黒い証書は恋を喰う 第5話 金の塔、泥の履歴
日本協和商事――通称、日協商事。
名前だけ聞けば、どこにでもある堅い商社だ。だがその実態は、老人たちの老後資金を吸い上げる、豊田商事めいた巨額投資詐欺会社だった。表向きは「実物資産による安心の資産保全」。売り物は金地金の所有権証明や保全証書といった、実態の曖昧な“紙の上の金”。高配当をうたい、低金利と将来不安に怯える高齢者たちから資金を集める。全国各地の一等地に支店を置き、ロビーには見栄えのいい金の延べ棒をあえて客の目につく場所へ並べる。豪華な応接室、愛想のいい受付、分厚い会社案内。人は中身より先に、目に見えるものを信じる。日協商事は、その単純な真理を知り尽くしていた。
しかも始まりは、必ずしも嘘だけではなかった。
集めた金は、暗号資産、原油や金などのコモディティ、債券、米国株へ幅広く振り向けられ、創業初期には実際に利益が出ていた。顧客には約束どおり高配当が支払われ、解約にも応じた。だから信用は増殖し、会社は勢いのまま肥大した。だが市況が崩れ、拡大路線が歯車を狂わせると、見せかけの信用を維持するために、より多くの金を、より強引に集めるしかなくなる。最初は投資会社だった。いつしか、配当を餌に次の金を呼び込むだけの怪物へ変わった。
その怪物の頂点に立つのが、会長兼CEO・田宮宗一郎だった。
メディアにたびたび顔を出し、ベンチャー時代の寵児としてもてはやされる男。高級外車を乗り回し、専用クルーザーまで所有し、金と女と夜景を着飾ることに何のためらいもない。成功者の顔をした詐欺師は、いつだって世間に分かりやすい夢を見せる。田宮はその夢の見せ方が上手かった。だが彼の本当の才能は、金そのものより、人の弱みを見抜くことにあった。
水野亮介も、そのひとりだった。
四国の地方都市で高校まで真面目にラグビーへ打ち込んだ男。真っ黒に日焼けし、声を張り、仲間のために前へ出る。若い頃の亮介は、少なくとも本人の中では、真っ当に生きていたはずだった。だが大学を中退してから歯車は狂う。食っていくために職を転々とし、流れ着いたのが商品先物会社の営業だった。口が回り、愛想もいい。しかも色気がある。営業の世界で亮介はすぐに数字を作った。だが、その数字への執着が一線を越えさせる。
客の預り金を、勝手に大豆相場へ回した。
勝てば埋まる。負けても取り返せる。そう思った。だが相場は人間の都合を聞かない。亮介は巨額の損失を出し、普通ならそこで人生は終わるはずだった。ところが、田宮宗一郎が裏で手を回した。帳簿をいじり、関係者を黙らせ、亮介を表向き“お咎めなし”にしたのである。
恩赦ではない。首輪だった。
「貸しは忘れるな」
田宮はそう言って亮介を逃がした。いや、逃がしたように見せて、自分の犬にした。以後、亮介は田宮に頭が上がらなくなる。女にだらしなく、金に汚いのは元からだ。派手な女性遍歴、二度の離婚、前々妻への多額の慰謝料、ギャンブルで膨らんだ借金。加えて、本気で愛した前妻との間に生まれた重度障害の子どもの治療費までのしかかる。使い道だけは山ほどある男に、田宮は“稼ぐ場所”を用意した。それが日協商事だった。
亮介は会社の立ち上げに関与する。
商品先物で鍛えた話術を、今度は老人の不安を吸い上げるために使う。高齢者には安心を、若い女には恋を、金持ちには節税を。相手に合わせて顔を変え、言葉を選び、信頼を演じる。日協商事にとって亮介は、営業本部長などという肩書以上に、「人をその気にさせる才能」そのものだった。
そんな男が、岡本玲奈の前では、まるで違う顔を見せている。
兵庫県警警部補にして、西日本特別諜報班NSTのボス。冷たく見えるほど整った顔で、男たちを遠ざけてきた女。その玲奈が、亮介には落ち始めていた。会社案内のパンフレットに載る亮介の自信に満ちた写真を、任務の合間に眺めてしまうほどに。玲奈はまだ知らない。彼の経歴の泥も、田宮の首輪も、自分がその男にとって何番目の“案件”なのかも。
だが亮介の側には、わずかな揺らぎがあった。
玲奈は、これまでのカモとは少し違う。
金はある。男慣れはしていない。落としやすい条件は揃っている。だが、そのくせ妙にまっすぐで、時々ふと、何もかも見透かしたような目をする。騙すには都合がいい。なのに、切り捨てるには手が止まる。亮介はその理由を、まだ言葉にできない。ただ、自分の中に残っていた何かが、玲奈の前でだけ微かに疼くのを感じていた。
金の塔は、すでに傾き始めていた。
だが、その中で揺れているのは会社だけではない。
詐欺師の理屈も、恋に落ちた女の判断も、すべてが少しずつ崩れ始めていた。
黒い証書は、まだ静かに呼吸している。
そしてその紙の裏側には、金より重い嘘と、まだ名もない破滅が折りたたまれていた。




