一撃の代打、流れを変える脚 ― 播磨ピンチヒット・コード
播磨町。
兵庫県加古郡。海に近く、工場地帯の無機質な匂いと、住宅街の生活の気配が同じ風に混ざる町だ。観光地として大きく持ち上げられることは少ない。だが、こういう町ほど物流の継ぎ目になる。目立たず、流れだけは止まらない。人も荷も、知らないうちに通り過ぎていく。播磨町とは、そういう土地だった。
黒鷹は、その“継ぎ目”を使っていた。
港から上がった荷を小刻みに分け、町内の細い道を経由して別ルートへ流す。長距離輸送ではない。短いリレーを何本も繋ぎ、全体を見えなくする。派手ではない。だが、こういうやり方が一番厄介だ。止める側が気づいた時には、もう次の区間へ流れている。
その任務の直前、西日本特別諜報班の空気は、少しだけ妙だった。
原因は山本あかりだった。
「単位が、足りてへんらしいな」
玲奈が言うと、あかりは目を逸らした。
「いや、まだ足りへんって決まったわけやないんですけど」
「危ないんやろ」
「……はい」
その日の午後、玲奈は四日市にいるあかりの両親と直接話していた。
スピーカー越しに聞こえてきたのは、申し訳なさそうな夫婦の声だった。
『ほんまに、すんませんだに……』
『うちの子が、ご迷惑ばっかかけて……すんませんなぁ』
伊勢弁のやわらかい響きが、逆に切実だった。
玲奈は表情を変えずに聞き、短く結論を出した。
「今回は外れる。学業優先や」
あかりは一瞬だけ食い下がろうとしたが、玲奈の目を見てやめた。
その判断が正しいことは、自分でも分かっていたからだ。
その話を聞いた彩香は、完全にキレていた。
「あのアホンダラは覚悟が足らん」
腕を組み、吐き捨てるように言う。
「任務も学業も中途半端て、何しに大学行っとんねん。勉強せぇ言われたら、今度は任務来たい言いよるし、どっちか腹括れやボケェ」
あかり本人がいないのをいいことに、言いたい放題だった。
玲奈はそれを咎めなかった。
ただ、次の手を打っていた。
「代打を入れる」
その言葉に、彩香が顔を上げる。
「誰です?」
「大西結月」
短い返答。
香川県観音寺市出身。元女子競輪選手。
脚力、持久力、ライン取り、瞬間判断。全部が高水準。さらに無駄口が少なく、理屈で動く。玲奈がこういう局面で呼ぶ人間としては、いかにもらしい人選だった。
結月は、静かな女だった。
背は高すぎず、低すぎず。身体は細く見えるが、無駄な肉がまるでない。自転車の横に立つ姿は、機械と同じ種類の静けさを持っていた。必要な時だけ動く人間の空気だ。
「よろしくお願いします」
彩香が言うと、結月は軽く頷いた。
「状況は把握してます。短距離リレー型ですね。止めるなら、最後を追うより、途中で詰まらせる方が早いです」
その口調に感情は薄い。
だが、内容は的確だった。
玲奈は短く言った。
「今回は、お前が一撃で流れを変えろ」
「了解です」
その返事に迷いはなかった。
任務当日。
播磨町の空は低く、海から来る風は少し重かった。
黒鷹の輸送役は、車ではなく自転車を使っていた。細い生活道路、堤防脇、漁港裏の狭路。オートバイでは入れない場所を、小刻みに抜けていく。美音の機動力でも、入り込めない区間がある。
「嫌らしいやり方やな」
彩香が舌打ちする。
だが、玲奈は静かだった。
「やから、結月や」
その時だった。
「こんにちはー!播磨町の魅力をお届けしてまーす!」
神戸放送の情報番組。
三好さつき。
よりによって、このタイミングで現れる。
しかも、結月を見つける。
「結月さん、こんなところでどうしたんですか?」
カメラが寄る。
マイクが向く。
普通なら、足を止める。
説明もいる。
空気が乱れる。
だが結月は違った。
「練習や。自転車の練習!」
一言。
それだけ言って、もう前を見ていた。
「え、練習?」
さつきが戸惑う。
「そう。ほな」
そのまま、ペダルを踏む。
加速。
一瞬だった。
さつきのマイクも、カメラも、置き去りにされる。
「ちょ、速っ……!」
さつきがそう漏らした時には、結月はもう細い道へ消えていた。
追跡は、美しかった。
漁港の脇。
住宅街の抜け道。
堤防のゆるいカーブ。
元女子競輪選手の脚は、ただ速いだけじゃない。
無駄がない。
ラインを知っている。
どこで踏み、どこで抜くかを、身体が理解している。
前を行く黒鷹の運び役が、一度だけ後ろを振り返った。
その時には、もう差は詰まっていた。
結月は呼吸を乱さない。
視線もぶれない。
(ここで終わり)
そう決めた瞬間、速度が一段上がる。
コーナーで外へ膨らまず、内をえぐる。
狭い道でも怯まない。
前輪が相手の死角へ滑り込み、逃げ場を潰す。
そのまま、あっさり確保。
「終わりました」
インカムに落ちる声は、あまりにも平坦だった。
彩香が絶句する。
「……はや」
玲奈は短く答えた。
「一撃で変えたな」
まさに代打だった。
長々と試合を作るのではない。一振りで流れを変える。代打本塁打世界記録保持者の高井保弘のような、まさに切り札の仕事だった。
任務後。
彩香は珍しく、素直に頭を下げた。
「結月さん、ありがとうございます」
結月は小さく頷くと、そこで終わらせなかった。
「今回の件ですけど、播磨町みたいな細街路の多いエリアでは、最初から追う前提でなく、出口を先に読んだ方がいいです。あと、相手は短距離で切り替えるので、追う側は一度でも加速のリズムを外すと負けます。次回は東側の堤防ラインも先に押さえた方がいいです」
細かい。
だが、全部まともだった。
彩香は真面目に聞いている。
その横で、美音まで「合理的ですね」と頷いていた。
「結月さんは頼りになるわ」
彩香が言う。
そして、すぐに続ける。
「それに引き換えあかりは……」
遠い四日市では、その頃あかりが机に突っ伏していた。
「うわぁぁ……単位ってなんでこんなに面倒なん……」
ノートは開いている。
だが、頭に入っていない。
スマホには彩香からの短いメッセージが届いていた。
“勉強せぇ、ドアホ”
あかりは天井を見上げた。
「……冷た」
だが、何も言い返せない。
播磨町の夕暮れは、静かだった。
港の流れも、住宅街の気配も、何も変わらない。
ただ、見えない輸送ラインだけが、そこで断たれている。
大西結月。
讃岐の元女子競輪選手。
一撃で流れを変える頼れる仕事人。
代打女の加入で、NSTはまた一段、抜け目のないチームになった。
まるで、全盛期の阪急ブレーブスみたいに。
派手さはない。
だが、足りないところへ、最適な一手が差し込まれる。
そういうチームは、強い。




