幸福設計図 ― 見えない亀裂
神戸の夜景は、未来を信じさせる。
港の光も、山の上からこぼれる街灯も、見ているうちに、これから先の人生まで穏やかに続いていくような錯覚を与える。
岡本玲奈は、その錯覚を、もう錯覚だとは思っていなかった。
――
「やっぱり住むなら神戸市内やろか」
海の見えるカフェの窓際で、玲奈は珍しく饒舌だった。
向かいにいる悠真が、ワイングラスの水滴を指でなぞりながら笑う。
「いいですね」
「でもな」
玲奈は真剣に続ける。
「子どものこと考えたら、明石市の方が子育て支援ええんやろ? こないだ資料見て思ってん」
悠真は一瞬だけ目を伏せた。
だが、顔を上げる頃には穏やかな笑みに戻っている。
「そこまで調べたんですか」
「当たり前や」
玲奈は少し胸を張る。
「暮らしは段取りや。仕事も家庭も、ちゃんと回したい」
それは彼女らしい言い方だった。
夢を語る時ですら、現実的で、きちんとしている。
「……家事は私が全部やるつもりやし」
悠真が少し驚いた顔をする。
「全部、ですか」
「うん。料理も掃除も洗濯も、一通りできる」
玲奈はさらりと言う。
「仕事続けながらでも、そこは何とかする」
「いや、そこは一緒にやりますよ」
「ええんや」
玲奈は即座に否定した。
「私がやりたいんや」
その言葉は、妙にまっすぐだった。
――
玲奈は本気だった。
神戸で生まれ、事故で両親を失い、丹波篠山で青春期を過ごし、警察官になってからは任務と責任ばかりを抱えて生きてきた。
誰かのために家を整えるとか、帰る場所を作るとか、そういう普通の幸福は、自分にはもう縁がないものだと思っていた。
だが今は違う。
「休日はな」
玲奈はコーヒーカップを持ちながら、少し考えるように天井を見た。
「午前中に買い物行って、昼は家で簡単に食べて、夕方は散歩くらいがええ」
「かなり具体的ですね」
「想像しやすいやろ」
玲奈は少しだけ笑う。
「賑やかな家がええねん。静かすぎるんは、もうええ」
その横顔は、これまで見せたことのない柔らかさを帯びていた。
赤嶺家の食卓を思い出しているのかもしれない。
夫婦漫才みたいな掛け合い。
美月の遠慮のない笑い声。
湯気の立つ料理。
くだらない話で盛り上がる夜。
ああいう家も、悪くない。
いや、むしろああいう家がいい。
玲奈は、もうそこまで来ていた。
「子どもができたらな」
不意に玲奈が言った。
悠真の手がわずかに止まる。
「……名前、難しいな」
玲奈は本気で悩んでいた。
「女の子でも、強そうすぎる名前は嫌やし。男の子でも、軽い感じはあかんし」
その口調があまりに自然で、悠真は一瞬だけ目を閉じた。
「……そうですね」
それしか言えなかった。
愛想笑い。
穏やかな相槌。
優しい目線。
それらすべてを、悠真は完璧にこなしていた。
だが内側は、もう限界に近づいていた。
――
その夜。
悠真は黒鷹から渡された車のキーを見つめていた。
六甲の坂道。
神戸港沿いの湾岸道路。
あるいは、夜の高架カーブ。
どこでもいい。
事故に見せかけて、玲奈を消せ。
それが指示だった。
車両には、すでに細工が入っている。
制御系への侵入。ブレーキの遅延。
一瞬の判断ミスに見せかけるには、十分すぎる仕掛けだった。
「これで終わりや」
黒鷹の男はそう言った。
「お前も、元の場所に戻れる」
元の場所。
社会的地位。
会社。
家。
名誉。
それらを守るために、ここまで来たはずだった。
だが、守りたいものは、もう一つ増えてしまっている。
玲奈だ。
最初は簡単だった。
美人で、真面目で、男に不慣れそうな女。
少し優しくしてやれば、距離は縮まると思っていた。
派手な女性遍歴の中の一人と、同じように扱えばいいと思っていた。
だが違った。
玲奈は、男に慣れていないだけで、薄い女ではなかった。
苦労した青年期。
警察官としての覚悟。
戦隊ヒロインとしての矜持。
自分の夢を語る時の、理知的で熱のある目。
そして、ふとした瞬間に見せる無防備な笑顔。
悠真の方が、先に落ちていた。
「……何してんねや、俺は」
車のキーを握る手に力が入る。
これを使えば、玲奈は死ぬ。
使わなければ、自分の人生が崩れる。
いや、自分だけでは済まない。
父の顔。
母の暮らし。
会社の立場。
全部が巻き込まれる。
それが黒鷹のやり方だった。
一人を脅すんじゃない。
その人間の背後にあるものすべてを人質に取る。
悠真は、暗い駐車場でしばらく動けなかった。
――
翌日。
玲奈は明るかった。
「今度、明石も見に行かへん?」
自然な口調で言う。
「実際に街の感じ見ときたい」
悠真は微笑む。
「いいですね」
「ついでに魚の美味しい店あったら入りたい」
「それは僕も賛成です」
玲奈は嬉しそうに頷く。
「ほな決まりやな」
恋は盲目だった。
普段は誰よりも冷静な女が、今は未来の輪郭しか見ていない。
その眩しさが、悠真には苦しかった。
玲奈は、何も知らない。
自分の隣を歩く男が、同時に自分を殺す準備を進めていることを。
そして悠真は、何も決められない。
愛してしまった女の未来を壊す覚悟も、自分の地位を捨てる覚悟も。
神戸の光は今日も綺麗だった。
だからこそ残酷だった。
幸福の設計図は、確かに描かれている。
だがその紙の裏側には、すでに深い亀裂が走っていた。




