計画の光、終焉の影 ― 1000万ドルの先にあるもの
神戸の夜景は、人を油断させる。
港の光も、山の上から見下ろす街の灯も、どこかこの世のものではないように整いすぎていて、見ているうちに、人生まで綺麗にまとまる気がしてくる。
岡本玲奈は、まさにその錯覚の中にいた。
――恋は盲目。
そんな安っぽい言葉を、自分に使う日が来るとは思っていなかった。
だが今の玲奈は、明らかにそうだった。
ヒロ室西日本分室の机に向かいながらも、指先がふと止まる。
書類の数字より、東條悠真の声が頭に浮かぶ。
報告書の行間より、あの人と歩いたメリケンパークの風の匂いを思い出す。
「……玲奈さん、最近ほんまに分かりやすいな」
あかりが横でぼそっと言う。
「うるさい」
玲奈は顔も上げずに返す。
だが声の棘は、以前ほど鋭くない。
美咲と麻衣が顔を見合わせ、迫田ツインズが小さく同時に肩をすくめる。
彩香だけは何も言わない。けれど、静かな視線の端で、その変化を見逃していなかった。
玲奈は今、未来を考えている。
それは仕事の未来ではない。
暮らしの未来だ。
ひとりで生きることには慣れていた。
両親は中学の頃に事故で亡くなった。祖父母ももういない。
静かな部屋に帰ることも、誰にも何も言わずに朝を迎えることも、玲奈にとっては当たり前だった。
だが、悠真と出会ってから、その“当たり前”が少しずつ崩れ始めた。
玲奈の父は、武骨で寡黙な男だった。
神戸港の荷役会社を切り盛りし、口数は少ないが、家庭と一人娘の玲奈を誰よりも大切にしていた。
母はそんな父を、半歩後ろから静かに支えるタイプだった。
騒がしい家ではなかった。
笑い声が絶えない家でもなかった。
だが、確かに幸せだった。
食卓に湯気があり、父が新聞を広げ、母が味噌汁の味を気にして、玲奈が学校の話をする。
それだけのことが、どれほど満ち足りた時間だったのかを、玲奈は失ってから知った。
だからこそ――いや、だからこそかもしれない。
最近は、別の家庭の形を夢見るようになっていた。
赤嶺家のような家だ。
父の真人は面白いおっちゃんで、母の春菜は美人で気が強く、夫婦漫才みたいなやり取りを毎日やっている。
娘の美月は可愛らしい顔をしていながら、あの二人の血をきっちり引いたお笑い担当だ。
賑やかで、うるさくて、笑えて、でもちゃんと温かい。
(……ああいう家も、ええな)
玲奈は、そう思うようになっていた。
「結婚したらな」
ある日、玲奈は悠真にぽつりと話した。
神戸の静かなレストランの帰り道。
二人で並んで歩きながら、珍しく自分から先のことを口にした。
「私は、静かすぎる家は嫌や」
悠真が少し驚いたように横を見る。
「そうなんですか」
「うん。昔はそれでよかった。でも今は……もうちょい、笑える方がええ」
玲奈は少し照れたように視線を逸らす。
「赤嶺家みたいなんが理想やな。毎日やかましくても、あれは悪くない」
悠真は笑った。
「かなりハードル高いですね」
「せやな」
玲奈も笑う。
「でも、努力のしがいはあるやろ」
その笑顔を見た瞬間、悠真の胸は痛んだ。
――同じ頃。
別の場所では、全く違う話が進んでいた。
黒鷹の男は、テーブルの上に小さなケースを置いた。
開く。
中には拳銃が一丁。
磨かれた金属の冷たい光が、室内灯を鈍く返す。
「次や」
男の声は感情を持たない。
「事故で処理しろ」
悠真は何も言わない。
男は続ける。
「六甲でも、港でも、車でも階段でもええ。お前なら自然に近づける」
沈黙。
「できんのやったら、これで撃て」
拳銃を、悠真の方へ押しやる。
「岡本玲奈を消せ」
その言葉は、乾いていた。
まるで書類の一行でも読むような口調だった。
悠真は喉の奥が詰まるのを感じた。
最初は、こんな話ではなかった。
玲奈に近づき、少し情報を流すだけ。
戦隊ヒロインプロジェクトや、玲奈の動きについて、軽い内容を拾うだけでよかったはずだ。
だがそれは、最初から罠だった。
黒鷹は悠真を巧妙に嵌めた。
外資系企業の将来有望なエリート。名家の息子。京の名門大学でアメフトに打ち込み、卒業後も綺麗な経歴を積み上げてきた男。
そんな人間が一番壊れやすい場所を、連中は最初から知っていた。
コンプライアンス違反。
企業秘密への不適切接触。
女。金。密会。映像。記録。
どれも半分は事実で、半分は仕組まれたものだった。
だが世間はそんなことを区別しない。
これが表に出れば、悠真の社会的地位は一瞬で消える。
自分だけではない。家の名も、父の立場も、会社の信用も巻き込む。
それが黒鷹のやり口だった。
個人を脅すのではない。
その人間の背後にあるものすべてを、人質に取る。
「……俺にはできへん」
悠真は、ようやく絞り出した。
男は笑いもしない。
「できるできんの話ちゃう」
冷たく言う。
「お前が失うもんと、岡本玲奈ひとり。どっちが重い?」
その問いは、あまりにも卑劣だった。
悠真は拳銃を見つめる。
冷たい。軽い。だが、その先にあるものは重すぎる。
玲奈の笑顔が浮かぶ。
「赤嶺家みたいな家がええ」と、少し照れながら話した顔。
あの女は本気だ。
自分との未来を、本気で考え始めている。
そして、自分も――もう、とっくに引き返せないところまで来ていた。
最初は簡単だった。
派手な女性遍歴の中の一人として、少し甘い顔をして、言葉を選べばいい。
美人すぎる警察官も、男に免疫の薄い堅物の女なら、落とすのは容易いと思っていた。
だが違った。
玲奈は、見た目だけの女ではなかった。
苦労した青年期。
警察官として背負ってきた責務。
戦隊ヒロインとしての活動。
そして将来の夢。
それを熱く、真っ直ぐ語るたびに、悠真の方が落ちていった。
(……なんでや)
心の中で呟く。
(なんで、こんなことになった)
拳銃の冷たさと、玲奈の温度。
その間に挟まれて、悠真は動けない。
黒鷹の男が立ち上がる。
「次で決めろ」
それだけ言って、部屋を出ていく。
残されたのは、拳銃と沈黙だった。
悠真は長く息を吐く。
社会的地位は失いたくない。失えば、自分だけでは済まない。
だが玲奈を殺すことなど、どうしてもできない。
その夜、神戸の光はいつも通り綺麗だった。
だからこそ残酷だった。
計画の光は、もう十分に整っている。
あとは、終焉の影が落ちるだけだった。




