小さな背中が、街の最後の盾になる ― 優しさの壁、絶対に破れない守り
神戸市兵庫区。
港の気配と下町の人情が、今もちゃんと同居している街だ。和田岬の工業地帯、兵庫運河の水面、朝の中央市場、古い商店街のざわめき。神戸の中心地みたいな華やかさではない。だが、生活の匂いが濃い。人が生きて、働いて、子どもが走っている。兵庫区という街には、そういう“地に足のついた強さ”がある。
黒鷹は、その温度を利用していた。
地域の子ども向けイベント。
港の歴史を学ぶ体験教室。
市場の仕事を知る見学会。
善意と日常のど真ん中に、違法物資の受け渡しを紛れ込ませる。しかも、いざとなれば子どもたちの集団を盾にして抜ける算段まで組んでいた。
「ほんまに腐っとるな」
彩香が低く吐き捨てる。
「騒ぎは最小限。子ども優先や」
玲奈の声は短い。
「麻衣、お前が前や」
「はい」
白浜麻衣は頷いた。
童顔で、小柄で、声もやわらかい。
ぱっと見は、戦う側の人間には見えない。だがNSTの中で、子どもが絡む現場に最も向いているのは、この女だった。
それは派手な強さではない。
いぶし銀の強さだ。
ブレーブスの名脇役・大熊忠義みたいな小柄な二番打者。
試合を壊さず、流れをつなぎ、必要な時に必要なことをやる。目立つ本塁打はなくても、気づけばこの人間が全部を整えている。麻衣の仕事も、それに似ていた。
兵庫運河沿いの広場で、麻衣はもう“そこにいる人”になっていた。
子どもに声をかけ、保護者と自然に話し、列を乱さず、笑顔を作る。危ない場所に近づきそうな子がいれば、やさしく肩に手を添えて方向を変える。誰にも不自然と思わせず、少しずつ流れを制御していく。
「せんせい、これ見て」
小さな女の子が、港で拾った貝殻を差し出す。
「きれいやなあ」
麻衣はしゃがんで、目線を合わせる。
「ええの見つけたな」
その声だけで、子どもは安心する。
子どもたちは、本能で分かるのだ。この人は大丈夫だと。
その一方で、麻衣の視線は別のものを追っていた。
市場見学用の資材箱。
動線からわずかに外れた台車。
スタッフを装った男の足の向き。
(……あれや)
ラインが見え始める。
その時だった。
「うわ、楽しそうやん!」
嫌な声だった。
振り向かなくても分かる。
赤嶺美月。
今日は完全にプライベートらしい。友人と兵庫区をぶらぶら歩いていたら、偶然現場にぶつかったのだろう。だが、偶然で済まないのがこの女だった。
「まいやん、何してんの?」
距離感なく入ってくる。
そして最悪なことに、子どもたちが一斉に反応した。
「あっ、美月ちゃんや!」
「ほんまや!」
「テレビで見た!」
知名度がある。人気もある。
一瞬で空気が変わる。
美月は美月で、その期待を裏切らない。
「よっしゃ、みんな元気やな!一緒に遊ぼか!」
始まった。
ハイタッチ。
じゃんけん。
なぜか即席のミニレクみたいな空気になる。
「……最悪や」
彩香がインカム越しに呟く。
「完全にカオスやないか」
だが、麻衣は眉ひとつ動かさなかった。
(……使える)
美月に子どもたちの視線が集まる。
つまり、危険な導線から子どもたちを一度に遠ざけられる。
「美月さん」
麻衣は穏やかに声をかける。
「ん?」
「せっかくやし、向こうでみんなとゲームしてくれへん?」
「ええやん!」
単純だった。
美月はすぐ乗る。
「ほな、こっち集合!元気な子はついてこーい!」
子どもたちの流れが、大きくずれる。
完璧だった。
その隙に、麻衣は資材箱の横へ入る。
男が一人、荷を動かそうとする。
だが、そこに子どもが一人だけ残っていた。
泣きそうな顔をして立ち尽くしている。
黒鷹の男は、その子の横を強引に抜けようとした。最悪なら、そのまま盾に使う。
麻衣の顔から、やわらかさが消えた。
「……あかんよ」
静かな声だった。
男が苛立つ。
「どけ」
「どかへん」
短い返答。
童顔で、小柄な女。
普通なら押し切れると思うだろう。
だが麻衣は、一歩も引かなかった。
子どもの前に立つ。
小さな身体を、わざと大きく見せるみたいに肩を張る。
その背中が、妙に広く見えた。
「子どもに近づかんといて」
声は荒げない。
だが、芯がぶれない。
男が踏み込む。
麻衣も退かない。
その一瞬で、双子が横からラインを切り、美咲が裏側を押さえ、あかりが逃げ道を塞ぐ。だが中心にいたのは、間違いなく麻衣だった。
子どもが震えた手で麻衣の服を掴む。
麻衣は、後ろを向かないまま言う。
「大丈夫やよ。ここにおり」
紀州のやさしい訛りが、子どもの不安を静かにほどいていく。
短い制圧。
音はほとんどない。
広場ではまだ美月が大騒ぎしている。
「はい次、ジャンプしてみよかー!」
完全に別世界だった。
任務は終わった。
子どもたちは安全圏。
黒鷹のラインは死んでいる。
麻衣はようやくしゃがみ込み、さっきの子に目線を合わせた。
「もう大丈夫やよ」
子どもは小さく頷く。
「怖かったなあ」
そう言って背中をそっとさする。
その仕草に、戦いの匂いは一切残っていなかった。
任務後。
少し離れた場所で、彩香がまだ怒っていた。
「あのツインテール、中央市場で朝から競りやらせたろか」
あかりが真顔で言う。
「美月さんならめっちゃ競りを上手くやりそう」
間。
彩香が即答する。
「永久に仲買人やらしたるわこのボケェ」
もはや意味不明だった。
「それ、生活力つくだけちゃいます?」
「あかんわ、あいつは調子乗る」
理屈らしきものはあるようで、ない。
そのやり取りを聞いていた玲奈の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
誰も触れない。
だが全員、気づいていた。
兵庫区の夕方は、相変わらず人の匂いがした。
市場の活気、港の風、子どもの笑い声。
その日常を守るためなら、白浜麻衣は前に出る。
目立たない。
だが、絶対に必要。
小さく見えて、崩れない。
いぶし銀の二番打者みたいに、試合を壊さず、流れを作り、最後には守り切る。
白浜麻衣。
優しさの壁。
その守りは、誰にも破れなかった。




