黒い証書は恋を喰う 第2話 神戸牛の夜、男はまだ牙を隠している
岡本玲奈の私用スマートフォンに、水野亮介から短い連絡が入ったのは、婚活パーティーの夜から三日後だった。
この前はありがとうございました。
もしご都合が合えば、今度ゆっくり食事でも。
押しつけがましさがない。
絵文字も、馴れ馴れしい軽口もない。
たったそれだけの文面なのに、玲奈は画面を見つめたまま、ほんの数秒返事が打てなかった。
任務では一瞬の遅れも許さない女が、たった一通のメッセージに迷っている。
それが自分でも可笑しくて、少しだけ腹が立った。
その夜、二人は神戸市内の高級ステーキハウスで再会した。
重たい扉の向こうにある店内は、照明を絞り、声の高さまで選別しているような静けさをまとっていた。磨かれたグラス、深い色の木、鉄板の上で立ち上る香ばしい煙。夜景の向こうには、港町の光が静かに滲んでいる。
亮介は、前回と同じように無理をしなかった。
玲奈を待たせたことへの詫びをひと言。席を引く手つきも自然。ワインを選ぶ時も知識をひけらかさず、店のソムリエの言葉を一度受けてから、玲奈の表情を見て銘柄を決める。そういう細部が、妙に洗練されていた。
「神戸牛には、少し土の香りがするような赤の方が合うんです」
亮介はそう言ってグラスを差し出した。
玲奈は受け取りながら、心の中で苦笑する。
こういう男は、苦手なはずだった。
いや、苦手だと決めていた。
だが亮介には、露骨な“慣れ”がない。女を落とそうとする男にありがちな、あの甘ったるい自信が見えない。なのに、会話の流れだけは自然に自分の方へ引き寄せていく。
神戸牛は見事だった。
柔らかい、などという安い言葉では足りない。脂は重くないのに、舌に置いた瞬間だけ濃密で、赤ワインの渋みがその後ろから静かについてくる。玲奈は任務の会食ならもっと冷静に味わう。だが今夜は、肉の味と同じくらい、向かいに座る男の声の温度が気になっていた。
話題は取りとめがない。
神戸の夜景は観光客ほど大げさではないが嫌いじゃないこと。亮介は昔、学生時代にラグビーをやっていたこと。玲奈は港の匂いが落ち着くこと。仕事の愚痴でも自慢でもない、ささやかな会話。だが、その“他愛なさ”が玲奈には妙に心地よかった。
自分でも驚くほど、笑っていた。
やがて話は仕事へ移る。
亮介はグラスの脚を指先で軽く回しながら、淡々と言った。
「いまは、金融系のベンチャーで取締役やってます。営業本部長です」
「若いのに、たいしたものね」
「肩書だけですよ。実際は雑用も火消しも全部やります」
そこで終われば、ただの出来る男だった。
だが亮介は、自分を必要以上に大きく見せない。だからかえって、言葉に実感が宿る。
「肩書はマネーライフアドバイザー、です」
「ずいぶん柔らかい言い方ね」
「硬い言葉で説明すると、皆さん構えますから」
亮介は微笑んだ。
「要するに、将来のお金の不安を減らす仕事です。低金利で、先が読めないでしょう。預金してるだけで安心とは言えない。年金のこともある。老後資金、相続、インフレ、税制……そういう“漠然とした不安”を、できるだけ現実的に整えていくんです」
玲奈は何も言わずに聞いた。
この男の話し方は、妙に整理されている。
数字を武器にして威圧するでもなく、夢を見せるでもなく、目の前の不安に形を与える。そういう言い方だった。
「もともとは外資系の金融機関にいたんです。そこで知り合った仲間と会社を立ち上げました。会社を大きくすることだけ考えて、ここまで来た感じです」
「恋愛より仕事、ってこと?」
「ええ。たぶんそうです。理想の女性と出会う暇も、余裕もなかった」
そこで亮介は、玲奈をまっすぐ見た。
「でも最近ようやく、仕事以外のことも考えられるようになってきた。そうしたら、あなたみたいな人が現れた」
玲奈はグラスを持つ手に少しだけ力を入れた。
真正面から甘い言葉を投げつけられたわけではない。
だが、その言い方は妙にずるかった。
照れさせるつもりがあるのか、ないのか。
その曖昧さに、玲奈は弱かった。
「……私のこと、何も知らないのに」
「だから知りたいんです」
そこで玲奈は、一瞬だけ考えた。
いつもの自分ならごまかす。身分も仕事も、曖昧なままにして距離を置く。
だが今夜の彼女は、少しだけ違った。
「私、警察官なの」
亮介の表情が、ごくわずかに止まる。
「今は戦隊ヒロインプロジェクトに出向してる。だから、普通の女の人よりは、たぶん面倒よ」
「……そうですか」
その間は短かった。だが、玲奈は確かに見た。亮介の目の奥に、一瞬だけ計算の色が走ったのを。
それでも彼はすぐに柔らかい顔へ戻る。
「面倒かどうかは、まだ分かりません」
「逃げないのね」
「ここで逃げたら失礼でしょう」
その返しが、また玲奈の心を揺らした。
しばらくして、玲奈の方から尋ねた。
「マネーライフアドバイザーって、具体的には何をするの」
「人によって違います。預金の整理をしたい人もいれば、相続の準備をしたい人もいる。資産を増やすというより、“守る”方に近いですね」
「守る?」
「ええ。今の時代、お金って額面だけで安心できないでしょう。現金は分かりやすいけど、弱さもある。だから、価値の減りにくいものをどう組み合わせるか、そういう話になります」
玲奈はうなずいた。
たしかに、そういうことは考えたことがなかった。
NISA、積立、投資信託――ニュースでは聞く。だが自分は、仕事に追われて金の置き方まで考える余裕がなかった。警部補としての給与はある。生活にも困らない。けれど、その先は曖昧だった。
「将来のお金のこと、考えないとあかんなぁ」
玲奈がぽつりと漏らすと、亮介は内心で笑った。
外には出さない。
だが、しめしめ、という色は確かにあった。
「そう思った時が、考え始める一番いい時期ですよ」
亮介の声は、低く、穏やかだった。
「難しい仕組みの話じゃないんです。たとえば、紙の上の数字だけじゃなくて、実物に近い形で守る考え方もある。皆さんそこを誤解してることが多い」
「実物?」
「ええ。現物資産に寄せるんです。もちろん持ち歩けという話じゃない。安全な管理と証明の形をきちんと取る。そうすると、心理的にも資産の見え方が変わる」
詐欺師の説明は、押し売りではなかった。
不安を煽るでもなく、夢を見せるでもなく、理屈を一枚ずつ重ねていく。
話のどこにも露骨な飛躍がない。
聡明な玲奈ですら、今この場でなら「それも一理ある」と思ってしまうような、そんな危うい説得力があった。
亮介は玲奈を落としている。
玲奈はそのことに、まだ気づかない。
そして亮介自身もまた、玲奈の真っすぐな横顔に、自分の計算以上のものを感じ始めていた。
店を出るころには、夜はもう深かった。
神戸の街は静かで、港の光だけが遠く揺れている。
「また会えますか」
亮介が言う。
玲奈はすぐには答えなかった。
だが答えを迷う時点で、もう答えは出ていた。
「……たぶんね」
亮介は笑い、玲奈もほんの少しだけ笑った。
その夜、二人の間に生まれたのは、恋の始まりに見える何かだった。
だが実際には、それは黒い証書へ続く、音のしない落とし穴だった。
玲奈はまだ知らない。
この男の理知的な言葉が、人の老後を食い物にするために磨かれてきた刃だということを。
亮介もまだ知らない。
この女だけは、騙し切ったあとで自分の中に残ると。
神戸の夜風は、少し冷たかった。
だが二人のあいだには、もう後戻りのできない熱が生まれ始めていた。




