帰郷の旋律 ― 丹波篠山デカンショ・ライン
丹波篠山の朝は、神戸の朝とは音が違う。
港の汽笛も、幹線道路の唸りもない。あるのは山の向こうから降りてくる風と、田畑の上を滑っていく静かな光だけだ。黒豆の畑は季節を待つように土の匂いを抱え、森の奥にはモモンガが棲む。夏になれば、町にはあの節が流れる。
デカンショ、デカンショで半年暮らす
あとの半年ゃ寝て暮らす
呑気で、豪快で、どこか笑ってしまう歌だ。だが丹波篠山の人間にとって、それはただの民謡じゃない。土地の呼吸そのものだった。
岡本玲奈は神戸生まれだ。
だが青春期を過ごしたのは、この丹波篠山だった。
両親を事故で失い、神戸の都会から祖父母の暮らす農村へ移ったあの頃。祖父母は優しかった。集落の人々も、よそから来た少女を温かく迎えてくれた。不満はなかった。だが玲奈は、ずっと分かっていた。
自分は“ここで生まれた人間ではない”。
神戸の空気を知っていて、都会の匂いをまとったまま、田畑の中に立っていた。受け入れられていることと、完全に溶け込めていることは違う。玲奈は若い頃から、その違いを言葉にしなくても理解していた。だから集落の祭りにも、農作業の手伝いにも、常に一歩だけ距離を置いていた。
それでも、思い入れはある。
祖父母はもういない。家もない。丹波篠山を訪れる機会はめっきり減った。だが玲奈にとって、この土地が故郷であることに変わりはなかった。
その故郷に、黒鷹の一味が入り込んでいた。
農産物流通に偽装した違法物資の搬送拠点。静かな農村に紛れ込み、地元の物流倉庫を経由して荷を動かす。玲奈は資料を見た瞬間、珍しく迷わず言った。
「この件、私が出る」
大阪府内のヒロ室西日本分室。
彩香が少し意外そうに目を上げた。
「玲奈さんが前出るんですか」
玲奈は短く答えた。
「ここは、ほっとかれへん」
それだけで十分だった。
玲奈の声はいつも低い。だがその日は、低さの奥に熱があった。
――
丹波篠山の農道。
軽トラックが通ればそれだけで土が少し舞う。山の稜線が近く、風はまっすぐだ。玲奈は単独で現地入りし、搬送ルートの確認に立っていた。普段なら後方から全体を見ている女が、今日は自分から前に出ている。
「この穏やかな土地で、好き勝手はさせへん」
小さくそう呟いた時だった。
「玲奈さーん!」
嫌な予感がして振り返ると、案の定だった。
三好さつき。神戸放送の情報番組レポーター。今日は「デカンショ節を追って」という企画のロケらしい。カメラを引き連れて坂道を上がってくる。
「玲奈さん、そういえば丹波篠山にも住んでたんですよね?」
「……なんで知っとるん」
「前に何となく聞いた気がしまして〜」
さつきはにこにことマイクを向ける。
「せっかくなんで、ちょっとデカンショ節、踊ってください」
玲奈は真顔になった。
「嫌や」
「そこを何とか」
「嫌や」
「県警のカラーガード隊員でもあるんやし、絶対うまいでしょ」
その一言が悪かった。
カメラマンまで期待の目で見る。逃げ道がない。玲奈は数秒だけ空を見た。丹波篠山の空は広い。こういう時に限って、やたら青い。
「……少しだけやで」
玲奈が諦めた瞬間、さつきが嬉しそうに一歩下がる。
そして音源が流れる。
デカンショ、デカンショで半年暮らす
あとの半年ゃ寝て暮らす
次の瞬間、静かなるボスが、無駄にキレのあるデカンショ節を踊り始めた。
手の角度。
重心移動。
視線の流し方。
全部が綺麗すぎる。
県警カラーガード隊員として鍛えられた所作が、よりによって丹波篠山の民謡で全開になる。無駄に様になっているのが、余計に面白い。
さつきは目を輝かせる。
「めっちゃ上手いです!」
玲奈は無言で踊る。
美しい。だが本人の不本意が伝わるので余計におかしい。
その裏で、美音がすでに動いていた。
河合美音。遠州の勇者。玲奈の“事故的デカンショ節披露”で視線が集まった隙に、裏手の搬送車両へ接近していた。玲奈は踊りながらも、さつきの背後に停まった不審車両の位置を見ている。
「河合さん」
「はい」
「今や」
無線は短い。
デカンショ節の音に紛れて、美音が車両の脇へ滑り込む。搬送役が異変に気づいた時には遅かった。玲奈は踊りを止め、そのまま一歩踏み出す。祭りの踊りから制圧の動きへの切り替えに一切の隙がない。
「兵庫県警や。終わりやで」
静かな声。
それだけで現場は凍った。
数分後、搬送ルートは押さえられ、違法物資は確保された。
任務は成功だった。
――
数日後。
大阪府内、ヒロ室西日本分室。
作戦報告が終わり、珍しく空気が柔らかい。
そこに、さつきのロケがオンエアされた。
テレビ画面に映る丹波篠山の景色。
黒豆畑。青空。祭り囃子。
そして、あの映像。
玲奈のデカンショ節。
一瞬、部屋が静まり返った。
次の瞬間、あかりが吹き出した。
「玲奈さん、キレッキレやないですか!」
彩香は笑いをこらえながら顔を背ける。
美咲は上品に口元を押さえている。
麻衣は「きれい……」と素直に感心している。
迫田ツインズは珍しく同時に小さく肩を震わせた。
画面の中で玲奈は、完璧な姿勢でデカンショ節を舞っている。
無駄に上手い。
そして本人は今、テレビの前で無表情だ。
「あれ保存しといていいですか」とあかり。
「消しとき」と玲奈。
「記念ですし」と麻衣。
「記念にすな」と玲奈。
そのやり取りが妙に温かい。
笑い声が広がる。
玲奈はため息をつきながら、ふとテレビの中の丹波篠山を見る。
あの風景には、確かに自分の青春がある。神戸の生まれであっても、あの土地はやはり故郷だった。
ほっこりした空気の中で、玲奈は小さく呟く。
「……次行く時は、絶対踊らへん」
だが、その決意が守られるかどうかを、誰も信じていなかった。




