芦屋ナイト・チェイス
芦屋という街は、夜になるほど静かになる。
大阪と神戸の間にありながら、どちらとも違う空気を持つ街だ。南にはヨットハーバー、北には六甲山。整然とした街路樹の奥には石垣に守られた豪邸が並び、夜の灯りさえ品よく見える。日本有数の高級住宅街。人は他人に干渉しない。だから秘密を抱えるには都合のいい街だった。
その夜、西日本特別諜報班――NSTは芦屋の住宅街で張り込んでいた。
岡本玲奈は高台の車内から双眼鏡を覗いている。
豪邸の門が静かに開き、黒いセダンが滑り出した。
「出たで」
玲奈の声は低く落ち着いている。
「彩香、慌てんと尾け」
「了解です」
西川彩香が答える。播州の烈火と呼ばれる女だ。気性は激しいが現場では誰よりも頼りになる。玲奈にとっては部下であり、半ば弟子のような存在でもあった。
セダンが坂道を下る。
その後ろに影のように滑り込んだのは一台の大型バイク。
河合美音だった。
エンジン音は小さい。
だが加速は鋭い。バイクは豪邸の塀と石垣の間を縫うように走り、セダンとの距離を一定に保つ。美音の操縦は、道を走るというより流れを読む動きだった。
「河合さん、さすがやな」
彩香が無線で呟く。
玲奈は短く答える。
「この人は速い」
セダンは北へ向かう。
住宅街の坂道を抜ければ六甲山の道に入る。そうなれば捕まえるのは難しい。
「次の交差点で止める」
玲奈が指示を出す。
「美音さんが前入る。彩香、お前は横」
「了解」
作戦は静かに決まりかけていた。
T字路。
セダンの前に、美音のバイクが滑り込む。左右からNSTの車両が寄る。逃げ道はない。
あと数秒だった。
その時――。
後ろからロケバスが来た。
ドアが勢いよく開き、小柄な女性が飛び出す。
明るい色のハーフツインテール。童顔の笑顔。
赤嶺美月だった。
「わぁー!芦屋や!」
カメラに向かって叫ぶ。
その後ろから降りてきたのは長身の美女。
上品な黒髪の三好さつき。
「今日は芦屋の豪邸特集です」
二人ともCS放送のレポーターだった。
しかも、よりによってセダンの真正面で撮影を始める。
彩香が絶句する。
「……なんでや」
美月が叫ぶ。
「このバイクめっちゃカッコいい!」
その瞬間、セダンの運転手がハンドルを切った。
バイクの横をすり抜け、ロケバスの影に紛れて坂道へ逃げる。
「逃げた!」
彩香が飛び出す。
美音もすぐに追う。
だが撮影クルーが道路を塞ぎ、わずかな時間が生まれた。
それだけで十分だった。
セダンのテールランプは住宅街の奥へ消えた。
任務失敗。
——
芦屋の夜は再び静かだった。
豪邸の灯りだけが通りを照らしている。
彩香は拳を握った。
「あの二人……許さん」
本気で怒っていた。
「あと一歩やったんですよ!」
玲奈は静かに彩香を見る。
「何も知らんのやから、仕方ないやろ」
彩香が振り向く。
「でも!」
玲奈の声は変わらない。
「向こうは仕事しとるだけや」
彩香は黙った。
玲奈は続ける。
「私らの任務は隠密や。
知らん人間を責めても意味ない」
彩香は視線を落とす。
「……はい」
玲奈が一歩近づく。
「怒る気持ちは分かる」
その言葉は優しかった。
「でもな、彩香」
玲奈は住宅街の静かな道を見た。
「その怒りをどこに向けるかがリーダーや」
彩香は小さく息を吐く。
「まだまだですね、うち」
玲奈は短く答える。
「伸びしろや」
遠くでロケバスがまだ騒いでいる。
美月の明るい声が夜に響く。
彩香は苦笑した。
「ほんま……あの二人」
玲奈の口元もわずかに緩む。
任務は失敗した。
だが夜は続く。
そして次の戦いも。
芦屋の静かな街並みの中で、
玲奈は熱い部下の背中を見ていた。
その背中は、確実に強くなっていた。




