黒い証書は恋を喰う 第3話 ワインのあとに差し出された、毒
神戸の夜は、女を少しだけ大胆にする。
岡本玲奈は、そのことをまだ認めたくなかった。
兵庫県警警部補。西日本特別諜報班NSTのボス。任務では一切の隙を見せない女が、たった数日前に知り合った男との次の約束を、仕事の合間に何度も思い返している。そんな自分を、玲奈は少しだけ滑稽だと思っていた。
待ち合わせは、旧居留地の外れにある落ち着いたレストランバーだった。
神戸牛のステーキハウスでの夜から、亮介は決して急がなかった。すぐに会いたいとも言わず、無理に恋人めいた空気を作ろうともしない。その半歩引いた距離感が、玲奈にはむしろ心地よかった。
店の窓の向こうでは、港町の灯りが静かに滲んでいた。
亮介はいつものように、よく似合うスーツをさらりと着こなしていた。色黒の肌、鍛えられた肩、押しつけがましさのない笑顔。いかにも女が好きそうな男なのに、玲奈の警戒心を逆撫でする軽薄さがない。
「お待たせしました」
「まだ五分よ」
「警察の人って、やっぱり時間に厳しいんですね」
「今は警察として来てるわけじゃないわ」
「じゃあ今日は、ただの綺麗な人として見ておきます」
その言い方が、玲奈には妙に効いた。
綺麗だと露骨に持ち上げる男は嫌いだった。だが亮介は、女を褒める時でさえ押しつけがましくない。そこに計算があるのだとしても、この時の玲奈には、もう見えなくなり始めていた。
ワインが注がれ、他愛もない話が始まる。
神戸の夜景は観光ポスターほど大げさではないこと。玲奈は意外と港の匂いが嫌いではないこと。亮介が昔、ラグビーに打ち込んでいたこと。休日の過ごし方、好きな映画、眠れない夜のやり過ごし方。会話は軽いのに、浅くはなかった。亮介は玲奈の言葉尻ではなく、その奥にある温度を拾ってくる。玲奈もまた、自分でも驚くほど自然に笑っていた。
話題が経済のことに移ったのは、本当にさりげない流れだった。
「最近、何でも高くなりましたね」
亮介がそう言い、玲奈がグラスを傾ける。
「生きてるだけで金が減る感じね」
「皆、そう言います。増やしたいんじゃなくて、減らしたくないだけなんですよ」
その言葉には妙な説得力があった。
亮介はここでも、金儲けの匂いを消していた。欲ではなく、不安に寄り添う。相手が抱く漠然とした恐れに、丁寧に輪郭を与える。敏腕詐欺師というものは、大声で夢を売らない。静かに、理屈の形で安心を差し出すのだ。
「将来のお金のこと、考えないとあかんなぁ」
玲奈が何気なく漏らすと、亮介はすぐには乗らなかった。
その沈黙すら計算されていると、後になれば分かる。だがこの時の玲奈には、ただ誠実に見えた。
「NISAもいい制度です。積み立ても悪くない。でも、それだけで全部が守れるわけじゃない」
「守る?」
「ええ。いま大事なのは“増やす”より“守る”です。紙の上の数字は綺麗ですけど、状況が変われば一瞬で意味が薄れることもある。現金だけ持っていても、不安は消えないでしょう」
玲奈は黙って聞いていた。
彼の話は、妙に整理されていた。金融商品の名前を並べ立てるでもなく、専門用語で煙に巻くでもない。低金利、物価、相続、資産の偏り。どれもニュースで聞いたことはある。だが亮介の口から出ると、初めて自分の生活に接続される話に聞こえた。
「うちの会社、そういう相談を受けるんです」
亮介はそこで初めて、自分の仕事をもう少し具体的に語った。
金融系ベンチャー企業の取締役営業本部長。肩書はマネーライフアドバイザー。外資系金融機関にいた仲間たちと会社を立ち上げ、将来不安を抱える人たちの相談に乗り、資産の持ち方を整えていく。年収は歩合次第で大きく変わり、五千万円になった年もあるが、それは結果にすぎない、と彼は笑う。
「皆さん、急に金持ちになりたいわけじゃない。家族に迷惑をかけたくないだけなんです」
「ずいぶん、真面目な営業本部長ね」
「真面目じゃないと、人の老後なんて預かれませんよ」
その一言がまた、玲奈の胸に静かに落ちた。
頭のいい女ほど、露骨な営業トークには引っかからない。だから亮介は、ずっと一線を越えない。NISAを否定しない。預金も否定しない。ただ、“それだけでは足りないかもしれない”という余白だけを差し出す。そして、相手に考えさせる。考えた末の結論なら、人は自分で信じてしまう。
食事の終盤、亮介は鞄から一冊のパンフレットを出した。
「仕事の話を押しつけるつもりはないんです。ただ、興味があるなら」
表紙には、日本協和商事の文字。落ち着いた紙質、洗練されたデザイン。そこに載る写真は、ネット広告で見かけても違和感のない“信頼できる会社”の顔だった。資産保全、将来設計、若年層向け投資セミナー。大学生向けの講演実績まで載っている。まだこの頃、金地金のペーパー商法は世間に何ひとつ露見していない。むしろ会社は拡大路線の只中にあり、広告もセミナーも景気がよかった。
玲奈はパンフレットを受け取った。
それが罠だとは思わなかった。思えなかった。
彼女はもう、亮介の話を“営業”ではなく、“自分の将来を一緒に考えてくれている男の言葉”として聞き始めていた。
帰宅して、コートを脱ぐより先にパンフレットを開いた。
中面に、営業本部長・水野亮介の紹介が載っている。自信に満ちた目、少しだけ笑った口元、計算し尽くされたスーツ姿。玲奈はソファに座ったまま、その写真をしばらく見つめた。
「……ほんと、ずるい男ね」
そう呟いた声は、驚くほどやわらかかった。
任務では決して見せない女の顔で、玲奈は亮介の写真に見入る。理知的な説明も鮮やかだった。だが、それ以上に危険だったのは、亮介の飾らない人柄の方だった。玲奈はもう、自分が完全に恋に落ちていることを認めるしかなかった。
窓の外では、神戸の夜が静かに更けていく。
その頃、日本協和商事はネット広告を打ち、大学生向け投資セミナーを開き、真っ当な企業の顔をしたまま次の獲物を探していた。




