潮騒に消えた包囲線 ― 瀬戸内ジャックライン序章
神戸港から播磨灘にかけての海域は、日本でも屈指の“顔を持つ海”だ。
六甲の山影を背にした神戸港は、異国の匂いと物流の熱を抱えた玄関口。そこから西へ抜ければ、淡路島と本州に挟まれた穏やかな播磨灘が広がる。波は静かで、航路は複雑、漁船と貨物船と観光船が混じり合う。隠れるには都合がいい。逃げるにもな。
だからこそ、黒鷹とジェネラス・リンクに繋がる連中は、この海を選んだ。
「目標、神戸沖三マイル。小型貨物、速度一定」
上空三千フィート。
若林あおいの声は冷静で、少し乾いていた。
「確認した。積荷は予定通りやな」
海上。
河合美音が操る高速艇が、波を裂いて走る。エンジン音は低く抑えられている。派手さはないが、確実に距離を詰めていた。
「陸は包囲済み。逃げ場は潰してある」
岸壁の影から、彩香の低い声が返る。
神戸港の倉庫街。コンテナの迷路の中に、すでに網は張られていた。
その中心にいるのが、岡本玲奈だった。
「……よし、行ける」
一言だけ。
それで全員が動く。
NSTの連携は、無駄がない。
空が目を持ち、海が足を持ち、陸が逃げ道を潰す。
三方向から同時に圧をかけると、人間は簡単に崩れる。
今回の相手は、中東系の小規模セル。
だが背後にあるのはジェネラス・リンクだ。油断はできない。だが――
「拍子抜けやな」
あかりが小さく笑った。
「もう終わりやで、これ」
実際、その通りだった。
貨物船は進路を変えられない。
美音が横につき、逃げ場を削る。
あおいが上から監視し、進路変更を封じる。
岸では彩香たちが待ち構えている。
完璧な包囲だった。
玲奈は双眼鏡越しに、甲板の男たちを見る。
焦りの色が出始めている。
「詰みや」
そう呟いた瞬間だった。
「こんにちは〜!神戸放送でーす!」
場違いな声が、無線に混じった。
全員が一瞬、沈黙した。
「……まさか」
彩香が顔をしかめる。
岸壁の反対側。
カメラとマイクを抱えた一団が、普通に歩いてきていた。
三好さつき。
神戸放送の情報番組レポーター。
「今日は瀬戸内の観光と港の魅力をお届けしま〜す!」
明るい。
無邪気だ。
そして最悪だ。
「止めろ!」
彩香が短く叫ぶが、もう遅い。
さつきは、よりによって犯行グループの接岸ポイントに向かっていた。
しかもカメラを回しながら。
「こちら、今ちょうど船が入ってきてますね〜」
その声が、港に響いた。
貨物船の甲板にいた男が、顔を上げる。
視線が合う。
一瞬。
それだけで十分だった。
「……気づかれた」
あおいが呟く。
次の瞬間、状況が変わる。
貨物船のエンジンが急激に唸りを上げた。
進路が変わる。
「逃げる気や!」
美音が即座に追う。
だが相手は港内航路を無茶に切り裂くように動く。
「進路、遊覧船に向かってる!」
あおいの声が一段低くなる。
その先にあったのは、観光客を乗せた遊覧船だった。
白い船体が、穏やかな海に浮かんでいる。
「……最悪や」
玲奈の声は、ほとんど呟きだった。
貨物船が遊覧船に横付けする。
数人の男が、躊躇なく飛び移る。
銃が見えた。
「人質取る気や!」
あかりが叫ぶ。
次の瞬間、遊覧船の上で悲鳴が上がった。
観光客が甲板に押し倒される。
「……やられたな」
玲奈は双眼鏡を下ろした。
「包囲線、崩壊や」
静かに言った。
海は変わらず穏やかだった。
播磨灘の水面は、何も知らない顔をして光っている。
だがその上で、事件はもう別物になっていた。
ただの追跡ではない。
ただの摘発でもない。
人質を抱えた、シージャック。
「全員、切り替えや」
玲奈が言う。
「ここからは、戦いやで」
誰も返事はしない。
必要ない。
NSTの面々は、それぞれの位置で動き始めていた。
穏やかな海の上に、見えない緊張が張り詰めていく。
神戸港から播磨灘へ。
その日、瀬戸内の静けさは、音もなく壊れた。




