三万円の正義
神戸の夜は静かだ。
港に並ぶコンテナの影が、海の上に黒く伸びている。
岡本玲奈は車の中から、その景色を眺めていた。
神戸港。
この港には、彼女の記憶が残っている。
かつて父が働いていた港湾会社も、この港のどこかにあった。
真面目な会社だった。港湾業界では珍しいほど、利権から距離を置く企業だったと聞いている。
だが、会社は消えた。
事故がきっかけだった。
父は過積載の大型トラックに追突されて死んだ。
警察の処理は簡単だった。
交通事故。
それで終わりだった。
だが玲奈が警察官になり、資料を洗い直したとき、奇妙なことに気づいた。
事故のトラック。
運送会社。
港湾再開発。
そして県議会。
点と点を結ぶと、一人の男の名前が浮かんだ。
兵庫県議会のベテラン議員。
左派系の論客として知られ、議会では派手なパフォーマンスを繰り返している。
県庁を怒鳴りつけ、くだらない揚げ足取りを続ける男。
だが裏では、港湾利権に深く関わっていた。
玲奈は独自に調べた。
父の会社を吸収した企業。
その背後の政治家。
そして、その男。
玲奈は机の上の資料を見つめる。
拳を握りそうになる。
その時、ある声が頭に浮かんだ。
黒川玄蔵。
父の事故を担当した老刑事だった。
無口で頑固な男だったが、玲奈には優しかった。
黒川は言った。
「怒りで撃つな」
「証拠で撃て」
玲奈は目を閉じる。
深く息を吸う。
怒りを押し殺す。
「……分かってる」
彼女は静かに呟いた。
そして作戦を始めた。
——
兵庫県議会の議員事務所。
その男はソファに座り、新聞をめくっていた。
秘書が箱を持って入ってくる。
「先生、これ」
白い箱だった。
送り状にはこう書いてある。
カタログギフト 三万円
男は笑った。
「港湾会社か」
秘書が肩をすくめる。
「いつものやつです」
男は箱を開けた。
中には高級和牛、旅行券、家電製品。
よくある贈答カタログだった。
男は何の疑いもなく受け取った。
「ありがたく頂いとこう」
それが最初だった。
その後もカタログギフトは届いた。
五万円。
十万円。
そして、ある日。
その証拠が表に出た。
県議会の倫理調査。
贈答履歴。
配送記録。
決済履歴。
すべて揃っていた。
男は言い訳をした。
「企業の善意や」
「政治活動とは関係ない」
だが逃げられなかった。
議会の空気は冷たかった。
男は辞職した。
議員バッジを外し、廊下を歩く。
その先に、女が立っていた。
岡本玲奈。
男は足を止める。
「……誰や」
玲奈は答えない。
男は笑った。
「お前、あの会社の……」
言葉を飲み込む。
玲奈の目を見て、気づいたらしい。
「なるほどな」
男は肩をすくめる。
「だがな」
小さく笑った。
「俺は捕まらん」
その通りだった。
贈収賄での立件は見送られた。
上からの圧力。
見えない力。
検察は動かなかった。
男は議会を去るだけで済んだ。
玲奈は何も言わなかった。
男は通り過ぎる。
「三万円の正義か」
そう言って笑った。
廊下に足音が消える。
——
夜の神戸港。
玲奈は海を見ていた。
遠くで貨物船のライトが揺れている。
NSTの任務はまだ続いている。
黒鷹もまだ消えていない。
父の事故の真相も、まだ闇の中だ。
玲奈はポケットの中の古いメモを触る。
黒川玄蔵の字だった。
「正義はきれいに終わらん」
玲奈は小さく息を吐いた。
「……知ってる」
海風が冷たい。
三万円のカタログギフト。
それは一人の政治家を議会から追い出した。
だが――
それだけだった。
神戸の夜は静かだった。
そして闇の中で、
まだ何かが動いている。




