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西日本特別諜報班 NST 影の特命  作者: スパイク


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黒い証書は恋を喰う 第1話  仮面の夜、女はまだ罠を知らない

その夜の岡本玲奈は、いつもの玲奈ではなかった。


兵庫県警警部補。二十七歳。高卒ノンキャリアで現場を叩き上がり、交通課あがりの実務能力だけで階級を掴み取った女。表では警察官、裏では西日本特別諜報班NSTのボス、さらに必要とあれば戦隊ヒロインとしても前に立つ。暇などない。金はそれなりにあるが、使う時間がなかった。恋愛はもっと遠い場所にあった。


その玲奈が、身分を隠して婚活パーティーに出る。


きっかけは、軽い気まぐれだ。そう思い込んでいた。胸の奥に沈んだままの傷――かつて恋人だと思っていた男が、自分を庇って目の前で死んだあの瞬間――それを少しでもやり過ごせればと思ったのかもしれない。あるいは、自分にもまだ普通の女としての時間が残っているのか、試してみたかったのかもしれない。


どうせ行くなら中途半端は嫌だった。玲奈は福岡在住の戦隊ヒロイン専属スタイリストに連絡を入れた。仕事では絶対に選ばない柔らかな色のワンピース、控えめだが上質なアクセサリー、細いヒール。鏡の中にいたのは、冷たい警察官ではなく、端正な顔立ちの、少し近寄りがたい美しい女だった。


「似合ってます。行ってきてください、玲奈さん。男が寄ってこなかったら、その会場が悪いです」


そう背中を押され、玲奈は小さく笑った。笑った自分に、少し驚いた。


会場に入ると、空気が一瞬だけざわめいた。玲奈自身は目立つつもりなどなかったが、目立たない方が無理だった。戸田恵梨香を思わせる鋭い目元、張りつめた横顔、隙のない立ち姿。医者、弁護士、ITエンジニア、ベンチャー企業経営者。名札の肩書だけは立派な男たちが、代わる代わる寄ってくる。


だが話してみれば中身は空虚だった。


「お綺麗ですね」

「モデルさんか何かですか」

「その雰囲気、普通じゃないですよ」

「僕、港区に住んでまして」

「今度、会員制のところにでも」


玲奈は表情を崩さずに受け流した。仕事柄、男の目は見慣れている。欲と虚栄と下心の混ざった視線は、制服の下でも私服の下でも、本質は大して変わらない。こいつらは玲奈という人間を見ていない。ただ、美しい女を手に入れたいだけだ。美貌に食いついてくるだけの男は、任務の聞き込み相手より退屈だった。


三十分も経たないうちに、玲奈は帰るつもりでいた。


グラスをテーブルに戻し、会場のざわめきから半歩引いた時だった。


「帰られますか」


声は低く、よく通った。押しつけがましさがない。玲奈が振り向くと、そこに水野亮介がいた。


年齢は三十四。ベンチャー企業で取締役営業本部長を務めているという。色黒のスポーツマンタイプで、仕立てのいいスーツを気負いなく着こなしている。肩幅があり、姿勢もいい。いかにも女が好きそうな男だったが、不思議と軽薄さは見えなかった。


「少し」


玲奈がそう答えると、亮介は笑いもしないまま頷いた。


「この会場、会話が雑ですね」


玲奈はそこで初めて、相手の顔をまともに見た。


「ずいぶん正直ね」

「営業なんで、顔色は見ます。でも、美人を見た時の反応があまりに分かりやすい男ばかりだと、さすがに気の毒になる」


玲奈は思わず口元を緩めた。お世辞ではなく、状況を見て言っている。その温度がちょうどよかった。


亮介は玲奈を美人だと囃し立てなかった。飲み物の減り方を見て、無理に勧めもせず、会話の速さを合わせてくる。話題は仕事論に寄りすぎず、かといって趣味や休日の安い共感探しにもならない。人の話をきちんと聞き、切り返しに知性がある。何より、玲奈の言葉を途中で奪わない。


「あなた、思ったより話しやすい人ですね」


亮介がそう言った時、玲奈の胸のどこかが静かに揺れた。


綺麗だ、美人だ、近寄りがたい――そんな言葉なら予想できた。だが「話しやすい」は違った。玲奈は生まれて初めて、美貌でも肩書でもなく、自分の温度に触れられた気がした。


「思ったより、って失礼じゃない?」

「すみません。見た目だけなら、たぶん誰もが少し構えます」

「あなたは構えないのね」

「少しは」

亮介はそこで初めて笑った。「でも、構えたままだと損しそうだったので」


それは口説き文句としては地味だった。だが、玲奈には妙に効いた。軽い男ならもっと甘く、もっと分かりやすく来る。亮介は半歩外側に立ったまま、こちらを見ている。その距離感が、任務一筋で男に耐性のない玲奈には心地よかった。


会話は長くなかった。だが帰るつもりだった玲奈は、気づけば足を止めていた。亮介の話を聞き、自分も少し喋っている。仕事のことはごまかした。身分も隠した。それでも、嘘をついている感覚は薄かった。むしろ久しぶりに、仕事ではない言葉を使っている気がした。


やがて亮介が言う。


「よかったら、今度改めて食事でも」


玲奈は即答しなかった。警戒心はまだあった。だがそれ以上に、自分の中に生まれた感情に驚いていた。こんなふうに、誰かとの続きを自分から捨てたくないと思うのはいつ以来だろう。


「……考えておくわ」

「前向きに?」

「調子に乗らないで」

「じゃあ、保留で」


亮介はそう言って、自分の連絡先を差し出した。玲奈は一秒だけ迷い、それから受け取った。指先が触れる。ほんの一瞬のことなのに、妙に意識した。


その後、玲奈は自分の番号も教えた。後日、会う約束までした。流されるようでいて、流されてはいなかった。自分で選んだ。そのはずだった。


会場を出ると、夜風が冷たかった。ビルのガラスに映る自分の顔は、任務帰りのそれではない。どこか柔らかかった。玲奈はそれが面映ゆくて、少しだけ視線を逸らした。


水野亮介。


名前を心の中で反芻すると、それだけで胸がざわついた。ほとんど一目惚れに近かった。任務では人の嘘を見抜ける自分が、たった一夜の会話でこんなにも心を持っていかれる。そのことが信じられず、同時に少し可笑しかった。


だが、岡本玲奈はまだ知らない。


その男が、やがて自分の金だけでなく、兵庫の老後資金を喰い荒らす巨額詐欺の中核にいることを。

その連絡先一枚が、恋と任務を同時に壊す導火線になることを。

そして、この夜の甘い余韻の裏側で、日協商事という名の黒い会社が、静かに次の獲物へ牙を研いでいることを。


恋はまだ始まったばかりだった。

だが罠は、もう閉じ始めていた。

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