介の目が、一瞬だけ揺れた。

仕事としてなら、ここは勝ちだ。案件としては成功。だが、胸の深いところで別の感情が動いた。この女を、ここまで騙していいのか。今さらそんなことを考える資格は自分にない。亮介はそれを知っている。父親の借金、前々妻への慰謝料、本気で愛した前妻との間の障害ある子どもの治療費、そして自分自身のどうしようもない借金。金はいる。組織も待ってくれない。それでも、玲奈だけは他の“案件”と同じ箱に入れられなくなっていた。


「亮介?」

玲奈が不思議そうに見る。

亮介はすぐに笑顔を作った。

「いえ……ありがとうございます。必ず、後悔はさせません」


その声は、たしかに自信に満ちていた。

だが同時に、亮介自身の喉を少しだけ締めつけてもいた。


契約書にサインを終えた玲奈は、どこか安堵したように微笑んだ。

女らしい仕草で髪を耳にかける。その横顔が、亮介にはやけに眩しかった。恋をしている女の顔だった。警部補でも、NSTのボスでもない、一人の女の顔。亮介はその顔を見て、自分が取り返しのつかないところまで来ていることを悟る。


店を出る頃には夜は深かった。

港の風は少し冷たく、神戸の灯りはあまりに綺麗だった。

玲奈は亮介の隣を歩きながら、ふと自分の声が少し柔らかくなっていることに気づく。亮介もまた、それを聞いていた。二人の間にあるのは、契約だったのか、恋だったのか。少なくともこの夜の玲奈には、その違いがもう見えていない。


だが、会社はもう長くない。

表向きの繁栄の裏で、日協商事は静かに沈み始めている。

そして亮介もまた、玲奈に惹かれている自分を、これ以上見ないふりができなくなっていた。


契約は成立した。

恋もまた、たしかに成立していた。

だからこそ、その先に待つものは、甘さではなく破滅だった。

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